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原始仏典コミュの「劫に関する原始仏典の記述」(南伝13 P279-285)

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コミュ内全体

劫に関する記述を紹介します。




最初は成劫(じょうこう)・住劫(じゅうこう)・壊劫(えこう)・空劫(くうこう)に関する記述です。


増支部経典>四集

「   百五十六

 比丘たちよ、これらは四つの計算できない劫である。四とは何か。

 比丘たちよ、劫が壊れる時は、数歳、数百歳、数千歳、数百千歳と数えることは簡単ではない。
 比丘たちよ、劫が壊れ終わって住する時は、数歳、数百歳、数千歳、数百千歳と数えることは簡単ではない。
 比丘たちよ、劫が成る時は、数歳、数百歳、数千歳、数百千歳と数えることは簡単ではない。
 比丘たちよ、劫が成り終わって住する時は、数歳、数百歳、数千歳、数百千歳と数えることは簡単ではない。

 比丘たちよ、これらは四つの計算できない劫である。


 註 計算できない アサンカ asaṅkha 数えるべきでない、不可測の、無数の、阿僧祇


    『南伝大蔵経18 増支部経典2』 P250ー251 に相当







相応部経典>因縁篇>第四 無始相応>第一品

「   第五 山
 サーヴァッティ・・・
 ときに一人の比丘が先生のもとに行き・・・
 一方に座ったその比丘は先生にこう言った。

 先生、[一]劫とはどれぐらいの長さですか。
 比丘よ、劫は悠久である。
 数歳であるとか、あるいは数百歳であるとか、あるいは数千歳であるとか、あるいは数十万歳であると数えることはできない。
 先生、それならば譬えにすることはできませんか。
 「比丘よ、できる」と先生は言った。

 比丘よ、たとえば縦が一由旬(ヨージャナ、約10km強)、横が一由旬、高さが一由旬であって、隙間がなく、亀裂もなく、固い大きな岩山がある。人がいて、百年が経つ度毎にカーシ衣(絹衣)によって一払いするとしよう。
 比丘よ、この大きな岩山は、この方法によって滅尽し、終わりに至るとしても、劫はなおも尽きることはない。
 比丘よ、劫はこのように悠久である。
 比丘よ、このように悠久の劫、多くの劫を輪廻し、百劫より多く輪廻し、千劫より多く輪廻し、十万劫より多く輪廻した。なぜか。
 比丘よ、この輪廻は始まりがなく、衆生が無明に覆われ、渇愛に縛られて、流転し、輪廻するその果ては知られることがないからである。
 比丘よ、このように長い間に苦しみを受け、痛みを受け、失うことを受けて、墓は増大したのだ。
 比丘よ、そうであれば、諸行は嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る」と」


   第六 芥子(けし)

 サーヴァッティ・・・
 ときに一人の比丘が先生のもとに行き・・・
 一方に座ったその比丘は先生にこう言った。

 先生、[一]劫とはどれぐらいの長さですか。
 比丘よ、劫は悠久である。
 数歳であるとか、あるいは数百歳であるとか、あるいは数千歳であるとか、あるいは数十万歳であると数えることはできない。
 先生、それならば譬えにすることはできませんか。
 「比丘よ、できる」と先生は言った。

 比丘よ、たとえば縦が一由旬、横が一由旬、高さが一由旬の鉄の城があって、頭巾で覆ったように芥子が充満している。時に人がいて、百年が経つ度毎に、一つの芥子粒を取り出すとしよう。
 比丘よ、この積集は、この方法によって滅尽し、終わりに至るとしても、劫はなおも尽きることはない。
 比丘よ、劫はこのように悠久である。
 比丘よ、このように悠久の劫、多くの劫を輪廻し、百劫より多く輪廻し、千劫より多く輪廻し、十万劫より多く輪廻した。なぜか。
 比丘よ、この輪廻は始まりがなく、衆生が無明に覆われ、渇愛に縛られて、流転し、輪廻するその果ては知られることがないからである。
 比丘よ、このように長い間に苦しみを受け、痛みを受け、失うことを受けて、墓は増大したのだ。
 比丘よ、そうであれば、諸行は嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る」と。


 第七 声聞

 サーヴァッティ・・・
 ときに多くの比丘は先生を訪ねた。・・・
 一方に座ったその比丘たちは先生にこう言った。

 先生、どれぐらいの劫が経ち、過ぎたのですか。
 比丘たちよ、多くの劫が経ち、過ぎた。それらは数劫であるとか、あるいは数百劫であるとか、あるいは数千劫であるとか、あるいは数十万劫であると数えることはできない。
 先生、それならば譬えにすることはできますか。
 「比丘たちよ、できる」と先生は言った。

 比丘たちよ、ここに四人の百歳の寿命、百歳の命を持つ弟子がいるとしよう。彼らは毎日、十万劫を思い出す。
 比丘たちよ、諸劫は彼らによって思い出されるとしよう。しかし、百歳の寿命、百歳の命を持つ彼ら四人の弟子が百歳を過ぎて死ぬだろう。(それでもなお諸劫は思い出しきれないまま死ぬだろうという意)。
 比丘たちよ、このように多くの劫が経ち、過ぎた。それらは数劫であるとか、あるいは数百劫であるとか、あるいは数千劫であるとか、あるいは数十万劫であると数えることはできない。
 それはなぜか。比丘たちよ、この輪廻は始まりがなく、衆生が無明に覆われ、渇愛に縛られて、流転し、輪廻するその果ては知られることがないからである。
 比丘たちよ、このように長い間に苦しみを受け、痛みを受け、失うことを受けて、墓は増大したのだ。
 比丘たちよ、そうであれば、諸行は嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る」と。


   第八 恒河

 ラージャガハのヴェール林に住んでいた。・・・
 ときに一人のバラモンは先生を訪ねた。・・・
 一方に座ったバラモンは先生にこう言った。

 ゴータマ、どれぐらいの劫が経ち、過ぎたのか。
 バラモンよ、多くの劫が経ち、過ぎた。それらは数劫であるとか、あるいは数百劫であるとか、あるいは数千劫であるとか、あるいは数十万劫であると数えることはできない。
 ゴータマ、それならば譬えにすることはできるか。
 「バラモンよ、できる」と先生は言った。

 バラモンよ、たとえばこのガンジス川の流れがあり、海に入っていく。その中の砂は数砂とも、数百砂とも、数千砂とも、数十万砂とも、数えることはできない。
 バラモンよ、このように多くの劫が経ち、過ぎた。それらは数劫であるとか、あるいは数百劫であるとか、あるいは数千劫であるとか、あるいは数十万劫であると数えることはできない。 それはなぜか。
 バラモンよ、この輪廻は始まりがなく、衆生が無明に覆われ、渇愛に縛られて、流転し、輪廻するその果ては知られることがないからである。
 バラモンよ、このように長い間に苦しみを受け、痛みを受け、失うことを受けて、墓は増大したのだ。
 バラモンよ、そうであれば、諸行は嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る」
 このように言うとそのバラモンは先生にこう言った。
 ゴータマ、素晴らしい。ゴターマ、実に素晴らしい。・・・優婆塞として私を受け入れて下さい。今日より以後、生涯帰依します。

     『南伝大蔵経13 相応部経典2』 P266-270 に相当





「   第十 ヴェープッラ山

 あるとき先生はラージャガハのギッジャクータ山にいた。
 ときに先生は比丘たちに呼びかけた。
 先生はこう言った。

 比丘たちよ、輪廻は始まりがなく、衆生が無明に覆われ、渇愛に縛られて、流転し、輪廻するその果ては知られることがない。
 比丘たちよ、かつてこのヴェープッラ山は東竹山と呼ばれていた。
 比丘たちよ、その時人々はティヴァラーと呼ばれていた。
 比丘たちよ、ティヴァラーの人々の寿命は四万歳だった。
 比丘たちよ、ティヴァラーの人々は、東竹山に四日で登り、四日で降りた。
 比丘たちよ、その時、カクサンダ先生・阿羅漢・正覚者が世に出現した。
 比丘たちよ、カクサンダ先生・阿羅漢・正覚者にはヴィドゥラとサンジーヴァという名の二人の弟子、最上の弟子がいた。
 比丘たちよ、見なさい。この山の名は消滅した。あの人々は死んだ。かの先生は涅槃した。
 比丘たちよ、このように諸行は無常である。
 比丘たちよ、このように諸行は不定である。
 比丘たちよ、このように諸行は安らぐことがない。
 比丘たちよ、そうであれば、諸行において嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る。

 比丘たちよ、かつてこのヴェープッラ山はヴァンカカ山と呼ばれていた。
 比丘たちよ、その時人々は赤馬と呼ばれていた。比丘たちよ、赤馬の人々の寿命は三万歳だった。
 比丘たちよ、赤馬の人々は、ヴァンカカ山に三日で登り、三日で降りた。
 比丘たちよ、その時、コーナーガマナ先生・阿羅漢・正覚者が世に出現した。
 比丘たちよ、コーナーガマナ先生・阿羅漢・正覚者にはビッヤとスッタラという名の二人の弟子、最上の弟子がいた。
 比丘たちよ、見なさい。この山の名は消滅した。あの人々は死んだ。かの先生は涅槃した。
 比丘たちよ、このように諸行は無常である。
 比丘たちよ、このように諸行は不定である。
 比丘たちよ、このように諸行は安らぐことがない。
 比丘たちよ、そうであれば、諸行において嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る。

 比丘たちよ、かつてこのヴェープッラ山はスバッサ山と呼ばれていた。
 比丘たちよ、その時人々はスッピヤと呼ばれていた。
 比丘たちよ、スッピヤの人々の寿命は二万歳だった。
 比丘たちよ、スッピヤの人々は、スバッサ山に二日で登り、二日で降りた。
 比丘たちよ、その時、カッサパ先生・阿羅漢・正覚者が世に出現した。
 比丘たちよ、カッサパ先生・阿羅漢・正覚者にはティッサとバーラドヴァージャという名の二人の弟子、最上の弟子がいた。
 比丘たちよ、見なさい。この山の名は消滅した。あの人々は死んだ。かの先生は涅槃した。
 比丘たちよ、このように諸行は無常である。
 比丘たちよ、このように諸行は不定である。
 比丘たちよ、このように諸行は安らぐことがない。
 比丘たちよ、そうであれば、諸行において嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る。

 比丘たちよ、現在はこのヴェープッラ山はヴェープッラ山と呼ばれている。
 比丘たちよ、現在はこれらの人々はマガダ人と呼ばれている。
 比丘たちよ、マガダ人の寿命は少なく、短い。長く生きるものでも百歳、あるいはわずかに多いだけである。
 比丘たちよ、マガダの人々は、ヴェープッラ山に瞬時に登り、瞬時に降る。
 比丘たちよ、今現に私は阿羅漢・正覚者として世に出現している。
 比丘たちよ、私にはサーリプッタとモッガーラナという名の二人の弟子、最上の弟子がいる。
 比丘たちよ、この山の名は消滅し、これらの人々が死に、私もまた涅槃するときがあるだろう。
 比丘たちよ、このように諸行は無常である。
 比丘たちよ、このように諸行は不定である。
 比丘たちよ、このように諸行は安らぐことがない。
 比丘たちよ、そうであれば、諸行において嫌うに足り、厭離するに足り、解脱するに足る。

 先生はこう言った。善きところに達した方はこう言って、さらに師はこう言った。

  東竹山はティヴァラーに
  赤馬にヴァンカカ
  スッピヤにスヴァッサと
  マガダにはヴェープッラである
  実に諸行は無常である
  これは生滅の法である
  生じては滅する
  それらの寂滅は楽である」

   『南伝大蔵経13 相応部経典2』 P279-283









芥子の種は0.5mm以下の大きさです。あんぱんに散らしてある種です。

一劫の長さと、宇宙が始まってから経過した時間についての質問です。数の単位の恒河沙(ごうがしゃ)の単位のもととなったと考えられる内容です。原始仏典の記述よりも大きなスケールの話は世界中探しても見当たりません。

多くの生ける者が生じる原因は伏せられています。ただ厭うに足りる、つまり、もはやこの輪廻の日々は十分である、人生に満腹である、この世に飽きたといった感じです。

最後の紹介は、四人の如来に関する言及ですが、僕はこの記述を持って、一劫とは一つの太陽系の寿命に相当すると見ています。最初三人のブッダは異なる劫に誕生していることが長部経典第14経に明記されています。しかし、後半の四人の如来はみなこの「バッダ・カッパ」(賢劫)において誕生しています。

そして、その四人が同じインドを舞台にして正覚しています。またこのヴェープッラ山を異なる名で呼んでいます。以上から、一劫の中においてこの地球が存在していることが明らかです。またメッテーヤ(弥勒)・ブッダの予言もまたこのインドが舞台です。この地球があるうちに現れることは確かです。


近代の精神世界において日本こそが世界の中心という考えが帝国主義の風潮などから生まれていましたが、やはり残念ながら日本は世界の中心とするには無理があるようです。インドが世界の中心かどうかはわかりませんが、インドに如来が出現するということです。また、ヴェーダにおいて劫の考えが残っていますが、神道にはそう言った記述はありません。やはりヴェーダの伝統にはカッサパ・ブッダの教えの名残りがあるようで、その観点からも日本は世界の中心ではないようです。


生じては滅する、それらの寂滅が楽であると仏教の基本が述べられて話をしめています。ゴータマも悠久の想が生じるときは、滅に志向するのだと思います。

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