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藤圭子コミュのwiki藤圭子編集会議

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コミュ内全体

藤圭子に関するウイキペディアをよりよい内容にするためのトピックです。

皆さんからここをこうしたいとか、これを追加したいといったご意見を募集します。
ウイキペディアの修正は皆さんの合意をとった上で行いたいと思います。

コメント(23)

sijimi888さんから次の追記の申し出がありました。

・音楽・シングル欄 「母子舟(おやこぶね)」の追記
 発売日 2014年2月13日 作詞:石坂まさを 作曲:平尾昌晃
 カップリング曲 「恋して母は」 作詞:石坂まさを 作曲:平尾昌晃

・CMソング欄 東鶴酒造 「灘酒東鶴」(酔い酔い酒場)の追記

皆さんも他に修正したい点がありましたらこのトピックにコメントお願いします。
現状の人物欄という名称をエピソード欄に変更し、次の内容に置き換えたいと思います。

・マスコミが『一卵性母娘』と名付けるほどとても母思いで仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母をもっと楽にさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという[f]。しかし、1990年頃に金銭トラブルから母とは絶縁状態となっている[a]。

・紅白出場に強い執着があり、1974年の紅白では力を入れていた新曲『命火』もヒットし、事前にほとんどのメディアが当選確実と報じていたにもかかわらず落選したことで、大きなショックを受けてダウンし、その様子を心配した母親が医師に往診を頼んだほどだった。結局それ以降1週間に渡って仕事をキャンセルしている[d]。

・娘の光を天才歌手と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、藤圭子育ての親である石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していたほどだった[a]。同じ頃、藤圭子がデビュー前に世話になった柳家三平師匠の夫人である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている[a]。

・大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている[b]。娘の光が子供の頃、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤圭子が卒倒してしまい、おおごとになったという[c]。

・2006年にニューヨークのケネディ国際空港で約49万ドルに上る多額の現金を没収される騒動を起こすが、2009年になって事件性がないとして全額返還されている[12]。

・麻雀や競馬などギャンブルが好きで、2006年には世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている[15]。

・藤圭子が自殺した後で元夫の宇多田照實と宇多田ヒカルはコメントを発表し、藤圭子が精神の病を患っていたことを公表した[e]。


a〜f は出典元です。

a. 大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」
b. 沢木耕太郎著「流星ひとつ」
c. 2012年7月27日の宇多田ヒカルのツイート
d. 1974年12月発行 週刊明星 紅白落選に呆然 大ショック 藤圭子が突然発病、ダウン!
e. 宇多田ヒカル公式サイト MESSAGE from HIKKI 2013.08.26 8月22日の朝
f. 1971年3月発行 月刊平凡 圭子の自叙伝 第2回


不備な点や改善点がありましたらご指摘願います。
ジャンルの箇所に'ロック,も加えて頂きたく思います。『STAR』というアルバムで、ロックも唄っています。
[3] ポン太さん
そうですね。ジャンルの欄に ”ロック” も追記することにします。
書籍欄を新設したいと思います。

タイトル       著者    出版年月    出版社   備考
演歌の星 藤圭子物語  藤圭子  1971年7月10日 ルック社  絶版
宇多田ヒカル 母娘物語 石坂まさを 1999年11月1日 ゴマブックス 絶版
きずな 藤圭子と私  石坂まさを 2013年10月10日 文藝春秋 再発売
流星ひとつ      沢木耕太郎 2013年10月11日 新潮社
藤圭子(KAWADE夢ムック) 編集:阿部晴政 2013年10月29日 河出書房新社

他にもありましたらお知らせください。
現状のウイキペディアの来歴欄では、

15歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。石坂まさをの紹介で、約1年間、初代林家三平宅に下宿する[5]。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

とありますが、この『約1年間、初代林家三平宅に下宿する[5]』の部分が実際と違っているようです。[5]のリンク先の記事は削除されてしまっていて確認することができませんが、海老名香葉子さんの記憶違いかもしれません。

1970年7月発行の週刊明星「食うや食わずの藤圭子が林家三平と過ごした意外な過去」という記事では次のように書かれています。

おととしの春、藤圭子を発掘したときも、沢ノ井氏は彼女を真っ先に三平師匠のところへ連れて行った。当時、まだ両親と一緒に日暮里のアパートに住んで、流しをやっていた。日暮里から、三平師匠の住む根岸は目と鼻の先。それから1日おきくらいに遊びに行くようになる。もちろん師匠は仕事に出ていてほとんど留守だが香葉子夫人を始め、一家の人たちから「純ちゃん、純ちゃん」とかわいがられた。

この記事では石坂まさをが藤圭子と知り合ったのが1968年春となっています。この記事の記述が事実とすれば、1968年春から秋にかけて藤圭子は石坂まさをの紹介で三平師匠宅へ度々遊びに行っており、1968年秋になって石坂まさをの自宅で暮らすようになった、ということになるようです。

この石坂まさをが藤圭子と最初に出会った時期について、藤圭子は『流星ひとつ』で何年かは明らかではありませんが、寒い冬だったと述べており、その場面は上条たけし先生宅で歌のレッスンを受けていた時で、たまたまそこに石坂まさをが来ていたと話しています。

一方で、石坂まさをはその著書『宇多田ヒカル母娘物語』で藤圭子と初めてあった時期は1968年9月で、場所は石坂まさをの自宅と書いています。

石坂まさをが藤圭子と最初に出会った経緯については、石坂まさをが書いていることと、週刊明星や藤圭子が『流星ひとつ』で話していることとが大きく食い違っています。

初代林家三平宅への下宿の件も含めて何が事実なのかが不明ですので、最初で挙げた部分を次にように書き換えたいと思います。

15歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落ちてしまい、生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをしている。その後、石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受ける[g]。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。


g. 石坂まさを著「宇多田ヒカル母娘物語」


指摘したい点などありましたらお知らせください。
ドキュメンタリー番組の欄を新設し、以下を記載したいと思います。

・わたしは現在(いま)を歌う 〜藤圭子 6月の風景〜 (テレビ東京、1970年) 後にDVD化されている(田原総一朗の遺言 〜藤圭子/ベ平連 小田実〜 DVD、2012年)
>>[5]
書籍欄に追加してください。

● 「悲しき歌姫」藤圭子と宇多田ヒカルの宿ア(デイーヴア)  大下英治        2013年11月1日発行  イースト・プレス
● 「怨歌の誕生」(文庫本)  五木寛之  2013年12月15日発行  双葉社     1970年(昭和45年)の夏に雑誌に連載する。 
                                            以上。      
[11] 藤圭子 人生さん

おお、大事な本を忘れておりました。次のように書籍欄に記載したいと思います。実際の記載は八代亜紀のウイキペディアと同じように表形式になります。

悲しき歌姫(ディーヴァ) 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾 大下英治 2013年11月1日 イースト・プレス
怨歌の誕生 五木寛之 2013年12月15日 双葉社 1970年夏に雑誌に連載されたものを他の短編と合わせて単行本化
dynamoさん 、「wiki藤圭子編集会議」を立ち上げていただき、ありがとうございます。とりあえず思いつくところを提案します。表現等は変更していただいても結構です。彼女の魅力を伝えるためには、<来歴>の前半までの部分で歌唱の素晴らしさを感じてもらうことがポイントと思われます。

--------------
<初めの部分>
〜代表曲は「圭子の夢は夜ひらく」。

→〜代表曲は「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」など。他の歌手のヒット曲なども幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕がする歌唱力と表現力を発揮したと言われている。最大のヒット曲『うそ』をカバーされた中条きよしは『こんなにうまく歌われたらたまんないよ』と作曲した平尾昌晃に伝えている[a]。


 出典元 [a]
 Asagei+plus
 『藤圭子、デビュー時のインパクトは宇多田ヒカルを超えていた』より
 https://www.asagei.com/excerpt/15285


<来歴>
〜計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。

→ 〜計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。
シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。


<年譜> 下記を追加
1970年2月5日 - 「女のブルース」が発売され、オリコンシングルチャートで8週連続1位を獲得する大ヒット。

<アルバム> 「3.演歌の競演 清と圭子〜」を追加、以降の連番変更
LP
1.新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて(1970年3月5日)
  ※オリコン1位20週連続獲得。2013年4月 復刻版CD発売。
2.女のブルース(1970年7月5日) ※オリコン1位17週連続獲得。2013年4月 復刻版CD発売。
3.演歌の競演 清と圭子(1970年12月) ※オリコン1位5週連続獲得。
4.歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う(1970年12月5日) ※オリコン2位獲得
[13] リッチデイさん

ご提案ありがとうございます。内容的には私もすべて賛成です。

一番はじめの部分ですが、ここはGoogleで検索したときに表示される文章ですので150文字程度と短くし、それ以上の部分はリッチデイさんが提案された部分も含めて来歴欄に記載するのがよさそうです。八代亜紀のウイキペディアではそういう構成になっています。
別途、素案として皆さんに提案したいと思います。

他の方も遠慮なくご提案ください。
修正版藤圭子ウィキペディアの素案を2つに分けて示します。
直したほうが良い点や追加したい点がありましたらご指摘ください。
問題がないようでしたらこれでウイキペディアを修正します。

素案 1/2

●ジャンルの欄に ”ロック” を追記

●Googleで検索した際に表示される最初の文章

藤 圭子(ふじ けいこ、1951年7月5日 - 2013年8月22日)は、日本の演歌歌手。本名、宇多田 純子(うただ じゅんこ)[1]。旧姓、阿部(あべ)。岩手県一関市に生まれる。生まれてすぐに北海道名寄市に移り、2、3歳の頃から北海道旭川市で育つ[2]。


●来歴欄の最初の段落を次のように修正。

1960年代末から1970年代初頭にかけて、夜の世界に生きる女の感情を描いた暗く陰鬱な楽曲(『怨歌[3]』)を、個性的なドスの効いたハスキーボイスと独特の凄みのある歌いまわしで歌唱し、その可憐な風貌とのギャップも相俟って一世を風靡した。

代表曲は「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」など。他の歌手のヒット曲なども幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕がする歌唱力と表現力を発揮したと言われている。最大のヒット曲『うそ』をカバーされた中条きよしは『こんなにうまく歌われたらたまんないよ』と作曲した平尾昌晃に伝えている[a]。 

別居中だった夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、娘は歌手の宇多田ヒカル。元夫はムード歌謡歌手の前川清。

幼い頃から浪曲師の父・阿部壮(つよし)[4]、同じく浪曲師であり曲師でもある母・竹山澄子(2010年に死去。享年80)[4]の門付に同行。旅回りの生活を送り、自らも歌った。岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)卒業。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念[4]。

15歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が作曲家・八洲秀章の目に留まり、上京。八洲秀章のレッスンを受けながらいくつかのレコード会社のオーディションを受けるが全て落ちてしまい、生活のために錦糸町や浅草などで母と流しをしている。その後、石坂まさをと知り合い、石坂まさをの自宅に住み込みでレッスンを受ける[b]。1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。


出典元
a.  藤圭子、デビュー時のインパクトは宇多田ヒカルを超えていた https://www.asagei.com/excerpt/15285 Asagei+plus 2018年12月26日閲覧。
b. 石坂まさを著「宇多田ヒカル母娘物語」


●来歴欄の2つ目の段落を次のように修正。

以後、作詞家の石坂まさをと組んでヒット曲を連発。女性ハスキーヴォイスの先駆者・青江三奈とは異なる、ドスの効いた声と凄みの効いた歌いまわしが可憐な風貌とのギャップも相俟って当時の社会に衝撃を与えた。ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。なお、内山田洋とクール・ファイブとの共作「演歌の競演 清と圭子」も含めると計42週連続1位となる。 

シングルにおいても「女のブルース」は8週連続1位、続く「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録し、18週連続1位という同一歌手での連続記録を残す。


●年譜欄に以下を追記

1970年2月5日 - 「女のブルース」が発売され、オリコンシングルチャートで8週連続1位を獲得する大ヒット。
素案 2/2

現状の人物欄を削除し、代わりに次のエピソード欄を新設する

エピソード

・マスコミが『一卵性母娘』と名付けるほどとても母思いで仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母をもっと楽にさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという[f]。しかし、1990年頃に金銭トラブルから母とは絶縁状態となった[a]。

・デビュー前から同居していた石坂石坂まさをに ”アメリカ人になりたい” と話しており、デビューしてから間もなく、藤圭子は熱心なファンのハーフの女の子と友だちになって英語の勉強を始める[a]。

・デビュー当時、マネージャーだった成田忠幸氏は、藤圭子から「いつか、アメリカに行きたい」と聞かされており、藤圭子はアメリカに住んで、そこで、ロックを歌いたいのだろうなと感じたという[a]。

・紅白出場に強い執着があり、1974年の紅白では力を入れていた新曲『命火』もヒットし、事前にほとんどのメディアが当選確実と報じていたにもかかわらず落選したことで、大きなショックを受けてダウンし、その様子を心配した母親が医師に往診を頼んだほどだった。結局それ以降1週間に渡って仕事をキャンセルしている[d]。

・1979年に引退する前、八代亜紀は藤圭子から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている[g]。

・娘の光を天才歌手と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、藤圭子育ての親である石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していたほどだった[a]。同じ頃、藤圭子がデビュー前に世話になった柳家三平師匠の夫人である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている[a]。

・大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている[b]。娘の光が子供の頃、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤圭子が卒倒してしまい、おおごとになったという[c]。

・麻雀や競馬などギャンブルが好きで、2006年には世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている[15]。2006年にニューヨークのケネディ国際空港で約49万ドルに上る多額の現金を没収される騒動を起こすが、2009年になって事件性がないとして全額返還されている[12]。

・藤圭子が自殺した後、元夫の宇多田照實と宇多田ヒカルはコメントを発表し、藤圭子が精神疾患にかかっていたことを公表した[e]。


出典元
a. 大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」
b. 沢木耕太郎著「流星ひとつ」
c. 2012年7月27日の宇多田ヒカルのツイート
d. 1974年12月発行 週刊明星 紅白落選に呆然 大ショック 藤圭子が突然発病、ダウン!
e. 宇多田ヒカル公式サイト MESSAGE from HIKKI 2013.08.26 8月22日の朝
f. 1971年3月発行 月刊平凡 圭子の自叙伝 第2回
g. 「姉」が藤圭子さんのママぶりを振り返る https://dot.asahi.com/wa/2013121300035.html AERAdot 2018年12月26日閲覧。


音楽・シングル欄に次を追記

 2014年2月13日 「母子舟(おやこぶね)」 作詞:石坂まさを 作曲:平尾昌晃
 カップリング曲 「恋して母は」 作詞:石坂まさを 作曲:平尾昌晃

音楽・アルバム欄に次を追記

3.演歌の競演 清と圭子(1970年12月) ※オリコン1位5週連続獲得。


CMソング欄に次を追記

 東鶴酒造 「灘酒東鶴」(酔い酔い酒場)


書籍欄として次を設ける

タイトル       著者    出版年月    出版社   備考
演歌の星 藤圭子物語  藤圭子  1971年7月10日 ルック社  絶版
宇多田ヒカル 母娘物語 石坂まさを 1999年11月1日 ゴマブックス 絶版
きずな 藤圭子と私  石坂まさを 2013年10月10日 文藝春秋 1999年刊行『きずな』の再発売
流星ひとつ      沢木耕太郎 2013年10月11日 新潮社
藤圭子(KAWADE夢ムック) 編集:阿部晴政 2013年10月29日 河出書房新社
悲しき歌姫(ディーヴァ) 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾 大下英治 2013年11月1日 イースト・プレス
怨歌の誕生 五木寛之 2013年12月15日 双葉社 1970年夏に雑誌に連載されたものを他の短編と合わせて単行本化
dynamoさん また、思いつくところを提案します。ご検討ください。


●音楽・アルバム欄の1と2を修正、3を追記、4以降の連番変更 →前回の訂正

1.新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて(1970年3月5日)
  ※オリコン1位20週連続獲得。2013年4月 復刻版CD発売。
2.女のブルース(1970年7月5日) ※オリコン1位17週連続獲得。2013年4月 復刻版CD発売。
3.演歌の競演 清と圭子(1970年12月) ※オリコン1位5週連続獲得。
4.歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う(1970年12月5日) ※オリコン2位獲得


●エピソード欄に下記を追記?

・五木寛之は「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。」と評している(「怨歌の誕生」双葉社)。


●外部リンク欄に下記を追記

・藤圭子(MIXIコミュニティ)https://mixi.jp/view_community.pl?id=90756
 現在も活動するファンの交流サイト。ネット上の情報交換、意見交換などの他に、追悼会やオフ会などを開催している。
[17] リッチデイさん

提案いただいた点はすべて盛り込むようにしたいと思います。

ここで一旦区切り、これまでに提案いただいた内容でウイキペディアの修正作業に入ることにしますのでしばらくお待ち下さい。
これまでに挙げられた要望を含めてウイキペディアの編集を完了しました。
不都合などありましたらお知らせください。
またこれ以外にも追記したい点などありましたらご提案ください。

ウイキペディアはこちらで見れます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%9C%AD%E5%AD%90
dynamoさま
みなさま

エピソード欄の「1990年頃に金銭トラブルから母とは絶縁状態」は、
あんなに好きだったお母さんなのに違和感を持っていました。
絶縁したのは事実でも金銭的トラブルは本当にあったのかなと思っています。
しかしではどのように表現すればよいかわかりませんが。

目が不自由な年老いた母が、昔は大変だったとしてもこの時期には困ることはない状況で、
金銭欲や物欲に囚われるものなのか理解ができないのです。

「被害妄想やそれによる攻撃はより身近な人に向かう。誰が悪いとか原因探しは治療を遅らせるだけ」(大学病院精神科教授)
と聞いたことがあり、後のご主人や娘さんのコメントとも符合していると思います。
周りが大変な以上に家族や友人など人間関係を失ってしまう本人が一番可哀そうです。
母親と絶縁し、夫と何回も離婚し娘とも別居したのも周りの人たちが悪いのでも本人が悪いのでもなく悪いのは病だと思うのです。

大下英治氏の「悲しき歌姫・・」はまだ読んでいないので急きょ注文し週末に手に入る予定でしたが、
締め切りなので先に投稿しました。
utan様

締め切りとありますが、ウイキペディア編集の件でしょうか。それならまだ継続していますので、追記や修正したい点がありましたら要望いただければ対応いたします。

母と絶縁した最も大きな理由は、2013年9月12日発行の女性セブンに、宇多田家の知人の話として掲載された、次のことだと考えられます。

「当時、藤さんは母に強い不信感を抱くようになっていたんです。彼女は絶縁したお父さんから、以前、お母さんが藤さんのギャラを着服していたという話を聞かされていたようなんです」

このことは「悲しき歌姫」には書かれていません。また当時のことだと思われる兄の藤三郎さんの話が、2013年9月14日発行の週刊現代に載っています。

「純子がある時、私にところに電話を掛けてきたことがあります。そして唐突にこう言うのです。
『お兄ちゃん、私は騙された。お母さんは目が見えるのよ』」

デビュー当時にギャラを母に着服されていたとか、母の目が見えていたとかいうのは、本当かどうかは分からないとしても、藤圭子がそう信じたという事実が重要だと思います。

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