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トランスパーソナル心理学コミュの真・善・美 という三大価値観

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様々な宗教で、「真理」の探求などの分野を超えての価値の位置付けは、混乱をきたします。

宗教が真理の提示をするのは、存在の全体を曖昧に認識しているから出てくる発想です。

その昔、インドで始まった仏教は、瞬く間に広まり、インドに留まらず、中国、モンゴル、東南アジア、等の近隣諸国に広がりました。
お釈迦様の教えである「仏教」経典は、8万と言われる膨大な数あり、内容も場所もまちまちで、有難い教えは、混乱状態にありました。
そんな中、中国に天才が現れます。チギと言う中国天台宗の人物です。 チギは、経典を細かく分析し、説かれた時期や場所、教えの種類を分類したのです。 それを「五時教判(五時八教)」というのですが、それを元にしていたのが、中国仏教と日本仏教です。 しかし、歴史の研究から、実際は五時教判で最も劣った教えである阿含時の教えの『阿含経』しか説かれていないことが、分かったのです。
五時教判を根拠にしていた日本の仏教界は、大慌てです。 その事を明らかにした東大教授は、抹殺されました。 今は与党でもある政治団体の母体でもある法華経系の振興宗教も、五時教判をもとに、これが真実であると、無茶苦茶して信徒を増やしたのに、今更、真実は違かったので大混乱です。

ギリシャ哲学の真・善・美という三大価値観は、「真」というのは、真実です。 客観的真実を追求するもの。つまり「科学」です。 しかし科学というのは世界の一解釈に過ぎないことを忘れてはいけない。

「善」というのは、「道徳」等の正しさ、倫理上の良きこと、関係性の中の知恵を指していて、要するに「宗教」のことです。 これも絶対的に正しいものというのは、なくて様々な宗教があります。


「美」というのは、「主観」のものなので、私が行う判断なのです。 美の価値観は、芸術やファッションでも好みがある様に、「判断」は主観に基づくものですから、正解はありませんが、より多くの人が認めた方が良いのですが、マイノリティーというのもありますので、自分がそれで良ければ、良しなのです。

コメント(478)

>>[439]

僕もお茶をいただきながら、参加者ひとりひとりの個性あるありようが、私たちがたどり着こうとしている道先をさまざまな角度から照らし、さまざまな問題にスポットライトを当て、尊い探究を深めて下さっているのだなあと感慨にひたらせていただきました。
カルマ・ランジュンさん

>「言葉は真実(真理)を顕らせない」

この「言葉」は一つの「真理」を顕わしている(指し示している)…
というミニパラドックスですね。

このことを念頭に置きつつも、幾人かの先人達は、他の(後世の)人々も「真理」に到達することを何よりも願う「慈悲」の心をもっていたからこそ、多くの「言葉」を残そうとする様々なアプローチを考え、挑んできたのではないでしょうか?

カルマ・ランジュンさんにとっての「善」とは何か?の問いに、

>「善」は「慈悲」のようなものであり、慈善的なものではなく、宗教的なものだ

といったような趣旨の説明をしてくれましたよね。

もし、「慈悲」は三昧を通してのみ得られる境地だとした場合、確かにその指針の「言葉」を残してくれたものは、仏教などの経典にあったとしても、「私たち」という集団(宗教)によって得られたものではなく、あくまでも「私」という個人の体験に当たるということにはならないでしょうかね?

そしてもう一つ言えることは、三昧という言葉を知らない者でも、「慈悲」は、「私」という個人の中での心の変容過程を踏んだ上で、その境地に至ることのできる可能性のあるものだとも思いませんか? 単に後になってその体験は三昧という「言葉」でも表現できる同じ過程を踏んできたと共感したとしても…。

少し話が飛びますが、「平等」という「言葉」がありますよね。
普通、この「言葉」を聞いた時、ギリシャ哲学などに由来する「人間は、人種、信条、性別、社会的身分などの違いにかかわりなく、個人相互の間において、人間としての価値に差異はないという思想」に基づいたような「差別がなくみな一様に等しいこと(⇔不平等)」といった意味で受け取っている場合が多いかもしれません。ちなみに、「真善美」の理想論を打ち立てたプラトンにおいては「経済的平等」の実現する理想国を夢みたと言われています。

けれども、この「平等」という言葉は仏教用語では、「真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること」といったちょっと違ったニュアンスをもっているようです。
「平等界」は、すべてのものの間に差別のない世界。真如の世界。
「平等観」は、とらわれのない空の立場に立って、すべての事物が平等であることを心に観ずること。
「平等心」は、すべての人々を平等にいとおしむ慈悲の心。
…といったような概念があり、「平等」の対語は「差別(しゃべつ)」としていますよね。
「差別」は、万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること。

前者は、外的要素から導き出すような「行動心理」のような感覚と言えるかもしれませんが、
後者は、内的境地から湧き上がるような「心の状態」のような感覚と言えるかもしれません。

仏教における、「平等心」とは「慈悲の心」の顕われとするなら、「差別心」とは「善悪でものを計る世俗の心」の顕われということになると思いますが、そうなると、「慈悲の心」は「善の心」と言うより、「悪の心」も包み込むようなものとも言えないでしょうか?


それはさておき、ここで質問です。

「平等」を尊重する親が、二人の子供に自分の財産を生前分与しようと思いました。
ところが、子供の一人は真っ当に働いて、そこそこ満足のいく生活をしていましたが、
もう一人の子供は、事業に失敗し、借金しなければならないような生活をしていました。
さて、もしカルマ・ランジュンさんが「慈悲(≒善?)」に溢れているその親であったなら、
自分が納得するような「平等」になるようにするためには、お金をどのように渡すでしょうか?

もし、カルマ・ランジュンさん以外にも、自分ならこうするという考えをもっている方がいらしたら、
是非コメントください。
最も深い真理は言葉ではなかなか表現するのが難しいんだよ〜と言う場合、
「おい、今、言葉で言っていることそのこと自体はどうなんだ」というツッコミがあるとしても、これは何も最も深い真理という言葉で考えていたものには含まれませんから。
最も深い真理という言葉で指し示しているものと、それが言葉ではなかなか表現しづらいということとは同じでもないし、後者は前者に含まれるものでもありません。
だから、この場合には「言葉で言えないと言いながら言っているじゃないか」という批判は成り立ちません。

言葉で表現しづらいものだということなど、大した真理ではありません。本当に表現しづらいその中味は別のものです。
単にその場その場の思いつきで浮かんでくる優しさやいたわりももちろん大切なものですが、

また、特定の人に向けられる優しさやいたわりも大事でしょうが、

宗教的な、より深い、あらゆる人々、あらゆる生き物に対する慈しみや憐れみ(大慈大悲)というのは、場面や相手により制限されるものではないだけに、本当に身につけ、なりきるというのはなかなかに困難な道のりだと思います。
その個人個人におけるプロセス、修練を何も特定の宗教の言葉で表現しなくたっていいじゃないかという吹黄さんの意見はその通りだと思います。

「思考」と「自分自身」とを、同一化していませんか?

という根本的な誤謬を感じます。






唯識派では「聖教に準ずる」無着・世親が展開したヨーガ行派から、「論理に準ずる」陳那・法称の認識論が重視される様になりましたが、それはそのまんま、金剛乗に流れて行きました。 何故か?

チベット仏教の新訳派(カギュ・サキャ・ゲルク)では、「ディベート」を行います。 それは認識・論理を研磨する為です。論理の優劣では無く自身に誤謬を気付かせる事が出来なければ正しくても負けなのです。 菩提行の為にやります。
古訳のニンマは、禅仏教のエッセンスを統合したので言葉よりも実感を大事にしますが、言葉を排した部分(直接知覚)を尊びます。

しかし「言葉」は大事である事は自覚しつつ、「脱同一化」を重視します。


禅では、思考を否定します。 否定と言っても自分の本質では無いと「脱同一化」 するという事です。
「空」の教えの根幹は言葉の虚構性を看破して、言葉は真実を現さないとして退けます。 とは言いつつ、唯識派が論理を重視する傾向がうまれ、論理を重視するとカルマ(因果律)が重視され、因果律に基づく世俗諦が注目されます。 世俗諦とは、因果関係に基づく二元論的な見解です。

仏教用語が並んでいますが、テクニカルタームは膨大な説明を省いてくれるので使用してますが、仏教に拘る必要はないのですが、他の哲学だと適切な説明が難しいので仏教のを良く使うだけです。

心理学的に表現するなら、思考で世界を説明出来ると考えるのは、大いなる慢心で、海を見た事のない人に観念で大海を説明のと同じで、実感として伝えるのは困難です。

しかし一瞬でも、海を見見たならば、実感として判ります。 ぐたぐた手を変え、品を変えて説明しても、本当の所は伝わるかどうか判りません。 本人が見たい様にしか世の中を見ないからです。

五感に注意深く関わっている時は、「今ここに在る」事が出来ますが、過去や未来は、実際には無い構築物です。

実際には常に「今」しかありません。
過去の傷を庇い、未来への不安と期待で行動しているので、「今」は何処にも無い状態になり、過去の積み重ねで自分が出来ている気になっています。


それで、話は戻って、あれこれ「思考」で分析したり、分別したりして何かわかった気になる様ですが、思考で判った気になる事に真実は有るのだろうか?

そういう意味で、本末転倒して言葉で真実を指し示す事が出来るのか? 仏教の話になりますが、龍樹が代表作『中論頌』で事実を表す為に否定論法しか使えなかった背景にある真意は何処にあったのか?
あれだけの智者が、真実を顕す為には帰謬論証法しか使えなかったのは何故だと考えますか?
これは問おてるのではなく、一瞥して下さいという意味です。 議論しても意味が無いので、各々が自分で納得して下さい。
>>[441]

>「平等」を尊重する親が、二人の子供に自分の財産を生前分与しようと思いました。 ところが、子供の一人は真っ当に働いて、そこそこ満足のいく生活をしていましたが、 もう一人の子供は、事業に失敗し、借金しなければならないような生活をしていました。 さて、もしカルマ・ランジュンさんが「慈悲(≒善?)」に溢れているその親であったなら、 自分が納得するような「平等」になるようにするためには、お金をどのように渡すでしょうか?

仏はすべての生き物に平等に仏性を認めていらっしゃいながらも、その仏性を開花させるかどうかはもちろん人によりさまざまで、順調に修行に励む者もいれば、数々の煩悩に苦しめられるばかりの者たちもいるでしょう。
しかし、仏はすべての人を救うことこそ本願だから、迷いの海に沈んでいる人たちに対しても、さまざまに巧妙な手段を用いて仏道に入らしめんとなさるのではないでしょうか。
もちろん巧みな弁説で教え導こうとされるのも、その重要な方法の一つだと思います。
>>[445]

>>「思考」と「自分自身」とを、同一化していませんか?

真摯に自分を省みても、まったく同一化していないと断言できますね。
これは、私自身が「言葉(グルジェフは知識と表現していたこと)」と「存在(being)」は全く別の世界だと言ったように、前に話したようなあの体験以来、私にとって「思考」はただの道具でしかないのでいつでも捨てられるようになったと言ったことにも通ずるものです。
(それを他人が信じられるかどうかはわかりませんが…)

しかし、カルマ・ランジュンさんは、being の用法がわからないと言ったので、それこそただ同じことを言っていたということが伝わらなかったのだと思っています。

>>という根本的な誤謬を感じます。

何の視点も示さずに「誤謬」という言葉を使うのは、自分にとってはある意味絶対的な「正しさ」をもたずしては言えないことですよね? ここにおいても、「自分は正しいと思うことはやめる様にしようと心掛けてはいる」といった「言葉」の矛盾に結び付くのではないでしょうか? つまり「実態」としての「自分自身」と「言葉」の乖離(うまくリンクしていない状態)を私は反対に感じてしまいますね。それは「同一化していないからだ」という理由では済まされない、別の問題だと思います。

次の言葉も、単なる表層の言葉のお遊びではありません。

>>「言葉は真実(真理)を顕らせない」

>この「言葉」は一つの「真理」を顕わしている(指し示している)…
というミニパラドックスですね。

世の中には、「この言葉こそ真実(真理)を顕わしている!」と信じ込んでいる人が山ほどいると思いませんか?(このことによって戦争まで起こしている人さえいると思っています。) そんな人々に対する一つの警鐘ともなるパラドキシカルな「真実の言葉」とも言えますね…と申し上げたのです。

「思考」と「自分自身」という関係は、二通りの解釈ができるのではないでしょうか?
その話を展開するのに、とても有名な方なのでご存知だと思いますが、
ジル・ボルト・テイラー博士の話を思い出します。
(知らない方がいらしたら、是非最後まで話を聞いてみてほしいと思っています)
http://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight?language=ja

「左脳機能」と「右脳機能」の違いによる認識の仕方の差が起きてしまうという現象、つまり大部分の人間は「左脳優位」なままに「自分自身」を認識するが故に「思考」と「自分自身」が同一化してしまっているということに当たる場合が一つに挙げられると思っています。この「無意識」が問題を起こす引き金になることもあると思いますが、この場合は、これと同等に稀にいる「右脳優位」なままに「自分自身」を認識してしまって同一化をしてしまっている「無意識」が問題である場合も想定しておく必要があると私は思っています。(ちょっとした神秘体験のようなものにだけに価値があると思い込んでいる人などがその例かもしれません。)

けれども、もう一つは、「思考」という「言葉」を、左右どちらであろうと脳機能そのものを指す「道具」という意味とみなし、それとは違う「自分自身」といういわば「肉体とは違う何かを含む全体」という関係において、同一化してしているか否かの問題として取り上げる場合とは違ってくるでしょうね。

これらの二つのことが想定されるわけで、その「実態」を探る時、後者の意味で自分は語っているつもりでも、案外、前者のようなケースが多いようにも感じます。

私は、まず左脳ばかりに偏っている人に対しては、右脳も使うべきだと思うし、反対に右脳ばかりに偏っている人に対しては、左脳も鍛えるべきだと思っています。そうした上で、両方の機能をバランスよく「道具」として使える「可能性」と、それに同一化してしまう「危険性」の両方に目をやるべきではないかと思っています。


>否定論法しか使えなかった

それができるのは、すでにできあがった「言葉」が存在しているからこそ、それを指標軸にできたわけで、「言葉」を使っていることには違いないのではないでしょうか?

それに、先人達が皆そうであるかといえば、いろいろな表現法や、アプローチ法、象徴、神話、寓話などといった様々な方法論を取っているわけで、そこまでして諸刃の剣のような「言葉の危険性」を冒してでも人に伝えたいと思えるその背景には、皆研ぎ澄まされた純粋な「仁(慈愛・高次感情etc.)」が隠れたところで働いているからではないでしょうか?
カルマ・ランジュンさんと吹黄さんのやり取りは重ねられるたびに、そばで聞く私たちにとってさまざまな論点や検討課題を浮かび上がらせてくれて、コミュニティで学ぶ者にとってとても有益だと思います。
お二人のお話とやり取りに共に敬意をささげます。

頭でばっかり考えて、さもいろいろ考えているつもりでも実は逆に大切なことを見落としているんじゃないかという、自己の理論理屈との同一化のありやなしやという問題が取り上げられました。

それに対して、理論理屈にばかり同一化することの非と、体験にばかり同一化することの非の両方を見据えた上で、語ることの大切さを実践しているだけだという反論可能性が呈示されました。

そして、理論理屈(思考)との同一化という、実は確かめるには手間や会話を必要とする問題を安易にレッテル貼りに使用し、あなたにはそういう誤謬があると断罪するところには、実はもっと別の問題があるのではないかと掘り下げられました。

また、インドのナーガールジュナが『中論頌』で否定論法しか使わなかった意味を考えるべきだという提案がなされ、いやいやそれさえも一連の言葉と文章を書き上げることによってなされたのだ、決して言葉を馬鹿にし、ゴミ箱に放り捨てたわけではなく、一つの大切な手段・方便として生かしているではないかという議論がなされました。

こうした諸論点は私たちがトランスパーソナル心理学に向き合う時にも、まさにたびたび浮上してくるものであり、お二人によってこれらの問題がきちんと取り出されたことは大いに有益なことだと思います。
自分の思考とか頭の中のことに縛られる、とらわれるということがいわゆるそれらとの同一化と呼ばれるとしたら、これは誰にでも起こりうる事態だ。
私たちの意識とは常に何かについての意識だということが仏教でも、また西洋哲学でも言われる。何かを考えてること自体が、否応なしに私たちの意識なのだ。
だから、ある考えから出られなくなっているという同一化は、より厳密に言えば、それとは違う考えが成り立つ可能性に意識を向けられなくなっているという硬直化を意味する。
>>[446]

私が出した質問に対して、応じていただき、ありがとうございます。

あの質問は、出家した一部の人には少し縁遠い話になってしまうかもしれませんが、その他のほとんどの人々は世俗の中で生きているわけで、「生活」と「お金」の問題が必ずやからんでくると思います。

本当の「平等心」を養う過程(orその結果)にて、それをその「生活」の中にどのように「応用」するか…
あの質問に「正解」が存在しているわけではなく、人それぞれ自分が納得する方法をどのようにとるか、それを問題にしてみました。

もし、親が死んでしまえば、(遺言書がなければ)法の下の「平等」で、それぞれがきっちり1/2をもらってそれでただ終わりとなります。

なぜ生前分与という設定を行ったかというと、「お金」という有形の財産ばかりでなく、自分のもっている「平等心」という無形の財産も一緒に分与できるかもしれないという可能性に賭けてみたいという思いを
胸に、それをどこまでお金を渡すという「行為」とともに「言葉」に込めて伝えられるかという一つの挑戦をするというシミュレーションをしてみませんかと誘ってみたかったからです。

もしよければですが、78910さんならば、具体的にどのような対応をとるか…お聞かせください。
>>[450]

急に吹黄さんが具体的な内容の問い掛けをされていらしたので、その意図もちょっとよくわからなかったし、またそう簡単に答えを出せるような問題とも僕には思えなかったので、あえて喩え話をされたのだと受けとめさせていただいて答えてみたのです。

あらためて、そのままの具体的な問題なのだと受けとめさせていただくと、やはり子供たち一人一人の人格が見えてこないと、まだまだ抽象的な話にとどまって何とも答えようがありません。子供たちの人格次第で答えは変わってきてしまうと僕は思うからです。
>>[451]

>子供たちの人格次第で答えは変わってきてしまう

確かに、ケースバイケースでしょうから、それぞれの条件を設定して、この場合はこうする…という数例をあげてみてほしいところでもあるのですが、そこまで付き合う気はないということのようですので、

この場合、三者(親子)とも、人間の理想を求めるそれなりの「求道者」どうしだったならば…
という設定ではいかがでしょうか?
>>[452]

借金で困っている息子が目の前にいるとなると、助けてあげたいという気持ちになるのも人情のせいか親バカのせいかわかりませんが、
しかし、その借金息子でさえ求道者だという設定ならば、変に肩入れするよりも、自らが招いた事態に対しては自ら苦労させるのが基本と考えて、
二人の息子には平等に与えるか、平等に与えないかかなあと考えたりします。
しかし、実はそういう事態に実際、自分がなってみないといろいろとどんなことを考えるか、わからない所も多いです。
>>[453]

ちょっと世俗的な話と思うかもしれませんが、お付き合いしていただき、ありがとうございます。

単なるシミュレーションですが、もう少し具体性を帯びるように、次のようなことも設定しておきます。

「人情」か「親心」か、それとも「慈愛」からか…言葉で区別がつけられなかったとしても、未来ではなく、「今」の一人の息子の借金という「現実」を目の当たりにしたが故に、この親は生前分与を考えるきっかけになったということにしましょう。

そして、その与えるといった財産は、全額だと借金からプラスに転じる額だけれども、半分になると借金はまだ残るといったような額だとしておきます。


私の場合は、親子関係だけではなく、友人や知人においても、精神的な問題に時間と労力を割いて付き合ってきただけではなく、(自分も決して余裕あるわけではなく、切り詰めた生活を送っていたにもかかわらず)実際にサラ金地獄から抜け出せない人から助けを求められたり、統合失調症で働けなくなりお金に困っている人に付き合ったりする中で、何十万という単位でお金を動かしたり、自殺願望を持っている人と話をするために、自腹を切って飛行機代や宿泊費を支払ってまで出向いて行ったりしたなどなど、自分の心の向かうことを為すためにお金がらみで様々な事をしてきただけに、お金の問題も切り離せないものだとも思うところがあるのですよ。つまり、何事も机上の空論に終わるのではないことを確かめるかのように、この俗世の中で実践する内外の体験を通すためには元手もいるというわけです。結局いろいろ失敗だと反省することもあれば、実りあることだと満足することもありました。

話は突然、まったく飛びますが、こんな経験があります。
ある日、近くのペンションの庭の柵越しに、馬を見かけました。あまりのかわしさになんとか近づいて、なでてみたい衝動に駆られました。ちょうど、その時は離れたところに借りていた畑から、人参を何十本か収穫してきたところでした。そこで一案浮かんで、これを餌にして呼び寄せてみようと実行しました。それが成功して、うまく馬が首を伸ばして人参をぎりぎりのところで食べられるようにしている間に、首筋をなでることができたのです。そりゃ〜大満足でした。人参の残りが二本になったところで自家用にとやめて、ほほえましくも帰ろうとした時、突然、激痛が…。なんとその馬に太ももを噛まれてしまったのです!
「なんてこった!」まったくの予想外の展開に、自分のとった軽率な行動を顧みました。中途半端に自分の勝手な気持ちだけで、相手の「欲」に火をつけたなら、自分では背負えない事態を引き起こすこともあるのだと気づきました。そして思ったのです。これは人間界でもありの話だな…と。

と、こんな話をしたのは、借金の穴埋めや、生活費の算段をつけるために、実際に施してしまったが故に、(もちろんそれなりに話もしたのですが)それは一度に留まらず、結局自分の手に負えずに途中でストップしたがために、連絡がとれなくなってしまった人もいたなどで、馬の話とオーバーラップしたというわけです。
>>[454]

この世におけるお金の問題が、いかに言葉の上だけで心地よい天国や浄土を語ることと鋭く葛藤しうるかということに焦点をあてることが借金息子の喩え話とクイズの真意だったのだということ、了解いたしました。確かにその問題をありきたりの話とは区別して呈示しようと思ったら、吹黄さんが苦心されたようなひねりが一段階必要だったのかもしれません。
おそらく吹黄さんは、なかなかご自身が味わったような経験は人はしていないだろうと思われて、それで編み出されたクイズを入口とされたのでしょう。

しかし、僕はここ数年、実は同じ事態、同じ問題に現実生活で関わってきました。吹黄さんのご経験とまったく同じなのか、より大きいのか小さいのかを比べる気はありませんが、
僕にとっても今までの人生で初めての事態に、自ら希望したわけでもなく踏み入らざるをえなくなって、正直、さまざまな思いを味わい、決して心楽しいわけではなく、苦しく苦々しいことでありました。
そして、おそらく吹黄さんがそのような問題に今あらためて検討の目を向けたいと思われたのだとしたら、
これは僕にとっても、いい機会を与えていただいたと思います。
ともにこの問題に含まれるさまざまな論点を真摯に検討してみましょう。
誰もがすぐさま簡単にブッダやイエスのように家を捨て、仕事を捨てて生きてゆく決断がつくわけではない。また、そうした生き方が本当に正しいのかどうか簡単に答えが出せるわけではない。
しかし人はブッダやイエスが語る言葉に教えられ、彼らを見習おうとする。

いったい私たちはどこまで彼らを見習えるのか。自分に支障のない所までか。
それとも、多少の支障が出ようと、できる限りその教えに従おうとするのか。
火傷しそうになったら、手を引っ込めるのか。
どこまで自分を追い込めるのか。
どこまで本気で追求するのか。
どこまで時間や身銭を切って人の援助が出来るか?・・・ということであれば案外私ははっきりしているかもしれません。
自分の人間としての許容量は大したことはないので、後悔しない程度、見返りを求めない程度しかしないです。
きっとこういうのはキリスト教的精神からいうと良くないのでしょうね。

吹黄さんの生前分与の話であったら・・
借金分を補充してやりたいと思えば、まず借金を返し、残りを半分ずつあげるかな。
そこは借金している子供の様子、もう一人の子供の意見次第ですね。
とにかく話し合ってから決めると思います。
>>[457]

私の設問にお答えいただき、ありがとうございます。
これについては、また後ほどコメントさせていただきます。


>きっとこういうのはキリスト教的精神からいうと良くないのでしょうね。

はて? キリスト教精神はどのようなものだと考えてでしょうか?
「偽善者」であるより、よっぽどすばらしいものだと思いますが…。

確かに、『新約聖書(マルコ12:41−44)』の中には、
「the widow's mite/やもめの小銭」(貧者の一灯)という話がありますよね。

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41イエスは,さいせん箱にむかってすわり,群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は,たくさんの金を投げ入れていた。

42ところが,ひとりの貧しいやもめがきて,レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。

43そこで,イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた,「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは,さいせん箱に投げ入れている人たちの中で,だれよりもたくさん入れたのだ。

44みんなの者はありあまる中から投げ入れたが,あの婦人はその乏しい中から,あらゆる持ち物,その生活費全部を入れたからである。」
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実は、「貧者の一灯」の言葉自体は、仏教説話(『阿闍世王受決経』)によるものです。
少しずつ異説はあるものの、おおむね以下のような話のようです。

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マガダ国のアジャセ王が、釈迦を招待し、その帰路を万灯をもって照明しようと考えました。
そのことを知った城下に住む篤信のある老婆も、灯を供養したいと望みました。しかしこの老婆は、物乞いをしながら日々の生活をしている貧しさで、持ち越しているお金は一銭もありません。そこで老婆は、その日物乞いで稼いだ(別説:生活の糧である山羊を手放した)お金全部を投じて、わずかに一灯を得ることができました。それを、アジャセ王のきらびやかな万灯の片隅にそっと献じました。
その翌朝、アジャセ王が献じた万灯はすべて消えてしまっていました。しかし老婆の一灯だけは消えずに、明々と灯っていました。(別説:真夜中に嵐が吹き荒れたため)

それを目連尊者が消そうとしますが、なぜか消えません。目連といえば、「神通力第一」と言われた、釈迦の十大弟子の一人です。その目連をもってしても、老婆が献じた灯を消すことはできませんでした。
それを見て、釈迦は言いました。
「目連よ。そなたの通力によっても、この灯は消せはしないのだよ。なぜなら、この一灯こそ、真の布施の灯であるからである」
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これらの話を心の片隅にそっと置いておくなら美しい話かもしれません。けれども、その受け止め方は人それぞれだと思います。78910さんの話ではありませんが、どこまで自分の行動と結びつけるかは難しいところだと思います。

キリスト教的な発想の中には、善行を行なうことによって、将来のあの世(天国)を想定している場合もあるし、仏教でも、「釈迦はこの貧者の心からなるお布施によって、来世のよき世界への生まれ変わりを約束した」というオマケもついていたりします。もし、これを前提にしているとするなら、また話の受け取り方は変わってきますよね。

それとは別に、こうした善意がおひとよしとなり、それにつけこんで信者にあるだけ(時には借金までさせて)お布施させるような悪徳商法的な新興宗教なども実際に存在して問題になったこともありますよね。

「善」「慈愛(慈悲)」に「お金」と「心」がからんだ話になると、なかなか言葉で言い尽くせないところがありますよね。
>>[457]

後悔しない程度、見返りを求めない程度というのも自分の中ではっきりした基準のようでいて、実は自分において後悔しない程度を上げてゆこうとか、見返りを求めない程度を上げてゆこうという心が働きだしたなら、たちまち不動の基準どころか流動的な基準になるものだと思います。
そして宗教的挑戦とはまさに、こうして今までの自己が固く守ってきた当たり前の基準に対し、自己の許容度を増す変容を突き付けるものだと思います。
>>[459]

世の中に悲しいことながら隠れている悪意の人たちから自分の身を守ることはとても大切なことだと思います。それは同時に、彼ら彼女らに悪い行いを一つでも行わせないことにつながります。その機会を奪い、今以上に悪業を積むことをおさえる。

だから人に施し・布施をするという場合もただ無思慮に行えばいいというものでもないと思います。吹黄さんがたびたびおっしゃる悪意をもってつけこんでくる人物。彼ら彼女らを見分け、彼ら彼女らにそれ以上悪業を積ませたくないという本当の智慧と慈悲を持つならば、しっかりと要求をはねのけること。

しかし、自分が相手のことを本当に困っている人だと判断したなら、その時その時の自分のふところ具合や、あるいはどこまで自らのふところを苦しめる覚悟があるかという挑戦課題なども見極めながら、できることをする。

とりあえず、そんな所まで、そんなレベルまで、思うところを書かせていただきました。
いろいろと教えていただけたり、ご意見をうけたまわれたら嬉しいです。
>>[459]
引用されたお話と一緒に覚えている話があって、(聖書のどこであったか、内容も正確ではありませんが)
イエスに帰依したいと名乗り出た人がいました。
その人は、イエスに持ち物全てを分け与えて、それから来なさいと言われてがっかりして帰って行きました。
大変なお金持ちだったのです。
イエスはそれを見て、「お金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るより難しい」と言われた話がありました。
マザーテレサも「有り余るものを分け与えるのではなく、心が痛むほどに分け与えなさい」と言う風なことを言われていたと思います。
私はそこらへんがキリスト教の精神かと思っていました。

イエスの言葉は今思うと微妙に脅迫めいて、天国のハードル上げ過ぎでは・・・と思います。
(実際に本人の言葉かどうかはわかりませんが)

善き行いをしようと思うならば、主体的に行動して、周りをよく見、絶対に利用はされないと思うぐらいでないと危ないですね。このような世の中では。



>>[460]   
流動的・・まさしくそうですね。それはだんだん変わってゆくものだと思います。
ただ、変わらない所もあって、それは、「その時の自分の判断で決めた」ということです。
あんまり適切なたとえではありませんが、
去年はお布施を千円した。今年は2千円にしてみようとか、時間と共にちょっと気前がよくなっているかもしれません。
別に善意に相場があるわけではありませんし。
相場があるとしたら第三者に意図的に作られた可能性が高いと思います。
>>[462]

メラノさんの取り上げられたところは次の話によるものですよね。

この話の真意を弟子がどれだけ的確に受け止めたのかわかりませんが・・・
前後に微妙な言葉のやり取りがありますが、単純に「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしい」が強調され、浮き彫りになってしまっていますが、別の解釈をあえてするなら、「むつかしい」と言ったのであって、「不可能だ」とは言っていないところがミソのような気がします。

「マタイ19:16-19:30」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#19:16

「マルコ10:17-10:31」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#10:17

この「マタイの福音書」のページでは、どっからの翻訳かわかりませんが、一般的な訳である「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」の有名な文言の「らくだ」が「ロープ」になっていますが、ある意味、突然「らくだ」が出てくるより「ロープ」の方が自然の流れのイメージのようにも思えたりもします。(こういう風に<言葉>そのものがどれだけ正しく伝えられているかはわかったものではないと思うところもあります。)

弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて「では、だれが救われることができるのだろう」と言ったのに対し、イエスは「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」と答えた上に、見返りを求めるかのような発言をしているペテロに対して、前回話したように、ニュアンスとしては「(今世において)捨てた者は、(将来、来世において)その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」との交換条件(お約束事)のようなことになってしまっていますよね。

そして、結びの言葉「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」の意は謎です。

ちょっと小手先?の私の勝手な想像的な解釈をしてみますが…最初の「不可能ではない」と言ったのは、「らくだ」であったなら確かに絶対的な不可能さを感じてしまいますが、もし仮に「ロープ」がもとの<正確な言葉>だとして、「富んでいること」を「太さ(ロープ)」で表わし、「身一つ(でイエスについていくこと)」が「細さ(糸)」を象徴するようなものだと考えたなら、「針の穴」を通ることも「理にかなったたとえ」ともなってくるかもしれない?と思ったりしました。ある意味単純なそんなことでも、「人にはそれがなかなかできるものではない」というニュアンスで、それが「神のもとにおいては不可能なことはない」といった意味が、奇蹟的な力を信じていた弟子には、ちょっと理に合わない事でも神ならば不可能ではないという意味として解釈して受け取った???かもとか・・・少し短絡的かもしれませんが、あれこれ思いをめぐらしたりもしています。イエスという師が目の前にいることを前提に、本当の意味の「捨」を敢行できることを弟子の門としたという話なのかもしれないとも思ったりもしました。

少なくても単純に、「皆、貧者になれ」とイエスは言っていたわけではないと思うのです。有名な「放蕩息子のたとえ話」では、(私の先の設問と道具立ては似てはいるものの、まったく意図が違ってますが、)
兄(パリサイ派、ユダヤ人)に対して弟(放蕩息子=罪人≒異邦人、取税人、遊女たち)が、父(神)のもとにある豊かな世界への回帰を喜ぶという話の中では、あえて精神的な描写ではなく、世俗的な道具立てで展開されていることなどを考えあわせると、単純に「富」を頭ごなしに否定していたのではないのではないかと思ったりもします。

「ルカ15:11-15:32」(放蕩息子のたとえ話)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#15:11
すみません。

mixi上では、リンクが途中までとなってしまうようで、それぞれ、
「マタイ19:16-19:30」は第19章の中から、
「マルコ10:17-10:31」は第10章の中から、
「ルカ15:11-15:32」は第15章の中から、辿って行ってください。
>>[464]
なるほど、らくだと針の穴ではなく、そういう解釈もあるのですね。そのほうが自然かもしれません。
しかし、らくだとロープでは随分訳が違いますね。
聖書は随分書き換えられているという話もあるから、適当に読んだ方がよい箇所があるかもしれません。

放蕩息子の話も印象的な話ですよね。
ただ、私の記憶している話では、放蕩息子の帰還を喜んだのは父で、弟は怒って文句を言ったのではありませんでしたっけ?
着物を着せ、履物を履かせ、指輪をはめさせ・・というのが案外物質的ですが、大事にしている感が伝わってきたように思います。
この話は自分の中で解釈が変化して来たものの一つです。
父の手伝いをしてきた真面目な弟は、私たち自身であると思います。
すみません、貼っていただいたアドレスでさがせなかったので、おぼろげな記憶を頼りに書いています。
>>[464]

>単純に「富」を頭ごなしに否定していたのではないのではないかと思ったりもします。

これは私たちにとって、悩みがちな大切な問題ですね。ちゃんと考え、各人においてしっかりと答えを出すべき問題だと思います。
>>[466]

重ね重ね、すみません。
リンクできなくなってましたね。

それぞれ、次の言葉の検索をして、そのページ行き、

マタイによる福音書(口語訳)-Wikisource
マルコによる福音書(口語訳)-Wikisource
ルカによる福音書(口語訳)-Wikisource

マタイは、第19章19:16から、
マルコは、第10章10:17から、
ルカは、第15章15:11から、見てみてください。

(放蕩息子は弟の方で、文句を言ったのは兄の方ですね。)
78910さん

実際に「生きていく」ということは難しいもので、たとえ精神的なものの探究(獲得)に身をささげたいと思っていたとしても、根底には物質的なものの土台もなくては成り立たないという現実に突き当たります。その根底というボーダーラインをどこに引くかも、難しいところだと思いますが、自分に何ができるか見極めるのも難しいですね。

悪業を重ねる人、手を染める人も様々で、自分の私利私欲の富のための人もあれば、現実問題、悪いとわかっていても、生活苦から逃れるためにやむを得ずの人もあるかもしれないと思ったりします。

人の善意を食い物にする悪業に自分がはまらないようにするためにも、また相手サイドに悪業を成り立たせないようにするためにも必要なのは、人間に存在するバランス感覚を養うことと言えるかもしれません。

つまり、その話に限らず窮極的なところ、どんな時も自分自身の、肉体、感情、思考、精神などをバランスよく最大限それぞれの可能性を引き出し、その能力を育てる必要があるのではないかと思っています。そうして、それらが一体となって、一つの目的(人間が生きている本来の意味)のために働く時、ある意味では「目覚めている」と言えるのかもしれないとも思います。

それぞれの能力を培い、その「目覚め」を求める過程の中で、たとえば目の前に罪悪感をかかえつつも悪業から抜け出せない人や、本当に生きることに困っている人がいたとしたら、物質的、精神的両面の救済の方法を知恵を絞って考え出し、その青写真に従って、本人の実行する力(意志)を引き出しつつ、後押しできる力(時には行動力や財力)があってはじめて本当の手助けができ、かつ自らもより成長するかもしれないのであって、たとえどんなに慈悲の心(感情の成長)だけがあったとしてもそれだけでは無能に等しい(「目覚め」には遠い)ことに終わるかもしれないとも思ったりもします。要は総合力にかかっているのではないかと…。

話は変わって・・・
グルジェフは、(みんなのワークの)活動資金を得るために、世間の状況を見て知恵を練り、根気強く様々な商売の手腕を振り絞ったり、ほとんどの事業に手を染めたりして働いてきたばかりでなく、ある意味ずる賢く(簡単に直せる機械類の修理を難しく見せてその報酬を求めたり)、一歩間違えると詐欺まがいのようなこと(すずめに黄色いペンキを塗って、アメリカカナリアだと偽って売りさばいたり)や、一銭もなくなった時には生徒の妻君のダイヤモンドを懇願して売却したりと、様々なことをしていますね。

本人は「私は、貧乏な人たちにはしじゅう勉強してやったが、偶然手にした地位の力だけで曲がりなりにも地方の知識人となったものの、真の知性という尺度から見ると、彼らの支配下にある一般大衆より遙かに劣る、こうした連中の愚かしさに乗じて儲けることを悪徳とは思わなかった。」という言い方もしています。

OSHOの96台のロールスロイスは彼の金満の象徴として、しばしば批判の的にさらされましたね。
本人の弁は次のようなものでした。
「96台のロールスロイスが必要な理由などまったくない。96台のロールスロイスを同時に使うわけにはいかない。それに同じ型の同じ車だ。
だが私には、はっきりさせたいことがあった――あなたがたは、1台のロールスロイスを手に入れるためだったら、真実への、愛への、そして精神性への欲求をすべて喜んで放棄するということだ。
あなたがたが嫉妬を感じるような状況を、私は意図的に創造したのだ。
師(マスター)の役目とはとても奇妙なものだ。あなたがたが自分の意識の中身を理解するのを助けなければならない。それは嫉妬でいっぱいだ。
……(略)……
車は役目を果たしてくれた。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちの間に、嫉妬をかきたててくれた。
彼らに充分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしていただろう。嫉妬こそが彼らの問題なのだから。嫉妬はあなたを焼く炎、ひどい火傷を負わせる炎だ」


「放蕩息子のたとえ話」の中でも兄は「嫉妬」していますね。自分の「欲」が他人との比較の中でからみはじめると、その問題を解決するのも非常に難しいですね。

私の設問の中の、真っ当な生活をしているAも、借金をしているBも、お金がらみの「欲」が「嫉妬」に変わったなら、ややこしい話になるということも想定に入れています。

金銭感覚は、それぞれ皆違っていますね。釈迦、イエス、グルジェフ、OSHOなど、そのアプローチははっきりと違いが見えます。けれども、問題は現在の自分のそういった物質問題も一緒に抱きかかえて、なおかつそれを超える道を見つけるのは至難の業かもしれませんが、そこにも意識を当てる必要があるかもしれませんね。
>>[469]、前半はまったく同感のうちに読ませていただきました。

後半は面白いお話を読ませていただいて、どうもありがとうございます。
ほんと、マスターと目された一人一人がどんなふうに世俗社会の仕組みと取っ組み合ってきたか、振り返らせていただいて、あらためて感慨を新たにしました。彼らの取り組みを生き生きとまた目撃させていただいた気分です。こういう話から受け取るものも人によっていろいろなのでしょう。
僕は少なからずやっぱり彼らから学ぶ所があるとあらためて思いました。

お金と清らかな志向との兼ね合いという問題を考える時、僕はいつも牧師見習いの頃のゴッホと、二宮尊徳の父親のことが思い出されます。
二人はあまりに真面目に布施・施しを実践したために自分を窮地に追いやった実例です。でも憎めない。ほのぼのと思い出し、いとおしまずにいられません。
でも、やっぱり自分も同じ道を行こうとは思わない。吹黄さんが物語って下さったグルジェフやOSHO の取り組みは一つのヒントとなるものですね。
>>[468]  
ありがとうございます。久々に聖書を読みましたがやはり面白いことが書いてありますね。
兄と弟、間違えて覚えていました。おっしゃるようにここでのテーマは「嫉妬」でしょうね。




生前分与の話は、最初に質問したカルマ・ランジュンさんからは、
どうやらお答えいただけないようだし、
他の方もなかなか声をあげてくれそうにないようなので、
そろそろ私の考えを書こうと思います。

メラノさんが書いてくれたように、
B(借金のある子供)の様子を見ながら、Aの意見も聞きながら、話し合って決める
ということに近いことになるかもしれませんが・・・

私の場合は、以下のように自分(親)の心の内を順を追って二人に話していく方法を選択します。

「今、私が生前分与しようと決めたのはBに借金があるということを知ったからだ。

昔の私だったならば、きっとAには黙って、こっそりとBの借金分だけをあげただろう。
なぜかというと、借金の利息の分のことを考えたならば、できるだけ早く返済した方がいいからだ。
また、そのことをAが知って、Aの心の中で不平等感からの嫉妬心が生まれることを避けるためだ。
だが、それをしたならば、自分の平等心からすると、心の片隅でAにはすまないと思い続けるだろう。
だからといって、Bにあげるのと同額の分をAにあげるだけの財産はもっていない。
だから、それはやめることにした。

次に、Aも同じ求道者だと信頼して、Aにそのことを納得してもらうように説得してみようかとも思った。
その場合、Bには借金分をあげるのではなく、少しずつ無利子の返金を条件にしようかとも思ってみた。
だが、Aが説得に応じてその話にたとえその時のってくれたとしても、明日の本心は誰にもわからない。
また、Bがどこまで返金できるかの保障もない。三者ともに将来の不確定な要素に落ち着かない気がする。だから、これもやめることにした。

ここで、メラノさんの方法に近いものを取り入れ、Aの気持ちを聞いて納得してくれるものならば、
Bに借金分を渡した後、残りを二人で分けるとなると、Aの取り分が少なくなり、不平等感は広がり、
私の心が痛むし、またAの将来の本心がわからないことに変わりがない。
だから、この方法もとらないことにした。

むしろBには借金分を今あげ、Aには残り分を今あげるか、遺言書でAに全額渡すとするかと考えた。
だが、これもAがどこまで納得するかわからず、信頼したいところだが、その心ははかり知れない。
一方、Bがこれを当たり前としてしまうとなると、同じ求道者としては、恥ずべきものに思える。
そこで、Bは同額になるまでAにおいおいお金を渡すことを約束しておけないものかとも思ってもみた。
だが、それは取引になって心の問題から離れてしまうし、Bの能力の有無やプレッシャーが問題になる。だから、これもやめることにした。

そこで、私自身の一番の内外の平等を貫こうとしたならば、両者に今まったく同額を渡すことに決めた。
我々三人とも、共に求道者として生きている限りにおいて、互いを信頼することにしたのだ。
だが、今まで語った私の心の内を察して理解してほしい。
両者の嫉妬に火がつかないことを一番に願っている。

Aは、私とBとの間で秘密裏に事を進めなかったことに、感謝するのもしないのも自由だが、
Aの事はA自身の責任にて、そのお金を自分の一番価値のある使い方を自分の意志で決めてほしい。
自分の何かの目的のために使うもよし、Bに分け与えるもよし、とにかく悔いない本心に従ってほしい。

今までAの嫉妬心にばかり配慮をしてきたが、今度はBの嫉妬心に火がつかないことを願っている。
Bは、『半分しかもらえなかった』ではなく『現時点で財産の半分ももらえた』と心得ておいてほしい。
それに感謝するのもしないのも自由だが、
将来、私が死んでから無言で法的平等によってもらえることより価値があるものだと理解してほしい。
Aの状況と比べるのは筋違いで、きっちり半分だということを肝に銘じておいてほしい。
後は、自力で切り抜けられることを祈るばかりだが、二人の間の信頼関係が続くことも願っている。
よって、Aにお金を貸してほしいとかの意思表示の懇願をするのも自由だが、結果はAの意志次第だ。

以上が、私の言えることと、できることのすべてだ。」


現段階で、私が考えつく「平等心(慈悲)」において尽せることはこんな感じです。
これを言って果たして気持ちが伝わるかどうかはわかりませんが、
無言の平等より、有言の平等を選びます。
カルマ・ランジュンさん

カルマ・ランジュンさんになぜこのような設問をしてみたのか…

「無形」のものは「言葉」では顕わせないと思っていても、
「有形」の何かに結び付く時、「言葉」は一つの「道具」として一定の役割を果たし、
「無形」のものを指し示したり、伝えたりできる可能性の間口を少し広げてくれるのではないか…
そんな一例として、その試みに挑戦する事もできるのではないかと言いたかったからです。

「真理は言葉で顕わせない」…
確かにその通りだと思います。

けれども、「言葉」を「道具」として使える人間だからこそ、
「言葉」の欠点の「危険性」も心しておく必要があると思いますが、
「言葉」の利点の「可能性」に賭けてみることもできるのではないかと思っています。

「真理を形容しようとする言葉」、「真理を指し示そうとする言葉」、「真理へと導こうとする言葉」…
いろいろな方法論があると思いますが、「言葉」をかけ橋として、他人へ「伝えたい」と思う気持ち…
「真理」に到達した人の背景に、そこには常に「慈悲」がベースとしてあると思っています。
それは「分与」ではありませんが、「人にシェアしたい」という衝動を伴うものです。
「言葉」というのは、人間に与えられている最大の危険で有益な「道具」の一つだと思っています。
真実を人に伝えるなんてとても不可能なことだ。その真実が深く精妙なものであればあるほど、絶対的不可能を感じざるをえない・・・という気持ちは正直なものであっても、もしその真実・真理におのれの心が開いたことによって、それまでは考えられなかったほどの恩恵を実感するに至ったなら、それの遥かに手前でさまざまな苦しみに身悶え、のたうち回っている人々を目の前にして、大変ではあろうが、何とか少しずつでも手助けできる言葉をつむいでみようとすることは、とても尊いことだと思います。
>>[472]

無言で平等という善行為をおこなうよりも、言葉を尽くして同じ善行為をおこなうことのほうがより他者のためになるのではないかというお気持ち、よく伝わりました。
実際、このように言葉を尽くしてもらったほうがA とBにとっては考えるヒントをたくさんもらえるかもしれません。

しかし、それさえも唯一の答えではないように僕は思えます。
親のキャラクターにもよるだろうし、子供たちA ・B と関わってきた今日までの過ごしようによっても、本当に理性的な細かい説明が必要か否かも違ってくると思います。

要はお互いの真心をわかり合う絆がぶっきらぼうな言葉だけでも大丈夫な間柄か、
それともお互い、言葉を中心にすえて絆を深め合ってきた間柄か、
などそれぞれの関係性に大きく左右されうることだと思います。
>>[475]

そうですね。
あの設問に対して、これが「唯一の正しい答え」みたいなものはないと思っています。
あれは、一つの想定内での一例にすぎません。

自分自身の中に何を築こうとしているのか、何を確かめたいのか、どこまで納得したいのか・・・
また、相手に何を伝えたいのか、どうなってほしいと願っているのか・・・などなどの内的状態、
それに加えて、それぞれの人の個性や、互いに築き上げてきた外的な関係性など、その時その場の
いろんな条件を想定できますので、その状況次第で、その言動も変わってくると思います。

そして、たとえ言葉で伝えることができることがあったとしても、前にも話題に上っていたように、
ある時期が熟さないと、その言葉の意味(示唆)したところの真意は理解できないこともあるでしょう。
(ある時期というのも単なる時間の経過だけではなく、内的経験値を増やしていく…みたいな意味で)

「言葉」におけるデメリットを念頭に置いて、「真」の追究はなされるべきとも言えるでしょうが、
人間だけに許されているこの「言葉」のメリットの限りを尽くすことも、そのアプローチの一つになることもあるかもしれない…という視点からの試みとして書かせていただきました。
教会権力の下で真、善、美が混淆状態におちいっていたのに対してイマヌエル・カントはこの三つをあらためて一つ一つ際立たせるという仕事を、三大批判書を通して行なった。
その『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を読むと、カントの手際に今でも感嘆させられずにいられませんね。
真実と虚偽とを分けて、真実にこそ心ひかれたり、
善きことと悪しきこととを分けて善きことにこそ心血を傾けようと決意したり、
美しいものと醜いものとを分けて、美しいものに寄り添おうとしたりは、
私たち人間一人一人の心の傾向として見出すことのできるものですね。
そしていざ、では真とは何か、善とは何か、美とは何かをあらためて自分の心に問うてみると、そこにはさまざまな問題が含まれていることが見えてきますね。

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