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原始仏典コミュの中部経典 第117経 大四十経 (聖八支道) 全訳

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(『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P72−82 に相当)




  中部経典 第117経 大四十経[マハーチャッターリーサカ・スッタ] 全訳

「   第七 大四十経

136.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。
 ときに先生は比丘たちに「比丘たちよ」と呼びかけた。その比丘たちは「先生」と先生に応えた。先生はこう言った。
 「比丘たちよ、あなたたちに聖なる正しいサマーディの拠り所となり資具となるものを説こう。それを聞いてよく考えなさい。説こう」。
 「はい、先生」とその比丘たちは先生に応えた。先生はこう言った。
 比丘たちよ、では何が聖なる正しいサマーディの拠り所となり資具となるものなのか。
 即ち、正見・正思・正語・正業・正命・正勤・正念。
 比丘たちよ、これらの心が一境に行く七支の資具となるもの。
 比丘たちよ、これが聖なる正しいサマーディの拠り所となるものとも、資具となるものとも言われるのである。
 比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見は先行するのか。
 邪見を「邪見である」と知り、正見を「正見である」と知るならば、彼には正見がある。
 比丘たちよ、では何が邪見か。
 「布施は存在しない。供儀は存在しない。献供は存在しない。
 善行悪行の業の果が熟することは存在しない。
 この世は存在しない。他の世は存在しない。
 母は存在しない。父は存在しない。化生の生ける者は存在しない。
 世界には正しく行き正しく行道し、さらにこの世と他の世を自ら超知し実証し知らしめる沙門バラモンは存在しない」と。 
 比丘たちよ、これが邪見である。
 比丘たちよ、では何が正見か。
 比丘たちよ、正見には二つあると私は言う。
 比丘たちよ、有漏であり福に分類され執着対象を結果する正見が存在する。
 比丘たちよ、聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正見が存在する。
 比丘たちよ、では何が有漏であり福に分類され執着対象を結果する正見なのか。
 「布施は存在する。供儀は存在する。献供は存在する。
 善行悪行の業の果が熟することは存在する。
 この世は存在する。他の世は存在する。化生の生ける者は存在する。
 世界には正しく行き正しく行道し、さらにこの世と他の世を自ら超知し実証し知らしめる沙門バラモンは存在する」と。
 比丘たちよ、これが有漏であり福に分類され執着対象を結果する正見である。
 比丘たちよ、では何が聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正見なのか。
 比丘たちよ、聖なる心の者・無漏の心の者・聖なる道の支分を備えた者・聖なる道を修習した者の智慧・慧根・慧力・法察覚支・正見という道の支分。
 比丘たちよ、これが聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正見である。
 彼が邪見を断つために精進し、正見を具足するために精進するならば、正勤がある。
 彼が邪見を断つことを念じ、正見を具足することを念じて住するならば、正念がある。
 こうしてこれら三つの法が正見に付き従い随転する。即ち、正見・正勤・正念である。
137.比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。
 邪思を「邪思である」と知り、正思を「正思である」と知るならば、彼には正見がある。
 比丘たちよ、では何が邪思か。
 欲の思い・怒りの思い・害する思い。[欲思・恚思・害思]
 比丘たちよ、これが邪思である。 
 比丘たちよ、では何が正思か。
 比丘たちよ、正思には二つあると私は言う。
 比丘たちよ、有漏であり福に分類され執着対象を結果する正思が存在する。
 比丘たちよ、聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正思が存在する。
 比丘たちよ、では何が有漏であり福に分類され執着対象を結果する正思か。
 無欲の思い・怒りのない思い・害のない思い。[無欲思・無恚思・無害思]
 比丘たちよ、これが有漏であり福に分類され執着対象を結果する正思である。
 比丘たちよ、では何が聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正思か。
 比丘たちよ、聖なる心の者・無漏の心の者・聖なる道の支分を備えた者・聖なる道を修習した者の思考・尋・思い・思うこと・思いつくこと・心に思い浮かべること・語行。
 比丘たちよ、これが聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正思である。
 彼が邪思を断つために精進し、正思を具足するために精進するならば、正勤がある。
 彼が邪思を断つことを念じ、正思を具足することを念じて住するならば、正念がある。
 こうしてこれら三つの法が正思に付き従い随転する。即ち、正見・正勤・正念である。
138.比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。
 邪語を「邪語である」と知り、正語を「正語である」と知るならば、彼には正見がある。
 比丘たちよ、では何が邪語か。
 虚偽の言葉、分裂させる言葉、不快な言葉、駄弁。
 比丘たちよ、これが邪語である。
 比丘たちよ、では何が正語か。
 比丘たちよ、正語は二つあると私は言う。
 比丘たちよ、有漏であり福に分類され執着対象を結果する正語が存在する。
 比丘たちよ、聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正語が存在する。
 比丘たちよ、では何が有漏であり福に分類され執着対象を結果する正語か。
 虚偽の言葉から離れること、分裂させる言葉から離れること。不快な言葉から離れること、駄弁を離れること。
 比丘たちよ、これが有漏であり福に分類され執着対象を結果する正語である。
 比丘たちよ、では何が聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正語か。
 比丘たちよ、聖なる心の者・無漏の心の者・聖なる道の支分を備えた者・聖なる道を修習した者が四つの語悪行を遠ざけ止めて行なわず離れること。
 比丘たちよ、これが聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正語である。
 彼が邪語を断つために精進し、正語を具足するために精進するならば、正勤がある。
 彼が邪語を断つことを念じ、正語を具足することを念じて住するならば、正念がある。
 こうしてこれら三つの法が正語に付き従い随転する。即ち、正見・正勤・正念である。
139.比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。
 邪業を「邪業である」と知り、正業を「正業である」と知るならば、彼には正見がある。
 比丘たちよ、では何が邪業か。
 生き物を殺すこと・与えられていないものを取ること・欲において邪行すること。
 比丘たちよ、これが邪業である。
 比丘たちよ、では何が正業か。
 比丘たちよ、正業には二つあると私は言う。
 比丘たちよ、有漏であり福に分類され執着対象を結果する正業が存在する。
 比丘たちよ、聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正業が存在する。
 比丘たちよ、では何が有漏であり福に分類され執着対象を結果する正業か。
 生き物を殺すことを離れ、与えられていないものを取ることを離れ、欲において邪行することを離れること。
 比丘たちよ、これが有漏であり福に分類され執着対象を結果する正業である。
 比丘たちよ、では何が聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正業か。
 比丘たちよ、聖なる心の者・無漏の心の者・聖なる道の支分を備えた者・聖なる道を修習した者が三つの身悪行を遠ざけ止めて行なわず離れること。
 比丘たちよ、これが聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正業である。
 彼が邪業を断つために精進し、正業を具足するために精進するならば、正勤がある。
 彼が邪業を断つことを念じ、正業を具足することを念じて住するならば、正念がある。
 こうしてこれら三つの法が正業に付き従い随転する。即ち、正見・正勤・正念である。
140.比丘たちよ、まず正命が先行する。
 比丘たちよ、どのように正命が先行するのか。
 邪命を「邪命である」と知り、正命を「正命である」と知るならば、彼には正見がある。
 比丘たちよ、では何が邪命か。
 詐欺、饒舌、占い、ぺてん、利得によって利得を追求すること。
 比丘たちよ、これが邪業である。
 比丘たちよ、では何が正命か。
 比丘たちよ、正命には二つあると私は言う。
 比丘たちよ、有漏であり福に分類され執着対象を結果する正命が存在する。
 比丘たちよ、聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正命が存在する。
 比丘たちよ、では何が有漏であり福に分類され執着対象を結果する正命か。
 ここに聖なる弟子は邪命を断って正命によって生活を営む。
 比丘たちよ、これが有漏であり福に分類され執着対象を結果する正命である。
 比丘たちよ、では何が聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正命か。
 比丘たちよ、聖なる心の者・無漏の心の者・聖なる道の支分が有る者・聖なる道を修習した者が邪命を遠ざけ止めて行なわず離れること。
 比丘たちよ、これが聖にして無漏であり世間を越える道の支分である正命である。
 彼が邪命を断つために精進し、正命を具足するために精進するならば、正勤がある。
 彼が邪命を断つことを念じ、正命を具足することを念じて住するならば、正念がある。
 こうしてこれら三つの法が正命に付き従い随転する。即ち、正見・正勤・正念である。
141.比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。
 比丘たちよ、正見から正思が生じ、
 正思から正語が生じ、
 正語から正業が生じ、
 正業から正命が生じ、
 正命から正勤が生じ、
 正勤から正念が生じ、
 正念から正定が生じ、
 正定から正智が生じ、
 正智から正解脱が生じる。
 比丘たちよ、こうして八支を成就する修学者[有学]は行道して十支を成就する阿羅漢となる。
142.比丘たちよ、まず正見が先行する。
 比丘たちよ、どのように正見が先行するのか。
 比丘たちよ、正見は邪見を滅する。
 邪見を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正見を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正思は邪思を滅する。
 邪思を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正見を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正語は邪語を滅する。
 邪語を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正語を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正業は邪業を滅する。
 邪業を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正業を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正命は邪命を滅する。
 邪命を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正命を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正勤は邪勤を滅する。
 邪勤を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正勤を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正念は邪念を滅する。
 邪念を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正念を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正定は邪定を滅する。
 邪定を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正定を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正智は邪智を滅する。
 邪智を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正智を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、正解脱は邪解脱を滅する。
 邪解脱を縁として現れる多くの悪不善法もそれによって滅する。
 正解脱を縁とする多くの善法も修習の円満に行く。
 比丘たちよ、こうして二十の善が半分、二十の悪が半分の偉大なる四十の法門は転じられ、この世の沙門バラモン・神々・マーラ・ブラフマーのいかなる者であっても反転できないものである。

143.比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであってもこの偉大なる四十の法門を非難されるべきであり呵責されるべきであると考えるならば、彼を現世において十の法にかなったことを様々に言われる非難される処に至る。
 「もしあなたが正見を非難するならば、邪見ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正思を非難するならば、邪思ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正語を非難するならば、邪語ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正業を非難するならば、邪業ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正命を非難するならば、邪命ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正勤を非難するならば、邪勤ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正念を非難するならば、邪念ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正定を非難するならば、邪定ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正智を非難するならば、邪智ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 もしあなたが正解脱を非難するならば、邪解脱ある沙門バラモンはあなたにとって尊敬されるべき者たちであり、あなたにとって彼らは賞讃されるべき者たちです。
 比丘たちよ、いかなる沙門バラモンであってもこの偉大なる四十の法門を非難されるべきであり呵責されるべきであると考えるならば、彼を現世においてこれら十の法にかなったことを様々に言われる非難される処に至る。
 比丘たちよ、あのオッカラ、ヴァッサバンニャの無因論者、無業論者、虚無論者である彼らであっても偉大なる四十の法門を非難されるべきであり呵責されるべきであると考えないだろう。それはなぜか。
 誹られることと怒られることと反論されることを怖れるからである。

 このように先生は言った。意を得たその比丘たちは先生が説いたことを喜んだ。

                  大四十経 終」

   『南伝大蔵経11下 中部経典4』大蔵出版 P72−82 に相当









 註 聖正定の有依有資 アリヤ・サンマーサマーディ・サウパニサ・サパリッカーラ
    ariya sammāsamādhi saupanisa saparikkhāra
    聖なる正定の依止であり資具であるもの
   執着対象 ウパッディ upadhi 取の対象、五取蘊、自らの身体
   先行 pubbaṅgama   

 正見 sammādiṭṭhi
 正思 sammāsaṅkappa
 正語 sammāvāca
 正業 sammākamma
 正命 sammāājīva
 正勤 sammāvāya
 正念 sammāsati
 正定 sammāsamādhi
 邪見 micchādiṭṭhi
 邪思 micchāsaṅkappa

 有漏 sāsavā
 福に分類される puññabhāgiyā
 執着対象を結果する upadhivepakkā
 無漏 anāsavā
 世間を越える lokuttarā
 道の支分 maggaṅgā
 聖なる心 ariyacittassa
 無漏の心 anāsavacittassa
 聖なる道の支分 ariyamaggasamaṅgino
 聖なる道の修習となる ariyamaggaṃ bhāvayato
 智慧 paññā
 慧根 paññindriyaṃ
 慧力 paññābalaṃ
 法察覚支 dhammavicayasambojjhaṅgo

 考え takko
 尋 vitakko
 思い saṅkappo
 思うこと appanā 不明
 思いつくこと byappanā 不明
 心に思い浮かべること cetaso abhiniropanā
 語行 vacīsaṅkhāro

 生じる pahoti 生じる、産まれる、可能、出来る
 滅する nijjiṇṇā

 偉大なる四十の法門 mahācattārīsakaṃ dhammapariyāyaṃ























正見は先行するものとして説かれます。
正勤と正念は正見に付き従うものとして説かれます。
正見・正思・正語・正業・正命は正見・正勤・正念によって制御される対象です。
正見・正思・正語・正業・正命は正見・正勤・正念によって制御され、
七支を満たして正定を得ることが可能になります。
七支が有漏ならば正定は聖正定ではなく、普通の正定です。
七支が聖にして無漏であるならば正定は聖正定となります。

正念と正勤の詳細な解説がありませんが「正見〜正命を得るための精進と念が正精進と正念である」ということですでに出ているということだと思います。同様に正定についての解説がありませんがそれも「七支の資具が有りそれが無漏にして聖の七支ならばおのずと定も聖正定となる」ということですでに出ているということだと思います。



正見 邪見と正見を知る正見 ← そのために正見・正勤・正念で修習する
   邪思と正思を知る正見 ← そのために正見・正勤・正念で修習する
   邪語と正語を知る正見 ← そのために正見・正勤・正念で修習する
   邪業と正業を知る正見 ← そのために正見・正勤・正念で修習する
   邪命と正命を知る正見 ← そのために正見・正勤・正念で修習する
正思 邪思を断ち正思を得る ← そのために正見・正勤・正念で修習する
正語 邪語を断ち正語を得る ← そのために正見・正勤・正念で修習する
正業 邪業を断ち正業を得る ← そのために正見・正勤・正念で修習する
正命 邪命を断ち正命を得る ← そのために正見・正勤・正念で修習する
正勤 邪見を断ち正見を得るための精進 ← 正見が先行する
   邪思を断ち正思を得るための精進 ← 正見が先行する
   邪語を断ち正語を得るための精進 ← 正見が先行する
   邪業を断ち正業を得るための精進 ← 正見が先行する
   邪命を断ち正命を得るための精進 ← 正見が先行する
正念 邪見を断ち正見を得るための念  ← 正見が先行する
   邪思を断ち正思を得るための念  ← 正見が先行する
   邪語を断ち正語を得るための念  ← 正見が先行する
   邪業を断ち正業を得るための念  ← 正見が先行する
   邪命を断ち正命を得るための念  ← 正見が先行する
正定 七支が有漏ならば有漏の正定  ← そのために有漏の正見〜正念を備える
   七支が無漏ならば無漏の聖正定 ← そのために無漏の正見〜正念を備える
正智  解説なし。サマーディする者は四諦や五取蘊の生滅を如実知見すると別経にあり。
正解脱 解説なし。如実知見する者は厭患・離貪・解脱すると別経にあり。
    一方で在家信者でも正解脱を成就するとの経もあり。
    この在家信者の正解脱は三悪根からの解脱でなく
    三結からの解脱を意味しているかも知れません。




八正道が反論できないという理屈は他の教えについても言えます。

たとえば三善行はこの経典と同様の理屈で反論できません。「三善行を非難するのであれば、身体と言葉と心で他者を害する人を尊敬し賞讃することになります」となります。同様に十善業道についても「十善を非難するのであれば、殺し盗み不倫し嘘をつく・・・邪見の人間をあなたは尊敬し賞讃することになります」と言えます。同様に五根と五力についても言えます。「五根を非難するのであれば、邪信・邪精進・邪念・邪定・邪慧の人を尊敬し賞讃することになります」というふうに。原始仏典では同様の論理展開を様々なところで援用することができます。原始仏典は極度に高められた人生道徳の公式が詰められており、その応用は尽くせません。

人間の全ての行為の経路について八正道よりも包括的な教えは存在しないと思います。ですから「原始仏教の教えでこれさえやっていればよくてしかも漏れがないもの」と言われれば、八正道しかないと思います。八正道を繰り返し点検することによって、自分の全行為が清浄なものか確認することができます。人生を生きる上で八正道は「心の整備点検の順序」のようなものだと思います。八正道は「心の支えである」という記述も相応部経典にあります。また一切有為法中で八正道は最上であり、これを信じるのが「最上のダンマへの信」であると書いてあります。八正道は真の沙門の絶対必要条件です。




この経典は八正道と八聖道の違いを説く経典では最も詳細な経典ですのですでに紹介していますが特に訳しました。

コメント(1)

僕はたまに「邪見でなく正見。邪思でなく正思。・・・邪解脱でなく正解脱」を一セット念じるのですが、少し思ったことがあります。


邪見とは自他を傷付ける有害な見解であり(現実に対応しない考え方など)
邪思とは自他を傷付ける有害な思いであり(生霊を飛ばしたり)
邪語とは自他を傷付ける有害な言葉であり(イヤミや無駄な自慢話や脅しも)
邪業とは自他を傷付ける有害な行為であり(人が怖がる身体の動きも)
邪命とは自他を傷付ける有害な生計であり(グレーゾーンは難しいです)
邪勤とは自他を傷付ける有害な努力であり(病気治すつもりが悪化したり)
邪念とは自他を傷付ける有害な念であり(過度に脅えてかえって現実化したり)
邪定とは自他を傷付ける有害な精神統一であり(邪霊と精神感応したり)
邪知とは自他を傷付ける有害な知であり(新たな搾取方法を思いついたり)
邪解脱とは自他を傷付ける有害な解脱(善良な市民になる気はないなどと善性から解脱してしまったり)だと思いました。


十邪法は有害な十法。
十正法は無害な十法。


この十正法を実践するうち、四諦知という正見から始まる八支と二法を実践し続けると三漏である欲漏・有漏・無明漏が尽きるときがあり、その三漏が尽きたときはこの十正法は無漏の十聖法として完成すると思います。逆に言えば「四諦知から始まる八支」ではなく「正見ではあるが四諦知は知らない八支」を修習し続けても無漏の十聖法には至れないと思います。四諦知ある正見は無漏の八聖道の命です。

無害の修行を僕は相変わらず少量やっているので、三行の無害だけでなく、見解・思い・言葉・行為・生計・努力・念・定・知・解脱の無害性にまでようやく心が及んで来たように思います。無害性を成就した八支と二法は自分を傷付けず、また外界からの悪業の報いもなく、利益と楽を結果するものだと思います。無害の十法を成就した後は、さらに進めて無漏に達するような十法を修習すればいいと思います。それが四諦知の修習であったり、無常想・無常苦想・苦無我想などの修習であったり、他の三十七道の修習であったりすると思います。

とりあえず「絶対に自他双方を傷付けてはいけない」とひたすら念じて繰り返していれば、知らないうちに自他を傷付ける三悪行がなくなるだけでなく、自他を傷付ける見解・思い・言葉・行為・生計・努力・念・定・知・解脱の十法まで勝手になくなってくると思います。それは犯罪を犯さないための十法でもありますので、安心して社会生活を送れます。

そして、無害性という要素で彩られたその個人の色受想行識は、とても善いものを結果するように思います。たとえば、容姿の向上や免疫力の向上、ストレスの低下と心身のリラックス感と、それによる集中力の高さと進歩スピードのアップなどです。「自分は自分も他人も傷付けないように努力しているのであり、自分は間違った事をしているのではない」という確信は、強靭な意志力を生み出すもとになると思います。心にやましいところがない人間は本気が出せると思います。

正しさに裏付けられていない信念はいずれ現実に打ち砕かれますが、正しさに裏付けられた信念は真っ直ぐに打ち出されるもので誰も止められないと思います。その目的を達成し、その目指す善と結合するまでは。僕はそういう意味でも五有学力の最初の信力である「善における信」、言い換えれば「善を信じる」ということ、これを非常に重要視しています。そして、大多数の人にこの「善を信じる」ということが欠如しているのを見ます。多くの人は「自分の経験と習慣」しか信じておらず、そのまま放置しているだけでは広大な領域には進歩できないような旅の資具しか持っていません。

自分を卓越した存在にしようと思う人にとって「善を信じる」ということは無限のモチベーションの泉であることがわかると思います。「善を信じる」ことを原因として何が結果されるかを考察してみれば。その「善」というのは何であれ「それを原因として利益と楽を結果するもの」と定義すれば、後は「利益と楽を結果する何らかもの」というヴィジョンが様々な要素を集めて諸々の善に関する知見を見ようと努力したその分は与えてくれるものです。そして正見とは正知に伴って常に更新され、再形成されるものであるので、見解が更新されることについては何の躊躇も必要ありません。人にとって大切なことは現在の実力ではなく、未来への態度だと思います。未来への態度がいずれさらなる現在の実力をもたらすより一層根本的な原因であると思うからです。


十聖法をたまに思い出すことは、定期的な心の部屋の掃除にとてもいいです。三行よりもより一層包括的なので、出発前の点検作業みたいなものにもなります。「八正道は心の支えである」と相応部経典の「道相応」に書いてあったと思います。

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