ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > 趣味 > 哲学が好き > トピック一覧 > 「商業主義」と「生きる意味」の...

哲学が好きコミュの「商業主義」と「生きる意味」のあいだ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

かねてより私は宗教に疑問を抱いていました。

しかし「科学技術」が人間の内面や意味の領域に対して
語る語彙を持たないこと、そしてウィトゲンシュタインが言う「語りえぬものについては沈黙せねばならない」
という言葉に代表されるように、哲学もまたある種の人間の「生きる意味」のような問題になんの答えも持たないことなどから、
人が「生きる意味」の「不在」に揺さぶられるとき、

"宗教のような反証可能性のない「強度」への「信仰」だけが人をかろうじて現世につなぎとめるよすがとして機能できる"

ということについてどうしても無視することができない意義を感じざるを得ずにいます。

人間は長い歴史の中、絶え間なく戦争の不安に脅かされ、
例えば西洋ファンタジーの世界のような、何らかの戦いを勝利へと導くことのできる英雄譚を
精神的な支柱としながら、自らの人生のロールモデルを得ていたように思えるのですが、
戦争は徐々に水面下へ抑圧された問題となり、戦いに勝つための人生というような人間の在り方が
現実味から乖離していく中で
社会の中にかつてはあったはずの「人生の意味」が見出しにくい時代になったのではないかと思います。
すでに生まれているにも関わらずなんのために生かされているのかを見出せないという
無意味への疎外が、砂時計の砂が落ちていくように社会の繋がりをほつれさせ徐々に破壊していくのではないか。

そのように考え、「人生の意味」を解くことができたかもしれない宗教的な言説に期待せざるを得ない一方、
しかしどのような宗教であれ、いまや歴史の長さが裏目になり、もはや科学技術や哲学の近年における知見と整合的な教えを説くことができない為に
現代社会にあまり適さないような生き方や答えを出すか、あるいは結局は何の答えも出さないかの
いずれかの結末へしか漂着を期待できないのではないのではないかとも思います。

例えば、仏教において否定される煩悩は
この商業主義の時代においてはむしろ社会の原動力として活用されている為、
商業分野における生産/流通とは、事実上は人間の五欲を満たすための営みだと言う風に捉えるほかない側面があるとは言えないでしょうか。
そうであるにもかかわらず、人が生きるための糧を得るためには、商業主義に組するほかなく、
生きていくためには已む無く社会の煩悩を肥大化させる営みに加担せざるを得ない。
これでは、時代と共に人類の苦しみや多種多様な依存性を高め、社会の不幸を拡大しているだけのことにすぎないのではないでしょうか。

こうした事柄について、
どのように考えていく事がよいのか
非常に途方に暮れている昨今です。

ある時、仏教の動画をみてみたところ、
どうやらその教えによると人の生きる意味は他の命のために役割を果たすことが生まれた使命だと
説かれているようでしたが、
都会の雑踏や、すし詰めの満員電車の中などに思いを致すと、人はそう簡単には他人に関心を持つことが
できないほど、人間の脳のキャパシティを超えた規模の「他の命」に囲まれ過ぎて、
思いやるどころか周囲を気にする余裕さえ持てない時代に自分たちは生かされているように思えます。
その多くの命の中の、いずれか少数とだけ関わり、そしてそのせいぜいほんの一部の人たちの為に役割を果たし、
他の命は見捨てるということぐらいしかできないのではないか、そしてそのほんの一部の仲間だけを自分の中で特別視することが
どのような理由で正当化できるのか、考えれば考えるほど、
どうすることもできないアノミーに囚われた気持ちになります。
もちろん、あらゆるものが相互に作用し合っているカオス理論的な連関の中で、何か一つの善行が社会全体に連鎖して作用するはずなのだと
信じることも可能なのかもしれないとは思うのですが、そうであるならば逆に、そもそもそのように言ってしまえる社会においては公平さや公正さはもはやなくても良かったということになってしまうのではないか。

なんらかの天啓的なシャーマン性から生み出されるような今までにない価値観なり世界観なりのような
ものがなければ、
「生きる意味」に対する答えを持たない人類の文明は意味が無いために無意味へと崩壊していくのを
誰もとめることはできないように思えて、そうした価値観なり世界観なりの候補なり手掛かりなりがあるのかどうか
アイデアや知恵のある皆様のご意見を拝聴してみたいです。

何かめんどくさくない、シンプルでストレートな人生の指針のようなものが得られ、
それが共有されていくことを期待したいです。

よろしくお願いいたします。


トピック作成日時2016年11月24日 04:12

コメント(716)

 おれたちのようなモテない人たちにとっては恋愛というのは元々ムリなことなのだから、そんな感情から解き離れていたほうが

自由でカッコいいんだという価値観がとても強い。


 だから人を好きになる気持ちは恥ずかしくてカッコ悪いこと、弱いことだという原理主義がある。

ダサくてキモくてモテないんだから、人を好きになって相手に迷惑をかけては、いけないということなのである。


 しかしそれでもなお人を好きになってしまう事はあり得る。

 その時、そのままでは、どうなってしまうのであろうか。


 それがきっと、コソコソとした、本当に恥ずかしい求愛行動に出るということなのかもしれない。

大抵の、魅力ある異性というのは、サバサバして明るく堂々としたシンプルな求愛行動は理解できても、

返しにくい気持ち悪い求愛行動は、本当に嫌で嫌で仕方なく、生理的にムリだと一瞬で感じる。

一方的で、自己満足的だと感じて、不快に感じる。


 だからその想いは裏腹に相手を怒らせ、そして好きだと思えば思うほど嫌われていくことになる。


 その問題を解決するのは、中々むずかしいことなのかもしれない。

 というのは、実際にキモくてダサくてモテないおれたちは、原因が恋愛はカッコ悪いという原理主義に問題があると気づいたところで、

それを捨ててもキモくてダサくてモテないこと自体は変わっていないのだから、一層傷ついてしまうだけだからである。


 そういうウジウジした求愛行動の意図を全部裏読みしてくれるような女神のような異性でも現れない限りは

その恋愛カッコ悪い教から脱洗脳されることはできないだろうし、

そういう原理主義を捨て去って大丈夫だと思えるような自信の無さを捨て去ることは難しいのかもしれない。


 あるいはキモくてダサくてモテず、成功する見込みなどないと分かった上で、傷つくことを承知でマゾヒスティックに

高値の華にアプローチし続けるようなタフさでも身につけて、偶然タイミングよく何かの引きの良さでも発揮するなりなんなりして

ワンチャンあるまで耐えざるチャレンジを続けられるようなメンタリティを鍛え上げる覚悟をするしか、無い事を知ったうえで

それは無理だと完全に諦めるか、やってみるかの二者択一を選ぶしかないのかもしれない。
女性の社会進出の構造的な妨げになっているのは社会制度ではなくて
実は、お偉い先生であればあるほど年老いてチンポも立たなそうな性的魅力の欠片もないオジン
であるため、
やる気やエネルギーに満ち溢れた女性であればあるほど、
そういう魅力のない人間をリスペクトして学ぼうとは全く思わず
要介護の高齢者を扱うような接し方しかできないため知的な機会を消失しているという事が
実はとても大きいという事をはたから見ていて感じる。

生物学的なモチベーションが成り立たない事で機会損失が起きているので、
スポーツマンタイプのインテリセクシーガイみたいなものに私淑した経験のない女性は
そもそも知的なものに対するどのようなリスペクトも持つ機会がそもそも生まれないのかもしれない。

ミイラのような大先生をリスペクトできる女性であれば、そういう機会損失はないが、
しかしそういう女性は、普通の人間の中では浮いてしまうような、本人がミイラ以上におかしい人であるケースが多いようだ。
 色々な人達の生き方を能力と意識の軸から観察して分類してみると、
以下の4つの累計の型があることに気がついた。


 A. スキルレベル高/意識レベル高 「問題解決力のある親分肌」
 B. スキルレベル高/意識レベル低 「頭のいいナマケモノ」
 C. スキルレベル低/意識レベル高 「意識だけ高い系」
 D. スキルレベル低/意識レベル低 「遊び人」


 結論から申し上げると、この4つの類型の中で一番幸福感の高そうなパターンは、
「B」であった。
 彼らは、自分が直面する問題に対する解決能力を持った上で、
気負う事もなくプレッシャーも少ない。

 大抵の人間は、人生経験の中で自然にこの「B」に向かっていくが、
その「B」の中で一部の人間が役割を与えられて「A」になる。


 そして一番、可哀想なのは「D」ではなく「C」である。
 この「C」のパターンは、実は本人自身は自分を「A」だという誤った自己イメージ
を持っている事が多い。

 身の丈以上の自負心を抱いて苦労するものの、
問題解決能力の不足によって、結果が出ない。

 誰かが助け舟をださなかったとしたら、その意識の高さによって他人をも巻き込んで、
本人も周囲も不幸になってしまう。
 何よりも一番ストレスを受けるであろうタイプが、この類型である。


 「A」は、「C」がスキルレベルを身に着けて「A」になるのではなく、
実際には「B」の一部が役割を与えられることで「A」になる。

 だが不思議なことに世の中では「C」の人間がスキルを身につけで「A」になるという幻想を生み出し続けることによって、「C」の人たちだけが余計に苦しめられるような状況が生まれているように思える。

 だが、現実には「C」が「A」になるためには、実は一旦「B」を経由することが必要だったりするという事が、こういう分類を行う上で見えてくる。


 私は個人的には「B」の生き方に憧れを抱くものの、一番共感を覚えるのは「C」の人々である。
「C」の人々の、自分も周囲も不幸にさせている身の丈に合わない気負いを消滅させ、「B」に至ってほしいとどうしても思う。
 その為に下記のような方策をリストアップすることができた。

 1. スキルレベルの低さを自覚せざるを得ない状況のセットアップ
 2. 本人にも周囲にも身の丈以上になっているモチベーションを、萎えさす各種誘惑
 3. 自分よりも意識が低いにもかかわらず自分よりもスキルレベルの高い人物との遭遇

 これらのような方策によって、本人の気負いを和らげることで、スキルレベルを上げると同時に意識レベルを一旦下げる方向へと誘導することが、たぶん「C」がより幸せな「B」の方向へ向かう上では有意な成果を上げると考えられる。

 また、「B」の人間については、一見「D」の人間のように見えるため第一印象はあまりよくないが、「B」の人間は「A」や「C」よりも「D」の人々によって歓迎されているケースが多いようだ。「A」の人間は、「B」の人間よりも、「C」の人間に尊敬されている為、世の中に「C」のタイプが量産されてしまうのかもしれない。
コミュニケーション能力というのは、
言葉の表現力のことではなくて、相手を動かす能力でもなく、
相手の立場になって考える想像力なのではないかという気がしている。

自分の主張だけを雄弁に語る人が
コミュ力の低い人だと理解されるのはそういう事かもしれない
 十代の頃は、たぶん、性的な魅力がすべてだった。

 そして性的な魅力は、運動神経とかなり密接だと言えた。


 そして二十代前半になると、先の環境に適応できる適応力がすべてになってくる。

人間の社会において適応力は、コミュニケーション能力とかなり密接な問題だ。


 そしてその後、前述の二つよりもさらに重要になっていくのが、経済力だった。


 これら三つが高いレベルにある人間が異性の間で、優先度の高い人間と無意識に見なされる。

例外があるようには思えない。


 性的な魅力は、本能的な何かと結びついていて、そういう異性と接近すると非日常的な

喜びを感じるものなのだろうし、


 コミュニケーション能力の高い異性と関わると、人は精神的なストレスから解放されるものなのだろうし、


 結婚なり過程形成なりを考えるうえで、将来性や周囲からの合意を考えやすいのは

経済的な安定性のある異性、ということになるのだろう。


 年齢の各段階において、そのどれを優先するということは変わるのだろうが、

おれたちダメ人間というのは、チャンスなり出会いなり運命なりということ以前に、この三つの何も満たしていないことが

そもそも論として原因で、異性の間で優先順位が相当低い人間と見なされ、後回しにされているだけだったりする。


 ここまでダメな人間となると、あえて関わるよりも、一人でいたほうが楽じゃないかと思われるレベルなので、

どのような売れ残りにすらも、相手にすらされないというわけかもしれない。
 現実にそういう風になっているかどうかは分からないが

 もし人間が長い歴史の中で必要な進化だけ遂げてきているのだとしたら恐らくそういう合理的な社会心理的な調整が

機能しているかもしれないと思える、そんな調整について考えてみた。


 それはダメなおれたちほど異性に妥協しようとしない(高望みし続ける)のは何故だろうかという考察に

一つの答えを与えている。


 シンプルな答えは、ダメな人間がダメな異性とくっつくと、一人でいるよりも余計に負担がただ増えるだけだからだというものである。

 何らかの理由で異常な自信を持った人間が、何らかの理由で、自分の長所があれば相手の短所をカバーできると考えられる場合にだけ

ダメな人間を異性として選択することがあるかもしれない。プラスマイナスゼロ以上の組み合わせになるのであれば、それでもそれなりに合理的だからである。


 ただ、売れ残っていく人々の中に、そのような異常な自信を持った人間がいる可能性は非常に低い。売れ残っていくことによって

コミュニケーション上、自信を砕かれていくような事が常だからである。


 ただそれだけではまだ、様々な事が依然、謎として残されたままだ。
 もし上のような事がそれなりに正しいのであれば、それなりに普通の運動神経と体系があって、

他人の話をそれなりに理解できるコミュ力があり、それなりに保守的な経済基盤があれば、たぶんこの世の半分ぐらいの異性は

似たようなレベルの異性で、そういう相手とくっついても、そんなに不幸にはならなそうだ。


 それすら不可能だということの意味は、自分の側に、性的/社交性/経済性の三つを足して三で割ったような値が

平均を下回っているのだということしか意味していない。


 どの値がどう下回っていて、どうすればそれをカバーできるのかを考えれば、いいのかもしれないし、

それがどうにもならない問題だとわかるのであれば、ただ諦める原因がそれだと理解した上で、諦める以上のことは何もする必要もないかもしれない。
 本当はそういう事を書きたかったわけではない。

 相手の思いやりとか優しさとか並外れた共感力とか公平さとか人間性とやらに期待して、うまくいかなかった理由さえもそこに被せるのは

お門違いなのだということを本当は言いたかった。


 長い時間や感情的なつながりとかそういう事が殆ど問題を左右しない。


 そのような様々な要因がどれだけ働いていたとしても、とても長い目でみればそれ以上に、人間は結局、合理的でないことをうまくやることはできない

ということが最大の壁になる。


 うまくいかないことを諦めなかったとして、あきらめなければあきらめないだけただ傷が深まるような非合理性を

しぶとく続けていくことは、すごく長い目でみれば持続不可能性の原則に突き当たって砕ける挑戦でしかない。
 実は、ナンバーワンどころか、オンリーワンすら目指さない生き方が、一番幸せになれる生き方だと思う。

 没個性的で、すべて平均を行くことを目指し、フツーを目指すと、社会そのものがその一番多数派を占める平均的な人々に合わせて設計され

似たような仲間が一番多いことによって共感され、助け合って、幸せになれるわけだ。


 にもかかわらず、不思議な事に、世の中は上に突き抜けた人々によって運営され導かれているために、

彼等の発信するメッセージ、つまりナンバーワンなりオンリーワンである彼らを目指すことをよしとするような価値観がトップダウン式にもたらされる。


 そしてそのようなものを目指すことによって人は、自分なりのオリジナルの存在感というよりもむしろ

ほとんど如何なる場所にも合わない存在へと疎外されるように思える。
 おそらくそうだと今は言うしかない事は、おれたちは各種メディアによって俳優や女優のような相手に与えるイメージを完全に自在に

コントロールできるプロの振る舞いにさらされすぎたせいかもしれない。


 大抵の異性に対して、例えば互いに、欠点を一瞬のうちに見つけることができてしまうだろう。相手が一般人でなくても、

例えばAKB48の人たち相手であってさえ見つけられるかもしれない。


 そういう欠点を見つけてしまうと、そのことを意識した上でコミュニケーションを取りながら、本当にそのことを忘れてしまえるだろうか?

 それともその欠点が常に引っかかったような顔をして、奇妙に間合いをとったままのコミュニケーションになってしまうだろうか?

 

 何と比較しての欠点なのだろう。それは本当は、普通の人たちの間でさえ目立つような強烈な欠点だろうか。あるいはそもそも、

そんな欠点は存在せず、自分の欠点を相手に投影してしまっているだけですらあるかもしれない。


 しかしそういう欠点が、見つけられないほどの相手が一般人の中にもそれなりに見つかりもする。

 そういう相手は、高値の華だという風に思える。しかし本当は、人はそういう人たちとうまくいかないことをひどく恐れながらも、

心の奥底ではるかむかしにそれを諦めるに至ったショックを克服し、そういう人たちとまともにかかわれる自分になれることを

本当は心の底では望み、そうなれることこそが幸せで、それを諦めたことによって何が幸せかを見失っていたりするものなのではなかったろうか
 人は、高望みをすることによって求めるものを得られなくなっているどころか、

 そういうものを精神的に抑圧することで諦め、妥協の中で、とりあえず手ごろな、手に入りやすい手近なものを手に入れようとし

しかし無意識にその欠点ばかりが目について、実はそのたびごとに、かつて諦めた高嶺の華みたいなものを無意識の中に沸々思い出しそうになり

それと比較して不満を覚え、うまくいくことを自分で自分に放棄させてしまっていたりすることによって

不幸の中へと回転しながら落ちこんでいくのかもしれない。
 例えば音楽は共通語だと言ったりする。同じような意味で、哲学や文学も、いまだに今とは大分社会が違う時代のものが今でも理解されている。

それは何かというと、実はこういうことだろう。


 活版印刷によってテクストは写本しなくてよくなり、コピー機や機械化でまったく同じ型のものがどんどん複製され商品として流通するようになったり、

情報化によって情報が大量に流通するようになったりすることによって、社会に関わる様々な言説はそのたびごとにそれまでの言説では通用しなくなった。

ところが、そういう変化を何も受けていないものがあって、

それが人間だということである。


 人間がコピーされシミュラークル化したりするような時代にはまだ至っていない。

 結果として人は、太古の人々と同じような悩みや感情に繰り返し繰り返し直面しつづけているわけで、そのために哲学なり文学なり音楽なりは、

どれだけ時代が変わっても昔のものが共感できるまま残されている。
 たぶん恋愛というのは、その人が幼いころの、両親との関係性にとても密接にかかわっている。

 異性と親しくなることを強く必要としている人は、恐らく両親とずいぶんと深くかかわって愛されて育ったに違いない。

自分がどうだったのか、それほど鮮明には思い出せない。

 ただ、私は両親とそんなに喋っていたとは思えない。ただ甘やかされてあらゆるものを与えてもらっていたようには思う。

そういう私が、例えば異性とレストランでおしゃべりすることを求めるのだとしたら、

それは自分の欲求ではなくて、何か社会的な刷り込みによって与えられた、自分のものではない欲求であるように思える。

そうであるがゆえに、そのまま社会的に与えられた欲求を、うまくイメージして実現するようなことは、自分にとってはうまくやれないことなのかもしれない。

もしそれができたとしたら、自分はちゃんとした人間になったということになるような気がし、

ちゃんとした人間になってみることも可能と言えば可能なんだな、と思いたい限りにおいてそれを試してみようと思えるだけなのかもしれない。

 そして最初に書いたことがその通りであるなら、自分が求めているのは、両親ではない異性に、ただ再び甘やかされるような関係だけなのかもしれない。
 私は自分がここにいることを見つけてもらいたいのだと思う。
 そしてその相手は、現代のクレオパトラなんかではなく、私とほとんど同じような生い立ちで、ほとんど同じような事を考えていて、
何から何までそっくりでありながら性別だけが異なるような、人間にだと思う。


 そういう相手であれば、何から何まで共感し合い、お互いが何を求めているのか何も言いあわなくても通じ合えるのかもしれない。
そういう相手が、この世のどこにもいないとは信じられない。
 にもかかわらず、ネットが広大であるはずであるにもかかわらず、そんな相手を一人も見つける事はできていない。


 極めて普通の人間が、極めて普通の人間を探そうとしているだけであるはずにも関わらず、銀河の彼方に異星人を信じて探索するのと
同じくらいに見込みのない事なのかもしれないという気さえしてくる。


 同じような人間であれば、同じような事を考えて同じような事をしているはずで、すぐそばに見つけられる可能性のほうが高いのに
周囲は似ても似つかぬような人ばかり囲まれている気がする。自分は自分がわかっておらず、いるべきところでやるべきことをしていない
せいで宇宙空間の中、迷子にでもなっているのだろうかとさえ思えてくる。いるべきところに行けば、似たような仲間ばかりいるはずなのだろうか?
 似たような事を延々繰り返し若いころから考えたものだけれど、

どうして嫉妬心から片思いが始まってしまうのかは、今ようやくこういう風に説明できることに気づいた。


 誰かと誰かがくっつくまでは、それは手に入れようと思えば手に入るようなどこにでもあるものだと思われている。

しかし、誰かと誰かがくっつきそうに思えた時、


 なんでもなかったソレは、もう絶対に手に入れることができない対象へと変貌しそうに思える。

その瞬間、もう絶対に手に入れることができないものへの無限の希求がはじまる。


 手に入らないものこそが、人が最も欲しがるものだからだ。もう二度と手に入らなくなるその寸前、急にその欲望は爆発する。

相手が手に入れようと求めているそれを先に手に入れることで、嫉妬心と結びついたその競争に否応なしに巻き込まれていく。


 そうなるまでは、何が人に求められるものなのかは全く不明で、何の目的もなく意味も価値もそこには存在しなかったのに、

誰かが何かを求めていることを知った瞬間、それを先に手に入れる競争ははじまってしまうのだ。

何の価値があるのかわからなかったとしても、少なくともそれを求めている誰かがいることを知った時、

価値のないモノの荒野で少なくともそれは誰かが欲しがる価値を持ったものであるように見えてしまう。そしてその価値はいつもレアリティと結びついている。


 レアリティが最大に振り切っているもの、それは、二度と手に入らなくなるような何かだ。誰かのものになってしまおうとしている何かだ。
 何がカネを生むのか分かっている人は、その才能を持つものを愛するかもしれないが、

そうでないものは、カネを愛するだろう。


 楽して生きるためには、カネが必要だから。将来苦労したいと願う人など、誰もいないのだから。
政治家の仕事は、実は議論することではない。彼らが議論しても実際に動くのは彼等ではない。
動いているのは官僚や企業や市民である。

政治家の議論は、なんのためにあるのだろう。たった二つのアウトプットのためである。

 ・予算機能: 集めた税金を何に何パーずつ支出するか、その予算枠の合意形成のため。
 ・立法機能: 規制を緩めるまたは締め上げて社会現象を調整する

この二つのための議論をしている。様々なポジションを代表する人たちが
自分たちが所属するポジションの声を予算と立法に反映するよう代弁するために集められている、
という風に理解されていた。

ところが、東京都議選を見ると
実際にはそのような議論に対する支持・不支持が、政治を左右できないことがどんどん明らかに
なってきた。

マスコミも論者も、結果について議論しているようだが、どれも根本的なことを見落としていないだろうか。
実は選挙を左右し続けているのは、議論ではない。

”どこかから支持が下ると、三日間で5万票が動く”とまで言われた、とある宗教政党がある。
その政党と組んだ政党が勝つことになる。彼らが選挙を左右している。
議論ではなく、”どこかからの指示”によって動く5万票で、政治のトップが決まってしまう。
多数決の民主政治における、最終兵器のような存在かもしれない。
彼等は議論などしていない。疑う事も迷う事もない。
一声で5万票を動かす人間がいるという時に、
我々は延々と分かり合う事もなく、たったの一票を使ってどのように声を届けるのだろうか。

そのたった一票の行方を議論しあったところで、
彼等のような巨大なインフルエンサーに太刀打ちすることは、できなかったということではないだろうか。
>>[695]

コヲノスケ、管理部コミュに入れば?
すこしそこで勉強してみ?
 酔った勢いで最近考えていたことを、K氏に話してみたが、うまく説明することが難しかった。
 自分の中でまだ、はっきりと考えが整理できていないと思った。

 世の中でよく言われている事に、「愛」が大切だと言う類の様々な言論がある。そしてそれに異論はないと思う。しかし、それは何か重要な事が足りない。
キリスト教の世界で言われているらしい事は、「無償の愛」であるとか、「隣人愛」みたいなことのようだ。汝の隣人を愛せよ。左の頬を叩かれたら、右の頬も差し出せ。

あるいは、社会でおそらく重要になってきている、バリアフリーの問題であるとか、お年寄りに席を譲る、困っている人を支援する、そういうものすべての事を
想像するとき、確かに「愛」は大切だし、それらすべてを支えるために「愛」をキーワードに社会が同じ方向に足並みをそろえるのは、とても良い事だというより他ない。


 ただ、それだけでは、何か重要な事が足りない感じがするのだ。


 人は、周りの人に助けてもらえさえすれば幸せに生きられるか?
 確かに、不足しているものがあれば、それを周囲が補ってくれる、そうであれば、不自由なく自由に生きられそうに一見思える。
 ところが人はそれだけではまだ幸せにはなれないだろう。
統計データから、先進国の中で日本は幸福度が低い、という風に言われているのを聞いたことがあるはずである。
それが何故なのかを考えてみてもいい。不自由がない、自由。何もかもが与えられて、それでも「何か重要な事」は欠落したままだからである。
 これを考えている中で、自分の中で整理ついていない事が色々あった。「愛」と言っても、それを与える側と受け取る側がいる。
「愛」が大切というだけでは、愛することが大事なのか、愛されることが大事なのかさえも、いっしょくたになっている。

ましてや、社会が不自由を抱える人を支える際に、相手が愛される人かどうかによって、何かが左右されているという風にも思えない。
まず「愛」と言われているものについてすら、それがただ愛と言われているものなのかどうか、それとももっと、感情とは異なった、公平さに向けての理性的な別の何か
なのかよく考えてみないとつじつまは完全に合っているように思えないが、ここで今考えたいのは、そもそもそれとは別の問題なのだ。


「愛」であろうが、他の何であろうが、人は”与えられるだけでは幸せになれない”ということである。
”求められ、必要とされている”と思えなければ幸せになれないということである。
”必要とされているように思えない”という感覚こそが、様々な満たされなさの原因なのだということである。


 それでは”必要とされている”とはどういうことだろうか。”必要とされる度合い”みたいなバロメータをイメージすればいいのだろうか?
その度合いは人に応じて個人差が現れてくる。誰もに必要とされる人間というものをイメージすることができる。その中での選りすぐりの頂点のような人間も
イメージできるだろう。そういう人間でない限りは、”必要とされているように思えない”という感覚からは逃れられないのだろうか?

具体的に言えば、例えば、映画俳優なりトップ女優でないかぎりは、幸せを感じられないだろうか?
 ところが街をあるけば、それがまったくの見当違いだという印象を受ける。そして週刊誌をめくれば、もっとも魅力的で幸せであると思われている人達の不幸が
グロテスクに描かれていることに気がつく。どういうことなのだろうか。

 一つの分かりやすい説明としては、こうである。
もっとも必要とされている人物が仮にいるとして、その人はありとあらゆる他の人々によって必要とされ、”必要とされたい”という自分の願望は満たすことができる。
しかし、ありとあらゆる人々によって求められているその人物は、
まわりの人たちの”必要とされたい”という願望を満たすことができない。
誰もに必要とされるその人物は、どのような人物を必要とするだろうか? ありとあらゆる人間に必要とされているほどの人間が、自分だけを必要としてくれていると信じることは
とてつもなく難しいことだろう。
ありとあらゆる人間に求められる人間になろうとすればするほど、その人自身は幸せになれるかもしれないが、そうなればなるほど、周囲の人々は自分がその誰もに
必要とされるほどの相手から”自分も必要とされている”と信じられなくなっていくのではないだろうか?(例えば、こんなに魅力的なのだから、他にもいい相手がいる、他の異性に浮気されてしまうかもしれない、と)

 睦ましいカップルを朝見かける事がある。男性のほうは、何かの介助を必要としているようで、女性の側に支えられるようにして毎朝駅まで連れ立っていく。
あの二人はたぶん苦労も抱えているのかもしれない。しかしはた目にはとても幸せそうに見える。
 なぜならば、二人にとって、お互いが相手にとって自分が必要不可欠な存在であるということを、お互い確信し合い、信頼し合っているように見える。
相手に自分がいなければ、相手は生きていけないにちがいないと思い、自分が”必要とされている”という感覚を感じ、迷うことなく生きられている女性と、
本当に生きるために、相手の理解と支えを必要としているその男性は、「必要としている」「必要とされている」という与える → 受け取るという一方向というよりも
「必要とされる」ことを必要としている人に対して「必要としている」という期待を与える → 受け取るという相互の必要なものを互いに求め合い満たし合っているように見える。
しかもそれは、他の人たちが簡単に代わりを務めることができないような、それまでの長い時間をかけた相互理解と相互信頼に基づけているはずだと思う時、
彼等は相手にとって本当に必要なのは別の人かもしれない、というような迷いを生じる余地もないほど、自分を理解し支えることはこの相手にしか不可能で、相手を理解し支えられることもまた、
この自分にしかできないと確信し合いやすいはずなのではないかと思う。


 つまり、人は愛を与えられるだけでは幸せにはならいのではないだろうかということを、言いたかったわけである。
愛されるだけでは、幸せを感じられないということである。
 与えられるだけではなく、相手が求めているものを、自分だけが与えられるのだという、必要とされている感覚
つまり、”求められる”感覚を満たしあうことの必要性について、議論されていなさすぎるのではないかということを言いたかったわけである。


 困っていそうだなと思って、笑顔で助けを与えましょうというだけではなくて、
ガマンしないで誰かに「たすけてくれえ」と頼りましょうということ。
愛で物は満たされるけれど、心は必要とされることで満たされる。
相手を支えられるのは自分だけ、という感覚は、素直に「たすけてくれえ」と求め合わなければ満たし合えない。
このことは意外と、世間であまり言われていないような気がして、考えてみたのであった。


「私にとってあなたが必要なんですということを伝え合えていますか?」

「与える一方だけ、あるいは求める一方だけになっていませんか?」
 人間は、与えられたいのではなく

     求められたい のではなかったろうか。

 そう考えてみると、愛は地球を救うであるとか、無償の愛とか言っているだけでは重要な事の半分しか語っていないように私には思えるのだった。
>>[703]
 なるほど. 常にそうだとは思わないですが,特に「仕事」だとそうだろうな,と思いました.
>>[703]
つまり表の報道のギャップいんちきに飽き飽きする事で裏側が蔓延るそういう事じゃな。

Anuより
人は抑圧される事でうんざりしてる生き物じゃからのう。が体裁を保とう保とうとする人がいる。要はこのどちらに乗るか?じゃの。
ここのコミュニティ、おれの書いている事を
分かっているような反応が返ってきたためしがない。

ついでに
最近書かれている書き込みのどれもが
意味不明で病的な支離滅裂に覆われていて、この世のどのような場所でも
見られないような異常な文章ばかりだと私は思う。

しかし、おれはそんなことはあまり気にならない。
誰か分かる人間が、
ここにいる人間が全員入れ替わった後に読むことを想定しているからだ。
>>[707]
まあそりゃ無理もないわな
そんだけ自分が奢ってる割には、単なるキモいヲタクの御託を並べ馳せてるのが、お主じゃもんの~。

モテない君は玉砕して現実を知るがよろし。でまた、それが現実じゃ。

ༀAnu࿐より
バトリング無しで制する事なかれ
>>[707]
俺の内容が分かってないだ事の
何様のつもりで、

おしまいじゃな
>>[707]
>ここのコミュニティ、おれの書いている事を
>分かっているような反応が返ってきたためしがない。


恋愛の文脈が前提でそれ以外の文脈は考えてない,ってことですか?
>>[710]

さて此れは誰でしょうね?
一匹目の狸ですね。
永遠さんだけやったり、ある人がまあ死んだと言うのに平然とぬいぐるみ被り何をしたいんだか?

この人は?
リスクは平等に背負いましょうよ。其れがༀAnu࿐が考える良識のルールです。
まあそう言うことで潜伏しても嗅ぎ分ける能力があんので、こちらになんかをして来る研究に使った本がこちらです

まあこんなものは、かつてパンドラが背負ったものや理不尽の雨あられを食らっだ事からしたらば、

軽ハンデかしらん?
ༀAnu࿐より
 学生時代、よく宗教団体の勧誘につかまったものだった。
 彼ら/彼女らは、連休の始まりや連休明けの、人通りが少ないタイミングで構内で絡んでくるのだった。
私は、宗教に関わるほどの何かがなかった。
人をそれほどまでに惹きつける教義自体には興味があったにせよ、宗教信者にも具体的な宗教にも、関わりたくなかった。
だから話を聞くまでもなく、彼らの勧誘に対する回答は心の中では常にNOであった。

 しかし、彼らが心のよりどころとしている可能性すらある宗教を、正面切って否定するのは残酷すぎるとも感じていた。
場合によっては彼らは二人組で現れることもあり、相手が熱狂的に信奉しているものを否定され、殴り合いになった場合も想定した。

 一番長かったのは三時間ぐらいの立ち話だった。彼等は、宗教の教義でせめてくることはほとんどなく、むしろ
アカデミックな議論を武器としてこちらの常識を論破しようとしてくる事が多い。そのような議論自体は、私が学生時代
とても求めているなにかではあった。だからさまざまな反論や疑問を提起して、話しは延々と長引いたのだった。


 彼らはNOと言わない私の態度を、誤解したのかもしれない。「もう少しで、こちらの口説きに落ちるぞ」と思ったのかもしれない。
しかし私は、彼らを傷つけないことと、個人的な興味で話を聞いていただけで、たとえもっと話が長引いたとしても
どれだけ精神的に疲弊していたとしても、結論がNOであることは一切揺るがなかった。最初の結論から気が変わる可能性は一切ない。そしてそれを表にださないことが
彼等を傷つかせないための思いやりだとさえ思っていた。


 そういうことは、奥ゆかしく理解しがたいことだと思われるかもしれない。
しかし、最近になって気づいたことがある。


 女性が男性に対して何かを拒絶する際の態度も、実はとてもあの時の自分の応じ方に、似ているような気がする。
はじめから気がないにもかかわらず、そのことによって相手が傷ついたり、逆上しないように気をつかった間の伸ばし方をする。
男性はそれを、もう少しでこちらの口説きに落ちるぞと誤解してしまう。
そうではなく、はじめから答えは決まっている。最初の結論から気が変わる可能性は一切ない。NOである。そのことを察する能力が、我々に欠けているのかもしれない。
人生最大の挫折と精神的な危機をついに克服するにいたりました
http://d.hatena.ne.jp/Kow/20170715/1500109638

ログインすると、残り680件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

哲学が好き 更新情報

哲学が好きのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング

mixiチケット決済