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カール・マルクスコミュのマルクスの哲学の可能性について

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『経済学哲学手稿』や「フォイエルバッハに関するテーゼ」などの初期マルクスに興味があります。

ヘーゲルの観念論とフォイエルバッハの唯物論という半面づつの真理を縫い合わせたところの天衣無縫な両面的真理が「自由と必然の対立の真の解決」をもたらす、という言葉に、マルクスは、どういう意味を込めてたのでしょうか。

心という自由意志で動いてるままが物で出来た世界を支配する法則的必然に従ってることになる、というふうに、両立するということを言いたいのなら、人間は自由意志で動いてるつもりになってるだけで自由意志というのはありもしないものをあるとする錯覚だということになりそうですし、そうだと考えると「対立の真の解決」というのは、言葉のあやにしか聞こえなくなってしまいます。

マルクスの言うように、既成の哲学が終始してきたような、世界を解釈することよりも、世界を変えることのほうが、大事なら、変えようとする意志次第で変え得るということが前提になってるはずだから、人間存在は、自由意志を行使し得ない、因果法則に唯々諾々と従ってるだけの奴隷にすぎないんだ、という話にはならないはずです。

人間が世界を変える主体たり得るなら、今から起きる事は今まで起きた事のみに起因するのでなく「原因なしに事を起こす能力」と定義される「自由意志」を人間は行使し得るはずです。

そうなると、神は世界創造後も世界進行に介入して神の見えざる手を行使して奇跡を起こす時があって、人間は神が思し召した奇跡に立ち会ってる現場だからこそ、神の意志を人間は自由意志として召喚し得るのだ、と考えざるを得なくなりはしませんか。

因果連鎖に縛られる客体であるにとどまらない主体性を人間が獲得してるということが可能だとしたら、結局、すべての物は神を秘めてて、潜在してたそれは人間においては顕在化してる、という神秘主義的な思想的背景を、採用せざるを得ないことになると思うんです。

こう言った、部分の総和以上の全体を、人間の内なる本質として見て取って、労働を通じて自分の内的本質を自分以外の者に注ぎ込み移し入れ、いわば残留思念を対象に置き残してって、世界を神で満ち溢れさせよう、地上に天国を実現しよう、というルカーチ的な弁証法の考えは、初期マルクスにしか見て取れないのだとしても、これがマルクスの原点であることは間違いなさそうに思えます。

そう言った、人間は世界に変革をもたらしうる主体だということを理論的に基礎付ける考えを、マルクスが、アルチュセールの言うように捨てて、唯物論者になってったのは、どういう現実との妥協形成の結果だったのでしょうか。

もしマルクスが、思想を実行に移して理論を実践に落とし込もうとする過程で、何らかの捨てざるを得なくなった必然性に遭遇したのだとしたら、その必然性について、どなたか教えて下さいませんか。

初期マルクスは、哲学史上において重要な位置を占めるすぐれた知見を述べてる、と個人的には思いますが、それを敢えて捨てて封印したことの功罪についても、ご教示下さいませんか。

よろしくお願いしますm(_ _)m

外界の物質との交渉に明け暮れててもそこに内心が伴ってなくて外界の自分以外の者たちとの関わり合いから内心が抜け落ちてる、という疎外された状況を克服できて、対外的な自己に内心が付いて来れるようになって、外在する自分以外の者たちの心と内在する自分の心が触れ合えるようになれてこそ、他人の喜びを自分の喜びとできて、真に世の為人の為を思って行動できる人間が形成されるのだ、と個人的には考えております。

自分本位から他人本位へパラダイムシフトできた、そのような人間は、やりたいことを張り切ってやってるままがやるべきことをやることに頑張れてることになるのだ、と愚考致してる次第です。

労働に付きまとう苦役という性格から人々を解放したいという理想に燃えてたマルクスが初期の立場をどういう理由で捨てざるを得なくなったにせよ、理想を高く掲げ上げて高みを目指して行動することも、労働はボランティアでなくやりたくないのにやらざるを得ない生活の手段であるという現実と折り合いを付けて高い理想を低い現実に近付けるために思考することも、どちらも大切で、この問題は、ああでもないこうでもないと甲論乙駁されて果てしがないような永遠のテーマなのだろうと思うので、ここにトピックを作成させて頂くことにしました。

哲学者としてのマルクスに焦点を絞った話なら自分は理解できるかもしれないにせよ、経済学者としてのマルクスについての余り専門的な議論になると難しすぎて付いて行けなくなるかもしれませんので、行動する哲学者としてのマルクスについての皆様のご意見をお聞かせ頂ければ嬉しいです。

どうかお願いしますm(_ _)m

コメント(30)

初期マルクスを唯心論で研究する余地はありそうです。一般的マルクス理論はエンゲルスの解釈による面が大きいと思います。
その辺り、学びたいがなかなか時間がない。
>>[1]
コメントありがとうございますm(_ _)m

『ルカーチとハイデガー』(リュシアン・ゴルドマン)によれば、初期マルクスの思想が書き綴られた資料が発見されて世に知られるようになる以前から、いち早くハイデガーは初期マルクスの思想をルカーチを通じて先取りして理解してた、ということらしく、ハイデガーのマルクス理解というのは、アリアさんの仰る「唯心論」にも近い線での解釈の仕方で、ハイデガーとマルクスって、思想的に親近性が高いのだろうな、と僕は考えてるんです。

というのは、ハイデガーの哲学は、ヘーゲルとかマルクスとかの弁証法に発想が近く、孤高の哲学者にありがちな、自分の考えだけが正しいみたいな誇大妄想狂的なのを、できるだけ自戒して、すべての人の考えに一理あるからすべての人の言い分に耳を傾けることが大事だみたいな、そういう色んな人たちとの対話を通じて、一面づつの真理を、取り集めてって、多面的な真理を作り上げてって、物分かりのいい人間になって、価値観の幅広い人間が形成されることこそ、社会化されるということであり、それでこそ哲学を学んだ意義がある、と考えて、ずっとコミュ障を治すために哲学してきた僕と、同じ方向を向いてるのが、ハイデガーだから、ハイデガーのマルクス理解に、色々教えられるところから出発して、マルクスに興味を持つに至った、という経緯が個人的にありました。

そこら辺については、僕にとって一番学びやすかったのは、ハイデガー研究の第一人者として有名な木田元さんの著作、たとえば『現代の哲学』(講談社学術文庫)『反哲学史』(講談社学術文庫)などです。

僕も時間があればもっと学びを深めたいので、初期マルクスを学ぶのに適したテキストがあれば、もし教えて下されれば幸いです。
マルクスそのものをやるにはマルクス主義者、いわゆる教条主義者による翻訳は使えなく、最低限、最近のネオマルクスの人が新訳によらないとならなくなります。解説書も同様です。
「マルクスを再読する 主要著作の現代的意義」(的場 昭弘、定価: 1,100円、2017年03月25日、角川ソフィア文庫)。
https://www.kadokawa.co.jp/product/321611000121/

反対にエンゲルスを読めば、共著におけるマルクスの特色がわかります。
最もエンゲルス的なものは「ドイツイデオロギー(ドイツ観念論)」とも云われます。下記前書きにもそうあります。
http://www.mlwerke.de/me/me03/me03_011.htm#I_Vorrede
序文
人間は常に自分自身について、自分が何であるか、あるべきかについて誤った理解をしてきた。人間は神と人の関係を自分達の考えにしたがって確立した。人間の精神の発生は彼らの頭ので成長したものである。創造者は自から創造した生物に頭を下げることになる。人間がそれらのくびきの下で構築した観念、教条、フィクションの枠からそれらを解放しよう。

*
典型的な唯物論でエンゲルスの特色です。
*
しかし、学位を狙うなら自分の先生の指導を受けた方が評価は良いかも知れません。
>>[2]
的場さんの著書に最初に上げられるように
『経済学・哲学草稿』(1844年)
ただ、ドイツ語から翻訳しないと余り得られるものは少ない。
哲学者マルクスの人間観
http://yutakayasui.html.xdomain.jp/ningenron/tetsugakushamarx.htm

今、多忙なのでここで論じる時間がありません。上の論稿をご一読願えれば幸甚です。
>>[3]>>[4] アリアさん
善意の教育的配慮に満ちたアドバイス、ありがとうございました。
お気持ちは嬉しかったです。
『マルクスを再読する』は五月書房から出版されたものが図書館にあったので、借りて読んでみたいと思います。
ただ僕は、買い物してもレジでお釣りの額を確かめる引き算の暗算ができないくらい、お金の計算ができない、壊滅的に頭がイカレてる廃人なので、大学は哲学科は卒業しましたけど、経済学者が書いたものを読んで理解できるかどうかは疑問です。
でも、とにかく挑戦してみますね。
>>[5]
ありがとうございますm(_ _)m

一読させて頂きました。

憑き物についての先生のお考えに僕も賛成です。

親をはじめとする他者が内面化されたものとしての理性も憑き物である、という意味で、社会関係の結節点たる人間には生き霊も死霊も憑いてて、それは必ずしも神社へ行って巫女にお祓いしてもらって退散させるべきであるような悪霊とは言い切れないもので、価値として積極的な意義を認めて共存共栄を目指すべきものだ、とする、先生の人間観に、僕も同意します。

実践の総体としての世界を自己の内なる外界として、仏教の自業自得の因果応報の概念で説明して、人間の行為の結果が自然であるとする議論によって、自然主義即人間主義というマルクスの言葉を理解する箇所など、成程と納得させられる示唆的な件が多々ありましたが、まだ仰る所を十分には汲み取れてるとは言えないので、何度も読み込ませて頂きたいところです。

以上、取り急ぎ、お返事まで。
>>[7] 「労働が膠になりてとりついて物を価値だと誤たせしとは」『資本論』をよく読みますと価値は抽象的人間労働の「ガレルテ(膠質物)として商品に憑りついている形で展開しているので、それは価値を憑物として捉える「憑物信仰」に陥っているとマルクスを批判しているのです。憑物信仰を推奨しているわけではありません。
>>[8]
ありがとうございますm(_ _)m

明白な誤読と誤解があったことを、お詫びします。

失礼致しました。

読み直させて頂いて、やっと先生のお考えが少し分かった気がします。

初期マルクスが、しばしば「人間すなわち人間的世界」という表現を使用して、表明してた、世界を人間に含めて捉える立場を、敷衍して、道具や機械や工場をはじめとする生産手段も、資本主義経済のもとで商品となる生産物も、すべて人間に含めて捉えることで、労働できるのは人間だけじゃない、というふうに、発想を転換して、自動機械に労働させて人間を労働から解放する、こんにちの脱労働社会化について、説明できるようするために、必要な議論だったのですね。

確かに、プロレタリアートがブルジョワから搾取されてるというマルクスの生きた時代の状況が過去のものとなった今の時代の社会に即応するように、マルクスを読み替える必要というのは、あるのかもしれないな、と思いました。

ジェームズ・ラヴロックの言うように、樹木の年輪の一番外側部分だけが生きてて植物の97%は死んでる部分であるのにもかかわらず、植物全体として生きてると見做さなければ植物の生命活動を理解できないのと同じように、貝殻を含めて捉えられての貝であり、蓑を含めて捉えられての蓑虫であり、死せる物質も生きてると見做して、ビーバーの作ったダムもビーバーのうちで、人間の作った道具や機械や工場も人間のうちだ、と見做して、環境を自分にひっくるめて、初めて、社会の全体像が結ぶのだろうな、と思いました。

後期マルクスのフェティシズム論というのは確かに初期からは逸脱してて、人間が世界との関わりの中で人間が世界に付与してる憑き物にすぎない意味や価値を、世界それ自体に内在する実体であるかのように、実体化して捉えるならば、それが物神崇拝という倒錯である、という意味では、すべての物の内に神が秘められてるとする神秘主義というのは、フェティシズム論では倒錯にすぎないものとして否定されて、そのようなフェティシズム論は、フッサールやマッハの現象学にも見紛う程に似てるものにも傾いてて、また廣松渉が好みそうな思想にも引き付け得るものにも近付いてる、と言えるとすれば、外側から表面的に見れば物象という対象として表象される世界は内側から共感的に追体験すれば心だから、内省すれば心として与えられる存在を疎外すれば物象化するという意味で、疎外と物象化は同じだ、とする、ルカーチが、初期マルクスの疎外論と後期マルクスの物象化論を貫く一本のブレない軸を見出したのに対して、廣松渉が、アルチュセールのように切断して、初期マルクスを低く評価して後期マルクスを高く評価した、理由も、やっと分かった気がする次第です。

外界の中にしか他人は存在しないわけだから、外界は存在しないとする主観主義とそれが必然的に陥る他人に心は存在しないとする独我論を回避するための隠れ客観主義という二つをとっかえひっかえするすりかえに終始してたにすぎない、廣松渉の思想的立場が、主客二項を統一することによってしか超克し得ない、二項対立図式を、超克し得てたとは、僕は考えておらず、その意味では、マルクスは二項対立図式を超克できたつもりになってただけだった廣松渉と同じ思想圏内に入ってた者ではない、と僕は愚考致します。

もしも、イタコを連れてきて草葉の陰のマルクスの憑き物を憑かせたとしたら、イタコはレーニンがマッハを批判したのと同じような語り口で廣松渉を批判するのではないかな、というのが、「『資本論』の『価値=憑き物』はレトリックではないから初期マルクスのオカルト的とでも言うべき形而上学的な哲学の名残りは後期マルクスにちゃんと受け継がれてる」という先生のマルクス論に教えられて、僕が想像するところです。

混乱してた考えを整理して理解する機会になりました。

ありがとうございました。
>>[9] 誤読され、誤解されるのは私の説明の仕方至らない点があったからで、こちらこそお詫びしなければなりません。
松ぼっくりさんは独自の深い思索をされておられるので、その文脈が松ぼっくりさんの文章を読みなれていない私には分からないので、もっぱら自説の主旨を説明することしかできません。
 脱労働社会化の説明のために機械も含めて人間として機械も労働するという論理を考えたわけではありません。私が『人間観の転換:マルクス物神性論批判』を書いたのは1984年頃です。1986年の元旦に出版していますから。その頃に21世紀にAIやロボットがどの程度普及してどの程度雇用が減少するかは見当もつきませんでしたから、ただ価値移転論では機械が減価償却分だけ生産物付加するとみなし、特別剰余価値の場合は機械が減価償却部を超えてその何倍も何十倍も生産物に対象化するとして説明がつくということです。
 それが平成30年間の停滞を振り返って、バブル崩壊後何故累積債務が肥大化したのか、それは省力化によって収入がなくなったり、減少した人々に所得を回さないで、公共事業や設備投資の補助金に回して供給を増大させたので余計にデフレが深刻化し、その結果税収が減り、累積債務が肥大化したのです。それで脱労働化した人々に、AIやロボットが生み出した所得を回せば、経済がうまく循環するということに気づいたわけです。
 マルクス『資本論』では抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)が価値だという論理になっており、それが前提で、価値は憑物として展開されています。それが本気にしろレトリックにしろマルクスの論理構成です。だから私は価値は労働生産物の社会的性質として展開でき、憑物として展開しなくてもよいとマルクスを批判しているわけです。
 
>>[10]
お忙しい所お時間を割いて、親切に説明して下さって、本当にありがとうございましたm(_ _)m

とても勉強になりました。

廣松渉は故人だから批判してもいいのかなと思ったんですけど、やはりもしも東大に弟子とか後継者とかがいて、或いは、どこかにファンとかシンパとかがいて、僕の攻撃的な文章を目にする機会があったらと考えたら、やはり喧嘩を売るような不穏なことを言ってしまったような気がして、喧嘩はしたくないので、うっかり悪く言ってしまったのはもう仕方ないとして、改めて好意的な理解を示して見せなきゃと思いますけど、経済的な事情が人間の考え方を規定するというマルクスの慧眼から学んで、きっと廣松渉の考え方を規定してた、生まれた家の金銭事情に起因する、マルクスお坊っちゃんとの決定的な考え方の違いというのはやはりあるんだろうな、って思いました。

お金の価値の恐ろしさを思い知って、ちょっと青ざめる思いがしております。
>>[11]
割り込み失礼します。
>廣松渉は故人だから批判してもいいのかなと思ったんですけど、やはりもしも東大に弟子とか後継者とかが

東大系は私の先生のように宇野先生系が多いかと思います。
廣松氏は学生運動系で、つまり社会に広くいると思います。
>>[11]
廣松渉を批判することが私にとって青春だったかもしれません。やはり本気で批判しないと、学べないものです。廣松亜流からたいした思想家はでていないのじゃないでしょうか?亜流じゃないからこそ、取っ組み合っているうちにたくさん学べるわけです。例えば事的世界観に対して、物的世界観から批判しようと思って取り組むと、やはり物的世界観に徹するというのも一面的で、事的世界観にも一理あるわけで、弁証法的に統合できないか悪戦苦闘しました。
でも廣松先生はほとんど反論してくれません。反論したら相手に市民権を与えることになるし、自分も同格にみられるのじゃないか、結局損はあっても得はなしと考えていたかもしれませんね。
でも私が青春をかけて廣松批判をしていたことに対してある意味好感をもっていただいたようで、私が『歴史の危機』を書いた時に出版に協力していただけそうだったのですが、なにぶん廣松先生は肺がんが悪化し、入退院を繰り返していた最晩年にあたり、実現できず、友人の藤田友治さんの斡旋で三一書房からでました。
『廣松論集』は一冊分書いています。そのうちKindle版にするかもしれません。
http://yutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/hiromatsu.pdf
>>[11]
廣松氏の骨子はwikiにも以下にあるとされますね。
《『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスの思想がそれ以前の『経済学・哲学草稿』の疎外論から、後期の物象化論へ思想的転換が起こっているとの独自の見解を展開した。》
その背景には私は以下があると思います。
《1955年7月、日共第六回全国協議会(六全協)を受けて復党するも、翌年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされて離党した。1958年12月、共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。》
>>[13]
廣松氏の弟子って聞かないですね??
>>[12]
有益な情報を下さってありがとうございますm(_ _)m

宇野弘蔵さんのお弟子さんだったのですね。

宇野経済学もいずれ学んでみたいです。

朝日新聞社のアエラムック「マルクスがわかる。」が本棚にあるのでそれをとりあえず読もうかなと思ってます。
>>[13]
度々お時間を割いてご教導下さって、本当にありがとうございますm(_ _)m

先生が廣松渉研究の第一人者であられることを、存じ上げておりませんでした。

恐れ入りました。

迂闊に口を滑らせてしまい、失礼致しました。

先生に対して、僕が廣松渉についての批判めいたことは、申し上げたいことはありません。

というのも、マルクス解釈において対立してる、ルカーチの世界の解釈の仕方も、廣松渉の世界の解釈の仕方も、いずれも不完全だ、と僕は考えてて、個人的には、ルカーチ的なマルクス解釈に親近性が高い考えを採用してますけれど、廣松渉シンパに遭遇したときにはルカーチ的な解釈を自己批判して見せることによって、「すべてに反対します」みたいな天邪鬼な本性を見せないように、自戒することを、モットーとして、これまで哲学的思索をやってきてます。

ルカーチの世界観の廣松渉の世界観と違うところは、一言で言えば、すべての物に心があるとするところにある、と言えるわけですけど、もしもすべての物に心があるとすれば、すべての観測対象が同時に観測主体であることになって、相互作用全般が観測し合う行為であることになって、人間の観測以前から物は存在するとする唯物論と観測が物を生み出すとする観念論をアウフヘーベンした初期マルクスの立場に立つルカーチの考えが正しければ、ミクロの素粒子とミクロの素粒子が相互作用する段階から既に、一つの心が主観と客観という二つに分裂して心が物体という客体にされるということが引き起こってることになるわけですけど、そのような考えは、ミクロの部分はマクロな全体と相互作用しなければ物質粒子になるということは引き起こらない、という現代物理学の一分野である量子力学で得られてる知見と、整合しない、というところが、ルカーチの世界観の不完全性を内包してるところだ、と言えると思います。

ゲーデルの不完全性定理が言い立ててるように、もし無矛盾な理論が存在するとしたら、それは同じ一つの主張が真であるような理論と偽であるような理論という二つに自己分裂せざるを得ない、という意味で、無矛盾性と、真偽決定可能であるという完全性は、両立しないわけで、世界を説明できる無矛盾な統一理論というのは、あり得なくて、理論体系のことを、物語と呼んで、大きな物語の終焉と小さな物語たちの棲み分け、ということが、現代思想では、言い出されてて、近代までは、キリスト教やらマルクス主義やら、統一見解が打ち出されていたけど、理論は統一理論の夢を夢見て帝国主義的侵略行動に走るものだけど、夢は夢のままで実現しないままに終わる、ということが、人文思想系の方面では、現今では、言われてる通り、ルカーチ的な世界観が無矛盾な統一理論を構築するということも、廣松渉的な世界観が無矛盾な統一理論を構築するということも、あり得ないのだとすれば、どちらも一理あるにせよ、どちらも一理しかない、ということを、踏まえて、僕の考えは、どちらかに自己限定しない、という立場を、表明することにしてるわけです。

つまり僕は、相対主義的な思潮に歩み寄って、廣松渉へ批判の矛先を向けることをやめた、ということになると思います。
>>[15]
小林敏明―名大で学ぶ―哲学・精神病理学
熊野純彦ー東大で学ぶー哲学
日山紀彦ー経済哲学
もっといると思いますが。
>>[17]
私も似たような問題意識で、私の立場を「哲学の大樹」と呼び、いろんな哲学を哲学の大樹のいろんな部分に位置づけようというものです。しかしそれを発表しようとすると膨大な時間がかかりますね。
>>[14]
ありがとうございます。

物という表面を上滑りするのではなく表面とは直角に交わる方向に掘り下げて心という原因に考えを致す原因追求型思考を省略しなければ、きっと時間が掛かりすぎて何もなし得ないまま人生が終わるから、運動に参加して現実政治を動かそうとする場面では立ち行かないのでしょうね。

理念の世界から現実政治の世界に目を転じてその固有の力学を理解したら、物質こそ現実だとして即物的に考える論理的思考で行かなければならない、ということが分かるのだと思います。

そう言った事情から、マルクスは、初期の哲学を封印して、お金という物質が現実だとして経済学的な考察に徹する方向に後期は向かったのだ、ということを、廣松渉は指摘してたのかもしれません。
>>[19]
僕が向かうべき先を先取りして示して下さって、本当にありがとうございます。

他にもありうるうちの一つの考え方としては、万有はおのれの真実を恥じて外に対して隠すために虚飾を見せ掛けて見栄を張ってるけれど本当は外に向けて飾り立てられた物という表面を真に受けるのでなくベールを突き破って心という内奥の真実を見抜いてほしいという両義性こそ真実なのだ、という万有の真相についての一つの洞察があるわけですけど、そのようなルカーチ流の考えを、僕は、心という一つの意志が表象する主観と表象される客観に分裂して疎外し合い物象化し合う二つをなしてる状態こそ常態である、とする、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』から、学びました。

心という意志こそ根源的な存在で物象という表象は派生的な存在であるとできる根拠としては、もし物たちが自己組織化した結果として初めてそこに心が派生したというふうに逆に考える唯物論のほうが正しいとすれば、物体が光を遮った結果である影が物体に動かされこそすれ物体を動かし返すということはありえないのと同じように、心は物で出来た世界の事態の推移に何の影響力も行使し得ないことになりますけど、実際には、学校に遅刻しないように足を動かして走ったり授業中に手を動かして挙手したり、心という意志は意志通りに物体という身体を動かすことができてる、という反唯物論的な心身連動順が、挙げられます。

つまり、脳以前である最初からすべての物に心という意志があって、それが世界を衝き動かす原動力をなしてる、とする唯心論的世界観です。

もちろん、それは、別様な解釈を許容しない世界の解釈の仕方ではないから、先生にならって、僕の一解釈を僕なりの哲学の大樹の一部として位置付けて、大樹の完成度を高めてく方向で、これからも思索していこう、と思いました。
>>[24]
Althusser, 柄谷行人は時間の無駄です。
廣松渉は読むだけで疲れますが、内容は同じようなことしか言っていないようです。
>>[17] 「ゲーデルの不完全性定理」などを持ち出すのは著しく不適切です。建築学を学ぶのに量子力学は必要ないでしょう?医学を学ぶのにシュレーディンガーの猫は関係ないでしょう?それと同じように全く違う次元の話でしょう。
>>[27]
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

自然数論で数がちゃんと数えられる無矛盾な理論体系が存在するとしたらそれは不完全だということをゲーデルは言っただけなのに、それを拡大解釈して理論体系一般について言える不完全性があるかのように何となく言ったのは適切な発言でなかったと僕も思いました。

異なる領域の混同が著しかったと僕も思いました。

反省して考えを練り直したい所存です。
白か黒か、真か偽か、しかないとする、理論は、現実というグレーゾーンをグレーゾーンのままで捉えることはできなくて、グレーを白とも黒とも言いくるめ得る、ということの一例として、もし1,2,3,4,5…と数を数えられる無矛盾な理論が存在するとしたら、そのような数学理論は同じ一つの主張が真であるような理論体系と偽であるような理論体系という二つに自己分裂せざるを得ない、というふうに、無矛盾性と真偽決定可能であるという完全性は両立し得ない、とする、ゲーデルの不完全性定理を、挙げることができる、と思います。

概念による概括の本質は一括にこそあって、すなわち理論の本質は複雑で多様な現実を単純な一法則で説明するという画一化にこそあって、だからこそ「例外のない規則はない」と言われる通り、この法則で説明できない例外はその法則で説明されなければならず、その法則で説明できない例外はあの法則で説明されなければならず、というふうに、一つの物語が語り落とすものを拾い上げて語る別様な物語たちが必要になってくることを以って、「大きな物語の終焉と小さな物語たちの棲み分け」と言っているわけです。

個性の多様性は無限で、もし多様な個性を多様なままに捉え得る理論が存在するとすれば、それはすべての個物に一対一対応する名前を付けたもので、現実とデータサイズが同サイズになって現実そっくりになって、現実の忠実な複製にすぎなくなった、そのような理論は、何の理解ももたらさない、という意味で、理解とは、データの圧縮であり単純化であり、単純に割り切るということであり、理論は一般論にすぎなくて、別様にも割り切り得るうちの一つの割り切り方にすぎません。

世界観が無矛盾な統一理論を構築することはあり得なくて、世界についての如何様な解釈も他にもあり得るうちの一つの解釈にすぎない、というのは、そういう意味です。

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