夢みる頃を過ぎてもコミュの歌集の運命――河野洋子歌集『約束』を読んで―?

冬なれば冬の月見る人ひとり忘れ難ければ忘れねばよい
　　一人よりふたりが寂しと詠ひたる若き日何も知らざりしかな
　　奈良町のかかりにありし小体なる居酒屋で昔ねむかし出逢ひぬ
　　まだ温きあなたの骨を拾ふなり箸に拾はず指もてひろふ
　　独身と寡婦は全く違ふのに他人はつくづく何も知らざり
　　「このまま老夫婦にならむ」と言ひかけて言はざりし冬　言へ
ばよかつた
蛍見しその夜の夢に夫はきて泣きをりわれも泣きて目覚めぬ
　夫の死が一連として詠われるのではなく、寡婦としての日常生
活の陰翳の刹那に、色々なかたちで亡夫への恋心が詠われてゆく。
　もちろん、未練がましいばかりではなく、知的な内省も過去と現
在とを往還しながら、洗練された短歌として成立している。
　　イギリスのヒースの丘にあくがれし十歳（とを）の夏より恋愛嫌ひ
　　昔高等遊民と呼ぶ人種ありて時折われはうつとり思ふ
　　本を抱き眠りし少女の日も今も水やご飯のやうに本読む
　　井戸の水ポンプに汲みてふふみたり鉄気（かなけ）はつかに明治のかをり
　　かぶれるは歌舞くことなりある夏はセシルを真似て髪を刈つたり
　　久坂葉子にかぶれし頃の懐かしさ恐る恐るにピースを買つた
　　あのころは飲んで騒いで馬鹿をして「黄昏亭」で朝を迎えた
　私は一九五二年生れなので、河野洋子は私の姉兄の世代にあたる
のだが、確かに同級生の姉さんの部屋には「嵐が丘」や樋口一葉や
久坂葉子の本があった。昭和三十年代半ば、傷痍軍人はまだ居たが、
高等遊民はさすがに居なかった。セシルカットでピースをふかすテ
ィーンエイジャー。団塊の世代の青春がここにある。六首目と七首
目の「た」という口語の過去形は、この歌集のテーマにもかかわる
文体的方法論として、多用されている。
　青春のひとつの結実として結婚があり、家庭を持ち子を成し、や
がて子は成長して自立し、夫婦は老いる。そして、夫の死によって、
寡婦としての現在が始まる。けっして、珍しい境遇というわけでは
ない。しかし、その日々の寂しさ、孤独の思いは個々に表現される
価値がある。その価値を河野洋子は知っている。
　　真夜中の間違ひ電話に「抱きたい」と告げられしかば何か鎮ま
らぬ
　　さう言へばさういふ事も杳けしと独り素足に灯りを消しぬ
　　眠れねば起きてキッチンに水を飲むうらさみしかな水の薬臭
　「素足」と題された一連の中の三首。この順番で並べられている。
まさに、寡婦としての孤独の価値を凝視して、その精神の陰翳を、
さりげなくしかし的確に詠って見せている。「素足」という題名の
選択にも日常の悲哀が象徴されている。もちろんそれは方法として
選択されている。かつて、ある句集の出版記念会のスピーチで、高
柳重信が「人は悲しいから詩を書くんだ」と強い言葉で発言したの
を聞いて以来、私は詩歌の本質を「悲哀」だと信じている。同じ意
味で河野洋子の歌は私の詩魂を共鳴させる。
　　ああ人はあんな表情で生きている東京国際女子マラソン
　　出る杭は打たれるけれど出ぬ杭は腐る水辺に花菖蒲咲く
　　ふるさとに鳥の井戸なる字ありて寂しき朝はその井戸想ふ
　　彼岸花彼岸に違はず咲く不思議友情と文芸遠く忘れて
　　不思議なる語感のひとつ銭湯の柘榴口とはいかなる口か
　　詩涸れてさびしき昼はあてもなく電車に乗りぬ乗りて帰り来
　　細く長き男の指のセクシーさ今ネクタイをゆるめるしぐさ
　　紙に切りし人差し指がまだ痛い遠き花野に昔遊びき
　　万歳師砂川捨丸の語り口脇の鼓や昭和佳きころ
　　綾小路きみまろなるに蔑されて中高年が笑ふよ笑ふ
　　若き日は若き日なりの愚直さに歌ひき“若者よ体を鍛へて…”
　　水無月のみどりの深き日ゆくりなく思ふかの紅衛兵達の現在（いま）
　心にせつなく沁み込んでくる作品を引用した。自閉的な視点では
なく、一首一首に文学的、批評的な視点がゆるぎなく存在している
からこそ、そういう歌を生み出す精神の悲哀を貴重に思う。
　国際女子マラソンのランナーたちの表情をこのようにとらえて見
せた歌は、今まであっただろうか。短歌としての完成度でいえば、
八首目の紙で切った指の傷の痛みと花野の回想が錯綜する歌が好き
だ。一首一首に、何故心魅かれるのかを書いていたらきりがないが、
書かずにはいられない思いも強い。これらの魅力にみちた歌が一巻
となった『約束』という歌集の運命を注視していたい。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「創生」２０１０年３月号発表