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荘子コミュの4、寓言(4)人の知

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4、寓言(4)人の知              
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古之人其知有所至矣     古(いにしえ)の人、その知至る所あり。
悪乎至              いずくにか至る。
有以為未始有物者       もって未だ始めより物のあらずと為すもの有り。
至矣 尽矣            至れり、尽くせり、
不可以加矣           もって加うべからず。
其次以為有物矣        その次はもって物の有るを為し、
而未始有封也          而も未だ始めより封あらざるなり。
其次以為有封焉        その次はもって封有りと為し、
而未始有是非也        而も未だ始めより是非あらざるなり。
是非之彰也           是非の彰(あら)われるや、
道之所以虧也          道の虧(か)くるゆえんなり。
道之所以虧           道の虧(か)くるゆえんは、
愛之所以成           愛の成るゆえんなり。
果且有成与虧乎哉       果たしてかつ成ると虧(か)くるとは有りや。
果且無成与虧乎哉       果たしてかつ成ると虧くるとは無しや。
有成与虧故           成ると虧くるの有るが故に、
昭氏之鼓琴也          昭氏の琴を鼓するなり。
無成与虧故           成ると虧くるの無きが故に、
昭氏之不鼓琴也        昭氏の琴を鼓せざるなり。
昭文之鼓琴也          昭文の琴を鼓するや、
師曠之枝策也          師曠(しこう)の策に枝するや、
恵子之拠梧也          恵子の梧(ご)に拠るや、
三子之知幾乎          三子の知は幾(ちか)し。
皆其盛者也           皆それ、盛(も)る者や、
故載之末年           故にこれを末年に載せる。
唯其好之也           ただそれ、これを好むなり。
以異於彼             彼において異なるを以って、
其好之也             それ、これを好むなり。
欲以明之彼           以って彼にこれを明らかにせんと欲す。
非所明而明之          明らかにする所に非ざるに、而もこれを明らかにす。
故以堅白之昧終        故に堅白(けんぱく)の昧(まい)を以って終わる。
而其子又以文之綸終     而してその子もまた文(あや)の綸(りん)を以って終わり、
終身無成             終身成ること無し。
若是而可謂成乎        かくのごとくして成ると謂うべきや、
雖我亦成也           <我>といえどもまた成るなり、
若是而不可謂成乎      かくのごとくして成ると謂うべからざるや、
物与我無成也         物と<我>と成ること無きなり。
是故滑疑之耀         この故に滑疑(こつぎ)の耀(かがや)きは、
聖人之所図也         聖人の図(はか)るところなり。
為是不用而寓諸庸      これが為に不用にして諸(もろ)を庸に寓す。
此之謂以明           此れを明を以(もち)うと謂う。
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▽(金谷治 訳)
………………………………………………………………………………………………………………
昔の人は、その英知に最高のゆきついた境地があった。
そのゆきついたところはどこか。
もともと物などはないと考える〔無の〕立場である。
至高であり完全であって、それ以上のことはない。
その次の境地は、物があるとは考えるが、そこに境界を設けない〔物我一如の〕立場である。
その次の境地は、境界があるとは考えるが、そこに善し悪しの判断を設けない〔等価価値の〕立場である。〔以上の三つの立場が、ていどの差はありながら、万物斉同の真の道にかなったものである。〕
善し悪しの判断がはっきりするのは、真実の道が破壊される原因であり、
道が破壊される原因は、また愛憎のできあがる原因である。
〔しかし、ここで破壊といい、できあがるといったが、〕
はたして完成と破壊とがあるのか、はたして完成と破壊とはないのか。
完成と破壊とがあるのは、昭氏が琴をひいたばあいでありであるし、
完成と破壊とのないのは、昭氏が琴をひかないばあいである。
〔昭氏のような名手でも、琴をひくとそこに分別が生まれる。〕
この昭氏が琴をひくのと、師曠(しこう)が琴柱(ことじ)を立て〔て音律を整え〕るのと、
恵子(けいし)が小机にもたれ〔て弁舌をまくしたて〕るのと、
三人の英知は極致であろうか。
皆それぞれにりっぱなものである。
そこで、それを後の世までも書き伝え、ひたすらにそれを愛好する結果は他人に異を立てて、
その愛好のあまりにそれをはっきり人に示したいと考えるようになった。
しかし、かれらは、はっきりできるものではないのにそれをはっきり示そうとしたのであるから、
〔恵子のばあいは〕結局、「堅白(けんぱく)論」のような詭弁の愚かさで終り、
〔昭文のばあいは〕その子がまた父の伝えをうけただけで幕が降りて、
生涯なんの完成もなかった。
このようなありさまでいて何かを完成したといえるのなら、
この自分でさえやはり完成していることになるが、
このようなありさまでは何も完成したといえないということなら、
自分にも自分以外のすべての物にもともに完成はないことになる。
こういうわけで、〔むりに人にはっきり示して〕人を眩惑するような輝きは、
聖人の取り除こうとするものである。
そのために自分の判断を働かせないで平常(ありきたりの自然さ)にまかせていくのであって、
そういうのを真の明智を用いることというのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

▽(岸陽子 訳)
………………………………………………………………………………………………………………
太古の人こそ、最高の知の所有者だったといえるのではないだろうか。
なぜならば、かれらは自然のままの存在であり、
かれらの意識は、主客未分化の、いわば混沌状態だったと考えられるからである。
この混沌こそ、もっとも望ましいありかたなのである。
時代が下ると、人々は自己を取りまく世界を意識しはじめた。
こうして認識作用が生まれたが、客体としての事物に区別は立てなかった。
さらに時代が下ると、人々は事物の区別を意識するようになったが、まだ価値概念は発生しなかった。
しかし、やがて価値概念が発生するや、「道」は虧(そこな)われた。
そして、「道」が虧われると同時に、人間の執着心が成ったのである。
だが、果たして「道」には、成虧(せいき)の別があるのだろうか。
たとえば、琴の名手昭文(しょうぶん)の演奏を考えてみよう。
昭文の演奏によって、そこにはたしかに妙(たえ)なるメロディーが成る。
だが成った反面において、彼が奏でなかった無数のメロディーは、虧(そこな)われ失われたことになる。
してみると、昭文の演奏、つまり人間の作為が、「成」と「虧」の別を生んだのだといえるのである。
昭文の琴に限らず、師曠(しこう)の作曲も恵施(けいし)の論理学も、いずれも人間能力の最高段階に達していたからこそ、歴史に不朽の名を留めることになったのである。
たしかにかれらは偉大だった。
しかしかれらは、自己の技術や知力を誇り、その価値を絶対化したため、「道」から逸脱したのである。
その結果は、例えば恵施の論理におけるがごとく、単なる詭弁に堕してしまった。
そして昭文の子にしても、父が創成した技術に縛られて、
ついに父以上の域に達することはできなかった。
もしも、昭文・師曠・恵施ら三者の達成を「成」と認めるなら、
人間のなすことすべて「成」でないものはない。
だからといって「虧」にすぎぬときめつけてしまえば、
人間の営為はおろか、事物の変化すらすべて「虧」でないものはなくなる。
だからこそ聖人は、思考を離れた無心の状態を最高の知恵と考え、
選択を行わず事物を自然のままにまかせる。
「明」によるとはこのことである。
………………………………………………………………………………………………………………

▽(吹黄 訳)
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古(いにしえ)の人は、その「知」の目指す限りのところにゆきつくことがあった。
いったいどこにゆきついたというのだろうか。
まだ物があるのではないと思えるような境地にだった。
至れり尽くせりの(この上ない)状態で、
だから、いっさい何も加えるべきようなものはなかった。
その次には、物はあると思えても、
まだ区分がないという境地にだ。
その次には、区分はあると思えても、
まだそれに是非の判断がないという境地にだ。
(ところが、)是非の判断意識があらわれるやいなや、
それが「道の崩壊」の要因となった。
その「道の崩壊」の要因は、
また「愛の形成」の要因にもなった。
果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったのだろうか。
果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことはなかったのだろうか。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったが故に、
昭氏は琴を奏で(て鼓舞し)たのだ。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがなかったが故に、
昭氏は琴を奏で(ず鼓舞し)なかったのだ。
(さて)昭文の「琴を奏で(て鼓舞し)たこと」と、
師曠(しこう)の「策を講じて音律を細分化したこと」と、
恵子の「机上の論を拠り所にしたこと」と、
その三人の「知」は、近い状態であった。
みな、それは、かまえた器に(実績を)山積みするような者で、
それ故に、晩年に、それが崩れないようにと固定化していった。
ただそれは、これ(業績)を愛好するばかりにだった。
他とは異なるということを以ってして、彼らは、これ(業績)を愛好した。
よって他人に、これを明らかにすることを欲した。
明らかにすべきではないところで、これを明らかにしようとしたのだ。
それ故に、堅白(詭弁)のような蒙昧さ(暗さ)でもって、終ることになったのだ。
そして、その子もまた、「表層の飾り模様の紐のようなもの」で終わり、
終身、「(内的に)成熟する」ことはなかった。
このようなことで、「成熟する」と言うことができるなら、
<我>というものでさえ、また「成熟する」ということになるが、
(実際)このようなことでは、「成熟する」と言うことはできないのだから、
物と<我>とが共に、「成熟する」ということはないことになる。
こういったことの故に、円滑でありつつ疑問をも孕むかのような耀(かがや)きこそ、
聖人の意図して描くところだ。
その為に、不用にして諸々を、「庸」のままの状態に仮の足場としておく。
こういうことを「明かりを用いる」と言うのだ。
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コメント(51)

>>[11]

光とか波動とかは原文ではまったく言葉にされていないのだから、それではないかと読み込むことは現代の思い込みでもって解釈しようとすることだから、
むしろ著者が原文をもって言い表そうとしたことに最大限、寄り添った解釈をするほうがいいのではないでしょうか。
>>[12]

貴重なご意見、ありがとうございます。

今まで二部形式で話をしているのですが、最初は漢字にまつわる解釈、次にはそこからさまざまなことに思いを馳せた自由展開、発展した話を盛り込んでいるわけです。

「物であることはない」という発想を「無」であろうとするならともかく、「光」であろうとするなら違和感を覚える(思い込みではないか)ということなのでしょうね。それも納得できるところなので、一応その表現には配慮しました。

>「光」の場合、〜、もしそうであったならば、〜かもしれないと想像したりもします。

…と言った具合に、断定ではなく、可能性のある仮定の話だとして展開しました。

岸陽子氏は、この「物であることはない」というのを「混沌状態」と意訳していましたが、
それならば納得いくのでしょうか? 一般的に多い発想なのかもしれません。
私は、こちらの方こそ想像の域を出ない「思い込み」的な解釈だと今でも思っています。
理想に届いた「知」が「混沌」だという説は受け入れがたいものです。

やはり、今でも私の感覚では、一番近い表現が「波動(振動)の世界」だと推察しています。

かつて、メキシコで謎の人物に出会い、多大な影響を受けました。現在の私であり得るのはその人抜きにしては存在し得ないと思っているのですが、その教えは言葉の内容ではなく、その「波動(振動)」に秘密があったと数年後に理解するにいたりました。
また、何度かの自身のいわゆる神秘体験的な状態を潜り抜けてきたことも参考にして、類推した結果です。

あくまでも、私の感覚をもとにしていますので、異論があって当然だと思います。
78910さんのご意見は、その他の多くの人と同じかもしれませんね。

けれども二部目の表現は、自由に思いつくままに書いていますので、ご了承ください。
あくまでも、それぞれ皆の中でどう感じるかは自由だと思っています。

またのコメント、お待ちしています。
┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 其次以為有物矣 ┃【その次はもって物の有るを為し、
┃   而未始有封也  ┃ 而も未だ始めより封あらざるなり。】
┗━━━━━━━━━┛
その次には、物はあると思えても、
まだ区分がないという境地にだ。
………………………………………………………………………………………………………………

*【封】は、もとは「左側(穂先のように、△型に上部の合さったもの)+土」で
のち、「土二つ+寸(て)」と書き、「△型に土を集め盛った祭壇やつか」を示します。
 「四方から△型によせ集めて、頂点であわせる」意を含みます。

◆【以為有物矣】は、通説では「物があるとは考えるが」としています。

◇ここでも「考える」としていますが、通常の思考でとらえられる概念ではないと思うので、「思える」と
 訳しました。

◇「知」として<吾>が意識できる最高の境地の二番目は、「物があるのではない」という境地から、
 「物がある」という境地へと移行していきますが、まだ「個別な物」としては確認(認識)できない、
 「まだ封じられるような区分がない」という境地だ…ということです。

┏━━━━━━━━━┓             
┃▼ 其次以為有封焉 ┃【その次はもって封有りと為し、
┃   而未始有是非也 ┃ 而も未だ始めより是非あらざるなり。】
┗━━━━━━━━━┛
その次には、区分はあると思えても、
まだそれに是非の判断がないという境地にだ。
………………………………………………………………………………………………………………

◆【以為有封焉】は、通説では「境界があるとは考えるが」としています。

◇ここも同様に「考える」ではなく「思える」としました。

◇「知」として<吾>が意識できる最高の境地の三番目は、【封】による「区分」は意識しているが、
 「是非」の判断は生じていない境地だ…ということです。

◇違いを識別できるような意識状態でも、区別したものに善悪のラベル張りをして、善は肯定するもの、
 悪は否定するものとして、分断された部分を意識から排斥しようとする作為は一切ない状態でしょう。
●通説では、次のようになっています。

その次の境地は、物があると考えるが、そこに境界を設けない〔物我一如の〕立場である。
その次の境地は、境界があると考えるが、そこに善し悪しの判断を設けない〔等価価値の〕立場である。
〔以上三つの立場が、ていどの差がありながら、万物斉同の真の道にかなったものである。〕

〇新解釈では、次のようになります。

その次には、物はあると思えても、まだ区分がないという境地にだ。
その次には、区分はあると思えても、まだそれに是非の判断がないという境地にだ。


【其次以為有物矣 而未始有封也】
【その次はもって物の有るを為し、而も未だ始めより封あらざるなり。】
〔その次には、物はあると思えても、まだ区分がないという境地にだ。〕

──ここでイメージできる喩えとしては・・・
<吾>の中ではそれぞれが「物として存在する一滴の水」でありつつ、全体としては「海」に匹敵するような世界が存在していて、その一体感(融合)からすると、一切の「区分がない」という感じでしょうか。

【其次以為有封焉 而未始有是非也】
【その次はもって封有りと為し、而も未だ始めより是非あらざるなり。】
〔その次には、区分はあると思えても、まだそれに是非の判断がないという境地にだ。〕

──これはまた光に喩えるならば、紫・藍・青・緑・黄・橙・赤に分かれるような、そんな状態を感じる境地といえるでしょうか。区分するものとして認識していても、そのどれにも是非(肯定と否定)の判断など下せないままの意識状態と言えるのかもしれません。

もっと具体的に言えば、「大きい・小さい」「高い・低い」「冷たい・温かい」「きれい・きたない」「楽しい・悲しい」「おもしろい・つまらない」といった、そこには必ず、「違い」や「差」が生まれてくるけれども、それらの個別の差異を認めながら「区別」はしても、「肯定して取り入れようとするもの(是)」と、「否定して排斥、排除しようとするもの(非)」という、善悪判断をいっさいしない意識状態と言えるかもしれません。

ただ「白いね」「黒いね」、「速いね」「遅いね」、「楽しいね」「悲しいね」、「うれしいね」「寂しいね」などといった具合に、あるものをあるがままに受け容れる境地と言えるでしょうか。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 是非之彰也 道之所以虧也 ┃【是非の彰(あら)われるや、道の虧(か)くゆえんなり。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
(ところが、)是非の判断意識があらわれるやいなや、
それが「道の崩壊」の要因となった。
………………………………………………………………………………………………………………

*【彰】は「彡(模様)+章(楽曲や表現の切れめ→目だたせる)」で、
 「区切りをつけてあきらかに目だたせる」意を含みます。

*【虧】は「まがる、くぼむ印+雇(うつぶせてかかえこむ)の変形」で、
 「まるくかこんだ形の物の一部がかけてくぼむこと」。

◇【是非之彰也 道之所以虧也】は、通説と大差ありません。
 それまでの三様の境地はいずれも全体を<一>という連続体として感じている状態であったものが、
 この「是非」という判断による、あきらかなる区切りをつける「知」の見地となってしまった途端に、
 それは、本来あるべき<一>へと至る「道」の崩壊を招く要因となった・・・ということでしょう。

◇いうなれば、それまでの三様の境地は<吾>の意識の領域だったのに対して、是非による区分けの
 判断が働きだした途端に、<我>の意識が台頭してきた…というふうにも言えるかもしれません。

┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 道之所以虧 愛之所以成 ┃【道の虧(か)くゆえんは、愛の成るゆえんなり。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
その「道の崩壊」の要因は、
また「愛の形成」の要因にもなった。
………………………………………………………………………………………………………………

*【愛】は、もとは「旡(胸を詰まらせてのけぞったさま)+心」で、
 それに夂(足をひきずる)or(あるく)を加えたものです。
 「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」を示しています。
 のちに「人に物を贈る・めぐむ」⇒転じて「あいする」意となったものです。

◆ 【愛】は、通説では「愛憎」とか「執着心」とか意訳しています。

◇【道之所以虧】は通説と大差ないものですが、【愛之所以成】をどう解釈するのか、難しいところです。
 【愛】をどうとらえるかによって、微妙なところが違ってくるのでしょうが、一般的には、「愛が成る」
 というと肯定的にみられがちになるため、通説では意訳せざるを得なかったのではないかと思います。
 
◇荘子の中では、「愛を強調したり、形式化したりする」のは、本来あるべき「道」ではないという意識が
 あったと想像するところです。本来のあるべき状態は、「愛」より「仁」だと位置づけているのかもしれ
 ませんが、その「仁」でさえ、7(1)にて「大仁は仁ならず」と言っているくらいですから、「愛の形
 成」などというのは、「道を崩壊させる要因」と同じく、「是非」を意識する<我>の立場にあるものだ
 …といったニュアンスのことを言っているのかもしれません。
●通説では、次のようになっています。

善し悪しの判断がはっきりするのは、真実の道が破壊される原因であり、
道が破壊される原因は、また愛憎のできあがる原因である。

〇新解釈では、次のようになります。

(ところが、)是非の判断意識があらわれるやいなや、それが「道の崩壊」の要因となった。
その「道の崩壊」の要因は、また「愛の形成」の要因にもなった。


【是非之彰也 道之所以虧也】【是非の彰(あら)われるや、道の虧(か)くゆえんなり。】
〔(ところが、)是非の判断意識があらわれるやいなや、それが「道の崩壊」の要因となった。〕

──単なる「区分け」だったものが一種の「差別」のようなものとなり、「是非(善悪による肯定と否定)」に振り分け始めるという事態に陥った途端に、それが「道の崩壊」の要因となったと言っているようです。

<吾>の中に<我>が現れ、勝手に判断を下し、自分の内外のことを裁く執行者のようになって横行しはじめた…というニュアンスなのかもしれません。そうなると是非に分裂した意識は、<一>であるという「道」に沿った「知」からは離れていくことになるでしょう。

まさにこの時点で、「善悪を知る木の実」を食べてしまって、エデンの園から追放されたという聖書の寓話(信者には史実なのかもしれませんが…)を彷彿とさせる重大な分岐点であるのだという感じもします。

【道之所以虧 愛之所以成】【道の虧(か)くゆえんは、愛の成るゆえんなり。】
〔その「道の崩壊」の要因は、また「愛の形成」の要因にもなった。〕

──トータルで<一>を成している「道」は、それの一部が(敬遠されて)欠けてしまったかのような意識状態になってしまうのは、特に「是非」の「非(否定)」の部分が働くが故に起こることだと言っているのかもしれません。

それと同時に、「愛」が(余分に追加されて)形成してしまったかのような意識状態になってしまうのは、特に「是非」の「是(肯定)」の部分が働くが故に起こることだと言っているのかもしれません。

つまりイメージで言うならば、円や球的な運動のうち、(道の)どこかが欠けてしまって(凹になって)も、(愛の)どこかが加わって(凸になって)も、あるがままの状態としてスムーズに転回できなくなってしまうのは、是非の判断意識が働き始めてしまうことにその要因があるのだ…ということになるのかもしれません。
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 果且有成与虧乎  ┃【果たしてかつ成ると虧(か)くるとは有りや。】
┃  果且無成与虧乎哉 ┃【果たしてかつ成ると虧(か)くるとは無しや。】
┗━━━━━━━━━━┛
果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったのだろうか。
果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことはなかったのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

◆【果且有成与虧乎哉 果且無成与虧乎哉】の【成与虧】は、通説では一般的な「完成と破壊」として
 いるようです。前文と切り離してとらえているせいか、【且】の意味は無視しているようです。

◇【且】が、「さらにその上に」という意味をなしているとするなら、その前文とは切り離していない
 のではないかと思い、前文と同じ言葉を補足しました。

┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 有成与虧故 昭氏之鼓琴也 ┃【成ると虧くるの有るが故に、昭氏の琴を鼓するなり。
┃  無成与虧故 昭氏之不鼓琴也┃成ると虧くるの無きが故に、昭氏の琴を鼓せざるなり。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったが故に、
昭氏は琴で奏で(て鼓舞し)たのだ。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがなかったが故に、
昭氏は琴で奏で(ず鼓舞し)なかったのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

*【故】は「攴(動詞の記号)+古(頭骨か硬いかぶと)」で、「かたまって固定した事実になること」。
 また、前提として「既に固まって確立した、そのことから」⇒「ゆえに」の意。

*【昭氏】は、次に出てくる【昭文】と同じ人物を指しています。
 琴の名手とされている者の名前です。
 
*【鼓】は、「上にひも飾り、下に台があるたいこの形+攴(棒でたたく)」で、
 「つづみ・たいこ」「打つ・ならす」⇒「奮い立たせる」「勢いをつける」の意。

◆通説では、ここの【故】を「則」と同義とみなし、「すなわち」と読んで解釈しています。
 読み下し文も「成ると虧くると有るは、故(則)ち昭氏の琴を鼓するなり。成ると虧くると無きは、
 故ち昭氏の琴を鼓せざるなり。」としています。

◇私は【故】は、そのまま普通の「ゆえに」という意味として解釈しました。「(愛の)形成」と
 「(道の)崩壊」が、すでに固まって確立したものとして有る(無い)が「ゆえに」と解釈しました。

◆通説では、【鼓琴】は「琴をひく」と単純に解釈しています。

◇なぜここでは、【琴】に対して【鼓】という字を使っているのでしょう?
 ただ「演奏する」という意味だけならば、「弾」や「奏」の文字を使ってもいいようなところです。
 「琴をひくこと」には違いないのでしょうが、「奮い立たせる」などの意が含まれているように思い
 「鼓舞する」という言葉を補足してみました。ここでは、「琴」によって「奏でて音が生まれる」こと
 に主眼があるのではなく、「鼓舞した」というその「行為」の方に着目しているのかもしれません。

◇ただし、この個所においては、言っていることは単純な両面性を表現しているものでしょうが、
 正直なところ、少々難解な文章です。
●通説では、次のようになっています。

〔しかし、ここで破壊といい、できあがるといったが、〕
はたして完成と破壊があるのか、はたして完成と破壊とがないのか。
完成と破壊とがあるのは、昭氏が琴をひいたばあいであるし、
完成と破壊とがないのは、昭氏が琴をひかない場合である。
〔昭氏のような名手でも、琴をひくとそこに分別が生まれる。〕

〇新解釈では、次のようになります。

果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったのだろうか。
果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことはなかったのだろうか。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったが故に、
昭氏は琴で奏で(て鼓舞し)たのだ。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがなかったが故に、
昭氏は琴で奏で(ず鼓舞し)なかったのだ。


【果且有成与虧乎哉】【果たしてかつ成ると虧(か)くるとは有りや。】
【果且無成与虧乎哉】【果たしてかつ成ると虧(か)くるとは無しや。】
〔果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったのだろうか。〕
〔果たしてさらに、「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことはなかったのだろうか。〕

──「是非の判断」がもとになって、「道の崩壊」と「愛の形成」といった事態が引き起こされるなら、
その先はさらにもっと「愛の形成」と「道の崩壊」が決定的なものになるかどうかが問われているようです。

実際に「愛の形成」と「道の崩壊」が同時進行的に引き起こされるものなのかどうかを問題視しているようです。

【有成与虧故 昭氏之鼓琴也】【成ると虧くるの有るが故に、昭氏の琴を鼓するなり。
【無成与虧故 昭氏之不鼓琴也】成ると虧くるの無きが故に、昭氏の琴を鼓せざるなり。】
〔「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがあったが故に、
昭氏は琴で奏で(て鼓舞し)たのだ。
「(愛の)形成」とともに「(道の)崩壊」といったことがなかったが故に、
昭氏は琴で奏で(ず鼓舞し)なかったのだ。〕

── ☆  ☆  ☆

現在も活躍を続けている、中国のチェリストの「ヨーヨー・マ」。
彼は幼少の頃から、抜群の技術力を身につけた天才的な子供だったようです。
けれども、ある時期、壁にぶつかり、スランプに陥ったらしいのです。
限界を感じたのか、意欲を失ってしまったのか、原因がはっきりとは分かりませんでした。
そんな彼が、ある師と出会いました。
師は言いました。「チェロを捨てよ。音楽を忘れよ。そして、思いっきり遊ぶがいい」と。
彼の中から、「演奏する者が完全に消え去っていった」と言っていました。
もう彼は「天才的音楽家」ではなく、「ただの人」になっていたのです。
そうして時が経ちました。
自由に遊ぶ「ただの人」は、いつの間にか風とともに、
音楽そのものになっていたかのようだったそうです。
気付いた時には、彼は再びチェロを手に取っていたのです。
ただただ、そうしたくてたまらなくなったから…と言っていました。

              ・。☆

音を醸し出す者…それは、<わたし>という演奏者でしょうか? それともそうとは言えないのでしょうか? 昭氏は<わたし>という者の演奏を「愛する」が故に、琴を奏でたのでしょうが、それは<我>を鼓舞するかのようなもので、「道」は欠けて損なわれる「崩壊」を引き起こすことになったのでしょう。
しかし、一方では、「愛の形成」とともに「道の崩壊」がない状態の時もあったが故に、琴による演奏で、自らを鼓舞するようなことはしなかったのでしょう。
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 昭文之鼓琴也 師曠之枝策也 ┃【昭文の琴を鼓するや、師曠の策に枝するや、
┃▼ 恵子之拠梧也 三子之知幾乎 ┃恵子の梧(ご)に拠るや、三子の知は幾(ちか)し。】
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
(さて)昭文の「琴で奏で(て鼓舞し)たこと」と、
師曠(しこう)の「策を講じて音律を細分化したこと」と、
恵子の「机上の論を拠り所にしたこと」と、
その三人の「知」は、近い状態であった。
………………………………………………………………………………………………………………

*【師曠】は、晋(春秋時代)の音楽家。著に『禽経(きんけい)』がある。
 よく音を聞き分け、吉凶を占った。 音律を調える名手。

*【枝】は「支(竹の枝一本)+手」で、「えだを手にもつさま」のことです。また幹から伸びた「えだ」。

*【策】は「竹+朿(とげ)」で、「ぎざぎざととがっていて刺激するむち」。
 「ふだ」「ふみ」「はかりごと」などを意味します。

◆通説では、【昭文之鼓琴也 師曠之枝策也】は、「昭文が琴をひくのと、師曠が琴柱を立て〔て音律を
 整え)るのと、〕としています。

◇【昭氏】と【昭文】とは同一人物であるにもかかわらず、あえて「文」の名に変えているところに
 隠された意図を感じたりもします。

◇【師曠】の【枝策】の意味はちょっと具体的にどうであったのか推し量るのは難しいところですが、
 「音律を整える」ために、「策を講じて、枝を次々に伸ばしていく」というイメージで「細分化していった」
 ととらえてみました。

*【梧】は「木+吾(〔口+五(交差する)〕→かみあう)」で、「棒をかみこませ、ささえること」。
 一般的には「あおぎり(木の名)」で、それで作った「机」や「琴」を指します。

*【拠】は「手+處(しりを落ち着ける)の略体」で、「よりどころ」「たよりにするところ」の意。

◆【恵子之拠梧也】は、通説では「恵子が小机にもたれ〔て弁説をまくしたて〕るのと」としています。

◇ここはシンプルに「机上の論を拠り所にしている」と訳しておきます。

◆【三子之知幾乎】は、通説では「三者の英智は極致であろうか。」と疑問形にしています。

◇これは【幾】を太古の人が至ったという境地に「近い」と言っているものだと判断したためでしょう。
 しかし、そうとは思えないために疑問形にしておいたのかもしれません。

◇しかし、私は、ここは「何か(理想の知)に近い」ということを言っていたのではなく、三者の「知」
 のあり方が似かよっている」という意味で「近い」と言っているのではないかと解釈しました。
 それはその次の言葉の【盛】という意味の解釈の違いによっても明らかになると思います。
>>[24] 知の在り方というのは
すごくいいフレーズでわかりやすいですね
>>[25]

コメントありがとうございます。
少しずつ読み続けていこうと思っています。
>>[23] いれもの、という言葉が浮かびました。演奏というじったいなき動作そのもののいれものとしてその才能
>>[27]

この後の話の続きにおいても、「いれもの」「器」という言葉がキーワードになるかもしれませんね。
●通説では、次のようになっています。

この昭文が琴をひくのと、師曠(しこう)が琴柱(ことじ)を立て〔て音律を整え〕るのと、
恵子(けいし)が小机にもたれ〔て弁説をまくしたて〕るのと、三人の英智は極致であろうか。

〇新解釈では、次のようになります。

(さて)昭文の「琴で奏で(て鼓舞し)たこと」と、師曠の「策を講じて音律を細分化したこと」と、
恵子の「机上の論を拠り所にしたこと」と、その三人の「知」は、近い状態であった。


【昭文之鼓琴也】【昭文の琴を鼓するや、】
〔(さて)昭文の「琴で奏で(て鼓舞し)たこと」と、〕

──「昭文」…それは名前が物語るように「文(あや)」の表現者といえるのかもしれません。
生まれ出ずるその音は、一瞬のものにしておくには、あまりに美しすぎるほどのものにして、消し去るには惜しいようなものだったに違いありません。そのため、なんとかそれを留めておく手立てはないものだろうかと琴を奏でて鼓舞し続けたのかもしれません。

【師曠之枝策也】【師曠の策に枝するや、】
〔師曠(しこう)の「策を講じて音律を細分化したこと」と、〕

──師曠(しこう)はよく音を聞き分け、吉凶を占うという策を講じて、音律の枝葉を伸ばすかのようにして細分化したものを『禽経(きんけい)』として著したのでしょうか。もともとは二極に分かれる吉凶占いを最大限に細かく分析していったようです。音というもの「知」の表れの一つかもしれません。

【恵子之拠梧也】【恵子の梧(ご)に拠るや、】
〔恵子の「机上の論を拠り所にしたこと」と、〕

──恵子は、<吾(わたし)>とはいかなる者かを知りたかったのかもしれません。多くの文献から、その道しるべとなる「言葉」を探し、掘り出してきたようです。彼は「悟(さとり)」を得たいと望んでいたのかもしれません。ところが皮肉にも、頼りにしたのは「梧(あおぎり)」だったのです。つまり、すべては「心」の上に構築していくものではなく、「木(机)の上の論」を拠り所にしたにすぎなかったといえるのかもしれませんね。

【三子之知幾乎】【三子の知は幾(ちか)し。】
〔その三人の「知」は、近い状態であった。〕

──彼らはみな、最高峰の知に近かったといっているのでしょうか? 確かに太古の人の至ったという「知」にまでゆきたいと願っていた者たちだったのかもしれません。しかし、残念ながらそこに至る「道」を歩むのではなく、自分が「知り得たこと」をアピールする形で、<我のもの>だと思えるものを築いていったようです。三者は<我>を主張するその手段は三様でしたが、彼らの「知」は、互いに極めて近い状態にあったと言えるようです。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 皆其盛者也 故載之末年 ┃【皆それ、盛(も)る者や、故にこれを末年に載せる。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
みな、それは、かまえた器に(実績を)山積みするような者で、
それ故に、晩年に、それが崩れないようにと固定化していった。
……………………………………………………………………………………………………………

*【盛】は「皿(さら)+成〔戊(ほこ)+丁(たんたんとたたく)〕」で、
 「器の中に山もりにもりあげること」。

◆通説では、【盛者】を「りっぱな者」と訳しています。

◇私は、三者が似かよっている(近いと言った)その共通点を説明しているのだと思っています。
  【盛】の字が、「成」を「皿」の上に山積みすることとは、漢字のもつおもしろみを改めて感じますね。
 言わんとしていることが映像化されてわかりやすくなるため、私は原義をとって、【盛者】は「かま
 えた器に(実績を)山積みする者」と訳しました。
 
*【載】は「車+〔戈(ほこ)+才(川の流れをたち切る堰/セキの形)〕」で、
 「車の荷がずるずると落ちないように、わくや縄でとめること」。

◆通説では、【故載之末年】の【故】の意味は省略して、【末年】も「後の世」だとした上で、【載】を
 「書き伝えた」と訳しています。

◇【末年】には「後世」の意もありますが、ここでは「晩年」の意のように思います。
 山積みを重ねていくが【故】に、【載】つまり、それが荷崩れしないようにと、枠でとめ、縄でしば
 るかのごとくして、「固定化していった」…とイメージ化して解釈できるのではないかと思います。
●通説では、次のようになっています。

皆それぞれにりっぱなものである。そこで、それを後の世までも書き伝え、

〇新解釈では、次のようになります。

皆、それは、かまえた器に(実績を)山積みするような者で、
それ故に、晩年には、それが崩れないようにと固定化していった。


【皆其盛者也 故載之末年】【皆それ、盛(も)る者や、故にこれを末年に載せる。】
〔皆、それは、かまえた器に(実績を)山積みするような者で、
それ故に、晩年には、それが崩れないようにと固定化していった。〕

──三者の「知」はきわめて「近かった」と言っていますが、どこにその共通点があったというのでしょうか。

三者は皆「かまえた器」…昭氏(文)なら「演奏(楽譜)」、師曠(しこう)なら「吉凶の結果(音律)」、恵子なら「知識(詭弁)」など…と言えるものの上に成り立つ実績を残した者達だといえるでしょう。
残せるものとして入れられるような「器」を駆使するなら、盛んなまでに世界に姿を顕す、表現の数々…。
それはまさに、<我>をしての「器」の上に「成立」するものを積み重ねてきた「知」だったのかもしれません。

それらが産声を上げた時、鮮烈な息吹を感じ、そして思ったかもしれません。
「その実感と手ごたえは、まさにリアリティとの出会いという<知>そのものではないか。それなのに、同じ物は、もう二度とできないかもしれないとしたらなおのこと、このすばらしさを一瞬のものに終らせたくはないし、また自ら費やした労力をも無駄にしたくない」…などというふうに。
そうして、形を留めるような手段を講じたくもなり、記憶に残り、記録、保存できないだろうかと考え、崩れたり壊れたりしないようにと、それぞれの「器」に、しっかりと「固定化すること」になったのでしょうか。

ところで、ひょっとしたら、産れ出でたその感動に顔をほころばせていた者でも、一生かけて山積みした荷(知)を固定化して背負っていたならば、いつしか強面(こわもて)の者になっているかもしれません。
┏━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 唯其好之也       ┃【ただそれ、これを好むなり。
┃  以異於彼 其好之也  ┃ 彼において異なるを以って、それ、これを好むなり。】
┗━━━━━━━━━━━┛
ただそれは、これ(業績)を愛好するばかりにだった。
他とは異なるということを以ってして、彼らは、これ(業績)を愛好した。
……………………………………………………………………………………………………………

*【好】は「女+子」で、「(女性が子どもを)大切にかばってかわいがるさま」を示しています。

*【異】は「大きなざる、または頭+両手を出したからだ」で、「一本だけではなく、別のもう一本の
 手をそえて物を持つさま」→「同一ではなく、別にもう一つ」の意。

◆【唯】は、通説では「ひたすらに(〜した結果)」としています。

◇【唯其好之也】は前の文を受けて、<我>が成し遂げた業績を積み重ね固定化するようになった
 のは、「ただ、自分の業績を愛好するばかりにだった」と理由を述べていると解釈しました。

◆通説では、【以異於彼 其好之也】は「他人に異を立てて、その愛好のあまり(〜)」としています。

◇「好む」というのは、どうすることかという追加説明をしている部分だと思い、一旦文章を切りまし
 た。「他のものとは一線を画して区別し、異なるものとして、愛好するようになった」と解釈しました。

┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 欲以明之彼  ┃【以って彼にこれを明らかにせんと欲す。
┃  非所明而明之 ┃明らかにする所に非ざるに、而もこれを明らかにす。】
┗━━━━━━━━┛
よって他人に、これを明らかにすることを欲した。
明らかにすべきではないところで、これを明らかにしようとしたのだ。
……………………………………………………………………………………………………………

◆【欲以明之彼】は、通説では「それをはっきり人に示したいと考えるようになった。」としています。

◇【明】の意味を残し、「他人に、これを明らかにすることを欲した。」と直訳しておきました。

◆【非所明而明之】は、通説では「彼らは、はっきりできるものではないのにそれをはっきり示そうと
 し たのであるから(〜)」としています。

◇今まで何度かキーワードとして「明を以ちう」という言葉が出てきましたが、ここでは本来のその意
 図するところからはかけ離れた「明(明かり)」の誤用を示しているのではないかと推察します。
 【明】は「自分の内」を照らすものであるのに、【彼】=「【非所明】(「明らかにすべきではないとこ
 ろ)」 で、<我>の知を「自分の外の世界で明らかにしようとした」…と述べているのだと思います。
●通説では、次のようになっています。

ひたすらにそれを愛好する結果は他人に異を立てて、
その愛好のあまりにそれをはっきり人に示したいと考えるようになった。
しかし、彼らは、はっきりできるものではないのにそれをはっきり示そうとしたのであるから、(〜)

〇新解釈では、次のようになります。

ただそれは、これ(業績)を愛好するばかりにだった。
他とは異なるということを以ってして、彼らは、これ(業績)を愛好した。
よって他人に、これを明らかにすることを欲した。
明らかにすべきではないところで、これを明らかにしようとしたのだ。


【唯其好之也】【ただそれ、これを好むなり。】
〔ただそれは、これ(業績)を愛好するばかりにだった。〕

──自ら生みだした業績は、ある意味、手塩にかけた我が子も同然のような感覚をいだいたのでしょう。それを大切に守り抜きたいと思うばかりに、ただただ愛好するようになってしまったのでしょう。

【以異於彼 其好之也】【彼において異なるを以って、それ、これを好むなり。】
〔他とは異なるということを以ってして、彼らは、これ(業績)を愛好した。〕

──業績が表に示され肯定されると、類似したものや模倣したものも出回るというのは、世の常ですが、<我>という独自性が生み出し、形成したものは、「他のものとは、まったく違う(異なる)のだ!」と、叫びたくもなるのかもしれませんね。それほどまでに、自分の業績を愛好していたのでしょう。

【欲以明之彼】【以って彼にこれを明らかにせんと欲す。】
〔よって他人に、これを明らかにすることを欲した。〕

──「<我>のもの」という意識が高まると、それを他人に明らかにしたいと欲するようになるものです。それがユニークで、新奇な表現をともなうものであればあるほど、他人は興味をもち好奇の目で見てくれます。そうなると、次から次へと他人にアピールする形を取っていったに違いありません。そのようにして常に他人に<我>の成果を「明らか」にする欲望に取りつかれていったのでしょう。

【非所明而明之】【明らかにする所に非ざるに、而もこれを明らかにす。】
〔明らかにすべきではないところで、これを明らかにしようとしたのだ。〕

──何でもかんでも、どこでもかんでも、他人に「明らかにする」ことは、
自然と自らの内に灯る「明かり」を頼りにする「道」からは外れていることになるのかもしれません。

けれど、<我>の「業績」や「技巧」が、それなりのてごたえを感じ始めれば、
どうしても、他人に「明らか」にしたいという自己顕示欲が強くなるものです。
「明らかにすべきところではない」のに、その欲望は、抑えられないものだったのかもしれませんね。
┏━━━━━━━━━┓             
┃▼ 故以堅白之昧終 ┃【故に堅(けん)白(ぱく)の昧(まい)を以って終わる。】
┗━━━━━━━━━┛
それ故に、堅白(詭弁)のような蒙昧さ(暗さ)でもって、終ることになったのだ。
……………………………………………………………………………………………………………

*【堅白】=【堅白同異之弁】
 目で石を見るとき、石の白さはわかるが、堅さはわからない。
 手で石に触れると、石の堅さはわかるが、白さはわからない。
 ゆえに、堅くて白い石は同時に成立しない概念である ‥という論法。
 (中国の戦国時代、趙の公孫竜がとなえた論理。一種の詭弁。)

*【昧】は「日+未(小さくて見えにくいこずえ)」で、「くらい」「光がかすかで、よく見えない」こと。

◆通説では、【昧】を「愚かさ」と訳しています。

◇ここの【昧】は、【明】の意味とは対照的に、「くらい」といっているところがミソだと思います。
 外の「明るみ」に出すが故に、自分の内が「くらく」なってしまうという皮肉な話ですね。

┏━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 而其子又以文之綸終 ┃【而してその子また文(あや)の綸(りん)を以って終わり、
┃  終身無成         ┃ 終身成ること無し。】
┗━━━━━━━━━━━┛
そして、その子もまた「表層の飾り模様の紐のようなもの」で終わり、
終身、「(内的に)成熟する」ことはなかった。
…………………………………………………………………………………………………………

*【文】は「飾りの縄模様」「表面の飾り」「外面の美しさ」など。

*【綸】は「糸+侖(きちんとそろう)」で「いと」「よりあわせた紐」。

*【終】は「まき糸の収穫期(冬)」。

*【身】は「女性が腹に赤子を孕んださま」を描いた象形文字。
 →「充実する、いっぱいつまる」意を含み、「重く筋骨のつまったからだのこと」。

◆【其子】は、「(昭文の)子供」と解釈されています。

◇【其子】は「三子」と呼んでいたその「子」のことかもしれないとも思いましたが、次に【又】という
 語がついているため、ここは定説に従って「子供」の意味で解釈しました。

◆通説では、【文之綸】の【文】は昭文のことを指しているとみなし、【綸】は「弦(糸)を引き継いだこ
 と」 →「伝えをうけた」と解釈しています。

◇【綸】は「糸」や「紐」以外の意味はないようです。そこで【文】を「昭文」ととらえるのではなく、
 「あや」として、「飾り(表面、外面)の縄模様」とし、その模様をなす【綸】「糸・紐」と解釈した方
 が納得いくように思い、「表層の飾り模様の紐のようなもの」と訳しました。

◆【終身無成】は、単純に「生涯なんの完成もなかった」としています。

◇【終身】は、「一生」「生涯」といった表層的な意味だけではなく、以前にも説明したように、
 「自己の内部を満たす(内部に孕む)収穫期の身体」といったニュアンスを漂わせているかのよう
 で す。そこで【成】もただの「完成」というよりも、「(内的な)成熟」ととらえて訳してみました。
●通説では、次のようになっています。

〔恵子のばあいは〕結局「堅白論」のような詭弁の愚かさで終わり、
〔昭文のばあいは〕その子がまた父の伝えをうけただけで幕が降りて、
生涯なんの完成もなかった。

〇新解釈では、次のようになります。

それ故に、堅白(詭弁)のような蒙昧さ(暗さ)でもって、終ることになったのだ。
そして、その子もまた「表層の飾り模様の紐のようなもの」で終わり、
終身、「(内的に)成熟する」ことはなかった。


【故以堅白之昧終】【故に堅(けん)白(ぱく)の昧(まい)を以って終わる。】
〔それ故に、堅白(詭弁)のような蒙昧さ(暗さ)でもって、終ることになったのだ。〕

──(明らかにすべきではないところで、これを明らかにしようとした)それ故に、「堅くて白いものは同一のものとして存在しない」などという論が生まれたりします。それを裏付ける論を、まことしやかに「明らか」にすればするほど、自然の「実態」からはかけ離れた「闇」に迷い込んだままに終わることになりますね。世界が、多次元的的な複合物として存在するなら、それを一つの次元で「明示した」表現をしようとするなら、美しい形態をもつものでも、グロテスクになったりしているかもしれません。ことの真実や真相に対して、「明るく」なっていくどころか、反対に「蒙昧さ(暗さ)」を露呈することになるというものです。

【而其子又以文之綸終】【而してその子また文(あや)の綸(りん)を以って終わり、】
【終身無成】【終身成ること無し。】
〔そして、その子もまた「表層の飾り模様の紐のようなもの」で終わり、
終身、「(内的に)成熟する」ことはなかった。〕

──音楽にしろ、論議にしろ、その表層の技巧などといった「外部の飾り糸のようなもの」を受け継ぐ者(子)はいるでしょう。しかし、それによって「終身、その内部に実りを成す(内的に成熟する)こと」はなかったようですね。 
┏━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 若是而可謂成乎  ┃【かくのごとくして成ると謂うべきや、
┃  雖我亦成也      ┃ <我>といえどもまた成るなり、
┃  若是而不可謂成乎 ┃ かくのごとくして成ると謂うべからざるや、
┃  物与我無成也    ┃ 物と<我>と成ること無きなり。】
┗━━━━━━━━━━┛
このようなことで、「成熟する」と言うことができるなら、
<我>というものでさえ、また「成熟する」ということになるが、
(実際)このようなことでは、「成熟する」と言うことはできないなら、
物と<我>とが共に、「成熟する」ということはないことになる。
……………………………………………………………………………………………………………
 
◆【我】は、<わたし>であることに違いはないのですが、通説では、単純に「自分(荘子自身)」と受
 け止めて解釈するものや、「人間全般」の総称的なものとしているものなどがあります。
 そうして、【成】は単純に「完成」とみなし、あるといえばあるが、ないといえばないことになる‥
 といったような、単に視点の問題のようにして、流しています。

◇確かに、難解なところではあるのですが、通説のような訳では疑問が残ります。
 以前に多くの<わたし>の中の一つとしての<我>の位置づけを説明しました。
 ですので、「吾」とは違う、「自我、自意識」といった<我>の意味として訳しました。
 
※前<2(3)>に、「成心」という言葉が出てきました。
 「その心(しん)の成すがままにまかせるなら、これが師となるのだ。
 …ただ、未だに心(しん)を成していないところには、是非が起きる。」というフレーズがありました。
 ここから【成】という言葉は、外的なものを示しているというよりは、内的な「成熟(内的実り)」と
 いうようなイメージの言葉のように思います。

◇【是】とは、このような人間の営み(行為と結果)を通して、
 自分が関与して「外」の世界に【物】【我】として盛えたものが【成】なのでしょうか?
 私はむしろ、「完成」「成功」などといったニュアンスではなく、「成果」≒「内部に実りを成す」とい
 う意味が隠れたところにあるものとしてとらえ、「成熟する」という訳にしました。
●通説では、次のようになっています。

このようなありさまでいて何かを完成したといえるのなら、
この自分でさえやはり完成していることになるが、
このようなありさまで何も完成したといえないということなら、
自分にも自分以外のすべての物にもともとに完成はないことになる。

〇新解釈では、次のようになります。

このようなことで、「成熟する」と言うことができるなら、
<我>というものでさえ、また「成熟する」ということになるが、
(実際)このようなことでは、「成熟する」と言うことはできないなら、
物と<我>とが共に、「成熟する」ということはないことになる。


【若是而可謂成乎】【かくのごとくして成ると謂うべきや、】
【雖我亦成也】【<我>といえどもまた成るなり、】
〔このようなことで、「成熟する」と言うことができるなら、
<我>というものでさえ、また「成熟する」ということになるが、〕

──「成」という語から、どんな言葉を思い浮かべるでしょうか。
「形成」「完成」「成功」「成就」「成績」「成立」…などでしょうか?
私はここでは「成果」「成熟」などといった、「自分の内部に実りを成すこと」の意ととりました。

三子の実績として「盛ること」や「固定化すること(載)」を「成熟する(成)」ということができるなら、(吾ではない)この世かぎりと思われる<我>も死を超えて持ち越すことができるような実りを孕むことができることになるのかもしれませんが、実際はどうなのでしょうか。

【若是而不可謂成乎】【かくのごとくして成ると謂うべからざるや、】
【物与我無成也】【物と<我>と成ること無きなり。】 
〔(実際)このようなことでは、「成熟する」と言うことはできないなら、
物と<我>とが共に、「成熟する」ということはないことになる。〕

──残念なことに、実際には三子の行為は「自己顕示」にとどまり、天のはからいである「自己表現」を通して次の世があるとしたらそこに持ち越しのできるような「成熟していく内部に実りを成す」ようなことは、「物や<我>」には本来不可能だと言っているのでしょうか。
 
ここの<我>を普通にただの<自分>だととらえたなら、ここでいわんとしていることの意味が不可解なものになってしまいますが、今までも何回も説明してきたように、<吾>と<我>を使い分けて表現していると見るならば、納得がいくのでしないでしょうか。

物と<我>があることが、「成る」と言うことはできなくなるとは、
逆に言えば、<我を喪う>とき、はじめて「成る」と言えるのでしょうか?

┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 是故滑疑之耀 ┃【この故に滑疑(こつぎ)の耀(かがや)きは、
┃  聖人之所図也 ┃ 聖人の図るところなり。】
┗━━━━━━━━┛
こういったことの故に、円滑でありつつ疑問をも孕むかのような耀(かがや)きこそ、
聖人の意図して描くところだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【滑】は「水+骨(関節)」で、水気があってなめらかに自由にすべること。
 ⇒転じて、「乱れる」意に用いられることもあります。

*【疑】は「子+止(足をとめる)+矣(人がふり返って立ち止まるさま)」で、
 「愛児に心引かれて立ち止まり、進みかねるさま」を表しています。

*【耀】は「光+〔羽+隹(とり)〕(高く上がる)」で、「かがやく」の意。

    ※ちなみに、【輝】は「光+軍(円陣)」で、
    「中心をとりまく光」→「光が四方に放射する」意をもちます。
 
◆通説では、【滑疑之耀】は、【滑】を「乱」、【疑】を「疑惑」の意とした上で、【耀】を
 「(偽の)かがやき」と解釈して否定的にとらえ、「人を眩惑するような輝き」と意訳して、
 善い意味で肯定的にとらえる説は誤りとしています。
 
◇しかし、私はそうは思いません。
 【滑】は原義に沿うならば、「潤いを伴って自由にすべるようななめらかさ」でしょう。
 例えば、「潤滑」とか「円滑」あるいは「滑稽」などと使われる意に近いものでしょう。
 つまり、「潤いを感じるような滑らかさを伴った、自由で、自在性を持ち合わせている様」
 といったような感覚と言えばいいでしょうか。

◇【疑】は原義に基くならば、、肯定でも否定でもない「疑問」の意に近いものでしょう。
 思わずある地点を振り返り、「この不思議を解きたい、知りたい」という気持ちの洞察眼
 的な眼差しを向けるといったようなニュアンスを含んでいるのではないでしょうか。

◇【耀】は、跳躍の「躍」や一週間を七つに分けつつ移行する「曜」の右側と同じことから、
 「輝」が白光だとするならば、分光された色として感じるようなものなのかもしれません。
 
*【図(圖)】は「鄙(ヒ)の一部(領地)+囗(かこい)」で、
 「囗印の紙面のわく内に書きこんだ地図」を表しています。 

◆【聖人之所図也】は、通説では「聖人の取り除こうとするものである」と意訳しています。
 (それは、その前の【耀】を否定的に「偽りの輝き」と解釈したからだと思います。)

◇けれども、【図】に「取り除く」意があるとは思えません。
 聖人の「知」における【図】とは、俗人のように融通の利かない几帳面さに縛られ、また
 自己顕示欲に満たされた、是非といったような重々しいモノトーンの表現とは全く違う、
 「滑」と「疑(wonder!?)」とを湛え、そこに眼差しを向けるなら、その存在の出会いに
 思わず笑み(時には苦笑い?)がこぼれるかもしれないような、そんな「かがやき」の質
 をもっているフルカラーの地図を描くようなことかもしれないと想像したりします。
●通説では、次のようになっています。

こういうわけで、〔むりに人にはっきり示して〕人を眩惑するような輝きは、
聖人の取り除こうとするものである。

〇新解釈では、次のようになります。

こういったことの故に、円滑でありつつ疑問をも孕むかのような耀(かがや)きこそ、
聖人の意図して描くところだ。


【是故滑疑之耀】【この故に滑疑(こつぎ)の耀(かがや)きは、】
〔こういったことの故に、円滑でありつつ疑問をも孕むかのような耀(かがや)きこそ、〕

──「滑疑」の「滑」からは、「なめらかに滑るような自由性」を感じます。型ぐるしさや一つのことに執着しがちな表現をする俗人とはまるで違う展開をするのが聖人だと言っているようです。

また「滑稽」(もともとは「饒舌なさま」の意。)などといいう熟語が浮かびます。古えの王たちが、「道化師」といった愚者然とした者を、重要な側近の1人として配属していた、その必要性と似かよったイメージが、呼び起こされるかのようです。

では「滑疑(こつぎ)の耀(かがや)き」とは、どういうことでしょう。「潤滑」「円滑」「滑稽」であって、しかも「あれ?」「なに?」「まてよ?」と、ふと振り返りたくなるような疑問符つきの視点の質をもち、もしそこで内なる何かの出会いがあったなら、瞬時に起こる「かがやき」が見られる…そんなものかもしれません。別の表現をするなら…ある意味ジョークのような、ユーモアあふれるものであって、そこに秘められた疑問がもし解けたなら、自らの「ひらめき」を誘うようなもの…と言えるでしょうか。

【聖人之所図也】【聖人の図るところなり。】
〔聖人の意図して描くところだ。〕

──決めつけがましいような表現のない融通自在な「滑疑」にともなう「耀き」…それこそ 聖人の描くところだといってもいいのかもしれません。

聖人の描くところ、その「図」とは、一つには、「寓話」にも通じるものでしょうか。また、「禅問答」のもつイメージとダブらせることができるようなものでしょうか。時に「とんち」「洒落気」「なぞなぞ」などのような器にのせられて、無意味と意味との狭間に花咲く、笑いの香りを誘うものかもしれません。「耀き」とは、まさに笑いと切っても切れないような深い関係にあると言えそうです。それは「悦びの閃光」でもあるのかもしれないからです。躍動感や、軽快さをもって、その軌跡の瞬間を描いたものが、まさに聖人の図る(描く)ところと言えるのかもしれません。
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┃▼ 為是不用而寓諸庸 ┃【これが為に不用にして諸(もろ)を庸に寓す。
┃  此之謂以明    ┃ 此れを明を以(もち)うと謂う。】
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その為に、不用にして諸々を、庸のままの状態に仮の足場としておく。
こういうことを「明かりを用いる」と言うのだ。
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*【諸】は「言+者(薪をいっぱいつめこんで火気を充満させているさま)」で
 「ひと所に多くのものが集まること」⇒「多くの、さまざまな」の意。

◆通説では、【寓諸庸】は「平常(ありきたりの自然)にまかせていく」として、
 【諸】の意味は省略して意訳しています。

◇自分の内に感じる【用】あるもの、すなわち「大切なもの、重要なもの、貴重なもの、
 都合のいいもの」だけを認めようとする断片的な意識ではなく、【不用】だと思えるかも
 しれないけれども自然に生じる【諸】つまり連続的な多くの全ての「諸々」に意識の光を
 当てて、【庸】(あるがままの状態)として、【寓】つまり「仮の足場としておいてい
 く」ことが「耀(かがや)く」ことであり、それこそが今までも説いていた「明かりを用
 いる」ということができるのだといっているのではないでしょうか。
通説では、次のようになっています。

そのために自分の判断を働かせないで平常(ありきたりの自然さ)にまかせていくのであって、そういうのを真の明智を用いることというのだ。

新解釈では、次のようになります。

その為に、不用にして諸々を、庸のままの状態に仮の足場としておく。
こういうことを「明かりを用いる」と言うのだ。


【為是不用而寓諸庸】【これが為に不用にして諸(もろ)を庸に寓す。
〔その為に、不用にして諸々を、庸のままの状態に仮の足場としておく。〕

──「その為に」
・・・何の為に?
「滑疑の耀きを図る(描く)為に」でしょう。
では、どうすればいいと言っているのでしょうか・・・

「不用にして」とは?
・・・つまり、「諸々」の中に「用」だけを見出すのではなく、
「意味」と「無意味」の狭間
「価値」と「無価値」の狭間
「信」と「疑」の狭間
そんな狭間に、「庸」があることを見出すことでしょうか・・・

「寓する」とは?
・・・ただ、自然に従った「あるがまま」を「仮の足場」として、
そのすべてを認めていくことでしょうか・・・

「諸々」…つまり瞬間瞬間に、変化する姿たち…を、人為で「用があるものとはせず」、
自然の放つ色(耀き)を伴うがままに、その場その場の「仮の足場」としていくこと・・・
つまり断定的にではなく、暫定的に「寓していくこと」が大切なことだと言っているのかもしれませんね。

それは、全身を時に激しく、時にくすぐるかのように、諸々の振動にまかせて、
自らの内の内、奥の奥の源泉で、まるまるの自分という風に出会ったかのような
「さざなみ」や「調べ」にも似た、そんなようなものの中に身を置いていくことでしょうか。

【此之謂以明】【此れを明を以(もち)うと謂う。】
〔こういうことを「明かりを用いる」と言うのだ。〕

──「明」とは、そもそもどういうことでしょうか?
<吾>の一部の<我>にとって「用」をなすように、他人に「明かす」こと・・・つまり、
「用」があるものとして「断定」「断言」するようなことてはなく、「不用」のままに、その時に起きるままに任せて「寓意」「寓言」「寓話」するようにして、自らに「明かりを灯す」ようにすることが、何度も説いてきた「明を以う」と言うことができることだ・・・
と言っているようです。

「諸々」のことを「寓」していくということのその裏には、何やら、ちょっとした秘密が隠されているのかもしれないと想像してみたりします。
「寓」することは、そもそも自らの内に何らかの「出会い」や「発見」があってこそできることです。ですからその時同時に、思わず心の中で「笑み」を浮かべてしまうような現象が起きるかもしれません。たとえそのことが自らにとって渋いことや苦いことであったとしても・・・。一方、自己顕示欲から他人に「明かす」ことでは、正真正銘の「明るみ」に照らされた時のような「笑み」は起きないでしょう。なぜなら、この「笑み」という現象こそが本当の<わたし>を見つめていられる「明かりが灯った」状態と言えるかもしれないからです。

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