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荘子コミュの5、類比(時空の認識)

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コミュ内全体

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5、類比(時空の認識)               
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今且有言於此        今かつ「此」に言あり。
不知其与是類乎       「其」と「是」は類するか、
其与是不類乎        「其」と「是」は類せざるかは、知らず。
類与不類相与為類      「類する」と「類せざる」は相ともに類を為さば、
則与彼無以異矣       すなわち「彼」とも、以って異なる無し。
雖然            然りと雖(いえど)も、
請 嘗言之         請う、嘗(こころ)みにこれを言わん。
有始也者          始めなるものあり。
有未始有始也者       未だ始めより始めあらざるものあり。
有未始有夫未始有始也者   未だ始めより夫(か)の未だ始めより
              始めにあらざるものあらざるものあり。
有有也者          有なるものあり。
有無也者          無なるものあり。
有未始有無也者       未だ始めより有無ならざるものあり。
有未始有夫未始有無也者   未だ始めより夫(か)の未だ始めより
              有無にならざるものあらざるものあり。
俄而有無矣         俄かにして有無や、
而未知有無之果孰有孰無也  而も未だ知らず、有無の果たして孰(いずれ)か
              有にして、孰(いずれ)か無なるを。
今 我則已有謂矣      今、<我>すなわちすでに謂うあり。
而未知吾所謂之其果有謂乎  而も未だ知らず、<吾>が謂う所の其の果たして
其果無謂乎         謂う有りや、其の果たして謂う無きか。
天下 莫大於秋豪之末    天下、秋豪(ごう)(毫)の末より大なるは莫(な)く、
而大山為小         而も大山(たいざん)を小と為す。
莫寿乎殤子         殤子(しょうし)より寿なるは莫(な)く、
而彭祖為夭         而も彭(ほう)祖(そ)を夭(よう)と為す。
天地与我並生        天地と我と並び生じ、
而万物与我為一       而も万物と我と一たり。
既已為一矣         既に一たり、
且得有言乎         かつ言あるを得るか。
一与言為二         一と言とで二たり。
二与一為三         二と一とで三たり。
自此以往巧歴不能得     此れより以往(いおう)は巧歴も得ること能(あた)わず。
而況其凡乎         而るを況(いわ)んやその凡(はん)をや。
故自無適有         故に無より有に適(ゆ)くすら、
以至於三          以って三に至るに、
而況自有適有乎       而るを況んや有より有に適くをや。
無適焉           適くこと無し。
因是已           是に因るのみ。
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▽(金谷治 訳)
……………………………………………………………………………………………………………
今やそもそもここで言葉が述べられている。
その言葉が、今述べている明智の立場と似合ったものであるか、
それとも似合わないものであるのか、それは分からない。
似合ったにせよ似合わないにせよ、いずれにしても〔言葉を立てて〕似せるようにしているのは、あの〔善し悪しの判断を下す〕世俗の立場と違いがないわけだ。
〔言葉というものには要するに限界がある。〕
しかしそうはいっても、一応はためしに述べてみようと思う。
始めということが有る。
また始めということでさえもともと無いということが有る。
また始めということでさえもともと無いということ、
それさえもともと無いということが有る。
有るということが有る。
無いということが有る。
無いということさええ、もともと無いということが有る。
また無いということさえもともと無いいうこと、
それさえもともと無いということが有る。
〔事物の始源をたずねれば、果てしのないのだが、現実世界では〕
にわかに有無の対立が生まれることになる。
そしてその有無の対立は〔要するに相対的なものだから〕
どちらが有でどちらが無だか分からない。
いま自分はまたここで言葉を述べたが、自分の述べたことで、本当にものを言ったことになるのかそれともものを言ったことにはならないのか、それも分からない。
この世界で最も大きいものは秋の動物の毛先であって、
〔世間の人が巨大だと考えている〕泰山は小さいものである。
また最も寿命が長いものは若死にした子供であって、
〔世間の人が長寿だと考えている〕彭祖(ほうそ)は短命な人である。
〔相対にとらわれないこうした立場からすると、〕
天地の長久もわが生命とともにあり、
万物の多様もわが存在とともにあり、万物の多様もわが存在と一体である。
すでに一体であるからには、さらにほかに言葉というものがありえようか。
しかしすでにそれを一体だといったからには、言葉がないとして済まされようか。
対象としての一とそれを表現した言葉で二となり、
その二ともとの未分の一とで三となる。
それから先き〔の数のふえ方〕は計算の名人でもとらえられず、
まして世間一般の人では及びもつかない。
そこで、無から有へと進むばあい(──すなわち絶対的な混一を言葉にのせて表現するばあい)でも三になるのであって、まして有から有へと進むばあい(──すなわち相対の世界でそれぞれの立場を論証するばあい)では無限で果てしもない。
進むことをやめて、ひたすら自然のままに身をまかせてゆくばかりだ。
……………………………………………………………………………………………………………

▽(岸陽子 訳)
……………………………………………………………………………………………………………
さて、今まで述べてきたのは、事物には本来区別はないということだったが、
このわたしの説にしても、やはり是非の別を立てたのだとする見方も成り立つ。
是非の別を立てようと立てまいと、同じくひとつの判断である以上、
両者の差異はないといえよう。
だが、人間の判断に負わされた宿命ともいうべきこの限界を念頭に置いたうえで、
なお認識の問題について考察を加えたい。
人間の事物に対する認識は、運動(時間)と形式(空間)の二つの範疇に大別される。
まず運動について考えるなら、どのような運動にもかならず
「始め」があることが認識される。
「始め」がなければ、運動は成立しない。
「始め」はあらゆる運動についての、もっとも基本的な概念である。
さて、「始め」が意識され、いったん「始めあり」という判断がくだされると、
これに対して「始めはない」という否定判断が成立する。
「始めはない」という判断が成立すると、
さらに続いて「始めはないことはない」という二重否定判断が成立する。
次に、形式について考えるなら、
どのような形式にもかならず「存在する」ことが認識される。
「存在」しなければ、形式は成立しない。
「存在する」ことはあらゆる形式についてのもっとも基本的な概念である。
さて、「存在する」ことが認識され、いったん「存在する」という判断が下されると、
これに対して「存在しない」という否定判断が成立する。
さらに続いて「存在しないことはない」という二重否定判断、
「存在しないことはないことはない」という三重否定判断が成立する。
このようにして、すべての事物がいったん認識の領域に取り込まれて判断を形成するや否や、ただちにそれに対する否定判断が成立する。
そして、否定はさらに否定の否定を導き、さらにまた否定の否定の否定が導かれるというように、そこに生ずる否定の無限な連鎖反応は、究めるすべもない。
わたしは、いま、わたしなりの判断を述べてきた。
しかしこの判断にしても、肯定することもできるし、否定することもできるのである。
いっさいの矛盾と対立を超えた「道」の世界にあっては、
大なるものの代表とされる泰山(たいざん)も、獣の柔毛(にこげ)より小さく、
八百歳生きた彭祖(ほうそ)も、生まれ落ちるとすぐに死んだ赤児より短命である。
天地と自己とは一体であり、万物と自己とは一如である。
この「一」すなわち主客一体の世界には、概念の介入する余地がないように見える。
しかしことを一と判断すれば、すでにそこに一という概念が生じたことになる。
ついで、一である世界と、一という概念とから、二という概念が生まれ、
二という概念と一という概念とから、三という概念が生まれる。
そこから先に生ずる数概念の限りなさは、
いかなる計数の達人といえども、究めつくすことはできまい。
主客未分の混沌たる体験が、一であると判断された瞬間に、
もう三までの概念を生みだしたのである。
ましてや、概念によって区分された世界が、どのような概念の独走を生み、
どのように複雑多岐に分化してゆくかは、推(お)して知るべきであろう。
果てしないこの迷路に足を踏み入れることなく、
無心に立ち返って、いっさいを自然のままに委ねることだ。
……………………………………………………………………………………………………………

▽(吹黄 訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今、ここ(類比の場)に、さらに重なりゆく言葉がある。
(時空において、)「それ(其/中称)」と「これ(是/近称)」は類する(と言える)か、
「それ(其/中称)」と「これ(是/近称)」は類さない(と言える)かは分からない。
だが、「類する」と「類しない」ということが、対語という類語となるならば、
結局は、「あれ(彼/遠称)」とも、異なるものとは言えなくなる。
とはいうものの、試しにこれを言おう(願わくば言い進めながら吟味してみたい)。
(宇宙の時間において、)『始まり』というものが「ある」。
『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。
(宇宙の空間において、)『有』というもの(の世界)が「ある」。
『無』というもの(の世界)も「ある」。
『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。
突然にして、「有(ある)」とも「無(ない)」ともなるが、
その「有(ある)」と「無(ない)」とは、果たしてどちらが「有(ある)」で、
どちらが「無(ない)」か、いまだに分かることではない。
今、<我>は結局、すでに「謂う」に「あった」が、
<吾>が「謂ったところ」は、果たしてそれは「謂ったこと」に「ある」のか、
それとも、それは「謂ったこと」に「ない」のか、いまだに知らないことだ。
この(空間の)世界で、秋の獣の毛先より大きいものはない(とも言え)、
そして、大山は小さなものだ(とも言える)。
(時間の世界で)若死にした人より長生きした人はない(とも言え)、
そして、彭祖(伝説上の長寿者)は若死にした人だ(とも言える)。
天地と<我>とは並び(時間を同じくして)生じた(とも言え)、
そして、万物と<我>とは(空間を同じくして)<一>を為している(とも言える)。
(だが、)すでに(全存在が)<一>であるというのに、
なおかつそこに(そうであるという)言葉が存在し得るだろうか。
<一>と「それを言ったこと」とで「二」を為す。
その「二」とそれを説明した「一」とで「三」を為す。
ここから進めるその先は、順に巧妙に数えても、何も得ることはできない。
ましてや、「おしなべてすべてのこと」となるとなおさらだ。
つまり、「無」から「有」へと向かうだけで、
もうすでに「三」に至っているのだから、
ましてや、「有」から「有」へと向かおうとするならなおさらだ。
向かわないでいよう。
ただ(時空において言えることは)「今ここ(是)」に身をまかせる(ということ)だけだ。
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コメント(43)

┏━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 類与不類相与為類 ┃【「類する」と「類せざる」は相ともに類を為さば、
┃  則与彼無以異矣  ┃ すなわち「彼」とも、以って異なる無し。】
┗━━━━━━━━━━━┛
だが、「類する」と「類さない」ということが、対語という「類語」となるならば、
結局は、「あれ(彼/遠称)」とも、異なるものとは言えなくなる。
……………………………………………………………………………………………………………

*【相】は「木+目」で、
 「木を対象に目でみること」→「AとBとが向きあう関係」をあらわします。

◆通説では、【類与不類】は「類して(似合って)いようと、いまいと」と解釈しています。

◇【類与不類相与為類】では、【与】と、次に【相】という言葉があることなどから、
 「類」と「不類」という語そのものが、対語という相向き合う「類語」となる・・・
 と取れるように思えます。

*【彼】は「彳(いく)+皮(なめしがわを手で向こうに押しやるさま)」で、
 「こちらから向こうにななめに押しやること」。
 ⇒転じて、「向こう、あちら」の意となる「遠称」に用います。

*【異】は「大きなさるor頭+両手を出した体」で、
 「一本の手のほか、もう一本の別の手をそえて物を持つさま」です。

◆通説では、【彼】は、「あの世俗の立場」と解釈しています。

◇この【彼】も何かを受けての代名詞ではなく、一つの指示詞にすぎないのだと思います。
 つまり【其】−【是】が類語なら、【其】−【彼】も同様の関係になり、
 一般的に【是】−【彼】という対立するだけの関係にあると思われている概念も、
 実は「異なるものではなくなる」・・・と言っているのではないでしょうか。
 
◇結局は【是(これ)】−【其(それ)】−【彼(あれ)】の関係を見るなら、
 世間での白黒、区別や対立する言葉の定義さえ、連続していて不確かなものではないか
 ・・・という問題提起をしているかのようにも感じます。
>>[5]

コメントとイイネ!ありがとうございます。励みになります。

今後も原文の一言一句に注意を払いつつ、一つずつの漢字を味わいながら、読み進めていこうと思います。
>>[6]
漢文を見てると、ミクシーに手書き機能がほしくなりますね。
筆形式で縦書きで。
●通説では、次のようになっています。

似合ったにせよ似合わないものにせよ、いずれにしても〔言葉を立てて〕似せるようにしているのは、あの〔善し悪しの判断を下す〕世俗の立場と違いがないわけだ。

〇新解釈では、次のようになります。

だが、「類する」と「類さない」ということが、対語という「類語」となるならば、
結局は、「あれ(彼/遠称)」とも、異なるものとは言えなくなる。


【類与不類相与為類】【「類する」と「類せざる」は相ともに類を為さば、】
【則与彼無以異矣】【すなわち「彼」とも、以って異なる無し。】
〔だが、「類する」と「類さない」ということが、対語という「類語」となるならば、
結局は、「あれ(彼/遠称)」とも、異なるものとは言えなくなる。〕

──文法的な見地からすれば、「これ」「それ」「あれ」は、「指示詞」というまとまりの中では、「類語」と言うことができます。「それ」という言葉は、「これ」「あれ」にできてしまった隙間や溝にするりと入り込み、「重なり」としてそれを埋め、連続感をも生み出すような言葉です。

「其」は「是」に、もし「類する」と言うことができれば、
「其」は「彼」とも「類する」と言うことができることになります。
つまりは、そうなれば・・・
「是」から切り離したはずの「彼」でさえ、「異なるものではなくなる」というわけです。

ただし、荘子はそんな論法によって、単純に既成概念を崩そうとしているだけではないように思います。もし、そういった「言葉の定義の曖昧さ」に対しての警鐘だけに留まるなら、(通説で解釈されているような)以降の文章も同じようなことをただ羅列していることになるように思いますが、果たしてそうでしょうか…。
┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 雖然    ┃【然りと雖(いえど)も、
┃  請 嘗言之 ┃ 請う、嘗(こころ)みにこれを言わん。】
┗━━━━━━━━┛
とはいうものの、試しにこれを言おう(願わくは言い進めながら吟味してみたい)。
……………………………………………………………………………………………………………

*【請】は、「言+悄弊検椣罅神弔澄んでいること)」で、
 「澄んだ目をまともに向けて、応対すること」の意。
 「まともに目を向けて相手にお願いする」「心から頼む」「頼みごと」などの意。
 (文のはじめにつき)「どうか…させてほしい」の意をあらわすことば。

*【嘗】は「旨+尚(のせる)」で、「舌の上に乗せて味をみること」。
 ⇒転じて「ためしてみる」⇒「試した経験が以前にある」。

*【之】は「進みいく足の動作」を意味していますが、
 シという音を借用して、「近称」の「これ」の当て字ともします。

◆通説では、【請 嘗言之】は「一応ためしに述べてみようと思う」としています。

◇単純に表面的に訳すると通説と大差はありませんが、
 一字ずつの漢字を掘り下げて解釈すると、もう少し深みを感じます。

◇【雖然】は「是や彼やと異なるものとして述べることができるものではない」を受けて、
 「そうは言っても」と言っているのでしょう。

◇【請】の「どうか…させてほしい」と言う言葉の裏に「心からの願い」がうかがえます。
 原義を踏まえると「澄んだ目をまともに向けて、応対したい」と言っているようです。
 訳としては「願わくば…してみたい」と少し意訳しました。

◇【嘗】は「試しに」ということでしょうが、漢字の原義からすると、「舌の上に乗せて味
 をみること」ということなので、今一度「吟味してみたい」と補足して訳しました。

◇【言之】の【之】を表面上は「指示代名詞」の「これ」としましたが、「吟味したい」と
 いうことであれば「ゆく」(助動詞)としてとらえた方がいいかもしれないと思いまし
 た。つまり【言之】(「言いゆかん」と訓んで)は「一歩一歩言い進めながら」ともとれ
 ます。

●通説では、次のようになっています。

〔言葉というものには要するに限界がある。〕しかしそうはいっても、
一応はためしに述べてみようと思う。

〇新解釈では、次のようになります。

とはいうものの、試しにこれを言おう(願わくは言い進めながら吟味してみたい)。


【雖然 請 嘗言之】
【然りと雖(いえど)も、請(こ)う、嘗(こころ)みにこれを言わん。】
〔とはいうものの、試しにこれを言おう(願わくは言い進めながら吟味してみたい)。〕

──言葉というものは、こう言おうがああ言おうが結局のところ差異がなくなってしまうものにすぎないといえる、とはいうものの、そうだとわかっている上で、今一度(宇宙の時間と空間について)言葉でどのように追求できるものか、試しに順をおって言及しながら、それを吟味してみたい…と言っているかのようです。

我々「言葉崇拝者」とも言えるような者にとって、次の話は「無駄で、無益なあがき」のようにも見える「言葉遊び」的な展開に終わるのか、それともそうでないのか、十分に吟味したいところです。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 有始也者        ┃【始めなるものあり。】
┃  有未始有始也者     ┃【未だ始めより始めあらざるものあり。】
┃  有未始有夫未始有始也者 ┃【未だ始めより夫(か)の未だ始めより
┃              ┃ 始めにあらざるものあらざるものあり。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
(宇宙の時間において、)『始まり』というものが「ある」。
『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。
……………………………………………………………………………………………………………

*【有】は「肉+又(手で構える)」で「わくを構えた手に肉をかかえこむさま」
 ⇒「空間に一定の形を画する」⇒「事物が形をなしてあること」。

*【始】は「女+〔厶(農具すき)+口(言う)〕」で、
 「女性としての行為のおこり(≒「胎」)」⇒「物事のはじめ」。

*【未】は「木のまだのびきらない部分」の象形で、「まだ…していない」の意。

◆【有始也者 有未始有始也者 有未始有夫未始有始也者】の解釈は通説では、
 『A』を認識すれば、当然『A′』という否定・対立する概念が生まれるとしています。
 『A′』を認識すれば、次には『「A′」′』という二重否定(=肯定)が生まれるとして
 【未】を「未然形」として扱わず、「否定形」としての「ない」として解釈しています。

◇ここでのポイントは、その前の「彼」「是」の中間に当たる「其」という言葉が存在する
 ことによって「彼」「是」の言葉の差異はあやしくなってくることを述べていましたが、
 ここでは【有】と「無」の中間に当たる「未然形」の【未】という言葉が使われているこ
 とで、時間の存在の【有】と「無」の区別があやしくなってくるという点だと思います。
 この【未】は、潜在的に【有】でも、顕在的には「無」と言える、非常にきわどい意味を
 もっているものです。単純な「否定形」でないところがミソだと思います。

◇「入れ子式のパラドックス?」のような展開で、まずは宇宙における「時間」という概念
 について、試み的に言及しているものだとして、訳を展開してみました。

◇もう少し単純に言えば、『始まり』は「有る」。ただし、『まだ始まっていないもの』と
 して「有る」。『まだ始まっていないものがまだ始まっていないという始まり』なら、
 それは「有る」と言っているのかもしれません。
●通説では、次のようになっています。
 
始めということが有る。まだ始めということさえ、もともと無いということが有る。また始めということさえもともと無いということ、それさえももともと無いということが有る。

〇新解釈では、次のようになります。

(宇宙の時間において、)『始まり』というものが「ある」。
『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。


【有始也者】【始めなるものあり。】
〔(宇宙の時間において、)『始まり』というものが「ある」。〕

──「全宇宙における活動・運動」の「時間経緯」を尺度とする時の「第一の起点」となる『始め・始まり』というものが「ある」かと言えば「ある」…ということができるようです。

【有未始有始也者】【未だ始めより始めあらざるものあり。】
〔『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。〕

──ところが、その『始まり』は単純に「ある」と言える決定的な瞬間ではなく、未然の状態の『まだ始まっていないもの』としてなら「ある」…といえるもののようです。内部の秘密裏で進行しているものとしてなら「ある」と言えるかもしれないが、実際のところ「この時」と言えるような外部において認識できるものではない…ということのようです。

【有未始有夫未始有始也者】
 【未だ始めより夫(か)の未だ始めより始めにあらざるものあらざるものあり。】
〔その『始まりがあることがまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。〕

──さて、これは単純な「言葉の定義の逆転劇」にすぎないようなものでしょうか。
それとも、もっと奥の深いものを示唆しているのでしょうか。

「始まり」=「まだ始まっていないという始まり」が「ある」と言えるが、そもそもそんな「始まりはまだないもの」としてなら「ある」というパラドキシカルな言及のようです。

それは「宇宙」における「時間」の問題のようです。それを「意識」できるのは、人間だけです。数学の世界では人類が初めて自分たちの頭の中で作り上げた「0(ゼロ)」の概念を発明して導入することにより、飛躍的な発展を遂げたと言われていますが、これはすなわち「起点」という意味で「始まり」と同じ意味でしょうか。西洋では「0(ゼロ)」=「無」ということになりますが、「始まり」という概念はそんな単純なものではないということをここでは説いているようです。

禅の世界など東洋では、「無」は「○(円)」によって象徴されることもありますよね。そして「さ〜て、この『○』に『始まり』は『ある』のか『ない』のか?」と問われたら、どう答えればいいのでしょうね。「ある」と言えば「ある」し、「ない」と言えば「ない」と言うことになってしまいそうです。
 
ちなみに、『新約聖書 (ヨハネの黙示録) 』によれば、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファ(始まり)であり、オメガ(終わり)である。』」として、これまた不可思議な含みをもった表現をしています。

「始」という概念は、「有」でも「無」でも「ある」ような「ない」ようなこの中間的な「未」を用いることによって、まさに「庸に寓す」という言葉にも通じるような、何とも不思議な感覚によって認識できるものなのですね。

ちょっと複雑な入れ子式の考え方ですね。単純に一般に言われているように、ただ「否定」の「否定」は「肯定」になるということの説明ではないと私は思っています。宇宙における「時間」に「始まり」はあるのかどうかを展開させている言葉だと受け取ることができるからです。「始まり」は「未だ始まっていないもの」としてある…と言ったが、時間的に言って、それはどんな時でも「まだ始まっていない」ところからの「始まり」があるのだ…と言っているようです。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 有有也者 有無也者   ┃【有なるものあり。】【無なるものあり。】
┃  有未始有無也者     ┃【未だ始めより有無ならざるものあり。】
┃  有未始有夫未始有無也者 ┃【未だ始めより夫(か)の未だ始めより
┃              ┃ 有無にならざるものあらざるものあり。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
(宇宙の空間において、)『有』というもの(の世界)が「ある」。
『無』というもの(の世界)も「ある」。
『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。
……………………………………………………………………………………………………………

*【無】の原字は「亡(ない)+舞の略体(両手に飾りを持って舞うさま)」です。

◆通説では、【無】は「無いということ」と解釈して、【有有也者 有無也者】は、
 「有るということが有る。無いということが有る。」としています。

◇西洋では【無】は【有】の反対語で「存在しない」と否定する意でのみ用いられます。
 一方、東洋では【無】という「形なく存在するもの」という肯定的な?概念もあります。
 字源からうかがえる原初の【無】の概念は、単純な「零(0)」の意味ではなく、「舞う
 」ものの存在があるが、それが見えない状態であることを表していると言えるようです。

◇ここでは、宇宙の「空間」において、【有】という「形をもって存在するものの世界」
 もあれば、【無】という「形なく存在するものの世界」もある…と言っていると解釈しま
 した。

◆通説では【未始】を未然形として解釈せず否定形として解釈しており、
 【有未始有無也者】は、「無いということさえ、もともと無いということが有る。」と
 しています。
 【有未始有夫未始有無也者】は、「また無いということでさえもともと無いということ、
 それさえもともと無いということが有る。」としています。

◇【有未始有無也者】は、空間において、一見はっきり「『有』と『無』の区別できるよう
 な世界がある」と認識できるものだという前提で述べたが、時間の認識同様に、実は未然
 形としてのみ「『有と無の世界(の区分)がまだ始まっていないもの』としてある」こと
 だ…と言っていると解釈しました。
 【有未始有夫未始有無也者】は、少しややこしくなってきましたが、
 「『有と無というもの(の世界)がまだ始まっていないものとしてある』ことが、
 まだ始まっていないものとしてあることだ。」…ということになるでしょうか。
●通説では、次のようになっています。

有るということが有る。無いということが有る。
無いということさえ、もともと無いということが有る。
また無いということさえもともと無いということ、それさえもともと無いということが有る。

〇新解釈では、次のようになります。

(宇宙の空間において、)『有』というもの(の世界)が「ある」。
『無』というもの(の世界)も「ある」。
『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。
その『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。


【有有也者】【有無也者】【有なるものあり。】【無なるものあり。】
〔(宇宙の空間において、)『有』というもの(の世界)が「ある」。
『無』というもの(の世界)も「ある」。〕

──「時間」の概念をつかもうとするならば、それは微妙な(パラドキシカルな)関係で成り立っていると認識せざるを得なかったのと同様に、「空間」の概念の認識も、一筋縄でいくようなものではないようですね。

まずは順を追ってとらえる概念の前提として、『有』といえるものの世界と『無』といえるものの世界があると想定できる…といっています。
『有』の世界はあらためて説明する必要はないと思いますが、『無』の世界観をどうとらえるかが問題になるのかもしれません。

我々東洋人は『無』の世界の概念を受け入れられても、普通は「空」や「空っぽ」として「零(0)」と関連付けてしまうかもしれませんが、数の概念と関連してとらえるとするならば、私は「空間」の始まりも「一」とみなしていると考えます。

字源からすると、見えないにしろ「舞」が絡んでいるあたりは、おもしろいじゃないですか。
普通、存在する『無』を想定しても、活動が「静止状態」か「停止状態」を想定するか、「混沌」といったランダムな「乱」を想像したりもしてしまいそうですが、「見えない(隠されている)舞」とは、もっと違う概念のように思います。

素粒子の舞?の軌跡を思わず思い出してしまいます。
もちろん、荘子の時代にはそんなものは発見されていませんので、敏感なイメージ的感覚によるものだと思いますが…。

【有未始有無也者】【未だ始めより有無ならざるものあり。】
〔『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)』として「ある」ことだ。〕

──ここでも未然形が使われています。『有』と『無』は実は類比しがたい関係にあるのだと言っているようです。つまり『有』の世界と『無』の世界は別々に存在しているのではなく、もともといけるところまで追求すると、その区別はいまだ始まっていないもの…と言うしかないものということになりそうです。

【有未始有夫未始有無也者】
 【未だ始めより夫(か)の未だ始めより有無にならざるものあらざるものあり。】
〔その『有と無がまだ始まっていないもの(未然形)としてある』ことが、
「まだ始まっていないもの(未然形)」として「ある」ことだ。〕

──この世界の「空間」は、未然形のまま『有』と『無』が交錯してどちらともいえない状態が、今もって「まだ始まっていないもの」として「ある」としか言えないのかもしれませんね。

それぞれは潜在的存在としては「ある」と言えても、顕在的存在としては「ない」という、一見矛盾しているようでいて、そうではなく、両方が成り立つ形で「ある」と言っているのでしょう。
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 俄而有無矣   ┃【俄かにして有無や、】
┃  而未知有無之  ┃【而も未だ知らず、有無の果たして
┃   果孰有孰無也 ┃ 孰(いずれ)か有にして、孰か無なるを。】
┗━━━━━━━━━━┛
突然にして、「有(ある)」とも「無(ない)」ともなるが、
その「有(ある)」と「無(ない)」とは、果たしてどちらが「有(ある)」で、
どちらが「無(ない)」か、いまだに分かることではない。
……………………………………………………………………………………………………………

*【俄】は「厂(折れ曲がり)+我(ぎざぎざの刃のついた武器)」。

◆通説では【俄而有無矣】は「にわかに有無の対立が生まれることになる」としています。

◇ここは【有無】の「対立」ではなく、「未然」という形で「共存」していると言っている
 のではないでしょうか。「時間」と同様に、「空間」の認識における世界観も「突然にし
 て、【有】とも【無】ともなる(区別できない)もの」なのだ…と言っているのではないで
 しょうか。

◆【而未知有無之果孰有孰無也】は、通説では「そしてその有無の対立は(要するに相対的
 なものだから)どちらが有でどちらが無だか分からない。」としています。

◇「空間」(「時間」)はその概念を認識しようとしても、【有】と【無】が逆転したり、
 曖昧になってしまったりするわけですが、その「共存」のための両者の間に想定されてい
 る「溝」を埋める役割を果たしたのが、【未】という概念の導入です。言葉上は類比でき
 る【有】と【無】とも言えるものでも、実際はパラドキシカルに【有」が【無】の意味に
 なったり、【無】が【有】になったりして、どちらが本当の意味で【有】で、どちらが
 【無】になるのかは、いまだに分かることではない…と言っているのかもしれません。

◇この【未知】は、ただ「分からない」と言っているのではなく、ここも「未然形」で潜在
 的には「わかる」かもしれないが、顕在的には「分からない」となる…と言っているので
 はないでしょうか。

┏━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 今 我則已有謂矣  ┃【今、我すなわちすでに謂うあり。】
┃  而未知吾所謂之其果 ┃【而も未だ知らず、吾(わ)が謂う所の其の果たして
┃   有謂乎其果無謂乎 ┃ 謂う有りや、其の果たして謂う無きか。】
┗━━━━━━━━━━━━┛
今、<我>は結局、すでに「謂う」に「あった」が、
<吾>が「謂ったところ」は、果たしてそれは「謂ったこと」に「ある」のか、
それとも、それは「謂ったこと」に「ない」のか、いまだに知らないことだ。
……………………………………………………………………………………………………………

*【謂】は「言+胃(まるい胃袋の中に食べたものが点々と入っているさま+肉)」
 で、「何かをめぐって、ものをいうこと」。

◆通説では、【今 我則已有謂矣】の【我】は【吾】と同じとみなし「自分は」とし、
 【謂】は「言」と同じとみなし「言葉を述べた」としています。
 また【已】は訳に反映されていません。

◇【我】は、一人の人間の一部分の自意識をもった「わたし」とみなし、<我>のままに
 しました。
 【謂】も日本語の「言」との違いが表現しづらいので「謂う」のままにしましたが、
 「反芻するようなことを言うこと」といったニュアンスでしょうか。
 物理的なところで【已】(すでに)「謂う」という事実は「あった」と言えるでしょう。

◇この説明の前振りで「試しにこれを言おう(願わくば言い進めながら吟味してみたい)」
 と言ってましたが、まさに腹に入れて「(反芻しながら)吟味してほしい」と願いながら、
 順を追って、とりあえずは一旦、<我>が「ものを謂ってきた」という事実が「ある」
 が…と言っているようです。

◆通説では、【而未知吾所謂之其果有謂乎其果無謂乎】の【吾】は前述の【我】と同じで、
 単に「自分は」としています。「自分の述べたことで、本当にものを言ったことになるの
 か、それとも言ったことにはならないのか、それも分からない。」としています。

◇ちょっと意訳してみますと(<我>は事実として謂ったのだが)、<吾 (本来のわたし)>
 が「謂いたかったこと」は、その何らかのものが読者に伝わって、「謂ったこと」に
 「なる」のか「ならない」のか、それはいまだに知るよしもないと言っているようです。
 つまり、そこに「謂っただけのかいがある」価値が「ある」ものか「ない」ものか、
 それは受け手の問題なのだ…というようなニュアンスを含んでいるように思えます。

●通説では、次のようになっています。

〔事物の始源をたずねれば、果てしもないものだが、現実世界では〕
にわかに有無の対立が生まれることになる。
そしてその有無の対立は〔要するに相対的なものだから〕
どちらが有でどちらが無だか分からない。
いま自分はまたここで言葉を述べたが、自分の述べたことで、本当にものを言ったことになるのかそれともものを言ったことにならないか、それも分からない。

〇新解釈では、次のようになります。

突然にして、「有(ある)」とも「無(ない)」ともなるが、
その「有(ある)」と「無(ない)」とは、果たしてどちらが「有(ある)」で、
どちらが「無(ない)」か、いまだに分かることではない。
今、<我>は結局、すでに「謂う」に「あった」が、
<吾>が「謂ったところ」は、果たしてそれは「謂ったこと」に「ある」のか、
それとも、それは「謂ったこと」に「ない」のか、いまだに知らないことだ。


【俄而有無矣】【俄かにして有無や、】
【而未知有無之果孰有孰無也】
【而も未だ知らず、有無の果たして孰(いずれ)か有にして、孰か無なるを。】
〔突然にして、「有(ある)」とも「無(ない)」ともなるが、
その「有(ある)」と「無(ない)」とは、果たしてどちらが「有(ある)」で、
どちらが「無(ない)」か、いまだに分かることではない。〕

──「有(ある)」とも「無(ない)」ともなる…これはある意味、不思議な「謎解き」のような言葉になりそうです。「矛盾」しているのではなく、宇宙は実は「パラドックス」に満ちた世界なのだと、言っているに他ならないのかもしれません。「有」と「無」とが共存する「パラレルワールド」だと言っているのです。これは「思考」では答えを出すことはできなくても、「意識」ではその「謎」を「体感」するということでもって、これを看破することはできるのだ…と言っているようにも受け取れます。

【今 我則已有謂矣】【今、我すなわちすでに謂うあり。】
【而未知吾所謂之其果有謂乎其果無謂乎】
 【而も未だ知らず、吾が謂う所の其の果たして謂う有りや、其の果たして謂う無きか。】

──「時空」に対する「知」を「言葉」を用いて表現したのでしょうが、それを受け取り側がどうとらえるかで、単なる「言葉遊び的なもの」に終わるのか、「深い言及」として受けとめられるかが変わってくることでしょう。それ故に、「謂う」という行為は<我>はしたことは確かであるが、それでいて、<吾>が「謂う」ことの意義や意図が伝わらなければ、「謂わない」ことに等しくなるわけで、それが実際にどうであるのかはいまだに知ることはできない…と言っているのかもしれません。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 天下 莫大於秋豪之末 ┃【天下、秋豪(ごう)の末より大なるは莫(な)く、】
┃  而大山為小      ┃【而も大山(たいざん)を小と為す。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
この(空間の)世界で、秋の獣の毛先より大きいものはない(とも言え)、
そして、大山は小さなものだ(とも言える)。
……………………………………………………………………………………………………………

*【豪】は「豕(いのしし)+高(たかく目だつ)の略体」で、
 「やまあらしの背の高く目だったこわい毛」のことです。
 転じて⇒「すぐれる、強い」「すぐれた人」の意をもちます。
 【豪】は【毫】(獣の毛)と通用しているようです。
 【秋毫】は特に、「秋になって生えかわった細い毛」。
 ⇒「少しも」という意や「わずかなもの、細かいもの」のたとえに使います。

◆【天下 莫大於秋豪之末 而大山為小】は、通説では「この世界で最も大きいものは秋の
 動物の毛先であって、(世間の人が巨大だと考えている)泰山は小さいものである。」と矛
 盾としか考えられないようなものでも「なんでもあり」的な訳や、「いっさいの矛盾と対
 立を超えた『道』の世界にあっては」とことわっている訳などがあります。

◇ここは、【豪之末(細い毛先)】と【大山】との「空間」を占める「大きさ」を比べてみ
 た時に常識とは真逆のことが言えるということを言っているのではないと思っています。
 二つのものを比較したのではなく、それぞれ【豪之末(細い毛先)】を最大のものと認識
 することもできれば、【大山】を小さなものだと認識することもできるということを言っ
 ているのだと思います。

◇【秋豪之末】は「極小」ではあるが、必要不可欠な「すぐれもの」と言わんばかりです。
 『荘子』の中では、ほとんど【毫】ではなく【豪】が使われているというのも、単に習慣
 的な通用によるのではなく、同じ獣の毛を表す【豪】と【毫】を、(「空間を占める大き
 さ」と「存在としての価値の大きさ」といった)価値尺度の違うものの両面を示唆する含
 みとしてあえて掛け合わせたのではないかという気もしないでもないです。
●通説では、次のようになっています。

この世界で最も大きいものは秋の動物の毛先であって、
〔世間の人が巨大だと考えている〕泰山は小さいものである。

〇新解釈では、次のようになります。

この(空間の)世界で、秋の獣の毛先より大きいものはない(とも言え)、
そして、大山は小さなものだ(とも言える)。


【天下 莫大於秋豪之末】【天下、秋豪(ごう)の末より大なるは莫(な)く、】
【而大山為小】【而も大山(たいざん)を小と為す。】
〔この(空間の)世界で、秋の獣の毛先より大きいものはない(とも言え)、
そして、大山は小さなものだ(とも言える)。〕

──「ん…これはどういうこと?」…そう思う人は少なくないのではないでしょうか。
恵子の詭弁的展開とどこが違うのだろう…などと思いながら、なんだか、狐につままれたような感覚のままに、通説のように「道を得た人」の価値尺度からすると、我々凡人の判断では測れないものだから…と、そのまま流してしまってもいいのでしょうか? 
いや、その結論は性急すぎるかもしれません。

『荘子』秋水篇(後に詳しく解説)の中におもしろい寓話がありますので、その要約を紹介します。
          
          *  *  *

多くの川の水が洪水となって集まることで得意になっていた黄河の主「河伯」が北に向かい、北海をはじめて見てその広大さに呆然としてしまいます。そうしてそれまでの自分が「百ばかりを知って思い上がっていた者のようだ」とつぶやきます。すると、北海の主の「若(じゃく)」が、「井の中の蛙」のようだった「河伯」に、価値観や判断がいかに流動的なものであるかを説きます。

北海若「天下の水の中では、確かに海より大きいものはない。その海の水は、川の水がどんどん入り込んできても増えないし、かといって減りもしない。変化(活動)しているのに総量は変化しないのだ。

さても、天下で最大の私でも、天地において比べる身からすると、陰陽の気を受けるものにすぎないのだ。そんな私は、天地の間に在る立場からすると、大きな山の中の、小さな石や小さな木のようなものだ。私にしても、少しだけ存在しているのに、自らを多大なものだなんて、とてもとても…。

数で名づけるなら、物を『万』というが、そうなると人は『一』だ。だが、その人とて、数多くの様々な偉業といわれることを為すものだ。だが…万物と比べるなら、人は『一』を占めるにすぎない。それは、馬の体に於ける『豪末(獣の毛先)』に似ていないか。」

河伯「ということは、私より大きいものとして天地もあれば、小さいものとして『豪末』もある…と心していればいいのですね。」

北海若「そうじゃない…。そもそも、物を(比較の)はかりにかけるなら限りないだろう。時は止まることなく、分離された物が同じ状態のままあることはない。終わりや始りが過去のものになってしまうようなこともないのだから。

だから大いなる知とは、遠くから観たり、近くから観たりするものだ…。事あるごとにそれに一喜一憂するのではなく、余儀なく分離した物の世界とは、そもそも常なるものはなく同じものはないと知り、それを澄んだ目でみることだ。

人の知れるところを一つに集めても、それでも知らないことには及ばない。生きている時は、いまだ生まれていない時には及ばないことが理解できるか? 

その小(小さく分離確立するもの)にたどり着くような判断や認識によって、大の領域をも(認識できるだろうと)その行き着く範囲の境界を求めるものだが、これだから、迷い混乱するだけで、何も自らに得ることができないのだ。…又、細に至るのに、僅かな隙間を限定することによって、『豪末』の<足る>を、どうやって知ることができるだろうか。又、窮(きわま)りに至るのに、大の域を囲むことによって、天地の<足る>を、どうやって知ることができるだろうか?」
          
          *  *  *

空間を占める「大きさ」をはかる「大・小」の判定以外に、その存在の「大きさ」の価値をはかる「はかり」となれば、様々あるだろうというのに、我々は、知らず知らずお決まりの「はかり」だけを使っているのかもしれません。

北海若は「大いなる知とは、遠くから観たり、近くから観たりするものだ」と言っています。それは、「裸眼」で見るばかりでなく、「顕微鏡的な眼」や「望遠鏡的な眼」を持つことになると、世界はまるで違って見えてくるというものだ…ということを述べているのかもしれません。

空間に於ける「大・小」の区別をしている認識と、それぞれの存在の<足るを知ること>という認識とでは、まったく別の価値観が生じることになり、常識的「大・小」の判定を覆すことになるかもしれませんね。

┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 莫寿乎殤子 ┃【殤子(しょうし)より寿なるは莫(な)く、】
┃  而彭祖為夭 ┃【而も彭祖(ほうそ)を夭(よう)と為す。】
┗━━━━━━━━┛
(時間の世界で)若死にした人より長生きした人はない(とも言え)、
そして、彭祖(伝説上の長寿者)は若死にした人だ(とも言える)。
……………………………………………………………………………………………………………

*【寿(壽)】は、下部の〔長く曲がって続く田畑の中のあぜ道(うね)〕に、
 〔土+ノ〕(老を意味する印)を加えたもので、「老人の長命」を意味します。
 ⇒のち「長生きを祝う」という意が付随するようになったようです。

*【殤】は「歹(死ぬ)+傷(きずつく)の略」で「若くして死んだ人」を表します。
 普通「19歳以下で死んだ者」のようですが、「その霊魂」を指すこともあるとか…(?)

*【彭祖】は、「800歳くらいまで生きたとされる伝説上の長寿者」です。

*【夭】は「人間のしなやかな姿」or「(巫女が)踊り祈るような姿」の象形。
 ふつうは「若くして死ぬ」意として用いられています。

◆【莫寿乎殤子 而彭祖為夭】は、通説では【殤子】と【彭祖】と比較して「最も寿命が長
 いものは若死にした子供であって、(世間の人が長寿だと考えている) 彭祖は短命な人であ
 る。」としています。

◇(生きている時間において)【殤子】と【彭祖】との比較しているのではないと思います。
 それぞれのことを語っているものとして、「若死にした人より長生きした人はない(と
 も言え)、そして、彭祖(伝説上の長寿者)は若死にした人だ(とも言える)」としま
 した。

◇先に説明した「空間」においての価値観の逆転が起きたのと同様に、意識する視点を変え
 たならば、「時間」においての価値観も変わるものだと説いているものだと思います。
●通説では、次のようになっています。

また最も寿命が長いものは若死にした子供であって、
〔世間の人が長寿だと考えている〕彭祖(ほうそ)は短命な人である。

〇新解釈では、次のようになります。

(時間の世界で)若死にした人より長生きした人はない(とも言え)、
そして、彭祖(伝説上の長寿者)は若死にした人だ(とも言える)。


【莫寿乎殤子】【殤子(しょうし)より寿なるは莫(な)く、】
【而彭祖為夭】【而も彭祖(ほうそ)を夭(よう)と為す。】
〔(時間の世界で)若死にした人より長生きした人はない(とも言え)、
そして、彭祖(伝説上の長寿者)は若死にした人だ(とも言える)。〕

──「空間」と同じように「時間」においても常識的固定判断を覆す見方があるようです。

『荘子』ではありませんが、『老子』の第33章には、次のような話があります。

          *  *  *
人を知る者は智があり、 自らを知る者は、明るさがある。人に勝つ者には、力があり、 自らに勝つ者には、強さがある。足るを知る者は、富んでいて、 力強く行く者は、志をもっている。その居場所を失わない者は、久遠である。死んでも、しかし、亡くならない者は長寿である。
          *  *  *

前に荘子の死生観に中に、「人間の生命は今世限りではない」という考えを匂わせる展開がありましたが、老子の「死んでも、しかし、亡くならない者は長寿である」という死生観と共通するものがあるのかもしれないと思います。

『荘子』逍遥遊篇には、次のような話があります。

          *  *  *
北冥に、巨大な魚の「鯤(こん)」がいた。それが化けて、巨大な鳥の「鵬(ほう)」となって、南冥(天の池)に移行するために大空を飛翔する・・・

そんな話を聞いた、小枝間を飛び交って生を営む小鳥たちは、「天を飛翔しても何の意味があるものか」‥などと言ったりするものです。小知は、大知のことは考えも及ばないし、小年は、大年に及びようがない。大昔、大椿(たいちん)は8000年を春とし、また8000年を秋としていた。衆人は今や、彭祖(ほうそ)くらいの歳を特別のように引き合いに出すが、なんとも悲しいことではないか。        
          *  *  *

前回紹介した話の中で、北海若が「生きている時は、いまだ生まれていない時には及ばない」…などと、ちょっと謎めいた言葉を言っていましたが、小鳥のような我々には、なかなか視点を変えてものごとを既成の枠から飛び出て認識していくことは、難しいのかもしれませんが、生きているにしても死んでいるにしても、その存在の寿命は違う価値観の上に成り立っているとも言えるかもしれません。
┏━━━━━━━━━━┓
┃▼ 天地与我並生  ┃【天地と我と並び生じ、】
┃  而万物与我為一 ┃【而も万物と我と一たり。】
┗━━━━━━━━━━┛
天地と<我>とは並び(時間を同じくして)生じた(とも言え)、
そして、万物と<我>とは(空間を同じくして)<一>を為している(とも言える)。
……………………………………………………………………………………………………………

*【並(竝)】は「左右に人が立っている姿」で、「ならぶさま」を示します。

◆【天地与我並生 而万物与我為一】は、通説では「〔相対にとらわれないこうした立場か
 らすると、〕地の長久もわが生命とともにあり、万物の多様もわが存在と一体である」と
 して、特に「時空」を意識した訳にはなっていません。

◇ここでも、「時間」と「空間」が<我>とどのような関係にあるかが説かれているのでは
 ないでしょうか。<我>が「生まれる」という「始まり」を仮に言葉で表現するならば、
 「天地と<我>とは並び(時間を同じくして)生じた」とも言え、そして、<我>が存在
 しているということを仮に言葉で表現するならば、「万物と<我>とは(空間を同じくし
 て)<一>を為している」とも言える…と解釈しました。
●通説では、次のようになっています。

〔相対にとらわれないこうした立場からすると、〕
天地の長久もわが生命とともにあり、万物の多様もわが存在と一体である。

〇新解釈では、次のようになります。

天地と<我>とは並び(時間を同じくして)生じた(とも言え)、
そして、万物と<我>とは(空間を同じくして)<一>を為している(とも言える)。


【天地与我並生】【天地と我と並び生じ、】
〔天地と<我>とは並び(時間を同じくして)生じた(とも言え)、〕
【而万物与我為一】【而も万物と我と一たり。】
〔そして、万物と<我>とは(空間を同じくして)<一>を為している(とも言える)。〕

──荘子の壮大な宇宙観を感じますね。宇宙の時空と<我>とが、どのように成り立っていて、どのような関係にあるかに言及しているようです。

天地が生まれるその始まりの原理と同様なかたちで<我>が生まれたならば、
それは、時を同じくして「天地と<我>は並んで生じた」…と言えるのかもしれません。

空間に存在する「万物は<一>を為している」と言えるなら、
「<我>も<一>を為している」…と言えるのかもしれません。

「神我一体」などという言葉もありますが、普通そのためには<無我>の境地に至ること…などとよく言われます。しかし、荘子はおそらくその同じことを「(空間において)万物と<我>とは<一>を為している」…と表現していて、そこがミソになるのかもしれませんね。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 既已為一矣 且得有言乎 ┃【既に一たり、かつ言あるを得るか。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
(だが、)すでに(全存在が)<一>であるというのに、
なおかつそこに(そうであるという)言葉が存在し得るだろうか。
……………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【既已為一矣 且得有言乎】は「しかしすでにそれを一体だといったからに
 は、さらにほかに言葉というものがありえようか。」としています。

◇通説と大差がないようですが、「一体」と言うのと<一>と言うのでは、微妙にニュア
 ンスが違うかもしれません。

┏━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 一与言為二 二与一為三 ┃【一と言とで二たり。二と一とで三たり。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
<一>と「それを言ったこと」とで「二」を為す。
その「二」とそれを説明した「一」とで「三」を為す。
……………………………………………………………………………………………………………

◆【一与言為二 二与一為三】は、通説では「対象としての一とそれを表現した言葉で二
 となり、その二ともとの未分の一とで三となる。」としています。

◇通説での論法には疑問が生じます。「対象としての一」は、「もとの未分の一」と同じも
 のを指しているということになりますが、それでは重複した表現にならないでしょうか。
 ここでは、「全存在の<一>」+「<一>だと説明した一つの言葉」=「二」になり、
 「<一(存在)>+『一(言)』=『二』と説明したこと」=「一(更なる言)」となるため
 全部を合わせて「三」(<一>+「一」+「一」)になる…と言っているのだと思います。
 (通説では、<一>+「一」+<一>だと言っていることになるため、よみ違いだと…)

●通説では、次のようになっています。

しかしすでにそれを一体だといったからには、
さらにほかに言葉というものがありえようか。
対象としての一とそれを表現した言葉で二となり、
その二ともとの未分の一とで三となる。

〇新解釈では、次のようになります。

(だが、)すでに(全存在が)<一>であるというのに、
なおかつそこに(そうであるという)言葉が存在し得るだろうか。
<一>と「それを言ったこと」とで「二」を為す。
その「二」とそれを説明した「一」とで「三」を為す。


【既已為一矣 且得有言乎】【既に一たり、かつ言あるを得るか。】
〔(だが、)すでに(全存在が)<一>であるというのに、
なおかつそこに(そうであるという)言葉が存在し得るだろうか。〕

──言葉を使って、時空の認識における究極の状態の<一>を表現をしようとしていますが、その時に言葉の陥る罠も同時に展開しているようです。前述の言葉によって<一>という表現をしたものの、本来の<一>には「言」の介入する余地がないとも言っています。(つまりは<一>であるということを認識することの難しさを物語っているかのようです。)

【一与言為二 二与一為三 】【一と言とで二たり。二と一とで三たり。】
〔<一>と「それを言ったこと」とで「二」を為す。
その「二」とそれを説明した「一」とで「三」を為す。〕

──「全存在が<一>をなす」という体感でしか理解しようのないことを、他人の意識に届けようとする時、どうしても「言葉」を介入せざるをえないわけですが、その時には<一>いう、いわば仮の概念を使ってしまうことになり、一見矛盾するかのようになりますが、
<一>+「一(言)」=「二」となってしまうことになると説明しています。

そして、その計算方式で表現するならば、「二」となるという説明が、更なる「一(言)」となり、本来なら未分であるはずの<一>を言葉にしたがために、あっという間に
「二」+「一」=「三」になると言っているようです。
┏━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 自此以往巧歴不能得 ┃【此れより以往は巧歴も得ること能(あた)わず。】
┃  而況其凡乎     ┃【而るを況(いわ)んやその凡(はん)をや。】
┗━━━━━━━━━━━━┛
ここから進めるその先は、順に巧妙に数えても、何も得ることはできない。
ましてや、「おしなべてすべてのこと」となるとなおさらだ。
……………………………………………………………………………………………………………

*【以往】(いおう)は、「これより前」または「これからのち」「今後」の意。

*【巧】は「工+〔右側の字〕(コウ:曲線が上につかえる、細かく曲折する)」で
 「手のこんだわざ」「たくみにうわべを飾る」などの意。

*【歴】は「〔厂(やね)+禾(いね)二つ〕+止(あし)」で、「順序よく次々と
 足で歩いて通る、へること」「次々と並んでいるさま」「区別されているさま」。

◆【巧歴】で、普通「天文や暦法にくわしい人」「数学にくわしい人」と訳されます。
 【自此以往巧歴不能得】は、通説では「それから先(の数のふえ方)は計算の名人でも
 とらえられず」としています。

◇しかし、私は【巧歴】は「人」のことではなく「行為」のことで、「順序よく次々とたく
 みに数を数えること」ではないかと思っています。【不能得】は「とらえきれない」とい
 うことではなく「何も得ることはできない」ということだと解釈しました。というのも、
 この計算は普通の人でもできるただ順に「一」を足していくことに過ぎないと思えるから
 です。つまり、これ以降の説明(計算)は「不可能」と言っているのではなく「無意味」
 だと言っているにすぎないのではないでしょうか。

*【凡】は「広い面積をもって全体をおおう板、または布」の象形。

◆【凡】は「凡人」(「計算にすぐれていない者」)という捕らえ方が一般的なようです。
「(計算名人でも捕らえきれず、)まして凡人では及びもつかない」としています。

◇やはり【凡】も、「人」のことではなく、数える「対象」だと思えます。
 「言葉」というものを介入することになると、<一>という表現でさえにわかに「三」
 になるのだから、「おしなべてすべてのこと」を「言葉」で表現するとなると、とんでも
 ないことになるだろう…といっているのだと解釈しました。
●通説では、次のようになっています。

それから先〔の数のふえ方〕は計算の名人でもとらえられず、
まして世間一般の人では及びもつかない。

〇新解釈では、次のようになります。

ここから進めるその先は、順に巧妙に数えても、何も得ることはできない。
ましてや、「おしなべてすべてのこと」となるとなおさらだ。


【自此以往巧歴不能得】【此れより以往は巧歴も得ること能(あた)わず。】
〔ここから進めるその先は、順に巧妙に数えても、何も得ることはできない。〕

──認識を深めるために、<一>という表現を取り上げてみただけで、すぐさま「三」の概念でとらえていることになるというのです。この空間の世界を厳密に表現しようとすればすれほど、本来の<一>から遠ざかることになってしまうという始末なのですから…これは一種のジレンマですね。これ以降の認識表現のフォローを巧妙に進めても、何の意味も得ることができないままだというのも、納得いくところです。

【而況其凡乎】【而るを況(いわ)んやその凡(はん)をや。】
〔ましてや、「おしなべてすべてのこと」となるとなおさらだ。〕

──そこから類推するならば、他の「すべてのこと」も、「言葉」が介入すると、その実態と表現との間でなおさらの大きな違いが出てくる…と言っているようですね。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 故自無適有 以至於三 ┃【故に無より有に適(ゆ)くすら、以って三に至るに、】
┃  而況自有適有乎    ┃【而るを況んや有より有に適くをや。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
つまり、「無」から「有」へと向かうだけで、
もうすでに「三」に至っているのだから、
ましてや、「有」から「有」へと向かおうとするならなおさらだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【適】は「〔足の動作〕+〔啻の変形〕(一つにまとめる、一直線になる)」で、
 「まっすぐひとすじに、まともに向かうこと」の意。

◆【故自無適有 以至於三】は、通説では「そこで、無から有へと進むばあいでも三になる
 のであって」としています。

◇ここは前の文章を受けて、【無】=<一>という概念をもとにしていることがうかがえま
 す。それ故「【無】から【有】に向かうだけで、三に至っている」と念を押しています。
 【有】とは「言葉で説明して具体的に表現されれたものになること」でしょうか。

◆【而況自有適有乎】は、通説では「ましてや有から有へと進むばあいは無限ではてしもな
 い。」としています。

◇最初の【有】はその前の文章の【凡】と同じような意味で使っているのだと思います。
 「全体に至るまでのそれぞれのもの」ということでしょうか。ここは通説と大差なく、
 「ましてや、【有】から【有】へと向かおうとするならなおさらだ」ということでしょう。

●通説では、次のようになっています。

そこで、無から有へと進むばあい(──すなわち絶対的な混一を言葉にのせて表現するばあい)でも三になるのであって、まして有から有へと進むばあい(──すなわち相対の世界でそれぞれの立場を論証するばあい)では無限で果てしもない。

〇新解釈では、次のようになります。

つまり、「無」から「有」へと向かうだけで、
もうすでに「三」に至っているのだから、
ましてや、「有」から「有」へと向かおうとするならなおさらだ。


【故自無適有 以至於三】【故に無より有に適(ゆ)くすら、以って三に至るに、】
【而況自有適有乎】【而るを況んや有より有に適くをや。】
〔つまり、「無」から「有」へと向かうだけで、もうすでに「三」に至っているのだから、
ましてや、「有」から「有」へと向かおうとするならなおさらだ。〕

──話の流れの中で、補足的に表現しているようですが、一般的な感覚の「無」を「ゼロ」だという概念ではとらえていないということがはっきり見て取れます。つまり、ここでのポイントとなる概念は、「無」は<一>とも言えるのだという感覚でとらえていることです。

もっとも、ここで言わんとしていることは、概念を言葉によって認識してつかみとろうとすることの無意味さを説いているので、「無」も<一>も仮の言葉として使っていることを忘れてはならないところです。「無」や<一>でさえ、言葉の罠にはまりかねないのですから、「有」なるものを表現された言葉で認識しようとすると大きな落とし穴にはまりかねないと言っているようです。
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 無適焉 因是已 ┃【適くこと無し。是に因るのみ。】
┗━━━━━━━━━━┛
向かわないでいよう。
ただ(時空において言えることは)「今ここ(是)」に身をまかせる(ということ)だけだ。
……………………………………………………………………………………………………………

◆【無適焉】は、通説では「進むことはやめて、」としています。

◇ここは同意の「向かわないでいよう」ということでしょうが、つまりは時空の認識する
 ためには「言葉での説明に頼る方向にはいかないようにしよう」と言っているのでしょ
 う。

*【因】は「囗(ふとん)+ 印(乗せた物)or大(ひと)」で、
 「ふとんを下に敷いて、その上に大の字に乗ること」を示しています。

◆【因是已】の【是】は、通説では「自然のままに」と意訳しています。

◇この場合の【是】は、時間においては「今」を、空間においては「ここ」を指し示して
 いるのではないでしょうか。【因】の字源のイメージから、「すっかり身をまかせる」様
 子がうかがえます。時空の認識は「ただ<今ここ>の自分を頼りに身をまかせるだけだ」
 といった趣旨ではないかと思っています。
●通説では、次のようになっています。

進むことをやめて、ひたすら自然のままに身をまかせてゆくばかりだ。

〇新解釈では、次のようになります。

向かわないでいよう。
ただ(時空において言えることは)「今ここ(是)」に身をまかせる(ということ)だけだ。


【無適焉 因是已】【適くこと無し。是に因るのみ。】
〔向かわないでいよう。
ただ(時空において言えることは)「今ここ(是)」に身をまかせる(ということ)だけだ。〕

──時空を認識するにあたって、「言葉」のトリックにはまって無益に説明し続ける方向へとは行かないでおこう…と言っているのではないでしょうか。本当の意味で時空を認識できるのは、「今ここ」に身をまかせることだけがその秘訣だ…と言っているようです。

この一連の流れの話は、時空において最小限の言葉で説明を試みているものの、最大限に効果的な言葉としては、「<今ここ>に身をまかせるのみだ」ということに尽きると言っているのではないのしょうか。

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