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京都で映画コミュの今日見た映画 PART2

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さあ「今日見た映画」トピックも100回を記録したので、これからは「今日見た映画PART 2」としてリニューアルしたいと思います♪

とは言ってもほとんど僕だけしか投稿していないので、皆さんも気楽に投稿してみてくださいね!

よろしくお願いしま〜す!

コメント(85)

[Good Night, And Good Luck]

顔と声が大好きなジョージ・クルーニーの初監督作品で注目されたのを、やっと見ました!

全編白黒の映像とタバコの煙、グルーヴィーなジャズが印象的。ドキュメンタリー感を出すために使ってるんだろうけど、せわしなく動くカメラと主張しすぎなフォーカスが気になりました。

アメリカ史のステインのようにこびりつくマッカシーズムの時代、チャップリンもアメリカを追われた頃の話です。もともとアメリカ史専攻だから詳細も知っているんだけど、やっぱり映像になると違うなぁ。CBSの内部ばかりの映像で社会描写がなかったのが残念だけど、それでも結構面白かった。

きっと製作段階でドラマとドキュメンタリーの軸で揺れたんだろうな。もっと映画的に作ってよかったと思うけど、結果的に中途半端なとこに落ち着いた気がしました。でもジャンルとしては好きです。
「父親たちの星条旗」

冗長すぎる。

個人的興味では、エンドロールで流れる資料写真を軸にした半ドキュメンタリーにしてほしい。

三つの時間軸をぐるぐる繰り返すのは見苦しかったかな。戦争映画好きなだけに残念でした。最後の海で泳ぐシーンは好きだった(ちょっとだけ気狂いピエロ風)
「硫黄島からの手紙」

いやー前評判より全然よかったです。父親たちの〜よりまとまってたし。

中学の頃から戦争資料を見るのが好きで、硫黄島のもかなり記憶に残っていますが、映画よりは凄惨だったろうと思います。それにしても全編日本語ってのが興行収入度外視で潔いなって思いました。
「フィラデルフィア」

94年米。トム・ハンクスがアカデミー賞主演男優賞を獲った映画。AIDSや同性愛に関する裁判ものだけど、全然面白くなかったです。13年前の映画なんだね。携帯とかカメラとか車とかデザインやら大きさが変りまくっていて、最近の時代の変化のスピードに驚きました。裁判ものは好きなんだけど、これはダメだ。

お勧めは「ニューオーリンズトライアル」とか「12人の怒れる男」とかです。
「音符と昆布」

久しぶりに映画館に行ってきました。やっぱり映画館は落ち着きますねー

さてさて、音符と昆布はいかにも学生映画出身らしい(本当はどうか知らないが)監督の作品で上演も75分と短い。映画を見たーという気持ちにはとうていさせてくれない薄っぺらさを感じます。

そもそもアイディアや描写、カット一つ一つは悪くないけど、「木を見て森を見ず」といった感じで映画には仕上がっていないんです。かといって、前衛的な価値を持つかといわれたらそんなことは全くありません。

池脇千鶴の演技はがっちり役にはまっててよかったけど、彼女の使い方も中途半端です。もったいない。

うーん、それにしても嗅覚がないとかアスペルガー症候群とかその他だらだらとアイディアだけを詰め込んでストーリーとしてまったく仕上げられていないところ、街灯を立てさせるためだけに劇団詐欺師の脚本家を登場させ、その違和感の払拭のために冒頭からセックスを想起させるカットを入れる→その伏線として「男友達ってセックスフレンドのことかと思いました」のくだりがあるとことか悪い意味で無茶苦茶でした。どうせなら姉妹二人だけの出演にして街灯のプロットなんかなくして日常を描けばいいのに。

いい要素はたくさんあったのに残念です。

でも同じ学生映画やってる人物としては(あくまで監督が学生映画出身か知らないけど)とても鼓舞されました!

批判するなら自分で作れ!って自分で自分に渇を入れるいい機会だったと思います♪←音符

「スミス夫妻」

ご存知、ブラピとアンジーの共演で話題となったMR & MRS SMITHの元祖ともいうべきヒッチコックの41年作品。

白黒映画みるの久しぶりでした。個人的に勝気な女性は苦手・・・・

サイコを撮ったヒッチコックとは思えない映画でした。
「宋家の三姉妹」

激動の中国を駆け抜けた三姉妹の物語。

最後一気に端折ったのが残念なのと、音声がアフレコでとても違和感があったけど、歴史の勉強になりました。孫文とか蒋介石、張学良、どれも世界史で習った人たちだけど、どれも教科書だけだとその人の個性なんかが見えてこない。

その点、映画だと人柄がよく見えてきて、必ずしも天下を取った人、成功した人だけが素晴らしいとはいえないということがよくわかる。

最近中国に行く機会があって、もっと中国について知りたいと考えていた時だったから、本当にいい勉強になりました。台湾と中国の関係が最近は取り立たされることも多いけど、授業で見せてもいいかな、って思える。

映画というよりは大河ドラマって感じだったかな!
「嫌われ松子の一生」

久しぶりに映画を見ました。

今日は「嫌われ松子の一生」

二年くらい前に話題になって気になってたのに見てなかった。そういう映画最近多いなー気づいたら映画館で終わってるとか。

さて、映画の方は一言で言うと、色彩をちりばめ、時代を詰め込んだリアルなファンタジー。テンポのよさとはじける色彩は好きだ。

ラスト10分は俺はいらない。監督は松子の一生を一大叙事詩に仕立て上げたかったのかな?と思ったけど、あれでは説明しすぎかな。特に松子の晩年は顔を見たくなかった。結局ぼろぼろの髪の毛から垣間見れる松子の顔は整ってて艶っぽいんだもの。中谷美紀だからどうしようもないよね。あそこは撮らない勇気もいっただろう。全体として15分ほど尺を短くして、余韻の効果を高める作風がよかった。

ミュージカル構成はいいとこもあれば、悪いところもある。AIが登場する刑務所のシーンはいらない。AIには大きな違和感。

エイタの語りで物語は進行するけど、終盤にそれがやけにさわる。人生訓は各々感じればいいことで、最後にエイタが「人に何をしてもらったかじゃなくて、人に何をしてあげられたか」等等について繰り返すのはいらない。
オイルショックや宇宙遊泳、平成など時代を感じられるニュースが端々でいい味を出している。キーホルダーも万博だったしね。

中谷美紀は詳しく知らないんだけど、いい演技してるなー柴咲コウとそっくりだと前々から思ってたので、頷いた。豪華役者陣とその配役も好きだ。香川照之の方言はやけに板についていた。彼はこの映画の中では評価できる。もっとも福岡の方言に詳しくないので、あくまで一日本人としての感じだけど・・・・

それにしても「性+死=生」という構図は抜けられないものかなーと考えていた。賞をとる小説はそう、映画もそう、評判になるものもそう、いかに性と死を大胆に描くかがポイントで、この二つのない現代小説の名作なんてそうそうない気がする。ねじめ正一の高円寺純情商店街くらいなんじゃ・・・

映画の中で大好きだった言葉は
「殴られてもいい、殺されてもいい。でも一人ぼっちはいや」

中谷美紀のPHOTOするのCMからはイメージできないぶっとんだ演技に好感を持ちました

こんな感じで映画月間の開始を宣言いたします乙女座
「山椒大夫」

溝口健二1954年の作品。ゴダールの「気狂いピエロ」のラストシーンは、この山椒大夫へのオマージュであるといわれる。「映画史」の中でも溝口の名前は出てきて、まさに世界の溝口。

山椒大夫は森鴎外の名作。安寿と厨子王といえば、知られた作品らしいけど、私は、よく話を知りませんでした・・・お恥ずかしいがく〜(落胆した顔)

こんなに哀しい物語はなかなか見れない。いや、ダンサーインザダークにしろアレックスにしろ、それこそ、嫌われ松子にしろ哀しい話は腐るほどあるんだけど、こんな風に描くことはできない。昔の映画には多かった気がするけど、なぜかこれは今までで一番切なく感じた。

香川京子演じる安寿は美しい。姿だけでなく、心も美しい。そして、強い。どんな境遇でもこんなに強く生きることはなかなかできないだろう。入水する後姿は妖艶ですらあり、この最期が一気に美の極限まで昇華される感があった。

物語の筋は有名なので、追わないけれど、現代、いかにドラマが少なくなったか思い知った。便利になり、合理的になればなるほどドラマの質は変容していくのだと感じた。やはり古典的な悲劇のほうがずっと劇的だと感じる。

そして、国の司になった厨子王が慈悲の実践として、無謀な政策を実践する。それでも政治はこうでなくては、と思った。自分も政策を研究している一人として、正義を貫く政治の大切さを心に刻みたい。

物語の筋がいいのはもちろん、演技、台詞ともに染み付いている感があって、よかった。リアルだった。とても気に入ったので、今後も溝口監督をどんどん見ていこうと思いましたわーい(嬉しい顔)

*最近、評が半端ですが、ご勘弁を!
「近松物語」(評・前編)

昨日「山椒大夫」で見た香川京子がまた見たくて、今日は「近松物語」を見ました。てっきり曽根崎心中かとおもったけど、そうではなくて、「おさん茂兵衛」が原作らしい。
見終わった後、というより見ながらずっと、「すごいすごいすごい」とつぶやいていました。今もどう評すればこの感動が伝わるだろうかと思案しているところです。
まずは物語の素晴らしさ。近松門左衛門の作で、筋がしっかりとしている。やはり映画は脚本がしっかりとしていれば、それなりのものが撮れる。展開が劇的で、因習や時代背景など自由を抑圧する要因が多ければ多いほどドラマは生まれやすい。今回は、まさにそんな江戸を背景としている。関西弁のリズムと響きが心地よい。
物語はタイタニックとニューシネマを重ねたようなものだけど極めて日本的(詳細はトライしたけどあまりに時間がかかりそうなので、省略。というかタイタニックと比したくないけど分かりやすく言うと・・)。
愛=死という劇的な境遇。自由恋愛の現在では考えることもできない。24時間でこうも人生が劇的に変わることもないだろう。多くの因習に縛られ、その中でも幸福に生きることは十分可能だけど、その線に触れてしまうことは死を意味する。真実の愛、それも逃げるのではなく、内在されている本物の愛を知ったとき、人はそれが死を意味すると知っていても飛び込むだろう。シェークスピアのロミオとジュリエットに近い。もへえとおさんの場合は、最初から愛し合っていたわけではないけれど、こここそが日本的理由であり、美意識である(ここも説明を大いに省略しています)。
しかし、おさんが入水する際に、もへえが自分の気持ちを伝えると、おさんは死ぬのが嫌になる。なぜなら、真実の愛に気づいたから。最近のネット自殺ブーム的な「逃げ」の仮想恋愛ではなく、真実の愛が二人を見つけている。この際の舟の上の二人、揺れる船は二人の心情と、広大な湖に浮かぶ舟は、つまり、今後の二人の行く末の暗澹たる様子を映した暗喩にも見える。
つまり、はじめは身分の差からひた隠しにしていた純粋な恋心が一気にはじけて、つらく、しかし、愛に満ちた逃避行になる。破滅的逃避行なのに、二人の世界は二人だけで完結し、二人でいることそれ以上を望まない、真実の状態に至る。
それでも心優しいもへえは、おさんだけでも生き残り、幸せに生きて欲しいと、葛藤しつつも、おさんを置いていこうとする。それに気づいたおさんが彼を追うシーンは、一種のバンジージャンプであり、つまり、成就する愛に至るクライマックスである。ドラマの多くはこの種のすれ違いと和解があって、それが、それまでの愛を一気に真実へと昇華するけれど、この映画の場合は、それが他に類を見ないほど劇的に描かれている。一切の装飾を排して。
その後、森深いもへえの父親の家にかくまわれる際には、もへえを突き放しながらも、慈悲を与える不器用な、しかし、真実の親子愛が垣間見れる。家族、恋人、兄弟、いずれも不器用さや、伝えることの難しさのまえに、すれ違いが生じ、合理性とはかけ離れた行動をとることがあるけれど、いざというときにこそ真の愛情や人間性は見ることができる。それは、つまり、自分が「何のためなら死ねる」のかであり、誰のせいとも言わず、それを赦すか、とういことだろう。つまり、現代ではそうもいかないだろうが「君のためなら死ねる」という言葉を一寸の曇もなく言えるとしたら、それは極めて真実の愛に近い(もっとも精神異常や独りよがりの「弱さ」ではなく、信念、情熱といった類の「強さ」に起因するものである)。
面倒くさい言い方になったけど、つまり、不器用に突き放しながらも、父親は二人の身を案じ、自らを犠牲にする。翌朝、追ってに追いつかれ引き裂かれる二人だが、ドラマは終わらない。もへえもおさんも互いなしの人生は人生ではないと本能的に知っていて、身の安全を確保されたおさんですら、もへえを求める。そこには、彼を愛したら死ぬんだ、とか、彼のいない人生はどうだろう、と想像する余裕もないほどにお互いを愛す真実の愛がある。まるで生き物が必死で空気を欲するように二人は求め合う。いかなる打算も、思うに、思考すらない状況で二人は愛し合う。つまり、それは死を意味する。
おさんの母親のいかなる言葉も二人の耳には入らない。家の隆盛や富や生やこの世のものすべてに執着しない、ただ、愛だけを求めるその姿こそが真実であり、永遠だ。そう、富や権力や、生すらどうだっていい。ただひたすらにその一つを求める、これこそが真実であり、永遠だ。対象が男女であれば美しいが、きっと生をもいとわず執着するものがたとえ金であっても、そこには一種の恍惚があるのかもしれない。まぁそれは別の話で、やはり生をも捨てて愛する価値があるものは男女だろう。
「近松物語」(後編)

つづき>
二人は、磔になる。背中合わせに縛られて馬に載せられ、磔場まで引き回される。二人は背中合わせながら手と手を握り合い、強い目をしている。「こんなに晴れ晴れしい顔はみたことないよ」という台詞そのままの美しい顔をしている(ちなみにこの台詞はいるだろうか。映像をみればそんなことは分かるし、やや不自然にもうつるが)。これこそ美そのものであり、永遠だ。

誰も自分をいつわって生きることはしたくないだろう。しかし、現実社会といえば、そうはいかない。みな、映画の二人からしたら「どうだっていい」ことのためにつまらない世の中を生きているし、心から愛せる人すらいない。そんな世の中を違うと思いながらも妥協して生きることが「生きる」ことだと勘違いしている。あらゆる事柄は本当に「どうだっていい」ことで、もっともっと大切なことがあるはずだ。俺だってそうかもしれない。でも、二人のように「命がけで生きる」ことを知れば、何一つ怖くないし、どんな試練も試練ではない。つまりは、たった一つの真実を見つけられる人こそ幸福な人で、永遠なんだろう。

上の評は多くの部分を省略し、曖昧にしているから、独りよがりもいいとこだろうけど、ぜひともみんなにもこの作品を見て欲しいと思うとともに古典の力強さと完成度の高さを思い知らされた。現代小説なんて読んだことないけど、病んだ現代の対症療法的なつまらん書物は焼いて、古典を読むのがいいと思った。どうせ最近のはファッションで性と死を斜めに紹介しているだけだろう。

死の際に抱きしめたくなる人がいるだろうか。

それにしても外国人がこの映画を見たら、どれほど日本は美しい国だろうと思うことだろう。建築や衣装の美しさ、女性の美しさ、言葉の美しさ、生き方や文化、すべてが美しい。日本を描くことにつけては黒澤も溝口には及ばないだろう。SAYURIやラストサムライなどとは違って、何一つ美化していない、自然のままの美しさがある。精神的な美でもある。

以下、途中まで書いて諦めてしまったものをそのまま残します。この調子で書いてたら朝になりそうなので・・・・映画学部にでもいればゆっくり余韻に浸れるのになぁ
第二次世界大戦まで、婚姻を結んだ二人のうち女性にだけ貞操を守る条項があった。男は浮気をしてもお咎めなし。江戸でもそうだ。不義密通を交わした女性は磔にされる。実際には、必ずしも不義は少なくなく、たいていは示談だったようだが、やはり、この時代の浮気は命がけなのだ。それ以前に、婚姻そのものが現在のように自由恋愛ではないから、厄介だ。香川京子演じるおさんはとても美しい。実家の呉服問屋の借金を肩代わりするために、30も年上の金持ちと結婚する。そいつが、人間のくずみたいなやつで、儲かっているのにケチ、身内にもケチ。なのに目上にはおべっかばかり使っている。おさんのような美人を妻に持ちながら、奉公人の女にも手を出す。その女性、お玉は、このことを、茂兵衛に相談するが、生真面目な彼は「ご恩を忘れてはいけない」といって
「祇園囃子」

今日も溝口。

祇園囃子を見る。滑らかな京言葉が耳に心地よいリズム。噂でばかり知っている祇園の舞妓を情緒的に描いている。昨年亡くなった黒川紀章の妻である、若尾文子がとてもいい役を演じている。舞妓になったばかりの可愛くて、好奇心旺盛で、純粋で、芯のしっかりした強い女の子を演じている。特に台詞まわしが素晴らしい。黒川の「君の美しさはバロックだ」は有名だけど、俺にはロマネスクに見えたな。もちろん、黒川が口説く10年以上前で、あどけなさが全身に満ちている。

芸達者でつんとして、華やかなイメージのある舞妓だけど、所詮は男に買われる商売道具。好きでもない男と一夜を過ごせる鈍感な女が出世し、自分の心に正直な強い女性は、泣く羽目になることも。

それでも、自分の信じる正義を貫く、二人の主役は美しい。どんな困難な状況においても人間らしい弱さに屈することなく、それ以上に人間の本質である強さによって正義を貫くところが、ヨーロッパなんかでは聖典のように崇められるんじゃなかろうか。とにかく、見ていて人間の意思の強さを感じられる点で飽きない作品だ。

それでも、最後に木暮美千代演じる主人公は、好きでもない男に抱かれる。それは、自分の強さを貫き通した結果だということが映画を見ているとひしひしと伝わってくる。その夜、男の宿を訪れるとき、その襖を開けるときのドラマは見たものにしかわからない。その割りに、一夜を淡白に描きすぎている気がする。溝口は、「足袋を脱ぐ」ことで一夜を表現したのだろうけど、木暮の表情がいまひとつだし、もっとメタファーを使っていい。もっと表現してほしいシーンだった。

もう一つ印象的なのが、若尾が木暮にアイスキャンデーを捨ててくるように言われ、捨てたあとのふんわりとした構図。奥に続く狭い路地をバックに若尾が左手前にぽつんとたってカメラを見ている。この一瞬がなんともいえず好きだ。

先週から三本みて感じた溝口の上手さというのは、やはり女性の美しさを知っている点にあると感じた。女性の撮り方が上手い。女性特有の表裏を知り尽くしている感がある。女性の深い部分を描けている。例えば、木暮をとるときも、手前に影をもってきて、その奥に彼女を置く。それだけで、女性を「垣間見た」気分になる。それは覗きに近く、それだけで一種の恍惚に導いてくれる。

上述では、ストーリーにあまり触れていないけど、ストーリーもいい。木暮と若尾のラストに至る感覚は一種の愛情すら感じるけど、この機微を知るにはやはり見るのが一番だろう。

昔の京都、祇園を知るだけでも素晴らしい資料だし、日本文化の深いところをすーっと掬うように見れる点でもいい。

最近は、性があまりに陳腐なもになって、想像力は低下する一方かもしれない。奥深い性の世界というと言葉に語弊があるだろうけど、深淵なる性の世界を表現力で描いている気がする。今後も溝口研究を続けたい
「雨月物語」

今日も溝口。

ヴェネチアで銀獅子賞をとった作品。でもあまり好きじゃなかった。問題はストーリーと音楽。

音楽は早坂文雄で、確かなはずなんだけど、気になるところが多かった。最初の感じはいい。輪姦されるシーンに読経をあてるのも悪くない。

幻想シーンでハープを使ってるのも悪くないんだけど、宮木が落ち武者に殺されるあたりの子供の泣き声はまったくいただけない。アフレコで演出と連動せず、まったくダメだ。わんわん泣いてるくせに背中の子供は身動き一つしない。人形でも背負ってるのだろうか。宮木も殺されたのかよくわからない演出でダメだ。

音楽も後半は特に印象が悪かった。ラストで宮木が語るシーンは冷める。なんつーか、溝口の田中絹枝に対する愛情はわかるんだけど、独りよがりでまったく物語がつまらない。雨月物語は読んだことがないけど、かなり脚色を加えているのだろう。物語がちぐはぐで、映画になってない。

もちろん、辛口なのは、それだけ溝口に期待しているからであって、普通に見れば悪い作品ではない。それにしても、期待していただけに裏切られた感がある。次は何見ようかな。
「赤線地帯」

今日は溝口健二の遺作となった赤線地帯。

祇園囃子で大好きになった若尾文子を見たかったから。

売春禁止法制定の動きが強まる時代を背景に吉原のとある売春宿の女性たちを描いている。

肝心の若尾文子は飛びぬけて若い、それに透明感ある美人だ。でも、男を金で割り切って、騙して、貸金をやって・・・と抜け目なく貯金をしている。最後には、若尾に入れ込んで夜逃げすることになった店をのっとって、劇中、唯一成功を収める女性となる。なんつーか、もう若尾文子は、公平な目で見ることができません。どんな女性を演じても応援したくなる。もし願いがかなうなら彼女に一度会って、握手してもらいたい。

あと、やっぱり京マチ子の存在感はすごい。他の作品をあんまり見たことがないから、比較はできないけど、はまり役だったなぁ。雨月での名演でもびっくりしたけど、あの時は顔が化粧で見えなかった。

現時点で、溝口の中で1,2に好きな祇園囃子で若尾文子の姉さん役を演じた木暮美千代は、所帯じみた娼婦役。祇園の高値の花を演じた彼女が、ここまでなれるものかと驚いた。

溝口作品を見ていると、現代の豊かさが身にしみてわかる。生きるってどういうことかがじわじわと迫ってくる。つまりは、信じれるもの一つ、それだけを頼りに生きていく、弱く、しかし、強い人間の姿を映し出すことで、生を伝えている。それは、金か、愛か、欲望か。誰に対する愛か、女か、息子か、母親か。

九州の炭鉱娘が売春宿に入ってくる。とても若い生娘だ。その娘が丼を「こんな旨いもん食べたことねぇ」って言ってせわしなく食べる。売春禁止法の影響で客足が途絶えた店では、娼婦が発狂したり、殺されかけたりして、にっちもさっちもいかなくなり、この炭鉱娘も商品として椅子に座らせる。たっぷりの化粧をして、素顔が隠れるようにする。右も左もわからない女の子が、見よう見まねで客を呼び込もうとする、そのよちよち歩きの今から始まるドラマを最後に映画は終わる。こういう終わり方は好きだ。つまり、誰だって映画の主人公なんだ。息子に勘当されて発狂した彼女も、病気がちの夫のために体を売る彼女も。俺も彼も彼女も。

それにしても、この映画に出てくる男はどいつもこいつも頼りがいがなくて、ダメだ。白黒でとりたい気持ちもわかるけど、カラーでも見てみたいなぁって思った。前の二作はカラーだしね。

溝口健二が56才の若さでなくなったのは残念すぎます。もっと書きたいことあったのに忘れちゃった。
今日はオリバー・ストーンのJFK。

アメリカ史をやってた頃から見たくてたまらなかったんだけど、ことごとくタイミングを逃して今日。ドキュメンタリータッチで描くアメリカの真実とは。

ディレクターズカット版で三時間半もあるから、明日と二日に分けてみてもいいかな、という感じで見始めたんだけど、結局気づけば三時間半経ってました。

誰もが知っているJFK暗殺。しかし、その真実を知っている人は一人もいないのかもしれない。でかすぎて見えない陰謀に立ち向かうのは一地方検事。たとえ真実を知っていたとしても、その膨大な労力と危険を冒してまで立ち向かいたくない真実。それに立ち向かうギャリソン。ケビンコスナーが演じているせいもあってか、アンタッチャブルと重ねてしまう。

ギャリソン検事の情熱には感動を超え、呆れ、そして、感動してしまうほど壮大なものだった。これが実話なのか・・・

二時間が二時間の意味しか持たない映画が増える中で、この映画は映画が持つ可能性を大きく提示してくれたと思う。真実を求める正義、正義を貫く勇気、その大切さを心したい。
「楊貴妃」

今日は溝口の楊貴妃を見た。

駄作。溝口に対する期待が大きいだけに幻滅。小津さんみたいに「豆腐屋は豆腐しか作れない」っていう割り切った姿勢が欲しかった。

まぁ、中国の時代劇を日本語でやっている違和感は否めないし、台詞と音楽、衣装、諸々の調和がてんでない。

特に安禄山の蜂起で長安に向かうシーンの迫力のなさにはあんぐり・・・・黒澤監督だったらとてもOKしないだろう。俺でももっとよく撮れる自信がある。

ストーリーが流れてない。玄宗もただのへたれで、そりゃクーデタ起きてしょうがない。あんなやつが政治をできるわけがない。ラストシーンのぐだぐだは見てられなかった。溝口のカラーを見るのは初めてで期待してた分、大きく裏切られた感がある。黒澤のどですかでんやら影武者のような色彩へのこだわりもない。

これが近松物語や祇園囃子の溝口なのか・・・
まぁ、もっと知るためにもまだまだ見続ける必要もあるだろう。次は「噂の女」を見る予定。
「噂の女」(前半)

今日は、溝口の「噂の女」を見た。これが大当たり!
とても面白かった。舞台は、京都島原の花街。何年か前に島原の花街に関する授業を受けたことがあって、親しみがあった。やっぱり京都弁はいい。
田中絹代がきれいな京都弁をすらすらと操るのは新しくて驚いた。今までの田中は貞操深くて母性を感じさせる=色気のない役が多かったんだけど、この作品では、気強く手際のいい井筒屋の女将を演じている。背筋がしゃんとして、脂がのっていて、色気がある。年齢から考えると吉永小百合なみに若く感じる。
この田中演じる女将には娘がいて、それを久我美子が演じている。最初のうちは演技(というか台詞回し。アフレコと演技が滑ってない)が硬い気がした。後半は違和感無く見れた。この娘は、東京の音楽大学にいてモダンな考えを持っている。洋装が珍しい時代に洋装を着こなす姿そのものが、知的な女性をあらわしていて、つまり、女性に学はいらない、という時代にあって最先端と言った感が有る。久我は東京で婚約した男にふられ、自殺をはかるほど精神を病んでいたが、京都に帰ってきて、母=田中に勧められた医者に見てもらっているうちに、心を開く。男にふられた理由が、「実家が女性の体を商売にしているところだから」だったから、久我は裕福なくらしをしてきたものの、自分の家に対して憎悪の気持ちがある。また、そんな金で大学を出た自分に嫌気がさしている。
ところで、この若い医者は、早くに夫を失って未亡人になっている田中と恋愛関係にある。おそらく年の差15-20。そして、危険なことに、久我もこの医者と恋に落ちる、というゾクゾクする内容。一人の男をめぐって二人の親子が対立・・・という構図から一転、結末は、とても爽やかなものになっている。
このプロット、どうも「卒業」とか「ギルバートグレイプ」あたりを思い出してしまう。昔は、裕福な未亡人や夫人が、若い男の子を買うという行為が結構多かったみたい。昔はホストクラブとかなかったからね、お金持ちの女性はそういう秘め事に走りがちだった。田中が中年ながら、恋する女性を演じきっていて、久我よりも田中に色気を感じてしまうほど。演技のギャップがいいのだろう。
さて、田中はこの一回り以上若い医者の開業を手伝おうと250万を工面する。当時にしてみれば大金だ。将来は彼と結婚して、置屋をやめて幸せに暮らしたいと考えている。この開業しようとする場所が北白川で、哲学の道を二人が歩くシーンもある。身近に感じる。しかし、田中の思いはむなしく、男の感情は自分の娘に向かう。
「噂の女」(後半)

三人で能・狂言を見るシーン。ふと気づくと男と娘がいなくなっている。不安な田中は外に出て二人を探す。するとそこでは二人が語り合っている。二人で東京に行こうと言っている。ここで、裏切られた感覚と嫉妬心が入り乱れる。一幕終わり、次の狂言へ。狂言の内容は詳細までは分からないけど、つまりは「老婆が恋する滑稽さよ」という主題で、田中は若い男に恋する自分を照らし合わせて恥ずかしくなってしまう。恥ずかしいというよりは、苦しいがあってるかな。田中が男を引き止めるために、開業資金である250万を工面する反面、男は娘と映画を見に行く。引きとめようとする田中が乙女だ。
そして、夜。娘が帰ったか聴くと、男と一緒に部屋にいるという。広い屋敷を探す田中。ここで「月の光」が流れてくる。美しい。劇中に流れる月の光は行為の予感であり、音が崩れるのは、男女が重なることが容易に想像できる。そして、襖を開くとvoilaってな感じで、自分の男と自分の娘が抱き合っているのを目撃する。ここからが修羅場だ。なぜなら、娘は男に好意を寄せてはいるが、母との関係は知らない。そんな中、母親は、娘の前で男との関係を暴露しようとする。このあたりが今も昔も変わらない女の感情という趣がある。男は二人で話そうとして他の部屋に行くが、そこでの一部始終を久我は見ている。一人の男をめぐって親子が対立する感覚は、なんとも滑稽だ。いや、馬鹿にしているのではなく、興味深くてしょうがない。この感覚は男にはないのではないだろうか。実際に溝口もこの映画をコメディと言い切っているらしく、喜劇かは別として、とにかく興味深い。一般的には、ここで女と女の意地のぶつかりあい、ということになるんだけど、この映画では親子愛が勝つ。久我も男に捨てられている経験から母親のつらさが分かる。母親も年の差に怖気づいてしまう。この心の歩み寄りがより強い女性の愛情に火をつけ、最後は、男が去る。
こうしてみると、昔の女性ってのはとても弱い立場にあったんだと感じる。水呑百姓の娘は身売りしないと生きていけない。そして、女は常に泣く側にいる。男はいつも馬鹿だ。ただ、溝口作品の面白いところは、それだけを描かない。むしろ、このような境遇を受け入れ、割り切ってある意味で楽しんでいる、娼婦を描いていることが多い。芸者や置屋なんかを美しく描くし、そこに息づいている人間性や文化的魅力を余すことなく伝えている。見ていて気持ちのいいエンターテイメント性と、その背面に浮かび出る機微を上手に描く。
好みの映画だった。
「お遊さま」

谷崎の蘆刈を原作とした作品。期待していたんだけど、あまりよくない。

現代と異なる因習に興味は湧く。日本的佇まいの描写は素晴らしく、欧米を魅了するだろう。しかし、話は途切れ途切れ、流れていない。脚本の問題かもしれない。原作を読んだことがないから分からないけど、どうも谷崎に落ち度があるとは思われず、やはり脚本がイマイチ工夫が足らなかったのではないか。

祇園囃子で見事に描ききった人間の情愛の機微を描ききれていない。題材としては十分に魅力的なのに。

とはいえ、やはり溝口です。映画だ。
「スタンピード」

65米。ヒッチコック作品で有名なジェームズ・スチュアート主演のウェスタン。

今みたいにCGもない時代は色々な工夫があるんだなーちゃちい感じも笑える。

そういえば、昔のハリウッドでは血糊にグリーンピースを使ってたらしい。どうやって赤くなるのかは忘れちゃったけど。
「悪い奴ほどよく眠る」

溝口や小津の作品タイトルに力がない一方、黒澤はタイトルに力がみなぎっている。名は体をあらわすとは言ったもので、作品にも通ずるところがある。

最近は溝口に傾倒していたけど、やはり黒澤には黒澤のよさがある。

作品は、公共事業をめぐる汚職事件に深く切り込んだ作品。会社や上司に逆らえない日本の企業体質の原型を見る思いだった。黒澤も作るのが少し早すぎたといっているくらいで、当時としては世間的な関心をそれほど集められなかったかもしれない。現在こそ多くの人に見られるべき作品だ。

作品全体としては、中の上というところか。時に冗長であったり、説明しすぎでグルーブに欠ける面もあったが、時折見せるシーンの力などは黒澤本来の評価すべき点だった。

作品全体を追うのは時間がないので、印象に残ったシーンをつまみながら。

まず、和田課長補佐の葬儀のシーン。車内から見下ろす葬儀会場、車内で流れるテープの音楽のリズム、これがコントラプンクトになっている。黒澤はコントラプンクトを多用するけど、この作品も上手く決まっている。

次に、シーンは大きく飛ぶけど、西(三船敏郎)と佳子(香川京子)が廃墟でキスをするシーンは印象的だ。真正面から捉えたカメラ、中央にはコンクリートが高く伸びている。それを挟んで歩く二人。その線を越えて佳子を強く引き寄せキスをする。そのまま二人はくるりと体をよじらせながら、そのコンクリートに座り込む。この流れが美しい。もちろん、中央に走るコンクリートは二人のわだかまりを暗示するものだ。それにしても香川京子美しい。

最後に、岩淵が佳子に毒薬入りのワインを飲ませたあとに、部屋から出て廊下を行き来するシーン。右のほうに写る鏡は、人間の二面性を映し出すメタファーであることは言うまでもない。愛する我が娘を殺してまで保身を考える悪魔のような自分と、冷静さを取り戻しそうになる自分。これを鏡を使って上手に映し出している。しかし、より注目すべきは、彼の影であって、この影がより深い部分に影を落とす人間の二面性を映し出している。

どうしても内容が内容なだけに、人間関係や前後関係を描き出すのに苦労がいる。これを黒澤は、冒頭の30分近くにわたる結婚式会場で一気に語らせる。個人的には、この部分で説明がすぎる気がした。とりわけ、記者に一気に語らせる形が、あまりにも形式ばっている。もっとも、ここを評価する人もおおいだろうことは予想できるけど、やはり、個人的には説明のしすぎといいたい。

この作品は、黒澤の映画らしい反面、そうでない面もある。つまりは、あまりに悲劇的で、その割りに、この悲劇性をドラマティックに描いてはいない。ラスト10分くらいの雲をつかむような「未来」(脚本の可能性)はさらりと軽やかで、現実性に欠ける。これは西の死を描いていない点や佳子の死が曖昧な点(岩淵は、毒薬の量を減らしているカットがあった。これは、佳子が死なないというストーリーの伏線と捉えられてもおかしくはない)。
こういう終わり方では、せっかくの二時間半が中途半端だ。黒澤は、ラストで岩淵が電話越しに「お休みなさい」の真の黒幕に頭を下げる点を、皮肉って終わっている点に満足してしまったのではないか。つまり、全体として、映画ではなく、結局は社会風刺に終わってしまった感がある。やはり、正義の黒澤らしく、ラストも斜めに見る感覚ではなく、正義感を貫き通したものにしてほしかった。それはつまり、西の勝利という爽快感か、西だけでなく、悪も倒れるという重たさだろう。

結局、この映画は真の黒幕の登場を排している。これは判断として悪くない。現実的にできないこともあるだろうし(大いに政治家が絡んでいる)、映画としても三時間やそこらで伝えられなくなる。また、結果として、このほうが一層真に迫っている。ここ数十年に起こった様々な汚職において、肝心な「小物」が自殺するという連鎖反応の裏に迫った点で、勉強になった。そういう意味では、白井課長、和田課長補佐あたりまで描ききるには、範囲をここらにしておく必要があっただろう。それにしても、正義とは絶対のようで、難しいものだ。
「新・平家物語」

平家衰亡で知られる平家物語ではなく、平家興隆への兆しを描く本作は吉川英治の有名小説から。読んだことないから詳細は知らない・・・

溝口には二本のカラーがあって、ひとつは駄作の楊貴妃、もう1つが本作です。

まぁ、楊貴妃に比べたら随分いいけど、やはり黒澤を知っている分、迫力演出にやや劣るな、と感じた。やはり、1000年前の京都を舞台にしながら、現代語、さらに東京弁を使うところが、違和感あり。楊貴妃でもそうだったけど、やはり言葉のリアルさにこだわるべきなんじゃないかと思う。

日本史は部分的にしか詳しくないので、平家興隆に至る歴史はとても勉強になった。いや、これがどこまで真実かも知らないんだけど・・・・

それにしても歴史という言葉には力がある。なぜならそれが真実だからだ。人間の変わらぬ喜怒哀楽や欲望、弱さ、強さ、自尊、功名・・・・といった普遍性を再確認させてくれる。

眠いので以上!
「御法度」

大島渚の99年作品。

司馬遼太郎の原作から描く新撰組の男色にまつわる物語。ビートたけしの心の声とサイレントみたいな字幕で物語の筋を手際よく処理していく。これには賛否両論あるだろう。最初は違和感あったけど、後からなれた。

なので、賛否はともかく字幕の自体が雰囲気にあっておらず、残念だった。

脚本に難があると見えて、主題がぼやけている。最後もどんでん返しとは言い切れず、かといって叩ききる良さも欠いている。プロットはいくらでも作れるキャラクターの豊富さなのに、それらがなかなか生きてこない。

トミーズ雅の東京弁の下手さといったら呆れるくらいだ。いっそのこと関西弁で話させたら彼を使う意義が伺えるけど、あのげんこつの入りそうなごつい顔じゃ、雅にいっそのこと近藤でもやらせたらいいと思ってしまう。つまり、あの役にしてはインパクトがある。新撰組は関西弁禁止だったのやろか?

江戸末期は衆道がブームになって、いっちょ前の男は衆道遊びをするってな具合だったらしい。俺にはまったくわからない世界だけど・・・・

そんなわけで、新撰組で衆道がはやってもまったく不思議ではないが、あれほど厳格な隊規で有名な組でこういう関係がお咎めなしだったのは驚きだ。寛容というかなんというか・・・

衣装はすばらしかった。ワダエミか。あと、武田真治の男前具合にもびっくりした。天才剣士の沖田を演じるのは彼でばっちりだ。あの爽やかないい口、華麗な剣さばき、それこそ男を魅了しうる顔立ちと妖艶なまでの脚と口元。まったく恐ろしい。

結局のところ、加納が新撰組に入った理由にはもっと深いところ(過去)があると思わせておきながら、それが見当たらない。これはつまらない。特に、新撰組に入ってから男色に目覚めた風にラストでたけしが言うから、想像力もくそもない。なぜなら、それが監督の代弁だからだ。

というわけで、話の筋として最高に面白い主題をぐちゃぐちゃにしたまま終わった点でよくない。でも、カット、シーンの構成はよくできている。幕末は大好きなので、OK。
「しゃべれども、しゃべれども」

二年位前に話題になった気がする国分太一主演の映画。

「ひょんなことから」と言うのは簡単だけど、これを映画で撮るのは簡単ではない。この映画も、導入部分は、とても強引。原作は読んでないけど脚本がよくないことが想像される。素人の小説のように、要点だけが、ぽん、ぽん、と処理されて、肝心な滑らかさがない。お約束を守った程度のシーンなら無いほうがましだ。

すっかり、最初からくじけそうになったけど、前提を整えてからは、物語が回りだす。まるで下手な落語が、どんどん上手くなっていく、というストーリーにあわせたかのように、映画もどんどん見やすくなる。

この種の物語は、前提が強引な反面、登場人物の個性を描きやすい(まぁ、キャラ設定を自由にした分、前提が強引になるというベクトルかもしれないが)から、一回慣れてしまうと、登場人物の個性がとても光っていて面白い。関西弁の少年も最初こそ、違和感あったけど、とてもいい役柄だ。元プロ野球選手のおっちゃんもそう。

今日はこういう映画が見たかったので、ちょうど良かった。落語、ほおずき、着物、蕎麦・・・こういう日常に潜む日本の伝統文化を見られるだけでも嬉しいし、こういうライフスタイルに憧れる。齷齪働くのではなく、人生を謳歌するってのは大事なことだ、たった一回の人生なのだから。

そういう意味で、多くの人に勧めたい映画だ。
「花よりもなほ」

久しぶりの映画!

作品はまあまあ。映画の秋だから、これから週に一本は映画を見ようと思いますカチンコ
「ゆれる」

久しぶりに「映画」を見た。素晴らしい。

冒頭のワンカットで監督の力量は分かった。この作品は映画として素晴らしいだけではなく、「地方と都市」に関する社会学の優れた論文を「リアル」に映像化したものともいえそうだ(論文は机上のものも多い反面)。

映像に関しては、メタファーやモンタージュ(短、長)、カット、すべてに無駄が無く秀逸。そのすべてを解説したいくらい。また、そこらへんの技巧にこだわって映画そのものを壊す映画も多々あるが、この作品はあくまで映画に徹しっている点が高評価だ。

作品の繊細なニュアンスを伝えることは難しいな。とにかく見て欲しい作品だ。地方と都市、兄と弟、器用と不器用、自信とコンプレックス・・・現代を反映する歪みを的確に描写している。俺も地方都市出身だからその細かなニュアンスが痛いほど分かるのだ。地方の抱くコンプレックス、因習、「秩序」、偏見・・・

都会にいる人に限って「田舎がいいよー」などということがあるが、田舎の人は決まって「住んだらいいもんじゃないよ」と言うことが多い。高齢化、過疎化、停滞感、これらは社会形態の変化に伴い産業が都市に集中することによって生じた弊害だが、もちろん映画ではそんな小難しいことには一切触れない。ただ、人物描写と時折これみよがし(映画に不慣れな人は逆に記憶にも残らないだろう)に入る情景描写で繊細に描ききっている。

俺も地方の良さを語る割には口八丁で、立場は完全に猛(オダギリ)と同じだ。都会人の気質になっている(なぜか幼い頃からそうだったけれど)。

そうだな・・・この作品を一言で表すと「翳」だろう。人間が持ち合わせている翳、人には見せたくない、自分を偽っている翳、地方の因習として垣間見える翳、人間関係に見える翳・・・

そんな中で、重要なキャラクターがガソリンスタンドで長年働いている洋平(新井浩文)だ。彼は田舎で細々とアルバイトで働きながらも真っ直ぐな気持ちを失わない。彼の持つ真っ直ぐはまさに田舎の持ついい意味での青臭さの特徴でもある。彼の真っ直ぐがまるでこの翳の映画の救いのように感動を呼び起こすことができる。映写機、道路を挟んで走り叫ぶオダギリ、「いかにも」的なラストへの疾走を応援したくなるのはそこなのだ。

ちなみに、ラストはありきたりだけど良い。なんなら、エンディングテーマ曲にあんなのを選ぶのは間違いで、とことん泣かせるつくりにすればいい。何もくどくする必要はないが、バスが過ぎ去って、そこに笑顔で佇む稔(香川照之)を一瞬うつさないといけない(もちろん笑った瞬間に彼がそこにいるだろうことは予測できるけど、あえてバスを通り過ぎさせよう!)

それにしても、西川監督の「日常」をリアルに表現するところ共感だ。洋平が東京に寄って、猛をファミレスに誘う。この「生活感」は大切だ。洋平の妻がいかにもフツーなのも頷ける。セックスシーンは日常以上の含意が豊富にあるんだけど、あれも現代の日常を的確に描いているシーンだ。

まあ、この映画は香川照之抜きには語れない。彼の演技力、素晴らしい。オダギリも決して悪くなかったけど、香川が良すぎた。完全に映画を食べている。

生を存分に詰め込んだ本作は、家族や故郷を見つめる素晴らしい作品だという感じで締めくくります。絶対に見るべき!

(散漫な文章だなー)

「バベル」

いいじゃないか、バベル。

巷では評判悪いイメージが強かったけど、見てみたらよく出来てる。

一発の銃弾を通して錯綜する家族の絆を描いた作品だ。

ポイントは人間の弱さだろう。

覗き、自慰、銃、保身、性、麻薬、酒、若気、倦怠、嫉妬、自己愛、無軌道、不法移民、階層、疎外、孤独・・・

これら諸々の人間の弱さを通してカオスのような世界を描く。もちろん、モロッコ、メキシコ、日本という3点の抽出は恣意性が強い。とりわけ、日本はそうだろう。しかし、「現実は小説よりも奇なり」だし、この恣意性がむしろ不確実性や複雑性に溢れた現実世界を比喩的に伝えている。

カメラワークはとりわけ素晴らしい。ぶれるカメラがまるで旅先での印象のようにリアルに伝わる。それは日常と離れた人間が本能的に研ぎ澄ます五感のようだ。

遠景を多用するのも、多くの含意を感じ取られる。単に人間の卑小さを伝えるだけでなく、そこに息づく生活や風土をも公平に(!)伝えようとしている。
また、映画にはすべてのカット、台詞、モンタージュ、など誘導性が強いものだが、一瞬遠景を見せることで、映画に没入させず、フィクションではなく一つの現実として描こうとする。
さらに、バベルという題目からも充分理解できるように、遠景は神の視点をも提供する。人間世界で巻き起こる物語、諸悪、弱さ、愚かさ。

この物語が大好きな理由として、これだけ人間の弱さや愚かさを描くと同時に、その美しさをも描いているからだ。

金を受け取らないモロッコのガイド、命がけで子供たちを守ろうとする乳母、聾の少女の痛みを分かち合う刑事、このような登場人物がこの映画の隠れた鍵であることは言うまでもない。

そして、もっとも肝心な点。それは、この映画が、家族の崩壊ではなく、「家族の絆」を描いている点だ。どんなにすれ違おうが、どんなに悪化しようが、そこには他の誰にも代わることができない絆がある。悲惨な記憶を通して、家族はもう一度絆を確認する。再認識する。

この「悲惨な記憶」は劇中でもっとも重要な点であり、映画の雰囲気を確立させる要素を持っている。また、言うまでもないが音楽も絶妙だ。

そして、この映画の魂とも言える部分は最後の言葉に凝縮されている。

For my children,
the brightest lights in the darkest night.
(真っ暗な夜にもっとも美しく輝く光、我が子供たちへ捧げる)

これは、暗澹冥濛たる現代を生きるただ一つの道しるべ(理由)である子供たちへの愛情を表現したものだ。少し悲観的だが、映画のように混沌として誘惑が多く、人間の弱さばかりが見せ付けられる現代において、ただ家族への愛情こそが、生きる力になる。世界に対峙する支えになる、ということだ。同様の詩を過去に書いたことがあるからよく分かる。

最後に。

適切ではないけれど、マタイによる福音書を思い出した。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイによる福音書7章13〜14節)」
「ユナイテッド93」

2000.9.11に実際にあった同時多発テロを描くドキュメンタリータッチの映画。

当時自分は高校3年生で、確か夜の11時頃にテレビを見ていたらまるでハリウッド映画のような映像が目に飛び込んできたのを覚えている。

ピッツバーグ近郊に墜落したユナイテッド93便は、乗客の多くが地上の家族などと機内電話などで連絡をとったことで機内の状況証拠がもっとも多く残ることになった。一番最後に墜落したから、他の状況も追うことができる。

普段知ることのできない空の管制を鮮やかに知ることができるのが良かった。

ドキュメンタリーとはいえ、機内の多くの状況は想像の域を出ない。それでも、こういう映画はあっていい。ただ、期待していたほどの映画ではなかった。
「ノーカントリー」

コーエン兄弟の最新作を遅ればせながら見ました。彼らを初めて見たのは「ファーゴ」。実際にあった事件を描いた作品だったけど、完全に面食らったのを覚えている。理性で理解しかねる物語にはどこかユーモアすら感じた(本作も同様にど彼らなりのユーモアが満載されている)。

「オーブラザー」や「ディヴォースショー」など多くの作品がコミカルなコメディドラマであることを考えると彼らのユーモアの骨頂が狂気であるともいえる。

さて、ノーカントリーは2008年アカデミー作品賞受賞作品。そんなことはどうでもいいようで、今回はどうでもよくない。なぜなら、試写会で見て大絶賛した「フィクサー」を蹴落としての受賞だからだ。アカデミーは「いい作品」ではなく、「いいっぽい作品」が選ばれることが多いけど。

友人が「ノーカントリー」を難解だと言っていたけど、それはまさに監督の意図するところだ。この映画でもっとも大切なのはプロローグであり、このプロローグこそ注意すべきところ。

なぜなら、ここで作品の意図は説明されているからだ。

「理不尽なこともすべて受け入れる必要がある」
(=no country for old men)

そういうことだ。これから見るまったく理解不能な事件。年を取るということは、そういう理解不能な事柄を受け入れていくことだ。

"OK, I'll be a part of the world"

この言葉は素晴らしい。途中、カフェでの会話。「20年前に緑色の髪の毛をして、鼻にピアスをしている奴がテキサスにいるなんて信じられたか?」と老警官が言う。まったくその通りだ。概念は日々更新し続けられ、いつの間にか私たちは概念に取り残されている。これこそ、本編で私たちが感じる「置いてきぼり」の感覚である。スリルやサスペンスの演出など一級の映画を感じる以前に「なんで?」「どうしてこんなことするの?」と私たちは合理的懐疑を行う。それこそ不必要なことである。殺人鬼のアントン・シガーが繰り返し言う。

「お前たちは、いつも、どうして?こんなことする必要がない、と言う」

ここに物語の真意があることは言うまでも無い。語り部としてのエド・トム(トミーリージョーンズ)、典型的南部人のルウェリン(ジョシュ・ブローリン)=私たちにはもっとも理解しやすい概念中の人間、そして、理解不能な殺人鬼、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)の潜在的対比があることは注意すべきだろう。私たちの概念(=ルウェリン)がモーテルであっけなく死んでいるシーンで観客が抱く「期待への諦め」こそ、遅ればせながら正解への接近なのだ。

ちなみにいくつか種明かしをすると、エド・トムは一度もアントン・シガーに遭遇していないということ。エドがルウェリンの死んだモーテルに戻るシーンで、闇に潜む殺人鬼のカットが出てくるけど、これはエドの空想でしかないので注意。

あと、女性が殺されたのか気になっている人がもしかしたらいるかもしれないけど、彼女は殺されています。アントン・シガーが潔癖症で、とりわけ足の裏に血がついているのを嫌っているカットが数回あるので、玄関前で足の裏を念入りに見る=血がついていないか確かめている=彼女を殺した、というモンタージュになっています。

最後に、日本語字幕は頑張っているけれど、やはり言葉の慎重なニュアンスを感じるには英語で見たほうがいい。特にプロローグは大切なところなのに、字幕で見ると誤解しかねない。あと、南部訛りを字幕に再現しなかったのは残念だ。テキサス訛りは映画の重要な要素ともいえるので、字幕で見たら理解も半減といわざるを得ない。

コーエン兄弟をまた好きになりました。ところどころ「セブン」を彷彿とさせられた。
「突入せよ!「あさま山荘」事件」

最近では、一番好きな日本人俳優として役所広司を挙げることを憚らないのだけれど、これも役所が主役の映画。

BGMがコミカルかつやすっちくて笑っちゃったけど、現場の雰囲気も意外とあんなものだったのかもしれない。生まれてないからわかんない。

少なくとも当時の官僚たちがああいう友達感覚だったことは確かだろう。いい時代だ。人間味に溢れていて、最近のドライな感じじゃなくてうらやましくなっちゃった。

リンチ事件にしろあさま山荘事件にしろ概要は知ってたけど、こんな感じだったのか。俺が幕僚長やってたら、即刻銃器の使用許可するなーいい意味でも悪い意味でも気の長い人々だ。最近じゃSWATさながらの人たちが5人くらいでぱぱっとやっつけてくれるんだろう。こういう経験が生かされてるんだろうな。

60年代の混沌は結構好きで、色々な映画を見る。俺はたぶんシンパに近いんだけど、赤軍は異常だ。宗教じみていてくだらない。

それも含めて今の日本があるのかもしれない。

次はプロジェクトXなんかでドキュメンタリーとしてみてみたい。もしくは、赤軍の立場から撮った映画があった気がするので、それを見てみよう。
「ジョゼと虎と魚たち」

好きな映画だった。

2003年といえば、自分も大学二年生の頃でまさに映画の世界をオンタイムで見れたのだけど、今見てみると、少し昔の自分を見ているようなそんな感じもあったりして。

妻夫木の演技はいい。この段階でベッドシーンを経験できたのは彼にとってラッキーだった。ベッドシーンは盲腸みたいなもんで早いうちにやるに限る。あとになればなるほどよくない。

ジョゼとのキスシーンは二分近い(以上?)長回し。その長さをこなすだけでも簡単ではないけれど、表情、台詞、音楽、すべてのバランスがばっちりで奇跡的ショットだ。

あと、彼は最近のCMでもそうだけど、「食べる」演技がとても旨い。ご飯やらスパゲティやら、とにかく美味そうに食べる。最高の素材だ。

池脇千鶴は「音符と昆布」で見たときに実力あるなーと思ったけど、なんやジョゼを見てたら元々素晴らしい演技力じゃないか。

関西弁のリズムやキャラクター設定などがリズミカルでテンポいい。こんな映画が大好きだ。
「BOBBY」

駄作。

駄作は予想がつくからなるべく見ないんだけど、アメリカ史に関係する内容だとついわきが甘くなってしまう。

混沌とした60年代アメリカにおいて、ケネディ兄弟ほど希望にあふれた存在はなかっただろう。そんな英雄をことごとくつぶすアメリカという国の二面性は実に興味深いものだ。

「それでもボクはやってない」

すでに、テレビの特番なんかで撮影ドキュメンタリーなんかをちらほら見ていたから、内容はすべて知っていた。

やっぱり加瀬亮はいいなぁ。素晴らしい配役。見ていたら、冤罪や日本の官僚体質などイライラするところばかりだった。ただ、映画の誘導性を忘れてはいけない。例えば、最近の舞鶴での女子高生殺害事件に関する家宅捜索を見ていると、私たちは客観的に「早く犯人が捕まって欲しい」と願い、女性下着と賽銭を盗んだ人間の家宅捜索を「やれやれ、早く捕まえろ」と思ってしまう(少なくとも俺は)。

つまり、劇中で「AVを見ていた=痴漢をしてもおかしくない」という思考が「くだらない!」と思うのに、実生活では「下着泥棒をしていた=若い女の子を殺していてもおかしくない!」とほとんど決め付けて、証拠のない男性の家を家宅捜索することを応援している点は、映画の刷り込みがあるからだ。

映画を見ていて、常に感じることは、私たちは「神の視点」になれているということ。映画では、主人公が「痴漢をしてないことを知っている」から、主人公の肩を持つのであって、やはりこの「神のみぞ知る」視点を持っていなければ、心は揺れ動くだろう。

裁判員制度も始まる中で、どれだけ公正な判断ができるかとても不安になる作品だった(名作「12人の怒れる男」(1957)でも見るように、いかに私たちが思い込みや先入観で人を見ているか・・・)。

冒頭で、
「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰する無かれ」というけれど、これでは世の中「逃げ得」になってしまう。現行犯逮捕か、DNA鑑定できるだけの確証が無い限りすべて「無罪」になってしまうわけだから。

かといって、映画のような冤罪事件もあってはならないと思う。まったく人を裁くということはとても難しい。被害者感情も大切にしたいし、冤罪もなくしたい、そんなことを考えてしまう映画だった。

社会性のあるテーマに意欲的に挑んだ周防監督の熱意に拍手。

「ブラッド・ダイヤモンド」

2年くらい前にこの映画の試写会に行く予定だったんだけど、バンド練習を優先してみてなかった。

実際にあったキンバリープロセスやシエラレオネ内戦などに基づいて作られたフィクション。よくニュースで耳にする「アフリカでの内戦」を感じるにはいい映画だろう。

こういう社会派の映画に対して人々は賛同しやすいが、俺は好きじゃない。
「ナイロビの蜂」「ホテル・ルワンダ」その他多く。

なんとなく「帯に短し襷に長し」って感じだ。つまり、資料的価値としてはフィクション性が高すぎ、誇張が多く誘導的だ。かといって、映画的に素晴らしいかといえばまったくそうではない(あくまで芸術としての映画と考える)。

こういう映画はあくまでハリウッドが作っているに過ぎない。作り手は出来るだけ多くの視点を提供することで偽善性を排除しようと努めるが、その上でやはり結論を誘導する。これはアメリカ映画にありがちなワンパターンだ。結局偽善でしかない。それなら俺はNHKあたりが作ったしっかりとしたドキュメンタリーを見たい。例えば、結局ラブロマンスが組み込まれているあたりは(それも、あまりにもありがちな!)閉口してしまう。確かに多くの視点を提供できるって点では役が多いほうがいいが。

とにかく、詰まるところハリウッド映画だったのが残念です。ユナイテッド93とともにこれもレビューでの評価が高く、その反面バベルの評価が低いのに、俺の感想からいくと、みんな相当映画を見る目がないのだといわざるを得ない。

最後に、映画の字幕が下手でイライラした。俺にやらせろ。
「ダーウィンの悪夢」

これも見逃していた作品。

タンザニアの湖を舞台に現代の諸悪を描き出すドキュメンタリー。

映画全体を粗く陰鬱なトーンで統一し、映画としての一体感を出している。

映画を見る限り、極めて低予算かつ場当たり的に作っている。ハンディカム一つもって、屋外撮影、同時録音、即興演出(記録者が意図的に"演出"感を出している)、といった感じは、さながらヌーヴェル・ヴァーグをかじった学生みたいだ。

これで興行的にも成功するんだから、時代というのは怖い。英語やロシア語、タンザニア語など多言語で構成されている点からも(そんな分析より以前に)監督は興行的成功を目指してはいなかったろうが、ともかくラッキーだった。

この監督何歳だろう。おそらく、才能はないが、趣味に生きるタイプで、40歳くらいになって、何か一つ世界に問題提起したいな、という行き当たりばったりのバックパッカータイプの思考で作り始めたに違いない。なぜなら、物語は深いようで、深くはなく、ドキュメンタリーと呼ぶには気恥ずかしいくらいだから。

しかし、それも悪くない。こういう映画はDVDで見ることはできなかったから。

少なくとも、行き当たりばったりでも、作りこまれたハリウッド映画の数倍可能性を感じさせるカットが何枚かあったことは事実です。ま、眠い映画であることにかわりはないけれど。
[there will be blood]

独特のファンタジー世界を繰り広げるポール・トーマス・アンダーソンの最新作。これも劇場で見たかったんだけど、今さらになってしまった。ずっと忙しかったからなぁ・・・

ダニエル・レイ・ルイスの好演は指摘するまでもない。ぶっちぎっている。ここのところはすでに多くの評があると思われるので敢えて言うことはない。ところで、同じくらい気になったのが音楽。普通は、2を表現するために、1+1だったり、3-1といった数式を用いる。しかし、本編の音楽は、まるで、3+4+6-9+1-8+5のような方法を用いる。つまり、普通じゃない。しかし、しっかりと表現している。正直なところ、カットによっては映像よりも音楽の方が心情表現の点で勝っていた。

そんなわけで、音楽が非常に気になったんだけど、エンドロールを見て驚く。レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが音楽じゃないか!そう言われてみれば、何かでジョニーが音楽を担当するって読んだなぁ、と思い出した。結局、どう化けようがバレルんだな。

さて本編。やはり肝心なのは、タイトル。Bloodは多くの含意がある。石油の暗喩であり、それをめぐる血生臭さであり、血である。とりわけ、最後の「血」は重要で主人公が石油と同じくらい欲した信じるべき支えである。猜疑心が強ければ強いほど、心を許せる「絶対」が欲しくなる。それこそ、何者にも変えがたい「血」であり、容易には得られないものである。
自分の力を信じる力が強ければ強いほど、他への怒りは増す。安易に宗教に救いを求める人々への敵意、金に救いを求める人への敵意。完全主義者であるからこその、血へのこだわり。弟でないと分かれば殺し、H.W.が本当の子供でないことへの苦しみと葛藤を抱え、他人の目に敏感になる。ダニエルは金持ちになっても最後の最後まで孤独だった。主題としては崔洋一の「血と骨」に近い。

19世紀末のアメリカという大好きな時代を感じられただけでも嬉しい映画だったけど、ラストにダニエルがイーライを(文字通り)虫けらのように殴り殺して「I’m finished」と叫び映画が終わるユーモアにアンダーソンを見た気がした。満足。
「おくりびと」

文句なしの傑作。脚本の上手さに驚かされる。緻密なプロットをいとも簡単にさらりと描いている。唯一難癖をつけるとすれば、それは脚本が「できすぎ」ていることくらいだろう。

山形県を舞台に描かれる本作は、日本が失いつつある様々な顔を映し出している。それは必ずしも、納棺という映画のテーマのみならず、銭湯であったり、寂れた映画館であったりする。

チェロ奏者という夢の職業に就いた矢先に楽団は解散し、大枚をはたいて買ったチェロの借金だけが残る。それでも、妻は甲斐甲斐しく彼を支え、彼の生まれ故郷である山形に二人戻るのだった。

昔よく考えたことだが、愛し合う二人がいれば、それだけですべては満たされているのではないか?それは立派な職業に就いたり、大金持ちになることよりも得がたく、素晴らしいことではないか。

そんな理想の夫婦を本木と広末は上手く演じている。本木の声は不安に満ち溢れているが、広末の声は安らぎに満ち溢れている。
(その深奥には男女の本質的差異としてその逆があるが、それは映画のテーマではない)

二人のすれ違いが生じるのは、本木が納棺師という職業に魅せられたときからである。彼も夫として家族を支えるだけの職業には就きたいと考えつつも、恥をしのんでまで大金を手にしたいとは考えていない。しかし、彼がその仕事の所作や精神美に出会ってしまったからこそ、妻とのすれ違いが生じる。

死んでゆく人は様々である。死後二週間たって発見される孤独死であったり、性同一性障害に悩み自殺する少年、暴走族とつるんでバイク事故に遭った少女・・・これらの死そのものが社会性を帯びているが、それをことさら強調するでもなく、ユーモアでさらりと描く。

川を遡上する鮭と上流で死んで腐乱して流れてくる鮭を見ながら本木が言う。

「どうして、鮭はあんなに頑張って川を上るのだろう。どうせ死ぬのならあんなに頑張らなくてもいいのに」

通りがかりのおじさんが絶妙な一言を放る。

「故郷に帰りたいんだろな」

それは、立派に死ぬためには頑張らないといけないぞ、というような人生訓めいたものではなく、人間が動物としての本能として、育まれた土地に戻り、そこで死にたいと願う、ごく普通の感情を鮭という生き物の生死を通して気づかせてくれる一こまである。

故郷。この感覚が分かる人は少なくないはずだ。いつの間にか故郷を離れ、帰る機会といえば、葬式くらい。そこに残るのは昔の思い出くらいで現実の世界は他にある。その現実は世知辛く、帰るべき故郷は現実ではない気がする。
故郷って何だろう、家族って何だろう。時間、空間、存在が多様化し続ける現在。

そんな多次元の構造を持った現代だからこそ、こういう映画は特別の魅力を持っている。おそらくそういう映画は今までにもあった。ぱっと思いついたところを挙げると「ギルバート・グレイプ」や「ゆれる」もそうだが、地方の停滞感とそこにある映画的要素は何と表現したらいいだろう。20世紀初期に作られた多くの記録映画のように、今、これを映像に残したい、という映画人たる純粋な衝動の結晶なのではないだろうか。

死(それは故郷や家族のことである)を真正面から見つめることで見えてくる生がある、そういう映画だ。

取るべくして取った作品、おめでとうございます。
「パッチギ」

2004年、井筒監督。

1968年京都を舞台にした青春映画、と一言では言い切れない複雑な背景を持っている映画。というより、この時代そのものが一言では言い切れないだけだろうか。

この時代は一言で言えば、混沌である。戦後であって戦後でない。猛烈な勢いで進む経済成長に二つの思想が絡み合うように引きずられる。未来は自分たちの手で創り出すのだ、という理想や熱意の塊が狂信的なまでに増長した時代である。そういう時代感を映画は大変上手に描いている。その点では細やかさすら感じる。

内容は「GO」なんかと比較すると面白い。GOでは思春期の在日の青年の心の葛藤が描かれるが、それは現代のことであり、1960年代はまだまだ社会的にも不安定で社会主義への憧れも強く、北朝鮮は(現実はともかく)楽園とすら呼ばれていた。そんな時代である。いきおい彼らは「在日」というよりは朝鮮人としてのアイデンティティーの方が強い。だからこそ、いろんな意味で突き抜けている。

映画では知っている場所がたくさん出てくる。デルタ、祇園、銀閣寺周辺、京大西部講堂・・・京都の持つ歴史的磁力が映画を引き立たせることは多いが、この作品もそのひとつだろう。

それにしても沢尻エリカが良い。高倉蒼甫も良い演技をしている。その割りに未だにブレークしきっていないのが不思議である。

映画は高倉だけでなく小出恵介や桐谷なんとかなどルーキーズ出演者が多いなぁという印象。真木よう子は個人的に好きだ。

そんなこんなで普通に楽しめる映画である。こういう映画があってもいいと思う。
「クラッシュ」

2005年のアカデミー作品賞。いかにもアカデミーが好みそうな主題である。

未だに人々の心にこびりつく人種意識や階層意識を「炙り出した」というよりは、「かき集めた」群像劇。

これまでの多くのアメリカ映画が、善玉と悪玉を決めて、それに沿ってストーリーを作るのに対し、一人ひとりの良い一面と悪い一面を描くことで公平であろうとする。

最初にドン・チードルがカメラ(観客)に向かって、作品の主題を説明するメタフィクションがある。そして、彼が言ったように人々は「自由と平等」のアメリカという国において、疎外感や孤独を抱えながら生きている。上っ面の友情や連帯感はことあるごとに裏切られ、そのたびに人々は孤独を深める。

そのフラストレーションは負の連鎖を生み、ことあるごとにCRASHを引き起こしている。このCRASHは人生を進行させるか終わらせるかの、際どい表裏一体のものである。しかし、このCRASHを通して人々は愛を再確認したり、人生を見つめなおしたり、独りよがりの自分に気づいたりする。

そう、人々は知らず知らずのうちに一か八かの、"CRASH"を求めているのだ。

このクラッシュは様々な「隙間」に沿って生じる。白人と黒人という典型的な隙間から、黒人と黒人であったり、アジア人とメキシコ人であったり、金持ちと貧乏人であったりする。

これらの様々な隙間を点描したり、時にクロスさせることで映画は進行し、完成する。これらの「隙間」を突きつけている点でこの映画は社会的だし、それぞれのキャラクターやストーリーに託したメッセージはドラマである。

しかし、この程度の映画をアカデミーの最高峰に奉る点にアメリカ社会の幼稚さがにじみ出いていることも分かる。それぞれのプロットはいかにもアメリカ的だし、劇中に出てくる偽善すら偽善である。つまり、現実を描き出す、にはそれぞれのプロットがあまりに恣意的かつ映画的であり、それは、劇中に出てくる検事が、(保身のために)「黒人にメダルをあげよう」と平気で言ってのける姿となんら変わらないのだ。

ジャンルや映画の雰囲気としては「バベル」や「21g」などに似ているが、これらには及ばないし、同年監督賞を取った「ブロークバックマウンテン」の方がよっぽど作品賞に相応しいだろうと個人的には思っている。4星

「リトルミスサンシャイン」

カリフォルニア州の「ミスサンシャインコンテスト」に出場することが決まった少女の物語。

同性愛者に裏切られ自殺未遂を試みたプルースト学者の叔父、"9steps"という訳の分からない成功秘訣本を出版社に売り込むことに躍起になって借金まみれの父、そんな父に辟易しニーチェに傾倒する兄、老人なのに性的欲求が途切れず、ヘロイン中毒の祖父、タバコをやめられない母、そして、決してミスコンには相応しくないオリーブ。

この家族がそれぞれ様々な問題を抱えながらオンボロのバスに乗って一路ニューメキシコ州アルバカーキからカリフォルニア州を目指す。

このように役作りが緻密であるが、これらはいずれも現代アメリカが抱えている諸問題であり、それらをコメディタッチで笑い飛ばす点によさがある。

旅というのは、未知の困難や感動がつき物であり、よって人々の関係性を解体し再構築する要素を含んでいる。人々が自らの殻に閉じこもるのではなく、それぞれがぶつかり合い、協力し合う必要性に満ち溢れている。

この映画は人間関係が希薄になり、多様な価値観の殻に閉じこもる現代人の愚かしさに対して優しさをもって描いている。

物語を見る限り、それぞれの個人が抱える問題は解決しておらず、それどころかすべてが致命的な悲壮感にあふれているにも関わらず、映画のラストは嬉しくなるような爽やかさで満ちている。それはなぜか。つまり、現代の諸問題や個々人が個人的に抱えている鬱屈というのは実にちっぽけなもので、それは幸せとは無関係ですらあるからだ。

おそらく、全米一のプルースト学者だろうが全米二だろうが、それらはどっちだっていいのである。大切なのは同じ時間や空間を共有し、同じ困難に遭遇し、対立したりしながらも一緒に協力して何かをやり遂げるといったことなのだろう。そして、そういう経験に出会う機会が現代では格段に減ってしまったということである。「同じ釜の飯を食う」という言葉が家族ですら通用しなくなりつつある現代である。

おそらく、動物学的にも同じ釜の飯を食うことが絆を強くする上でも大切なことなのだと思う。便利な機器が登場しては家族の時間を奪っていくのは死に至る病のようなものなのかもしれない。

100年前はタバコを法律で禁止することが馬鹿らしかったかもしれないが、未だ科学的には解明されていない社会悪が必ず存在し、それはもしかしたら我々のごく身近なものかもしれない。例えば、アイポッドや電子レンジである。反対に、甲子園でベンチに座っているキャプテンのように、あまり意識はされてはいないが、実は社会にとってとても重要な事柄があるのかもしれない。それは例えば、お茶の時間や神棚である。

電子レンジの登場によって暖かい飯を一つの時間に縛られなくとも手軽に食べられるようになった。昔のように七時に家族がそろわなきゃ食べれない、なんてことはなくなった。その代わり、便利さは人々を孤独にしたかもしれない。家族が家族と向き合わなければ「ならない」時間はずっと減っただろう。しかし、この一定の「規則」にも似たルールが家族の絆を高める効果的役割を演じていたのかもしれない。

アイポッドはどこでも自分の世界を作り上げてくれるがそれは社会との断絶であり、関係性への拒絶である。僕自身音楽をやっていて、音楽が好きであることは確かだが、電車や旅先などいたるところでアイポッドを聞いている人々には疑問を感じている。旅先こそ、その土地の音に気づく機会なのに。

便利さは人々を怠惰にし、気づく力を奪いつつあるのではないか、昔のように一定の規則に縛られているほうがずっと豊かな可能性はあるまいか、このようなことをこの映画が伝えようとしているとは言わないが、根本的テーマはそこにつきるのである。つまり、時間と空間の共有こそが人々の関係性には不可欠で、それこそが幸せへの近道なのだ、ということである。家族という切っても切れない関係性に思い切ってぶち当たってみる、そんな経験が必要なのではないだろうか。

映画の話に戻ると、数々の現代的疫病にかかっている人々の中で、まだ無垢な子供であるオリーブの底抜けな明るさが対比的に描かれており、そのギャップに可笑しさを禁じえない。色盲であることを知り落ち込む兄の肩を抱くオリーブのカットがこの映画の中でのベストショットだ。地面にへばりつくような低いアングルからオリーブと兄を写し、その背後には土手の上の高い部分に両親とオンボロのバスが止まっている。空は夢のように青い。

このカットのプリントTシャツが出れば僕は迷わず買うだろう。そういう素敵な構図である。カリフォルニアの美しい空とハイウェイの幾何学的現代構築物が絶妙にマッチしている。そんな映画である。3.5星。個人的好みを加味して4星。

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