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原始仏典コミュの無記 「我は有る・我は無い」 (南伝16上 P132-134)

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相応部経典>六処篇>第十 無記説相応


「   第十 阿難[我は有り]
 
 時にヴァッチャ姓(ヴィッチャゴッタ)の遍歴者は世尊のいるところへ行き、世尊と・・・一方に座った。一方に座り終わってヴァッチャ姓の遍歴者は世尊に言った。

 君、ゴータマ。我は有るのか。

このように言われたが世尊は沈黙していた。

 君、ゴータマ。それならば、我は無いのか。

再び世尊は沈黙していた。ここにおいてヴァッチャ姓の遍歴者は座から立って去った。時にヴァッチャ姓の遍歴者が去ってまだ間もないときに、尊者アーナンダは世尊に言った。

 大徳、なぜ世尊はヴァッチャ姓の遍歴者に質問されて返答されなかったのですか。

 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「我は有るのか」と問われて、「我は有る」と答えれば、アーナンダ、これは常住論者であるあの沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
 しかしまた、もしアーナンダ、ヴァッチャ姓の遍歴者に「我は無いのか」と問われて、「我は無い」と答えれば、アーナンダ、これは断滅論者であるあの沙門婆羅門たちと同じになるだろう。
 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は有るのか」と問われて、「私は有る」と答えれば、私は「一切の法は無我である」という智慧の発現に順応していることになるだろうか。

 大徳、そうではありません。

 アーナンダ、私がもしヴァッチャ姓の遍歴者に「私は無いのか」と問われて、「我は無い」と答えれば、アーナンダ、愚かなるヴァッチャ姓は「先には私に我があったのではないのか、その[我]今は無い」と、ますます愚かになるだろう」

     南伝大蔵経16上 相応部経典5 P132-134




「一切法は無我」ですが、「仏教は『我は無い』と説く」と勘違いしている人は多いです。ゴータマは「我を有るとも言わず、無いとも言いません」。また「我は空」という記述は原始仏典に見いだせません。無記を有記とすることは道理にかないません。「女を探すのと己を探すのとどちらが・・・」というのは、ゴータマ伝に記述があります。五蘊の生滅を観じて可です。




我  :attan 我、自、我体   アッタン
無我 :anattan 無我、非我   アナッタン
「我は有る」:‘atthattā’     アッタッター
「我は無い」:‘natthattā’     ナッタッター
常住論者  :sassatavāda  sassata 常、常恒の、常住の vāda 説、語、論
断滅論者  :ucchedavādā  uccheda 断滅、破壊、絶滅
「一切の法は無我である」:‘sabbe dhammā anattā’  
「先には私に我が有ったのではないのか」:‘ahuvā有った me私に nūnaではないのか pubbe先に attā我が,
「それが今は無い」:soそれが etarahi今は natthī無い’

‘‘kiṃ何・いかに・いかなる nu〜かどうか kho実に, bho君 gotama, atthattā我は[atta]存在する[atthi]’’ti?
‘‘Kiṃ panaしからば, bho gotama, natthattā我は存在しない’’ti?
api nu me taṃ, ānanda, anulomaṃ随順の、適当の、適当した abhavissa ñāṇassa智の uppādāya生起 – ‘sabbe dhammā anattā’’’ti?






10. Ānandasuttaṃ
419. Atha kho vacchagotto paribbājako yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavatā saddhiṃ sammodi. Sammodanīyaṃ kathaṃ sāraṇīyaṃ vītisāretvā ekamantaṃ nisīdi. Ekamantaṃ nisinno kho vacchagotto paribbājako bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘kiṃ nu kho, bho gotama, atthattā’’ti? Evaṃ vutte, bhagavā tuṇhī ahosi. ‘‘Kiṃ pana, bho gotama, natthattā’’ti? Dutiyampi kho bhagavā tuṇhī ahosi. Atha kho vacchagotto paribbājako uṭṭhāyāsanā pakkāmi.
Atha kho āyasmā ānando acirapakkante vacchagotte paribbājake bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘kiṃ nu kho, bhante, bhagavā vacchagottassa paribbājakassa pañhaṃ puṭṭho na byākāsī’’ti? ‘‘Ahañcānanda, vacchagottassa paribbājakassa ‘atthattā’ti puṭṭho samāno ‘atthattā’ti byākareyyaṃ, ye te, ānanda, samaṇabrāhmaṇā sassatavādā tesametaṃ saddhiṃ [tesametaṃ laddhi (sī.)] abhavissa. Ahañcānanda, vacchagottassa paribbājakassa ‘natthattā’ti puṭṭho samāno ‘natthattā’ti byākareyyaṃ, ye te, ānanda, samaṇabrāhmaṇā ucchedavādā tesametaṃ saddhiṃ abhavissa. Ahañcānanda, vacchagottassa paribbājakassa ‘atthattā’ti puṭṭho samāno ‘atthattā’ti byākareyyaṃ, api nu me taṃ, ānanda, anulomaṃ abhavissa ñāṇassa uppādāya – ‘sabbe dhammā anattā’’’ti? ‘‘No hetaṃ, bhante’’. ‘‘Ahañcānanda, vacchagottassa paribbājakassa ‘natthattā’ti puṭṭho samāno ‘natthattā’ti byākareyyaṃ , sammūḷhassa, ānanda, vacchagottassa paribbājakassa bhiyyo sammohāya abhavissa – ‘ahuvā me nūna pubbe attā, so etarahi natthī’’’ti. Dasamaṃ.

コメント(18)

遠慮せずにどんどん書き込んでください(笑)

「ゴータマ伝」の伝道命令のところで出てきた記述でした。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25310538&comm_id=951429


沈黙も立派な解答なんですね。
コミュニティのトップに合わせても全体も少しずつ変更している最中です。マイペースにやって行こうと思っています。
「我は有る」と言えば、「私は永遠である」という常住論者と同じになります。天国と地獄と人間をどんなに輪廻しようが私は永遠であるという主張になります。この見解を原因として、「彼が我と考えるものへの執着」が生じ、その執着に対応した存在者として今後も存在し、その見解とその執着に対応した分だけは汚れが生じ、苦が生じます。彼が「これが私である」と考えたところでそれは変化し、「これが私である」と考えるその思考自体も生じたり滅したりするからです。それらへの執着の分は苦になります。またその見解を繰り返す思い出さなければならないという煩わしさとしての苦が付きまといます。

「我は無い」と言えば、「死んで私は無になる。いや、すでに私は無であるとしてもよい。この私はすでに私ではなく無である」という断滅論者と同じになります。「死ねば無になる」と考える者は「死ねば無になるので悪を行なっても善い。死ねば無になるので善を行なう理由は特にない」となり、善人性は減少し悪人性は増大します。もし輪廻があれば、彼は悪趣に行く可能性が高くなります。

「死ぬ以前から私はすでに無く、すでに無である」と考える人は、自己の利益を放棄し、現実を逃避し、努力をせず、放逸に出し、漏は増大し、苦は増大します。苦は増大し、しかも現に苦を感受しているのに、「私は無い。私は無いのだから苦は無い。苦因も無い。苦滅も無い。苦滅道も無い」と考えます。彼は苦が有るのに「苦を感受している私は無い」と主張します。ここに苦滅のための一切の精勤は生じません。彼はこの見解が続く限り苦を増大し続けます。放逸に住すからです。これは一部の「空」について誤解し、慢心に陥り、求道が完了してしまった人々に見られる見解です。彼らは「自分も空。苦も空。悟りも空。それなのに苦滅を目指し、悟りを目指すのは愚かだ」と主張します。しかし、彼らは現実社会で苦しみに住し、生計のために奮起し、自己の見解を忘却し、自己の見解を現実に対応させず、議論の場に出くわすと眠りから醒めたように「一切は空。苦も空。悟りも空。それなのに苦滅を目指し、悟りを目指すのは愚かだ。それも空なのに」と主張します。このような見解はただ人に怠けさせる口実を与えるだけです。しかも、自らは苦しみと生計の不安と老後の不安に苛まれています。

誠実な人間はこう見ます。「私は現実に苦しむときもあれば、苦しまないときもある。現実に苦しんでいるときは苦は実際に存在し空ではない。現実に苦しんでいないときは苦は実際に存在せず空である。しかし私は苦しみの可能性を根絶しているわけではない。それゆえに定期的に、また不定期に苦しみが現実に生起しときに滅し空となる。今こそ苦しみを永遠に断つ力を意図的に努力して形成すべきである」。誠実な人間は現実に在るものを無いとは言いません。誠実な人間は現実に無いものだけを「それは今は無い。今は空である」と言います。誠実な人間が三毒を根絶したときは「三毒は今も無いし、今後も無い。生じる道理も無いし、生じる法も私には無いから」と言うでしょう。

「我は有る」と言わないのは、「一切法は無我である」との智慧の発現を無に帰する言明であるがゆえにあえて「我は有る」とは言わないということです。愚かな人は「我は有る」と聞けば、「一切法のうちに我が有るのだろう」と考えるからです。愚かな人のためにこのように設定されます。

「我は無い」と言わないのは、「私は私であると思って来たのにそれは私ではないと言う。では私とは何か」とますます愚かに悩み苦しみ、その疑いはいずれ邪見に達するがゆえに「我は無い」とは言わないということです。愚かな人が「我は無い」と聞けば、「我は無いと説かれるのに、このように考える私がいる。私は有るではないか。しかし無いと言う。では、考える私は私ではないのか。では今このように考えている私も私ではないのか。では、私とはこの考え感受する私の他に有るのか。いや、無い。しかし、私は無いと言う。わからない」と愚か者は困惑します。愚かな人のためにあえて「我は無い」とは言わないのです。

五蘊の生滅を観じ、意識の生滅を観じ、自己意識の生滅を観じ、自覚の生滅を観じるときは、自己について幾分の覚るところがあると思います。自己の探求が阿羅漢になれば終わるのか、さらに先があるのかはわかりませんが、「一切法は無我である」ということは在家でも簡単に悟れることです。永遠に変化しない身体はあり得ず、永遠に変化しないいかなる心もあり得ないというその無常性について幾分、考えればすぐわかると思います。ゴータマの心と身体、ゴータマの一切五蘊もまた変化し滅するものです。再形成によって続くように見えるだけです。
「一切法は無我である」ということがわからない人が流れに入るということはあり得ません。無我がわかる人だけが流れに入ります。「これが私だ」という見解がある限りはそれへの執着が続くからです。

自分の心も体も智慧も力も能力も技術も知識も記憶も過去も過去世もチャクラもオーラも遺伝子もDNAも先祖も子孫も影響力も真我も空も宇宙も宇宙法則も無も滅も、いずれもまたそれ以外の一切も我ではありません。

「一切法無我」がわからない人は流れに入りません。わからない人は「これは自分だと思う」というその「これ」が確かに生じたものであることをよく見ることです。生じたものであると確かに見るときは、「生じたものはすべて滅する」とし、また「それが滅する瞬間」をも見るでしょう。そのときは、一切法が無我であると知り、一切法が無我であると知るときは、一切法への執着を断つ正しい見解、正見が内に形成されたのであり、不死の遺伝子を呼び込んだのであり、それが内の法として存在している者はいずれ悟ると決定しています。なぜなら、「一切法は我ではない。我であれば取っただろう。しかし我でないから取らないだろう。取らないならばそれは私には無い。滅する。かくして宇宙内から取らない分は滅する。私はそこには無い。私はそれと結合しない。私はそこに無い。一切においてそのようであるならば、私は宇宙内の一切において無くなる。私は宇宙内の一切において無結合であり、自由である。この身があるときはこの身を原因として生じる感受がある。この身がなくなればこの身を原因として生じる感受はなくなる。そのときは苦、滅す」。

このように知る彼が今後、生きて行こうと転生しようと楽受が生じても「我ではない」と知るゆえに執着せず、苦受が生じても「我ではない」と知るゆえに執着せず、不苦不楽受が生じても「我ではない」と知るゆえに執着しません。また執着しているものが変化して苦受が生じたときは「私は我ではないものをあたかも我であるかのように喜び執着していた。ゆえに執着対象の変化に伴って苦受が生じた。改めてその執着対象の無我性を見て、よろしく執着を放そう」とします。そして、人生の感受は楽受・苦受・不苦不楽受の他にはなく、また執着の分だけ生じる苦受は必ず生じるがゆえにそのときは正見のうちにある事前に形成された無我性の智慧が発動し、その分は執着を断ちます。こうして次第に、自然に、自動的に、意識的にしろ無意識的にしろ、これらの不死の遺伝子を原因として生じる変異は彼の心を変えて行きます。彼はいずれ苦を断つ聖者の卵です。
>「一切法は無我」ですが、「仏教は『我は無い』と説く」と勘違いしている人は多いです。ゴータマは我を有るとも言わず、無いとも言いません。
(トップの文章より)


これはブッダは無我とも言わないんだ、と解釈されていますが、
この時、この相手には無我とも言わなかったことをもって、おしなべてブッダは無我を説かないのだと解釈してしまっていいものでしょうか。
ブッダは対機説法により、この時は確かに無我を説くことを避けたけれども、基本的には無我を説かれた、
というふうに解釈すべきではないでしょうか。
この時の無記をあまりに重視し、ブッダは根本的に無我を説かないのだと解釈することは、それも一つの尊い理解をもたらすこともありますが、通常の仏教解釈からは離れるように思います。

ぺこちゃんさん お久しぶりです。
 
お釈迦様が「我(アートマン)」や「神我(イエスさんの言われる「神我キリスト」=父なる母なる主なる神)」が、「ある」とも「ない」とも仰らなかった当時の理由や事情が、上記の説明で、なんとなくわかった感じがします。
ありがとうございます。

(ご参考までに)↓ 
2. サキャムニ(釈迦牟尼)の見解の解釈が分かれる理由
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=60857135&comm_id=3788768
 
「この世に巻き込まれている形のないものにしろ、形のあるものにしろ、〈私〉として執着すべきものなど何も無い」と体認した先に、
「もちろんこの世の外を想定したところで、どこにだろうと私として執着すべきものなどいずれにも無い」と表現するか、
それとも、「この世に巻き込まれない所にこそ真の私がある」と表現するか。

大切なのは、ちっぽけな執着にまた引き戻ってしまわないことであり、私と他者との抗争にまた引きずり込まれてしまわないことですね。
八不は概念が一切なくなった領域、境地ではどうでしょうか。
物資も心も空間も時間も認識も一切ない、私など当然微塵いない境地です。

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