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荘子コミュの7、大いなる道は称(はか)れない

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コミュ内全体

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7、大いなる道は称(はか)れない
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夫大道不稱         それ大道は称(はか)れず。
大辯不言          大辯(弁)は言わず。
大仁不仁          大仁は仁ならず。
大廉不嗛          大廉(れん)は嗛(けん)ならず。
大勇不忮          大勇は忮(し)ならず。
道昭而不道         道は昭(あきらか)なれば道ならず。
言辯而不及         言は弁ずれば及ばず。
仁常而不成         仁は常なれば成らず。
廉清而不信         廉(れん)は清らかなれば信ならず。
勇忮而不成         勇は忮(し)なれば成らず。
五者园而幾向方矣      五者は园(がん)なれども方に向かうに幾(ちか)し。
故知止其所不知 至矣    故にその知らざる所に止まるを知らば、至れり。
孰知不言辯不道之道     孰(た)れか不言の辯(弁)、不道の道を知らん。
若有能知          若(も)し能(よ)く知ることあらば、
此之謂天府         此(ここ)にこれを天府(てんぷ)と謂う。
注焉而不満         注げども満たず、
酌焉而不竭         酌(く)めども竭(つ)きず、
而不知其所由来       而もその由りて来たる所を知らず。
此之謂葆光         此(ここ)にこれを葆光(ほうこう)と謂う。
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▽(金谷治 訳)
…………………………………………………………………………………………………………
そもそも真の道は名称であらわせず、真の弁舌は言葉にはよらず、真の仁愛は仁としてあらわれず、真の清廉は謙譲の形をとらず、真の勇気は逆らい争うことはしない。
〔つまり〕道ははっきりあらわれるのでは真の道ではなく、言葉であれこれと弁じたてるのでは十分ではなく、仁愛はいつもきまった形では広くゆきわたらず、清廉は潔癖(けっぺき)ばかりでは実意がなく、勇気は逆らい争っているのでは真の勇気とはならない。
この〔道と言と仁と廉と勇との〕五つは、円いもの〔すなわちそのままでは円通自在なもの〕であるが、しかもともすれば角(かど)だった〔動きのとれない〕ものになりがちである。
そこで、知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。〔分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。〕言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれない道のことを、誰が知ろうか。もしそれを知ることがあれば、これこそ天府(てんぶ)(──すなわち自然の宝庫)といえよう。そこにいくら注(つ)ぎ込んでも溢れることはなく、そこからいくら汲み出しても無くならない。しかもそれがどうしてそうなのか、その原因がわからない。こういう境地を葆光(ほこう)(──すなわち内にこもった光)というのである。
…………………………………………………………………………………………………………

▽(岸陽子 訳)
…………………………………………………………………………………………………………
真の「道」は、概念では把握することはできない。真の知識は、言葉で表現できない。真の愛には、愛するという意識をともなわない。真の廉潔(れんけつ)は、廉潔であろうと努めない。真の勇は、他者と争わない。
「道」は、道であると判断された時、「道」ではなくなる。言葉(概念)は成立した時、事物の実相から離れる。愛は、特定の対象に向けられた時、愛ではなくなる。廉潔は、意識的に行われれば偽りになる。勇を頼んでひとと争う時、勇は勇でなくなる。
以上、五者の例からも知られるように、本来円であるものを円ならしめようとするのが、人間の知恵であり、作為である。しかも円であるものを円ならしめようと作為すればするほど、その結果はますます円から離れるという宿命を負っているのだ。
つまり、人間にとって最高の知とは、知の限界を悟ることだといえる。それにしても、この「不知の知」を体得することは、なんという至難のわざであろうか。もしこれを体得したものがいたとすれば、その知は無尽蔵な「天の庫(くら)」にたとえることができよう。いっさいを受容し、物事とともに推移して、しかもなぜそうなるのか意識しない、これこそ、明であることを意識しない明──無心の知なのである。
…………………………………………………………………………………………………………

▽(吹黄 訳)
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そもそも、大いなる「道」は、「(人のものさしで)はかれるようなもの」ではない。
大いなる「弁」は、「言葉で言うこと」ではない。
大いなる「仁」は、「仁(礼節的に規範化されるような愛)のこと」ではない。
大いなる「廉(いさぎよさ)」は、「清廉潔白さを表明すること」ではない。
大いなる「勇(いさましさ)」は、「心の支えを振りかざすこと」ではない。
「道」は、あきらかにされると、道ではなくなる。
「言」は、弁じる(分割して言い表す)と、届かないものになる。
「仁」は、同じ形に留めると、成熟しきれないものになる。
「廉」は、透かし見えるきれいごとになると、信用できないものになる。
「勇」は、心の支えを振りかざすと、成長しきれないものになる。
この五つは「元来のまるいもの」を囲みとらえようとすると、
「方(四角四面なもの)」へと向かってしまうということにきわめて近いことだ。
ゆえに、その「知らないところに足を止めることを知る」ならば、至るのだが、
いったい誰が、「不言の弁」や「不道の道」を知るというのだろうか。
もし、それをうまく知ることができるなら、
その知を「天府(天を過不足なくピッタリ収めるくら)」と言えるだろう。
注ぎ込んでも、いっぱいになることはなく、
くみ出しても、尽きて無くなることはない。
しかし、それがどこからどうして来るのかは分からない。
そこで、その知を「葆光(ほうこう)(内に秘め保たれる光)」と言えるだろう。
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コメント(31)

┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 夫大道不稱 ┃【それ大道は称(はか)れず。】
┃  大辯不言  ┃【大辯(弁)は言わず】
┗━━━━━━━━┛
そもそも、大いなる「道」は、「(人のものさしで)はかれるようなもの」ではない。
大いなる「弁」は、「言葉で言うこと」ではない。
……………………………………………………………………………………………………………
*【稱(称)】は「禾(作物)+〔右側の字〕(爪+左右平均に垂れた物)」で、
 「作物をぶらさげて重さをはかること」「持ちあげる、はかる」意。
 ⇒のちに、〔偁〕の「公に掲揚する」意との通用により、
 「いう」「となえる」といった意味に用いられるようになったものです。

◆【不称】は、通説では「名称ではあらわせず」としています。

◇【称】は、のちに「偁」の意と通用されることになった「名称」や「称号」などの熟語を
 つくる「いう」「となえる」という意ではなく、原義の「はかる」意ととらえました。
 【大道不稱】は「大いなる道は、(人のどんなものさしをもってしても)はかれるような
 ものではない」と解釈しました。

◆通説では【大辯(弁)不言】の【弁】は、「弁舌」「弁論」の意味で、6で展開した「有分
 有弁」の「弁」(区別)とは違っており、同時の続いた著作ではないことが知られる…と
 補足説明しています。【大辯不言】は「真の弁舌は言葉によらず」としています。
 
◇字源的解釈から、6の【辯】も、ここの【辯】も同じ「(言葉を区別しながら)弁じる
 こと」の意味ととらえることができることから、通説の解釈とは違い、6から続いた著作
 の可能性もあると思っています。【不言】は「言葉で言うことではない」としました。
●通説では、次のようになっています。

そもそも、真の道は名称ではあらわせず、真の弁舌は言葉によらず、

〇新解釈では次のようになります。

そもそも、大いなる「道」は、「(人のものさしで)はかれるようなもの」ではない。
大いなる「弁」は、「言葉で言うこと」ではない。


【夫大道不稱】【それ大道は称(はか)れず。】
【大辯不言】【大辯(弁)は言わず】

── ☆  ☆  ☆ (お話です)
       
ある時、「考葦(こうい)」が「木精(ぼくしょう)」にあれこれ尋ねました。

考葦「<道>について、どう考えてもつかみきれません。何を基準にして<道である>とか<道ではない>とか、判断できるのでしょうか?」

木精「はて・・・私にどんな応えを期待して質問しているのだろうかね〜。もし、今私が仮に<道>について知っていたとしても、その方向や場所を示せるわけでもなし、大きさや長さをはかれるわけでもなし、形容できる基準があるわけでもない。そもそも、どんな尺度でもっても<はかれない>ようなもの、それを<道>‥と言うことならできるかもしれないが、そんなことは言ったところで、言わないに等しいことになるだろう。

<道>について知りたいと願って、とことん<考える>ということだけの<はかり>にだけ頼っているなら、どんなに努力しても、<道>について知ることはできないだろう。」

考葦「はかりようがない、言いようがないというのなら、考えようがない、知りようがないということで、あなたと<道>について何を話しても意味がない…ということになるのでしょうか。」

木精「大いなる<道>もしかり、大いなる<弁>もしかりで、考えうる限りを尽くしたどんな<はかり>や<雄弁さ>をもってしても、けっして表現することができないものが存在するということを心しておくべきだね。」

考葦「そもそも、<考える>ことが<道>を理解することではない…ということで、つまりは、<はかり>や<ことば>を捨ててしまって、<考えるな><言うな>と言いたいのでしょうか?」

木精「<考える>ということをやめよ、とも言っているわけではないのだよ。部分としては、<考える>ことを手段として<はかれる>ところもあれば、それだけでは<はかれない>ところもあるが故に、<道>という大きな全体としては<はかれない>としか言いようがないということになるかもしれないな。

また、そういったことを言うか言わないかは、ただの手段としての道具のようなもので、焦点は<ぴったりとしたそのまま>が伝わるかどうかではないだろうか。そのために、部分的には時には言うこともあれば、時には黙することもある。だから、大いなる<弁>ともなると、<言うこと>を決して否定しているのではなく、肯定しつつもそれを超えたところで<言葉では言えないもの>ということになるかもしれないな。」
┏━━━━━━━┓             
┃▼ 大仁不仁 ┃【大仁は仁ならず。】
┗━━━━━━━┛
大いなる「仁」は、「仁(礼節的に規範化されるような愛)のこと」ではない。
……………………………………………………………………………………………………………

*【仁】は「人+二」で「二人が対等に相親しむこと」を示すとされています。
 しかし別説では、金文や古陶文の字形(人+2小点)からは、そのようにはとれないよう
 なものもあるらしく、原義がベールに包まれたままに、孔子が「最高の徳」として提唱し
 た道徳観念で、「親愛」「博愛」などの意として用いられるようになった言葉です。
 ※植物における【仁】は、「種子から種皮を取り去ったなかみ(子葉となるための胚と、
 胚の栄養分である胚乳とからなります)。」

◆通説では、【大仁不仁】は「真の仁愛は仁としてはあらわれず」としています。

◇【仁】は、「人(にんべん)」が使われているところからして、もともとは人の中の何か
 を指し示すものだったことには違いないと思います。
 しかし、孔子の時代でもはっきりとしたことがわからなかったために、あえて「最高の
 徳」としての概念を固めるために、「礼節的に規範化されるような愛」として提唱される
 ようになりますが、その約百年後、老子は「大道すたれて仁義あり」と警鐘を鳴らし、さ
 らにその約百年後、荘子が「大いなる<仁>は、<仁(礼節的に規範化されるような愛)
 のこと>ではない」と説き、【仁】のもつ微妙なニュアンスの違いに言及したのだと思い
 ます。

◇なぜ人のことであろうこの字が、古くから植物の「種子のなかみ」のことを同時に示して
 いたのか不思議です。私は何らかの関係があるのではないかと想像しています。

●通説では、次のようになっています。

真の仁愛は仁としてはあらわれず、

〇新解釈では、次のようになります。

大いなる「仁」は、「仁(礼節的に規範化されるような愛)のこと」ではない。


【大仁不仁】【大仁は仁ならず。】
〔大いなる「仁」は、「仁(礼節的に規範化されるような愛)のこと」ではない。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「ん‥わかるような、わからないような・・・話を聞いているうちに、老子は<道>について『大道廃れて仁義あり』と言っていた言葉を思い出しました。」

木精「きみたちの間で、立派な人間として成長するためには、<最高の徳>を自ら行うことにあると、<仁>の実践を掲げる者もいるだろう。孔子が唱えるような、親のような愛、無償の愛、利他的愛、すべてに寛容な愛など声高らかに規範化されるようなものはすべて、その実際は変質してしまって、純粋なものではなくなるのだ。おそらく、もともとの大いなる<仁>とは口の出しようがないようなもっとナイーブなものだったのではないだろうか。

これは私の想像の域を出ない、あくまでもひょっとしたらの話なのだが、植物の種の中に<仁>と呼ばれているものがあるが、このことがもともとの<仁>がどのようなものか感じるヒントを与えてくれているような気がしているのだよ。

人の心の中には様々な種子(潜在的可能性をもつ因子)があると喩えることができるのではないかと思うんだよ。種子…つまり<仁>は固い種皮に守られて柔らかさを保って眠ったままで目覚めの時を待っている。<仁>の存在は決して外から見えるものではないのだ。見えるのは小さな粒の種皮のみだ。その種皮がそのまま留まって存続したら何も起こらないが、その種皮の死は新しい生の始まりとなる。いわば仮死状態だった<仁>の中で変化が起こるのだ。それが可能になるためには、外部から適当な水や温度や空気が得られる環境が整のう必要がある。その機会が訪れた時、はじめて内部の<仁>が活性化して、胚が子葉となるために、徐々に胚乳から絶妙なタイミングで、微妙な配合と分量の滋養物を補給をしてもらって成長していくのだよ。それはとてもナイーブな流れだ。

普通<愛>と呼ばれて想定しているものは、実際にこのように絶妙な流れで変化する<仁>とは似て非なるものなのだよ。大いなる<仁>は、互いに独自の中にある天の青写真をもっている胚とその成長のための胚乳に相当する滋養物に喩えることができはしないだろうか…。天からの伝令を最初に聴くパイプラインともいえるかもしれないとも思ったりもするのだが…。

一つの種子の<仁>は恒久的なものではなく、立派に芽となることができたならば、つまり、その種子の夢から目覚めた時には、もう姿を消しているようなことになるかもしれない。もしかしたら、そうしたことが本当の<道>を歩んでいると言える状態なのかもしれないと思うのだ。人間の中にある種子は一つではなくたくさんあるだろう。可能な限り目覚めるためには、それぞれの<仁>の変化の過程を踏む必要がある…と、そんなふうに喩えることができるかもしれない…。

<仁>の任務を全うさせるために、他人にできることは、外部の環境を整えてあげることだけしかないのかもしれない。自分の内なる<仁>の成長を知っている者だけが、他人の<仁>の促進の手助けができるのかもしれない。その自然の流れに身をまかすことが大事な事になるような気がするのだが…。大いなる<仁>は<愛>を注ぐというニュアンスではなく、相手の<仁>を自分のと同様に慈しみ見守ることと言えるかもしれない。」
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┃▼ 大廉不嗛 ┃【大廉(れん)は嗛(けん)ならず。】
┗━━━━━━━┛
大いなる「廉(いさぎよさ)」は、「清廉潔白さを表明すること」ではない。
……………………………………………………………………………………………………………

*【廉】は、「广(いえ)+兼(別々のものを束ね、かねまとめてもつ)」で、
 「家の中に寄せ集めたものを一つ一つ整理する」意です。
 ⇒「けじめをつける」⇒「いさぎよい」などの意。
 ※「兼」は「二本の禾(いね)+手」。

*【嗛】の字義は形声文字で、「口」も「兼」も意味を持たないとされています。
 ふつう「謙」の字に通用した意味とみなされています。「謙」は、「謙遜」「謙譲」など
 といったふうに用い、「へりくだる」意をもっています。

◆通説では、【廉】は「清廉」、【不嗛】は「謙譲の形をとらず」としています。

◇【廉】も【嗛】も共通する「兼」が含まれています。これは単なる偶然ではないと思いま
 す。よって、【嗛】も形声文字ではなく会意文字で両者の違いをのべているのではないか
 と推察します。つまり、同じ「寄せ集めたものにけじめをつけていくいさぎよさ」でも、
 【廉】は「自分」という「一つ屋根の下」の内部に留めてそれが身についているのに対し
 【嗛】は外部に向かってアピールするように「口」で公表することが主眼になっていくこ
 とを表しているのではないかと思います。そのため「へりくだる」意味はもっていないよ
 うに思います。そこで【不嗛(けん)】は、「清廉潔白さを表明することではない」とし
 ました。
●通説では、次のようになっています。

真の清廉は謙譲の形をとらず、

〇新解釈では、次のようになります。

大いなる「廉(いさぎよさ)」は、「清廉潔白さを表明すること」ではない。


【大廉不嗛】【大廉(れん)は嗛(けん)ならず。】
〔大いなる「廉(いさぎよさ)」は、「清廉潔白さを表明すること」ではない。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「人間における<仁>に<種子のなかみ>の意味が絡んでいるかどうかはわかりませんが、仮にそうだとすると今まで感じていたニュアンスとは違ったイメージになる、ちょっと変わった説ですね。」

木精「あくまでも木精と名乗る私なりに把握しやすくするための想像にすぎないのだが…。そこで、また植物で喩えるなら、天の青写真を、自らの身や態度で、現実世界に焼き出そうと成長し、天の高貴さとは<清廉さ>だと、そのことを口に出してアピールするならば、その時、それは<切り取られた美しい花>のようなものになってしまうと言うことができるかもしれないな。本来の<廉(いさぎよさ)>とは、一部の美しいものを、その全てであるかのように示す<清廉潔白さの表明>ではないと言えるだろう。」
┏━━━━━━━┓             
┃▼ 大勇不忮 ┃【大勇は忮(し)ならず。】
┗━━━━━━━┛
大いなる「勇(いさましさ)」は、「心の支えを振りかざすこと」ではない。
……………………………………………………………………………………………………………

*【勇】は「力+甬([人+用]足踏み)」で、「力があふれ足踏みして奮いたつ」の意。
 (「甬」は、「踊」の源字となるもので、いわば巫女などの神の通過する媒介をとおして
 の跳躍を表します。)

*【忮】は、「心+支(枝を手にもつ姿で、分かれた枝、つかえるなどの意を含む)」で、
 「心中につっかかる気持ちを生じてじゃまをすること」の意。
 「心にひっかかる」「もとる・反する」「さからう」「そこなう」などの意。

※【忮】の「支」(えだ)の意味するところは解釈の違いによって次のようになります。
 1:「枝分れ(ex.支流)」/2:「ささえ(ex.支持)」/3:「つかえる(ex.支障)」の意。
 【忮】は主に3からの派生として、「うらんで意地の悪いことをする」「逆らい争う」と
 いった行為と見なされがちのようです。

◆通説では、【勇】は「勇気」、【不忮】は「逆らい争うことをしない」としています。

◇【忮】の「支」は、私見ですが、3の意味からの派生ではなく、2の意味の「ささえ」の
 意味が濃厚な気がします。よって【忮】は「心の支えを振りかざす」ととらえました。
 「心の中にある何らかの支えを頼りにして争うこと」にもなるかもしれません。
 【大勇不忮】は、「大いなる<勇(いさましさ)>は、心の支えを振りかざすことでは
 ない」と訳しました。
●通説では、次のようになっています。

真の勇気は逆らい争うことはしない。

新解釈では、次のようになります。

大いなる「勇(いさましさ)」は、「心の支えを振りかざすこと」ではない。


【大勇不忮】【大勇は忮(し)ならず。】
〔大いなる「勇(いさましさ)」は、「心の支えを振りかざすこと」ではない。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「<勇ましさ>にも、大いなるものとそうでないものがあるのでしょうか。」
 
木精「頑なな正義や主義や信条といった<心の支え>をもって、その勢いを得る<勇ましさ>は、植物に喩えるなら、背丈や枝が他のものより勝ったとしても、それは<添え木を外すことのできない茎>のようなものと言えるかもしれないな。正義や信条といった<心の支え>を武器のように手に取って、奮い立って他人と争うともなると、ますます本来の<勇>からかけ離れていくことになるだろう。大いなる<勇ましさ>は、天から与えられた流れの媒介となって、自然に踊りだしたくなるような奮い立つ力のようなものであり、ただ外にわかるように強さの誇示をすることではないのだと言えるのではないだろうか。」
┏━━━━━━━━┓
┃▼ 道昭而不道 ┃【道は昭(あきらか)なれば道ならず。】
┃  言辯而不及 ┃【言は弁ずれば及ばず。】
┗━━━━━━━━┛
「道」は、あきらかにされると、道ではなくなる。
「言」は、弁じる(分割して言い表す)と、届かないものになる。
……………………………………………………………………………………………………………

*【昭】は「日+召〔刀(曲線状のかたな)or人(降下する姿)+口〕」で、
 「日(光)を口で招き寄せること」⇒「あきらか」「あらわす」⇒「てらす」の意。

◆通説では「道ははっきりあらわれるのでは真の道ではなく、」としています。

◇表面的には通説と大差ない翻訳のように見えますが、新解釈とは違いがあります。
 最初の五行では、本来の大いなるものとは「〜ではない」と説明していますが、
 ここからの五行では、列挙した五つのものが、どういう条件下に置かれると、本来のもの
 から逸脱した「〜になる」かという過程を踏んだ変質ぶりを説明していると思われます。
 よって【道昭而不道】は、「道は、あきらかにされると、道ではなくなる」としました。

*【及】は「人+手」で、「逃げる人の背に追う人の手が届いたさま」。

◆通説では、【言弁而不及】は上下の文から考えると、【言弁】の二字は「弁言」の誤りで
 はないかと疑われるが、今は原文のままに従がう…としています。「言葉はあれこれと弁
 じたてるのでは十分ではなく」と訳しています。

◇ここでも「〜ではない」と言っているのではなく、【言弁而不及】は「言は、弁じる(分
 割して言い表す)と、届かないものになる」と変質する状態の説明だと受け取りました。
●通説では、次のようになっています。

〔つまり〕道ははっきりあらわれるのでは真の道ではなく、
言葉はあれこれ弁じたてるのでは十分ではなく、

〇新解釈では、次のようになります。

「道」はあきらかにされると、道ではなくなる。
「言」は、弁じる(分割して言い表す)と、届かないものになる。


【道昭而不道】【道は昭(あきらか)なれば道ならず。】
【言辯而不及】【言は弁ずれば及ばず。】
〔「道」はあきらかにされると、道ではなくなる。
「言」は、弁じる(分割して言い表す)と、届かないものになる。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「<道>の概念をイメージとしてつかむのは難しいと思いますが、もう少しあきらかにすることはできないでしょうか。」

木精「<道>とは、あきらかにされることになると、それはもう道ではなくなるのだ。それをまたしても植物に喩えるならば、まるで地下の闇の中でこそその役目を果たす根を、炎天下の光の元にさらしてしまうようなことになると言えるだろう。そんなことになれば、地上の枝葉や花も皆台無しになってしまって、命が絶たれることになってしまうことは理解できるだろう。<道>も闇の中に根ざしている部分があると類推すれば、その全容があきらかにされたならば、もうそれは道ではなくなるということをイメージで<知る>ことの助けにならなるかもしれないね。」

考葦「<知る>ことに対する願望は尽きないかもしれませんね。人間が人間として動物などと決定的に違うのは<言葉>でのコミュニケーションができることだと思いますが、それを駆使することで何らかのものを伝えることができるのではないでしょうか。」

木精「<言>によって確かにある種の<知>に至る可能性はあるが、<言>の陥りやすいのが、部分部分の知識として弁じる(分割して言い表す)と、全貌のリアリティには手が届かないものになるおそれがある。知識としてそれを隅から隅まで知りたがる者は、一つの生きものを入念に切り刻んで調べ、あれこれ<言葉>のラベル張りはできるかもしれない。でも<言>の対象も生きもののようなものだ。そこで、何かが明かされ、何かが語られた時、すでにそれは屍然となっていると心していないと、もともとの全体像の生きているというイメージは、伝わることがほとんどない。だから弁じる(分割して言い表す)と、伝えたいことの生き生きとした核心部が届かないものになるのだ。」
┏━━━━━━━━┓
┃▼ 仁常而不成 ┃【仁は常なれば成らず。】
┃  廉清而不信 ┃【廉(れん)は清らかなれば信ならず。】
┃  勇忮而不成 ┃【勇は忮(し)なれば成らず。】
┗━━━━━━━━┛
「仁」は、同じ形に留めると、成熟しきれないものになる。
「廉」は、透かし見えるきれいごとになると、信用できないものになる。
「勇」は、心の支えを振りかざすと、成長しきれないものになる。
……………………………………………………………………………………………………………

*【常】は「巾(ぬの)+(音符)尚(ショウ)」の形声文字。
 「いつまでも同じ姿で長く続くこと」。

◆通説では、ここの【不成】を「広くゆきわたらず」と意訳しています。

◇ここでは【仁】がどのようにして本来のものではなくなるのか示唆しているようです。
 【仁】は、儒家的なものであろうと墨家的なものであろうといずれにしても、【常】なる
 ものとして、「かくあるべき」と決まった規範のなかで「同じ形に留めると」、「成熟し
 きれないものになる(【不成】)」と言っているのだと思います。

*【清】は「水+青〔生(植物)+井戸の中に清水のある姿〕」で、
 「きよらかにすんだ水のこと」。

*【信】は「人+言(はっきり言う)」で、「一度言明したことを押し通す人間の行為」を
 表しています。「途中で屈することなく、まっすぐにのび進む」の意を含んでいます。

◆通説では、【廉清而不信】は「清廉は潔癖ばかりでは実意がなく」と意訳しています。

◇ここでは【廉】がどのようにして本来のものではなくなるのか示唆しているようです。
 「いさぎよさ(【廉】)」は、「透かし見えるきれいごと(【清】)」になると、「信用でき
 ない(自然のままにのび進むことができない)ものになる(【不信】)」と言っているのだ
 と思います。

◆通説では、【勇忮而不成】は「勇気は逆らい争っているのでは真の勇気とはならない」
 と意訳しています。

◇ここでは【勇】がどのようにして本来のものでなくなるのか示唆しているようです。
 「いさましさ(【勇】)」は、正義や主義や信条といった「心の支えを振りかざして他人
 と争うことになる (【忮】)」と、心の底から自然に次々に湧き出る奮い立つ力のように
 は「成長しきれなくなる(【不成】)」と言っているのだと思います。
●通説では、次のようになっています。

仁愛はいつもきまった形では広くゆきわたらず、
清廉は潔癖ばかりでは実意がなく、
勇気は逆らい争っているのでは真の勇気とはならない。

〇新解釈では、次のようになります。

「仁」は、同じ形に留めると、成熟しきれないものになる。
「廉」は、透かし見えるきれいごとになると、信用できないものになる。
「勇」は、心の支えを振りかざすと、成長しきれないものになる。


【仁常而不成】【仁は常なれば成らず。】
〔「仁」は、同じ形に留めると、成熟しきれないものになる。〕
【廉清而不信】【廉(れん)は清らかなれば信ならず。】
〔「廉」は、透かし見えるきれいごとになると、信用できないものになる。〕
【勇忮而不成】【勇は忮(し)なれば成らず。】
〔「勇」は、心の支えを振りかざすと、成長しきれないものになる。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「本来の<仁>が、まがいものとなってしまうには、落とし穴のようなものがあるわけですね。」

木精「心や感情といった、いわば漠然とした感覚を、一定の概念としてとらえようとすればするほどつかみ損ねるという落とし穴が待っているのかもしれないな。その例として、儒家が提唱した、二人の関係性(君主と臣、親と子、師と弟子)の中でお互いを愛することこそが<仁>だとしたことも、それに対抗した墨家が提唱した(自分を含む)一切の人間を無差別に愛する<兼愛>こそが<仁>だとしたことも、その形は違えども、いずれも「かくあるべきもの」として、一定の同じ形に留まる(<常>なる)ことを理想的な状態として認識したがために、逆に本来あるべき<仁>を見失う原因になったと言えるかもしれないね。

心や感情といったものを、人間としての活動によって生じる副産物的な感覚でとらえるのではなくて、もっと肉体と共に活動しているもう一つの生体であるかのような感覚でとらえてみたらどうだろう。植物を喩えにしているのは、そのための一つの試みなのだが…。先に説明したように、<常>なる形を保っているのは休眠中の種に過ぎない。種はいつかはその<常>なる形を捨てなければ、生きている意味がなくなるのだ。そこには天の青写真に沿った変化が必要になる。<仁>が命あるものとして成就するためには、胚芽も胚乳も一時も同じ形や状態ではいられないのと同様に人における<仁>も<常>なるものではないのだ。

考葦「つまり、<仁>は<常>なるものとして同じ形に留めると、成熟しきれないものになるというわけですね。」

木精「そうだな。人間における<仁>も、愛という人間の心や感情の胚芽とそれが成長するのに必要な滋養物の供給として仮に認識したならば、他人に対してできることは、他人の中にも同じものが存在しているとして尊ぶことと、<常>なる種の終焉と<常>ならざる新たな誕生のために必要な条件(植物なら水、温度、大気、土など)を満たしてあげる手伝いができるだけで、その後はその変化を見守ることしかできないのかもしれないね。」
(続きです)

考葦「<廉(いさぎよさ)>や<勇(いさましさ)>もいわば生体的感覚でとらえないと、落とし穴に引っかかることになるのでしょうか。」

木精「そうだな。喩えて言うなら、自分の中で咲く花を惜しげもなく潔くばっさり切り取って、これ見よがしにその美しさを人に印象付けるように強調して見せるような意識状態だったならば、そこに落とし穴ができあがってしまうのかもしれないな。<廉(いさぎよさ)>とはそんな生の営みから切り離された一部分のきれいごとの表明ではないのだ。言うなれば、人に知られようが知られまいが、自分の自然体の中で刻々と変化する姿に任せて、美しく咲く花も、それが枯れていく醜い姿も全面的に認めることが、<廉(いさぎよさ)>と言えるかもしれない。

また、植物にとって<信用できるもの>とは、実を結ぶことによって、天の永遠の糸をつなぎとめ、変化し続ける生命の営みが約束されているもののことだ。ところが、切り取られた花は決して実を結ぶことはできない。だから<信用できないものになる>のだ。人間の心にとっても同様のことが言えるかもしれない。」

考葦「つまり、<廉(いさぎよさ)>は、透かし見えるきれいごとになると、信用できないものになるというわけですね。」

木精「そういうことだ。<勇(いさましさ)>も、生体(植物)の持っている命の<底力>ともいうようなもので、寒暖、強風、病気といった厳しさが訪れたとしても、それに屈することなく、重力に負けない底から天へと向かおうと押し出す力であって、成長期に無尽蔵に心の底から<沸き立つ力>といえるかもしれない。<心の支え>の力を借りて、勢力をのばすのは本当の<勇(いさましさ)>とは言えない。
人間に置き換えてみても、それは主義、主張といった<心の支えを振りかざすこと>によって他者と争うようなことではないし、また、他者にせり勝つことで、その力の誇示をするようなものでもないのだよ。<心の支えの振りかざし>では、本来の心の成長をしきれていないのだ。いくら勢力を伸ばしていも、もしその<心の支え>がなくなったら、途端にヤワになってしまうからな。」

考葦「つまり、<勇(いさましさ)>は、心の支えを振りかざすと、成長しきれないものになるというわけですね。」

木精「そういうことになるかな。」
┏━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 五者园而幾向方矣 ┃【五者は园(がん)なれども方に向かうに幾(ちか)し。】
┗━━━━━━━━━━━┛
この五つは「元来のまるいもの」を囲みとらえようとすると、
「方(四角四面なもの)」へと向かってしまうということにきわめて近いことだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【园】は、字源辞典には記載されていませんが、
 ※【元】は「兀(人体)の上にまるい〔・〕印(あたま)」を描いたもので、
 「人間のまるい頭」⇒転じて、先端の意より、「はじめ」の意となったもの。
 ※【囗】は「周囲をぐるりと囲んださま」を指示し、圍(=囲)の原字。

*【方】は(前にも説明しましたが)「左右に柄の張り出たすき」を描いたもので
 「←→のように左右に直線状に伸びる」⇒「四角」の意味にも使われます。
 また、「天」を「円」とする時、「方」は「地」を表します。

*【幾】は「幺二つ(細い糸→わずか)+戈(ほこ)+人」で、人の首にもうわずかで、
 戈の刃が届くさまを示しています。「もう少し」「ちかい」などの意を含みます。

◆通説では、【园】は「円いもの〔すなわちそのままで円通自在なもの〕」、
【方】は「角だった〔動きのとれない〕もの」と解釈しています。

◇【园】は「(人としてはじめからある)元来のまるいもの」という意味と同時に、それ
 を「囲もう(とらえよう)とすること」という人為がうかがえる意味もあるように思え
 ます。

◇この【五者】というのは「道」「言」「仁」「廉」「勇」のことを受けていますが、それ
 らは元々人の中に潜んでいるものかもしれませんが、喩えればその「まるく流動的なも
 の」をしっかり認識しよう(囲もう)とすればするほど、皮肉にも【方】(断定的な四角
 四のもの)へと向かってしまう傾向にあるといった特徴があることにきわめて近い感覚の
 ものだと言っているのでしょう。

●通説では、次のようになっています。

この〔道と言と仁と廉と勇との〕五つは、円いもの〔すわなちそのままでは円通自在なもの〕であるが、しかもともすれば角(かど)ばった〔動きのとれない〕ものになりがちである。

〇新解釈では、次のようになります。

この五つは「元来のまるいもの」を囲みとらえようとすると、
「方(四角四面なもの)」へと向かってしまうということにきわめて近いことだ。

【五者园而幾向方矣】【五者は园(がん)なれども方に向かうに幾(ちか)し。】
〔この五つは「元来のまるいもの」を囲みとらえようとすると、
「方(四角四面なもの)」へと向かってしまうということにきわめて近いことだ。〕

── ☆  ☆  ☆ 

考葦「確かに、実際に肌身で感じるところ、<五者(道・言・仁・廉・勇)>を、あまりにガチッと固定化した概念でとらえ、儀礼的に模範として言葉で掲げているところには、独りよがり的な不自由さ、うっとうしさなどを感じることはあります。それらが的を射ていないように感じるのは、儀礼化したから適切な概念をつかみそこねたことになるのでしょうか。」

木精「いや、順序が逆だ。適切な概念をつかもうと真剣に願ったから儀礼化してしまったのだよ。思考する概念だけで、どこを探しても、何をとらえても、同じようなことになってしまうものだ。だから、問題は言葉を使って、<こうあるべきだと特定のものだととらえる>こと、つまり<囲もうとする>こと自体にあるのかもしれないな。極端にシンプルに言うなら、円いものを囲もうとするのに、直線しかない棒でとらえようとすることに極めて近いような状況と言えるかもしれないな。」

考葦「なるほど、そう言われてみれば、確かに図形的にはわかるような気はします。漢字は論理的な言葉だけでなく視覚的なイメージを補助として駆使することによって、あるフィーリングや微妙なニュアンスを含ませることができる文字ですから、後は類推がどこまで働くかどうかでしょうか。」

木精「そうだな。<五者>の特徴を類推してみよう。<园>(元来のまるいものを囲むこと)とは、淀みなく流れるいきいきとしているある種<有機的>なものをとらえようとすることと言えるかもしれない。ところが、認識可能な直線的思考でつかもう(囲もう)とすればするほど、<方>(四角四面)な<無機的>なものに傾向していく現象にきわめて近いと言っているのかもしれないな。」
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 故知止其所不知 至矣 ┃【故にその知らざる所に止まるを知らば、至れり。】
┃  孰知不言弁不道之道  ┃【孰(た)れか不言の辯(弁)、不道の道を知らん。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
ゆえに、その「知らないところに足を止めることを知る」なら、至るのだが、
いったい誰が、「不言の弁」や「不道の道」を知るというのだろうか。
……………………………………………………………………………………………………………

*【止】は足の形を描いた象形文字。「足がじっとひと所にとどまること」を示します。

◆【故知止其所不知 至矣】は、通説では「そこで、知識については分からないところでそ
 のまま止まっているのが、最高の知識である。」としています。

◇前にも【知】について言及しましたが、荘子が言う【知】(知る)ということは、「知識」
 に留まるものではないと思っています。【故】(ゆえに)と言っていることから、あの五者
 の元来のあり方には【不知】が含まれているものだ言っているのでしょう。単なる思考で
 「知ろう」とするのは「知識」で囲もうとする傾向があるがために、その【不知】に
 【止】(止まる)という発想は生まれてこないのかもしれません。
 「元来の(まるい)ものの発動」は自然の巡行とも言え、「思考」にとっては【不知】で
 あってもそれを「体感する」ことで受け止めるということが「知らないところに足を止め
 る」ことになるのかもしれないと思ったりもします。ただし、荘子は単純に「知らないと
 ころに足を止めたなら、至る」とは言っていません。【知止其所不知 至矣】は「<知ら
 ない>ところに足を止めることを<知った>なら、至る」…と言っているところがミソな
 のかもしれませんね。

◆【孰知不言弁不道之道】は、通説では「言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれ
 ない道のことを、誰が知ろうか。」としています。

◇私はここではあえてかみくだいた訳をつけていません。なぜなら、「いったい誰が、
 <不言の弁>や<不道の道>を知るというのだろうか。」といったパラドックスのような
 表現を残して、その謎を身をもって解こうとすることに意味があると思えたからです。
●通説では、次のようになっています。

そこで、知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。〔分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。〕言葉としてあらわれない弁舌、道としてあらわれない道のことを、誰が知ろうか。

〇新解釈では、次のようになります。

ゆえに、その「知らないところに足を止めることを知る」なら、至るのだが、
いったい誰が、「不言の弁」や「不道の道」を知るというのだろうか。


【故知止其所不知 至矣】【故にその知らざる所に止まるを知らば、至れり。】
【孰知不言弁不道之道】【孰(た)れか不言の辯(弁)、不道の道を知らん。】
〔ゆえに、その「知らないところに足を止めることを知る」なら、至るのだが、
いったい誰が、「不言の弁」や「不道の道」を知るというのだろうか。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「では、あの五つのものの<元来のもの>を<囲む>ことなく、いったいどうして<とらえ><知る>ことができるというのでしょう?」

木精「<不可知>なる所に足を止めることを<知る>ことができれば・・・な。<不可知>・・・それは、ある時は<不可思議>とも<神秘><霊妙>とも呼ばれるようなものなのかもしれず、思考ではなく、体感のバイブレーションとして全身全霊で、あるいは心で知っていくようなことなかもしれない。
それはあまりに大きすぎるが故に、どんな<知識>の<尺度>をもってしても量れないのかもしれないし、逆にあまりに小さすぎてその微妙さを的確にとらえることができないのかもしれない。また、あまりにその流れが速いが故にとらえられないのかもしれないし、逆にあまりに遅いが故に動いているものとして認識できないのかもしれない。また、あまりにもまばゆいが故に見えないものかもしれないし、逆にあまりにも暗いが故に見えないものかもしれない。」

考葦「ちょっと待ってください。<神秘>や<不可思議>を持ち出してしまうと、それは過去の<無知蒙昧な混沌とした原始的未開の意識状態>の方が優れていて、それに立ち戻れ‥と言っているようにも聞こえるのですが・・・」

木精「そういうふうに解釈する者も多いようだが、私は違うと思っている。<不可知>なる所に<足を止める>ことができれば至る‥といったのではなく、<不可知>なる所に足を止めることを<知る>ことができれば至る‥と言っているのだ。この違いがわかるだろうか?
前者は、きみの言うように過去にバックするように、<目をつぶったまま思考停止する>という<無意識的>なものだ。ところが後者は、自発的に瞬間瞬間に体をあずけながらも<思考を止めているが、しっかり目を見開いている>という、極めて<意識的>なものだ。

だからこう言われるのだよ。<不言の弁><不道の道>を矛盾ではなくパラドックスとして<知る>ことができるなら至るが、誰がそれを<知る>だろうか…と。それは<不可知と可知とが共存する知>であって、どちらか一方ではない。光は粒子であり波動でもあると知られているが、それに類似した感覚で、言葉や思考で理解できる<知>と、バイブレーションでのみでしか感じることができないいわゆる<不知>の共存…とでも言えばいいだろうか。」
┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 若有能知  ┃【若(も)し能(よ)く知ることあらば、
┃  此之謂天府 ┃ 此(ここ)にこれを天府(てんぷ)と謂う。】
┗━━━━━━━━┛
もし、それを知ることができたなら、
その知を「天府(天を過不足なくピッタリ収めるくら)」と言えるだろう。
……………………………………………………………………………………………………………

*【府】は「广(いえ)+付(人の背に手をぴたりとひっつけるさま)」で、
 「物をびっしりとひっつけて入れるくら」の意。

◆通説では、【若有能知】を「もしそれを知るものがあれば」と訳しています。

◇ここは、「よく<知るもの>あらば」ではなく、「よく<知ること>あらば」と言ってい
 るところがミソだと思います。特別な(聖人のような)人が、「不言の弁」や「不道の道」
 を、<成す>ことができれば…と言っているのではなく、誰であれ、それを<知る>こと
 ができれば…と言っているのです。つまりここでのポイントは、無意識ではなく、きわめ
 て意識的に(知識とは別の形で)<知る>ことができれば…ということにあると思いま
 す。

◆通説では、【天府】は「自然の宝庫」と補足して訳しています。

◇【天府】は、あくまでも「天をびっしりとひっつけて入れるくら」という意味で、それ以
 上の意味はもっておらず、通説の「宝庫」というのは勝手なイメージだと思っています。
 思考で可能な<知>は「 (天を収めるには過不足が生じる)知識」と言えるでしょうが、
 <不知の知>を体得した時には、はじめてその<知>を<天府(天を過不足なくピッタ
 リと収めるくら)>と言うことができる…と言っているのでしょう。
●通説では、次のようになっています。

もしそれを知ることのできるものがあれば、これこそ天府(──すなわち自然の宝庫)といえよう。

〇新解釈では、次のようになります。

もし、それを知ることができたなら、
その知を「天府(天を過不足なくピッタリ収めるくら)」と言えるだろう。


【若有能知】【若(も)し能(よ)く知ることあらば、】
【此之謂天府】【此(ここ)にこれを天府(てんぷ)と謂う。】
〔もし、それを知ることができたなら、
その知を「天府(天を過不足なくピッタリ収めるくら)」と言えるだろう。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「光は粒子であり波動であると<知って>いても、何だか実感と結びつきにくいですね。」

木精「では、もう少しわかりやすい喩えでいえば、次元の違う<知>によって、矛盾ともパラドックスともいえる謎が解ける<知>としての理解が生まれるかもしれないな。どういうことかと言えば、二次元の<地図>と三次元の<地球儀>との関係を想像すれば少しはこの<知>の違いの理解の手助けになるかもしれないと思うのだ。地球を<知る>のに、<地図の知>では、必ずや<過不足が生じるくら>であるのに対して、<地球儀の知>だと<ピッタリとしたそのままを収めることができるくら(府)>と言えるだろう。そこから類推すると、三次元(六合の内)の範疇でとらえることのできる<知>では<過不足が生じるくら>であるのに対し、四次元(六合の外)の範疇では、<天をぴったりと収めることができるくら>と言える<知>を得ることが可能だということで、それを<天府>と言うことでできると言っているのではないだろうか。」
┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 注焉而不満 ┃【注げども満たず、】
┃  酌焉而不竭 ┃【酌(く)めども竭(つ)きず、】
┗━━━━━━━━┛
注ぎ込んでも、いっぱいになることはなく、
くみ出しても、尽きて無くなることはない。
……………………………………………………………………………………………………………

*【満】は「水+㒼(毛皮を垂らしておおうさま)」で、「枠いっぱいに水ををみたして、
 その面をおおうこと」。

◆通説では、【注焉而不満】は「そこにいくら注ぎこんでも溢れることはなく、」としてい
 ます。

◇ここでは、<天府(ピッタリと収まっている知のくら)>とはどういうものなのか、イメ
 ージをつかみやすくするための説明をしています。どうやら、<知>という認識を<知識
 (というくら)>に詰め込まれるような「固定物」ではなく、水のような「流動物」に喩え
 ているところがミソのようですね。
 【不満】は原義からすると、<天府>に注がれる<知>は、「溢れることがない」という
 ことではなく、「(ピッタリであるが)いっぱいという限界がないために、(<知識>のよ
 うに)おおうように囲ってしてしまうことがない」と言っているのではないでしょうか。

*【酌】は「酉(さけ)+勺(水などをくむ杓子)」で、「酒をくみ出すこと」。

*【竭】は「立+曷(かすれる)」で、「力や水を出し尽くすこと」。

◆通説では、【酌焉而不竭】は「そこからいくら汲み出しても無くならない。」としています。

◇ここの訳は通説と大差はありません。
 「くみ出しても、尽きて無くなることはない。」としました。

◇<知識>から汲み出す<知>は、どんなに豊富にたくわえられていても、いずれネタ切れ
 するのは時間の問題にしかなりませんが、一方<天府(ピッタリとしている知のくら>か
 らはいくら汲み出しても、尽き果てることはなく、無尽蔵だということですね。
●通説では、次のようになっています。

そこにいらく注ぎこんでも溢れることがなく、そこからいくら汲み出しても無くならない。

〇新解釈では、次のようになります。

注ぎ込んでも、いっぱいになることはなく、
くみ出しても、尽きて無くなることはない。

【注焉而不満】【注げども満たず、】
【酌焉而不竭】【酌(く)めども竭(つ)きず、】
〔注ぎ込んでも、いっぱいになることはなく、
くみ出しても、尽きて無くなることはない。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「<知を収めるくら>は、三次元的<知識>ではなく、四次元的<天府>だということでしょうか。言葉上ではなんとなくわかるような気がしますが、もう少し<天府>について話してもらえますか。」

木精「五つの<元来のもの>とは、まるいと喩えられるだけではなく、常に流動的なものと言うことができるかもしれない。認識できるのは、固定的なものではなく、顕れる形はすべ喩えると暫定的で、常に変化しているものと言えるのかもしれない。そんな状態の物をピッタリと収めるくらが<天府>だと言えるかもしれないな。どんなに注いでもいっぱいだと蓋をして限定することがなく、くみ出されても尽きて無くなることもないのだよ。」

考葦「<天府>の流動性は<不知>を含むため、混沌とも言えるランダムな無秩序を含むということでしょうか?」

木精「<不知>を<無意識領界>と思考で<考える知>だけなら、そう取れるかも‥な。
だが実際、天を反映している<不知>の領界では、不規則のように見えても、それはランダムな無秩序ではなく、地の認識からは計り知れない天の青写真や伝令に則した秩序のようなものがあって、それでいて二物のない自由な形態を表現できるのかもしれない。たが残念ながら普通の<考える知>ではそれを<知る>ことはできないようだ。自分の内部の流動的な変化を<知る>ことができるのは、全身で受け止めて感じることができる意識的な状態の時だけだ。思考における<知のくら>は<知識>にすぎないが、まるまるそのままで体感できる流動的な連続性がある<知のくら>である<天府>なら、そこに出入りする<知>を自由自在にとらえて扱えることができることになるだろう。

もう少し具体的に言うと、<知識>は有限の世界の<知>に過ぎないということだ。一度に大量の情報が<知識>に注ぎ込まれるといっぱいいっぱいの限界があり、それを越すと覚えたり理解することができずにオーバーヒートして混乱とパニックが襲ってくるかもしれないし、逆に<知識>からくみ出すとなると、いくら豊富な情報があっても、限界があってだんだんと底をついて、尽き果ててしまうのは時間の問題となるだけだろう。

しかし、<天府>という<知のくら>は、常に枠にピッタリとしていても、いっぱいだからと蓋をして囲み切ることはなく、新しい<知(情報)>の注入に対しても、柔軟に受け皿を広げることができ、<元来のもの>をそのままに受け入れられる状態になるのかもしれないし、逆に外に展開するように<天府>からくみ出される<知(情報)>は、無限の天に属するもので無尽蔵だと言えるのかもしれないな。」
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 而不知其所由来 ┃【而もその由りて来たる所を知らず。】
┃  此之謂葆光   ┃【此(ここ)にこれを葆光(ほうこう)と謂う。】
┗━━━━━━━━━━┛
しかし、それがどこからどうして来るのかは分からない。
そこで、その知を「葆光(ほうこう)(内に秘め保たれる光)」と言えるだろう。
……………………………………………………………………………………………………………

*【由】は、酒や汁をぬき出す口のついたつぼを描いた象形文字。

◆【而不知其所由来】は、通説では「しかもそれがどうしてそうなのか、その原因は分から
 ない。」としています。

◇ここでも、<知>を流動的なイメージに喩えて「【由来】するところを知ることはない」
 つまり「それがどこからどうして来るのかは分からない」と言っているのでしょう。つま
 り、<知識>の伝達のように「出所」がわかるようなものではないということですね。

*【葆】は「艸+保(中につつみこむ、保護する)」で、
 「大切にする」「内側に隠れて表面にはあらわれない」という意味です。

◆【此之謂葆光】は通説では、「こういう境地を葆光(──すなわち内にこもった光)とい
 うのである」としています。

◇【葆】の字に「保」が含まれていますように、「内側に隠れて表面にはあらわれない」と
 しても、「こもっている」とニュアンスではなく「内側で大切に保たれている」といった
 感じが込められているのではないでしょうか。よって、「こういう境地」というよりは、
 「こういう<知>の在り方」が【葆光】(内に秘め保たれる光)と言えると言っている
 のではないでしょうか。

◇<知>を流動的な「水」のようなものとして説明していましたが、ここで突然「光」のイ
 メージに転調しているところが、荘子ならではの面白みですね。

●通説では、次のようになっています。

しかもそれがどうしてそうなのか、その原因がわからない。
こういう境地を葆光(──すなわち内にこもった光)というのである。

〇新解釈では、次のようになります。

しかし、それがどこからどうして来るのかは分からない。
そこで、その知を「葆光(ほうこう)(内に秘め保たれる光)」と言えるだろう。


【而不知其所由来】【而もその由りて来たる所を知らず。】
【此之謂葆光】【此(ここ)にこれを葆光(ほうこう)と謂う。】
〔しかし、それがどこからどうして来るのかは分からない。
そこで、その知を「葆光(ほうこう)(内に秘め保たれる光)」と言えるだろう。〕

── ☆  ☆  ☆

考葦「<知>を水に喩えるならば、<知識>は池のようなもので、<天府>は海のようなものだということでしょうか。」

木精「そういったイメージでとらえられると少し分かりやすくなるかもしれないが、本当の<知>はそう単純なものではないのだ。海の場合は雲がキーポイントで、注ぎ込むものは雨から生まれる川で、出ていくものは蒸気から生まれる雨だということが分かっているが、本当の<知>の場合はどこからどうして来るかはわからないのだ。

<知>が流動的なものだとしても、水というより<気>のようなものだと想像した方がいいかもしれない。本当の<知>は、言葉を使って思考でとらえられる<知識>だけではなく、体全体で振動のようなものとしてとらえられる<気>そのものを感じとることのできる知覚作用だと言えるかもしれない。それが<気>だと想定すると、<陽気>と<陰気>があるので、<知>とは電気や磁気を帯びている知覚作用だと想像できることになる。<知識>の場合、受け入れやすいものは<陽気>の肯定的性質をもっているものかもしれないが、<陰気>の否定的性質をもっているものは忌み嫌われ排除しようとする傾向があるのかもしれない。しかし<天府>はありのままに受け入れ、<陰気>も<陽気>と同じように大切に受け入れられるのだ。<天府>においては排除すべきものは何もなく、対極の二つのものの流れの出会いにおいては、条件がそろえば第三なるスパーク(閃光)が誕生する可能性があるといえるかも知れないのだ。それは天の粋なはからいのカラクリでどうしてそうなるかは分からない。その時その場だけの微妙な必要に応じて、どうして過不足なくその<流れ>が起きるのかも分からないのだ。それは内側で起きる現象なので、外からもたらされる<知識>の明かりとは違っていて、<自分の内でのみわかるひらめきのような光>、つまりそのような<知>を<葆光>と言うことができるのかもしれない。」

考葦「なるほど。少しわかりやすくなったようにも思えますが、この会話自体も<知識>で聞いても<葆光>にするのは難しいことだとも言えるわけですね。」

木精「そういうことだな(笑)。」

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