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英文読解?コミュの英文精読講義

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ここではハイレベルな英文を細かく分析しながら丁寧に読んでいく方法を模索します。初回は比較的やりやすいものを題材にとりました。

"NATURE," "natural," and the group of words derived from them, or allied to them in etymology, have at all times filled a great place in the thoughts and taken a strong hold on the feelings of mankind. That they should have done so is not surprising when we consider what the words, in their primitive and most obvious signification, represent; but it is unfortunate that a set of terms which play so great a part in moral and metaphysical speculation should have acquired many meanings different from the primary one, yet sufficiently allied to it to admit of confusion. The words have thus become entangled in so many foreign associations, mostly of a very powerful and tenacious character, that they have come to excite, and to be the symbols of, feelings which their original meaning will by no means justify, and which have made them one of the most copious sources of false taste, false philosophy, false morality, and even bad law.

出典はJ.S. Millの"On Nature"です。

コメント(175)

Kazumaさん

>Vする、という特性を認めながらも、どうもその因果関係がはっきりしないときに用いられる構文

に関して大変勉強させていただきました。
毎度目から鱗な解説ありがとうございます。
次の英文はSamuel Johnsonの文章からの抜粋である。18世紀の英語であることも若干考慮しながら、第二、第三パラグラフを和訳してください。

So large a part of human life passes in a state contrary to our natural desires, that one of the principal topics of moral instruction is the art of bearing calamities. And such is the certainty of evil, that it is the duty of every man to furnish his mind with those principles that may enable him to act under it with decency and propriety.

The sect of ancient philosophers, that boasted to have carried this necessary science to the highest perfection, were the Stoics, or scholars of Zeno, whose wild enthusiastick virtue pretended to an exemption from the sensibilities of unenlightened mortals, and who proclaimed themselves exalted, by the doctrines of their sect, above the reach of those miseries, which embitter life to the rest of the world. They therefore removed pain, poverty, loss of friends, exile, and violent death, from the catalogue of evils; and passed, in their haughty stile, a kind of irreversible decree, by which they forbad them to be counted any longer among the objects of terror or anxiety, or to give any disturbance to the tranquillity of a wise man.

This edict was, I think, not universally observed, for though one of the more resolute, when he was tortured by a violent disease, cried out, that let pain harrass him to its utmost power, it should never force him to consider it as other than indifferent and neutral; yet all had not stubbornness to hold out against their senses: for a weaker pupil of Zeno is recorded to have confessed in the anguish of the gout, that "he now found pain to be an evil."
以下は「ふみのり氏」訳です:

人生のあまりにも多くの部分が我々の自然な要望と対決しながら過ぎていくので、道徳教育の主要な項目の一つは苦難を耐える為の技術である。そして邪悪というものがあまりに疑いようのない事実なので、礼節をもって行動できることを可能にするこれらの原理原則を各自の心に留めておくことはすべての人々の義務である。

古代哲学者の一派−この必要な技術を最上位の完成度まで高めてきたと自慢していた−はストア学派(ゼノンを祖とする哲学者達)であった。彼らの激しい熱狂的な徳は啓蒙されていない人々の逆鱗からの免除であると称されており、彼らは自身を、自らの学派の教義によって、これらの苦難−残りの世界にとっては人生を苦々しくするものである−の届かない所まで高められたと宣言していた。それ故彼らは諸悪の一覧から痛み、貧困、友人の喪失、追放、非業の死を取り除いた、そして、傲慢な態度で、ある種の撤回不可能な法令を定めた。それによって彼らは上記のものがもはや恐怖や不安の対象の中には含められず、そして賢者の平穏を乱すことを許さなかった。

その布告は、私が考えるに、万人の間で遵守された訳ではなかった。というのも、比較的意志の堅い人は、重病に罹って苦しんでいた時、その痛みが最大限彼を苛むままほったらかしにしても、それが公平でも中立でもないと見なすように強いては決していないだろうと主張していたけれども、それでもすべての人々が感覚に抗えるだけの頑強さ有していたわけではなかったからである。なぜかというと、ゼノン学派の中でも比較的意志の弱い門下生は痛風の痛みの中で痛みは悪であると告白したと以下の形で記録されているからである。「彼は今痛みが邪悪であるとわかった。」と。
人間の生活のかなりの部分が、私たちが自然に根付いた欲望と反対の状態で過ごされているので、道徳的教えの主要な話題というのは、災難に耐える術である。そして、悪の中心とはこの災難なので、自分の心に災難のさなかでも落ち着きと礼節さをもって振舞えることを可能にするこれらの原理を根付かせることは、すべての人の義務である。

この必要な科学を最高の完成度まで高めたと自慢した古代の哲学者の一群は、ストイクスつまりゼノの哲学者たちである。彼らの野蛮で熱狂的な徳は、蒙昧で有限の生をもつものの感受性から無縁であるかのようなふりをし、彼らは自身の属する哲学派閥の教義によって、自分たちはそれらの災難の及ぶ範囲よりも高みにいると言う。それらの災難は、生活を惨めなものにし、彼ら以外の世界の人と同じ程度にしてしまう。それゆえに彼らは悪の一覧から、痛み、貧困、友人の喪失、故郷の喪失、暴力的な死を取り除いた。そして、覆すことが不可能な一種の法令を、彼らの傲慢な文体で書き上げた。それによって、彼らはこれらもろもろの悪が、恐怖や不安の対象となることをもはや許さず、賢人の静かな生活を脅かすものとなることも許さなかった。

私が思うところ、この法令は広く遵守されたわけではない。というのは、ストイクスたちの中でほかのものよりも決心の固い人間が、暴力的な災難に苦しめられたときに、痛みが最大の力で彼を苦しめるように叫んだとしても、その痛みは、彼をして痛みを無関心で中立的なものと考えさせることにはならない。それでも、自分の感覚に抗うほどの頑固さを持ち合わせているわけでもないのだ。というのも、ゼノ派の意志の弱い学徒が通風の激痛の中で「痛みが悪であることを発見した」と告白したことが、記録されている。
kazumaさん、お久しぶりです^^
幼稚な訳でお恥ずかしいですが、何が起こっているのかを一生懸命想像を働かせて、「事柄」に重点を置いた訳にしてみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「人間」の人生の大部分は、我々の本質の欲望に相反した状態ですぎている。つまり、道徳の教えの重点は、「苦しみを耐え抜く美学」という状態である。悪というものはしっかりと明確であり、それは、あらゆる人間が、その悪の目下で無理やり、「お行儀よくしながら行動しなければならない」といった原理を義務付けられるほどであった。

この不可欠な科学を限りなく完璧な状態に仕立て上げたといばっている古代哲学者の学派の者たちは、ストア派、あるいは、ゼノンの学者らであった。彼らの野性的で情熱的な美徳は、根拠なく、非科学的な人間の感性から遠ざけようとするものであり、彼らは、自分達の学派の教義によって、残りの世界を苦悩にいたらしめている哀れなものの上位に立った高い地位に来たのだと公表したのである。彼らは、それゆえ、「痛み、貧困、友の死、追放、暴力による死」を一連の悪事から取り去ったのである。そして、彼らの傲慢なやり方で、ある種取り消し効かない法令を可決さし、それにより、それらの悲劇を恐怖や不安の一種としないようにしたのである。

この公約の命令は、思うに、普遍的には吟味されていなかった。というのも、さらに決意の固い男の一人が、ひどい病気で苦しんでいるときに、とてつもない痛みで泣き叫んだことがあったのだけれども、今回のことが、「無視すべき、曖昧ではない事柄」として彼に感じさせなかったからである。しかしながら、全ての者は自分達の直感を押し殺すほど頑固者ではいなかった。というのも、ある下っ端であるゼノンの生徒が、痛みの苦しみの中で、「痛みは悪に値する」と告発したことが記録されているからである。
訂正:

>今回のことが、「無視すべき、曖昧ではない事柄」として彼に感じさせなかったからである。

→今回のこと(彼が傷みによって苦しんでいたこと)で、彼が「無関心でも、どちらつかずでもない事柄」だ、と考える余地など全くないからである。

>それらの悲劇を恐怖や不安の一種としないようにしたのである。

→それらの悲劇を恐怖や不安の一種としないようにし、知識人の持つ秩序を一切乱さないようにしたのである。
>ふみのりさん、珈琲氏、古都のハムさん

遅くなってしまってすいません。急いで書いてしまったので問題点などあるかもしれません。その場合はご指摘いただければ幸いです。


出だしの部分は、みなさん問題ないとして、その次の文ですが…

Such is the certainty of evil, that it is the duty of every man to furnish his mind with those principles that may enable him to act under it with decency and propriety.

この文は勿論、such…thatの構文です。今回の場合、SVCが倒置してCVSになっていますが、SVCのCの部分にsuchだけがきたような構造では、such=so greatと置き換えるのが普通です。例) Her anxiety was such that she could neither eat nor sleep.「彼女の不安はあまりに大きかったので、彼女は食べることも寝ることもできなかった。」

よって、Such is the certainty of evilは「苦難の確実性はあまりにも大きいので」というのが直訳で、「人生においては確実に苦難が訪れるので」というくらいに意訳してもよいでしょう。That以下の部分はit is…toVの形式主語構文で比較的容易であったと思われますが、under itというのはunder evilのことで、「苦難のさなかでも」という感じですね。furnish his mind with those principlesは「そういう原理を学ぶ」でいいんじゃないでしょうか。with decency and proprietyは類似した単語の組み合わせで辞書的に訳すと「品位と礼節をもって」というくらいの意味になりますが、少し遊んでもいいのなら、「見苦しくないように」と意訳したりするのはどうでしょう。

「人生においては確実に苦難が訪れるので、どんな人にとっても、その苦難の中で見苦しくもがかなくてもすむようなルールを学ぶことが義務になる」

次の箇所ですが、なかなか難しいですね。構文的にもややこしいですが、そこらへんについてはみなさん問題なく解釈されていると思います。

The sect of ancient philosophers, that boasted to have carried this necessary science to the highest perfection, were the Stoics, or scholars of Zeno, whose wild enthusiastick virtue pretended to an exemption from the sensibilities of unenlightened mortals, and who proclaimed themselves exalted, by the doctrines of their sect, above the reach of those miseries, which embitter life to the rest of the world.

まず、前半部分の、scienceですが此れは勿論、現代的意味での「科学」ではありません。誤解を避けるために、「技術」とか「技」とするのがいいかと思います。ほぼ、artに近い意味ですね。

whose wild enthusiastic virtue pretended to an exemption from the sensibilities of unenlightened mortals

のところは難しい。pretend to …は「(本来そうではないのに)…を有しているかのように主張する」で、exemptionはbe exempt from…「...から解き放たれている、解放されている」からも推測できるように「解放されていること」という感じの意味。これらをあわせると、

「その根拠のない、熱狂的な徳は、彼らが言うには、無知蒙昧たる人間の感受性から解き放たれているらしく」

と言うくらいに訳せますかね。mortalsはもちろん「死すべき運命のもの」が原義ですが、「人間」という意味でも使います。

そしてもう一つのwho節、

who proclaimed themselves exalted, by the doctrines of their sect, above the reach of those miseries, which embitter life to the rest of the world.

ですが、ここは、which以下がやや難しかったようです。the rest of the worldは「ストア派以外の人々」のことを指し、「それらの不幸は、世界の他の人々にとって人生を苦々しいものにするのだが」という感じになるでしょう。ここ全体では、

「自らが、ストア派の教義によって、不幸―この不幸が他の人々にとって人生を苦々しいものとするのだが―そういう不幸の手の届かない高みへと到達したと高らかに宣言する…」

という感じですか。ここでのreachは「手の届く範囲」「影響力を及ぼす範囲」ということです。
次の一文です。

They therefore removed pain, poverty, loss of friends, exile, and violent death, from the catalogue of evils; and passed, in their haughty stile, a kind of irreversible decree, by which they forbad them to be counted any longer among the objects of terror or anxiety, or to give any disturbance to the tranquillity of a wise man.

ここはみなさん、巧く訳されていると思いました。ただ、passed a kind of irreversible decree, by which…のところはby whichをほとんどandのように捉えて、「ある種の撤回不可能な勅令を発し、〜を禁じた」と訳したほうが通りがいいかもしれませんね。

さて、次のパラグラフですが、ここは文法的にやや難しいので少し丁寧にやりましょう。まず、

This edict was, I think, not universally observed,

の部分ですが、ここは、observeの意味に注意です。この単語には「観察する」と「(法律など)を遵守する」という二つの意味がありますが、ここは二つ目の意味で用いられています。ちなみに、observanceは「遵守・従うこと」で二つ目の意味の名詞化、observation「観察」が一つ目の意味の名詞化です。よってここは

「誰もがこの法令を守っていたわけではない、と私は思う」

となります。では、次の部分。

for though one of the more resolute, when he was tortured by a violent disease, cried out, that let pain harrass him to its utmost power, it should never force him to consider it as other than indifferent and neutral

forは勿論「理由」を表す接続詞で、その直後に従属節のthough節が続いているのですが、このthough節の動詞句、cried out, that…のところが厄介だったようです。このthat…は勿論、cry out「叫ぶ」目的語で、thatの直後に続く、let pain harrass him to its utmost powerは「命令文による譲歩節」で、

Let it be ever so humble, there is no place like home.
=Be it ever so humble, there is no place like home.
(たとえどんなに慎ましやかであっても、やっぱり家が一番だ)

に類するものだと考えてもらえればよいです。そうすると、let…powerは「たとえ苦痛が限界まで彼を苦しめても」ということになりますね。そして、譲歩に対する主文のところでは、it should never force him to…とありますが、ここではshouldにこめられた「話者の意志」の意味を読み取ることが大切です。ここでの「話者」とは勿論、one of the more resoluteのことです。cried outということからもわかるように、このthat節の中身は本来、このone of the more resoluteが実際に発話した内容だと思われます。それが間接話法となってthat節内に組み込まれることで時制の一致などがおこっていますが、このshouldも本来はshallであったと考えられますね。これを直接話法の形に戻すと、

One of the more resolute cried out, “Let pain harass me to its utmost power, it shall never force me to consider it as other than indifferent and neutral.”

というような感じになるでしょう。日本語に直す際にも、直接話法に戻して訳すほうがやりやすいですね。

「というのも、決意の固いものの一人が、深刻な病に罹患した際に、病がたとえ私を限界まで苦しめようとも、それを無関心で中立的なもの以外の何かだとみなすつもりはない、と叫んだと言うが、」

というくらいでしょうか。最後の部分、

yet all had not stubbornness to hold out against their senses: for a weaker pupil of Zeno is recorded to have confessed in the anguish of the gout, that "he now found pain to be an evil."

はそんなに問題がなかったと思います。前半部、hold out againstは「〜に抗す、〜に耐える」という意味の熟語です。Yetはthough節に呼応して置かれているもので、if…thenのようなものですから訳しても訳さなくてもいいです。yet以外にstill、neverthelessなどが用いられたりしますね。訳の工夫ということで言うと、上のcried out that…を直接話法で訳すのなら、ここの最後のhe now found pain to be an evilのところも直接話法でいきたいですね。

「みなが、感覚に抗しうるだけの頑強さを有しているわけではなかったからである。というのも、それほど心が強くないゼノンの徒弟が、通風の苦悩の中で、「痛みは悪だ」と告白したことが記録されている。」

kazumaさんのエレガントな解説には毎回脱帽です。
今回も大変勉強になりました。丁寧な解説どうもありがとうございました。
お久しぶりです。結構面白いかなという英文があったので出題してみます。『』部分を訳して下さい。内容をとるという観点からはそんなに難しくないですが、やや訳しにくい箇所も見られます。

Steven Spielberg's 'Jurassic Park', based on a novel by Michael Crichton, and its sequel 'The Lost World' address the issue of contemporary losses in species diversity indirectly through their focus on the best-known historical extinction of an entire group of species, that of the dinosaurs. 『At first sight, both films seem to fit comfortably into the well-worn plot stereotype of the artificially created monsters that turn against their creators, as well as that of the confident scientist who believes he can control nature only to find that such perfect mastery slips from his hands: from Mary Shelly's Frankenstein and H.G. Wells's Island of Dr. Moreau to the monster animals that populate 1950s Hollywood films, this formula is too well known to need any mentioning. But W.J.T. Mitchell, in 'The Last Dinosaur Book', places Spielberg's films into a somewhat different context when he notes that "the greatest epidemic of dinosaur images occurs in the late twentieth century, just at the moment when widespread public awareness of ecological catastrophe is dawning, and the possibility of irreversible extinction is becoming widely evident." Mitchell does not discuss this aspect in any further detail, but his observation derived from his survey of a long history of dinosaur representations opens the way for an analysis of how the revival of a long-extinct group of species in Jurassic Park can be read not only as the horror and suspense device that it undoubtedly is, but also as an imaginative scenario that diverts possible anxieties over contemporary losses in species diversity.』
マイケル・クライトンの小説をもとにしたスティーブン・スピルバーグの『ジュラッシク・パーク』とその続編『ロスト・ワールド』は、歴史上最もよく知られているある種族の絶滅(つまり、恐竜の絶滅)に焦点を当てることで、種の多様性が失われているという問題に間接的に迫っている。一見すると、両方の映画は、使い古された作劇上のステロタイプに見事に合致しているように思える。創造主に背を向ける人工的に生み出された怪物と、自然を管理できと信じているも、やがてそのような完全な支配が自らの手を離れてしまうことに気がつく自信に満ちた科学者というステロタイプに、である。メアリー・シェリーのフランケンシュタイン、H・G・ウェルズのモロー博士の島から、1950年代のハリウッド映画を汚染するほどに席巻した怪動物にまでおよぶ、このステロタイプはあまりにも知られているので、さらに言及する必要などないだろう。しかし、WJTミッチェルは「最後の恐竜の本」で次のように述べ、スピルバーグの映画を今までとはいくぶんか違う文脈の中に位置づけている。「20世紀後半に、恐竜のイメージが非常に流布したが、それは生態的な破滅の危機が現れ始めたことに人々が広く気がつき始め、不可逆的な絶滅の可能性が広く見られるようになったちょうどその時でもあった」ミッチェルはこの点についてさらに詳細な議論をしていないが、しかし恐竜表象の長い歴史を調査した彼がいうこの意見は、ジュラッシク・パーク内でよみがえった長らく絶滅していた種族が、いかにして恐怖とサスペンスをもたらす物語装置として読めるだけではなく(そして実際に、疑いなくそのような装置であるのだが)、種の多様性が現在失われていることを心配する気持ち(それは十分に考えられることだが)をそらしてしまうような想像に富む物語としても読めてしまうことを分析するための道筋を開いてくれる。
こうひい氏、K-youngさん ありがとうございます。

全体としては、こうひい氏がいつもの硬派な訳を通しているのに対し、K−youngさんは翻訳として通用するような感じの訳文ですね。二つを対照させてみると非常に勉強になります。では、お二人の訳文をヒントに、問題文を考えていきたいと思います。

<第一文>

英語の解釈においては問題のないところだと思いますが、K-youngさんの訳で少し気になるところがありました。それは

「投じた問題」

という訳なんですが、「問題を投じる」というと僕の語感では

 「問題を提起する」とか
 「今まであまり問題にされていなかった点を問題視する」

という感じがするのですが、いかがでしょう? 英語におけるaddress a problem
というのは「問題を理解しようとする、問題に取り組む」という感じの意味に近く、raise a questionとかpose/present a problemとは区別すべきです。本問題の、

address the issue of contemporary losses in species diversity

の箇所はこれらの映画が「新たに種の多様性の喪失という問題を提起している」というよりは、「(もともとあった)種の多様性の喪失の問題に取り組んでいる」というニュアンスだと思いますが、どうでしょう。

ただし、全体を通してみると、実はこの「取り組む」という訳も少し微妙かもしれません。これは本文を最後まで読まないとわかりにくいので、最終文のところでもう一度説明します。


<第二文>

ここはやや難しいところなのですが、お二人ともなかなかうまく訳されていると思います。ただし、細かいところをみると、K-youngさんが一歩上をいかれてますね。

まず、


the well-worn plot stereotype of the artificially created monsters that turn against their creators,

as well as

that(=the well-worn streotype)of the confident scientist who believes he can control nature only to find that such perfect mastery slips from his hands

の箇所ですが、as well asがほとんどandと同じように機能しているという点、後半のthatがthe well-worn plot streotypeの代用であるという点は問題ないと思います。こうひい氏はここのstreotypeの内容にあたる、the artificially created monsters that...のところと、the confident scientist who...のところを学校文法における限定の関係代名詞の訳し方のルールに従って、「〜な人工のモンスター」、「〜な科学者」といったような名詞を中核にする形式で訳出されているわけですが、K-youngさんは、限定の関係代名詞であることをさほど強く意識せず、この部分にある種の動的な関係を読み取っています。

そして、ここではK-youngさんの解釈のほうが適切だと僕は考えます。というのも、the artifically created...以下の部分は「プロット(物語の筋)のステレオタイプ」の具体例なのであって、ある事物が物語的になるためには、普通「SがPである」という命題的な構造が必須だからです。その意味で、ここで英文の作者が「使い古されたお話」といっているのは、「人工的につくり出された怪物が、生みの親に反旗をひるがえす」ということや、「自信まんまんの科学者が自然を支配できると思い込んでいても、結局、手に負えなくなる」という、命題構造なわけです。
そういう意味で、僕は、名詞を中核に据えるこうひい氏の訳し方よりも、動的に訳されたK-youngさんのほうが適していると思います。

後半は、構造的には難しくありません。

from Mary Shelly's Frankenstein and H.G. Wells's Island of Dr. Moreau to the monster animals that populate 1950s Hollywood films, this formula is too well known to need any mentioning.

from A to Bは基本ですし、主文のtoo~to構文も見落とすことはまずないでしょう。後は訳し方の問題ですが、一応、僕は以下のように訳しました。

「メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』やH.G.ウェルズの『モロー博士の島』といった古典的な作品から、1950年代のハリウッド映画に多く登場した怪物たちにいたるまで、このパターンはあまりにも頻繁に用いられており、いちいちことわりをいれずともよいくらいだ。」

<第三文>

ここは単純に訳しにくさの問題でしょうか。お二人のように前半と後半の引用をわけるのが賢明でしょうね。

But W.J.T. Mitchell, in 'The Last Dinosaur Book', places Spielberg's films into a somewhat different context

「しかし、W.J.T.ミッチェルは、「最後の恐竜の本」で、スピルバーグの作品の意義を少し異なった角度から捉えている。」

くらいでしょうか。 K-youngさんのcontext「時代背景」というのは一つの解釈だと思いますね。僕は単純に「流れ」くらいの意味でとりましたが。もちろん、「少し異なった文脈の中に位置づけている」という珈琲氏の訳でもここは問題ないと思います。

when he notes that "the greatest epidemic of dinosaur images occurs in the late twentieth century, just at the moment when widespread public awareness of ecological catastrophe is dawning, and the possibility of irreversible extinction is becoming widely evident."

「彼によると、恐竜の姿が最も人口に膾炙したのは20世紀後半なのだが、この20世紀後半という時代こそは、生態系の崩壊に対し大衆の意識が芽生え始め、とりかえしのつかない絶滅の恐怖というものがいたるところで形を帯び始めた時期なのだ」

くらいでいかがでしょう。ここでのepidemicは「大流行」という意味でしょうね。imageが訳しずらいですが、ようするに「恐竜の姿形(映像や絵など)がいたるところで見られるようになった」という感じを言いたいのでしょう。possibilityというのは「可能性」が直訳ですが、「明日は雨がふる恐れがある」といった場合の「恐れ」というのは当然「(否定的な内容に対する)可能性」を意味します。それを逆転させてここでは「可能性」=「恐怖」という換言を行ってみました。

<最終文>

さて、問題の最終文です。珈琲氏は英語の文法規則どおりに丁寧に訳していますが、やや硬すぎますね。K-youngさんは息の長い一文をうまく二文に分けられていますが、最後の部分でやや解釈がずれてしまったのではないかと思います。最後の部分というのは、

an imaginative scenario that diverts possible anxieties over contemporary losses in species diversity

のところですが、動詞divertはCobuildの英英辞典によると、次のような定義があります。

If you say that someone [diverts] your attention from something important or serious, you disapprove of them behaving or talking in a way that stops you thinking about it.

つまり、divertというのは「(注意などを)そらす」という意味なわけです。そうすると、ここは珈琲氏の訳のように、

「現代の種の多様性の喪失に対し人々が抱えていそうな不安をそらしてしまう想像力溢れる筋書き」

と捉えるほうが適切なはずです。しかし、一見するとここの論理は見えにくいかもしれません。第一文で「種の喪失の問題に取り組む」ということが書いてあったし、そもそもどうしてジュラシックパークのような映画が「人々の不安をそらす」のかという疑問もあるでしょう。けれども、「ジュラシックパークにおける大昔に絶滅した生物の復活」という部分をよく理解すると何となく意味が見えてきます。この映画は、たとえSFの世界の物語ではあっても、科学的な絶滅種の復活の可能性、を人々の心に示唆したわけです。これが上のミッチェルの指摘にあった「不可逆の絶滅に対する人々の懸念」ということと対比されねばなりません。

つまり、ジュラシックパークは「絶滅のまき戻し」の可能性を人々に示唆しているのであり、「やりなおせるならそんなに不安がらなくてもいいじゃないか」という考え方をある意味で煽っている、というのが作者(およびミッチェル)の作品解釈なわけなのです。それを「人々の不安をそらす」と表現しているというわけです。

ここで第一文のaddressという語の意味をもう一度考えてみたいですが、この最終文の内容を考えると「種の多様性の問題に取り組む」とすると、ややミスリーディングではないでしょうか。というのも、「ジュラシックパークが生態系の破壊を暗に批判している」というような読み方がどうしても先行してしまいがちだからです。ここは、

「マイケル・クライトンの小説を原作とするスティーブン・スピルバーグの監督映画『ジュラッシク・パーク』とその続編である『ロスト・ワールド』は、恐竜の絶滅という、歴史上最もよく知られている種の絶滅に焦点をあてることで、間接的に、現代における種の多様性の喪失の問題に対する新しい見方を促している」

というくらいにするのがトピックセンテンスとしての役割をうまく果たせるのかなと思いました。




 
>*「姿が最も人口に膾炙した」は、ちょっと違和感を感じる方が多いと思います。言葉系が主語でないと、私なんか気持ち悪いです。

ご指摘ありがとうございます。そうですね。ちょっと気持ちが悪い。「言葉」でなくとも、「概念」や「思想」などなら使えるとは思いますが、これはイマイチですね。「恐竜(のイメージ)がかつてないほどに人々に注目されるようになった」というくらいのほうがいいですかね。

では次の問題をあげておきます。少し簡単かもしれませんが、綺麗な文章です。

And when I came to the English philosophers, with perhaps a slight prejudice, for it had been impressed upon me in Germany that, with the possible exception of Hume, they were quite negligible and Hume’s only importance was that Kant had demolished him, I found that besides being philosophers they were uncommonly good writers. And though they might not be very great thinkers, of this I could not presume to judge, they were certainly very curious men. I should think that few could read Hobbes’ ‘Leviathan’ without being taken by the gruff, downright John Bullishness of his personality, and surely no one could read Berkeley’s ‘Dialogues’ without being ravished by the charm of that delightful bishop. And though it may be true that Kant made hay of Hume’s theories it would be impossible, I think, to write philosophy with more elegance, urbanity, and clearness. They all, and Locke too for that matter, wrote English that the students of style could do much worse than study.
早速訳してみました。
まあ、僕に言わせればこの場合の「優雅で、洗練された、そして明瞭な文章」は「難解で、遠大で、そして不親切な文章」の言い換えですけれども。


次にイギリスの哲学者となると多少偏見を持っているかもしれません。それというのもヒュームをなんとか除外するとしてもその他は取るに足らず、そのヒュームですら重要な事柄と言えばカントに論破されたことという印象をドイツでは受けていたからです。しかし彼らは哲学者であることに加えて稀に見る素晴らしい書き手なのです。そして彼らがたとえとても偉大な思想家でなかったとしても(このことについておこがましくも評価を下すなど私にはできませんが)、彼らは間違いなく非常に興味深い人々でした。ホッブズの『リヴァイアサン』を読めばほとんどの場合彼のあの無愛想ではっきりとした英国民気質に魅了されるでしょうし、バークレーの『対話編』を読めば間違いなくあの聖職者の魅力に夢中になるのではないかと思います。そしてカントがヒュームの学説を論破したのはしたのは真実だとしても、彼以上に哲学について優雅で洗練された明瞭な文章を書くことはおそらく不可能だろうと思います。彼ら(この場合はロックも含めます)は文体を学ぶ者が研究するに値するような英語を皆書いていたのです。
今回はSomerset MaughamのThe Summing Upからの出題でした。特別難しい箇所ではないですが、訳すとなると結構面倒な部分もありますね。まずは[訳]を掲げておきます:

[訳]
それから私はイギリスの哲学者達の著作に移ったのだが、最初は彼らに対して少し偏見を抱いていたように思う。それというのも、ドイツにいた頃に、イギリス哲学者は基本的に無視してもいい者ばかりであり、ひょっとしたらヒュームは多少読む価値があるかもしれないが、それにしても、カントが彼を論破したという経緯があるからに過ぎない、ということを吹き込まれていたからである。ところがいざ読んでみると、彼らは唯に哲学者であるばかりでなく類稀なる名文家でもあったのだ。そして、彼らが思想家として偉大でなかったのかどうかについては判断しかねたが、いずれにせよ、彼らが非常に興味をそそる人間であるということだけは間違いなかった。「リバイアサン」を読んで、ホッブズのあからさまで率直な英国人気質に感銘を受けない者などまずいないだろうし、「対話」を読めば誰でも、なんという愉快な坊さんだ、とバークレーの魅力にとりつかれるに違いない。それに、カントがヒュームの説をケチョンケチョンにやっつけたのが事実であっても、ヒューム以上に優雅に、洗練された文体で、しかもわかりやすく哲学を書くなんてことは誰にもできやしないだろう。彼らはみな、さらに言えばロックもそうなのだが、とかく、文章の書き方を学ぶものがお手本にしてもよいくらい優れた英語を書いたのである。
<一文目>
for it had been impressed upon me in Germany that, with the possible exception of Hume, they were quite negligible and Hume’s only importance was that Kant had demolished him,

ここは、forが「理由」を表す接続詞で、「というのも〜だから/なぜなら〜だから」という感じで、一体、何の「理由」なのかと言うと、勿論、with perhaps a slight prejudiceの「理由」ですね。それはいいとして、it had been impressed upon me in Germany that…というのはK-youngさんの仰るとおり「ドイツ留学の話」ととらえてよいのですが、そうすると、

「ドイツにいた頃にthat以下だというふうに吹き込まれていた」

という感じのほうがいいのではないか、と思います。「決め込んだ」と言うと、「自分でそう思い込んでいた」、という感じになると思いますが、

If you impress something on someone, you make them understand its importance or degree.

というCobuildの定義でみても、やはり、S be impressed upon meというのは「Sが(誰かしらによって)私にimpressされた」と考えるのが妥当でしょう。

さて、that以下のところはお二人の好みでだいぶ訳がわかれましたね。

that with the possible exception of Hume, they were quite negligible and Hume’s only importance was that Kant had demolished him

K-youngさん:
ヒュームはまぁ、カントが厳しく批難したということもあって、勉強の対象になったのですが、あとはどうでもいい

ふみのり氏:
それというのもヒュームをなんとか除外するとしてもその他は取るに足らず、そのヒュームですら重要な事柄と言えばカントに論破されたことという
ふみのり氏が伝統的な構文主義の訳を提示しているのに対し、K-youngさんは、やわらかい日本語、のほうを重視されている感じがします。ただ、ふみのり氏はやや舌足らずなところがあるような感じもしますし、K-youngさんは少し構造を崩しすぎなのではないか、という印象も受けます。まあ、私の主観ですが。ここはやはり、二つのthatは別々に訳したほうがいいような気がします。で、その場合に難しくなってくるのは、with the possible exception of Humeのpossibleですね。もしこのpossibleを無視すれば、

ヒュームを除けば、イギリス哲学者などとるに足りない者ばかりであり、そのヒュームにしても単にカントに論破されたという観点からそれなりに注目されているに過ぎない、

というくらいにほとんど直訳でいけそうなんですが、「ヒュームを除いて」としてしまうと、「possible」の意味合いが出てこない。ここでpossibleが入っているかどうかは結構重要で、単にwith the exception of Humeと言うと、はっきり「ヒュームは除いて」と言い切っているので、「少なくともヒュームはnegligibleではない」、ということになるわけですが、possibleが入ってくると、「ひょっとしたらヒュームは例外かもしれないが」という感じになるので、ヒュームも「実は例外ではなく他同様negligibleだ」ということはありえるわけです。しかし、

「ひょっとしたらヒュームは例外かもしれないが、それ以外のイギリス哲学者などとるに足りない者ばかりであり、そのヒュームにしても単にカントに論破されたという観点からそれなりに注目されているに過ぎない」

とすると、なんとなく違和感を覚えたので、順番をかえて、

「イギリスの哲学者は基本的に無視してもいい者ばかりであり、ひょっとしたらヒュームは多少読む価値があるかもしれないが、それにしても、カントが彼を論破したという経緯があるからに過ぎない」

というくらいにしてみました。

では次の箇所に進みましょう:

I found that besides being philosophers they were uncommonly good writers.

これは文法構造上は、when I came to…につながっていく主節なんですが、日本語に訳す時は文をきってしまって独立して訳したほうがいい。ただこの主節を訳す時に、「いざ読んでみてわかったのは」というくらいに英語におけるwhen節の名残を入れておいたほうがいいかもしれませんね。

「(しかし)いざ読んでみてわかったのだが、イギリスの哲学者というのは唯に哲学者というだけでなく、類稀なる名文家でもあったのである」
<第二文>
And though they might not be very great thinkers, of this I could not presume to judge, they were certainly very curious men.

ここもof this以下をどうつっこむか、結構難しいですね。(ちなみに後の文脈から考えて、ここでのcuriousはinterestingに近い意味だと思います。限定で用いられた場合、curiousは「好奇心をそそるような」という意味でも使えます。) お二人ともthoughをきっちり訳した上で、()を使って挿入句を処理していますので、少し趣向をかえてこんなのはいかがでしょう?

「そして、彼らが思想家として偉大でなかったのかどうかは判断しかねたが、いずれにせよ彼らが興味をそそる人間であるということは間違いなかった。」

<第三文>
I should think that few could read Hobbes’ ‘Leviathan’ without being taken by the gruff, downright John Bullishness of his personality, and surely no one could read Berkeley’s ‘Dialogues’ without being ravished by the charm of that delightful bishop.

I should think that…は「多分〜ではないかと思う」という感じですね。few could…without~ingは「…すればまず誰もが〜する」という定訳がありますが、「…して〜しない人などまずいない」でもかまわないかと思います。

「「リバイアサン」を読んで、ホッブズのあからさまで率直な英国人気質に感銘を受けない者などまずいないだろうし、「対話」を読めば誰であっても、なんという愉快な坊さんだ、とバークレーの魅力にとりつかれるに違いない。」

<第四文>
And though it may be true that Kant made hay of Hume’s theories it would be impossible, I think, to write philosophy with more elegance, urbanity, and clearness.

ここは英語の解釈的には、後半のwith more elegance, urbanity and clearnessの後ろにthan Hume didという比較の対象が隠れていることをはっきりと看破できるかが問題でしたが、まあ、さすがにこれは大丈夫ですね。make hay of〜は熟語で「〜を台無しにする、めちゃくちゃにする」という意味で、上のdemolishと同義で用いられていますね。

「それに、カントがヒュームの説をケチョンケチョンにやっつけたのが事実であっても、ヒューム以上に優雅に、洗練された文体で、しかもわかりやすく哲学を書くなんてことは誰にもできないんじゃないか。」

<第五文>
They all, and Locke too for that matter, wrote English that the students of style could do much worse than study.

ここは熟語の知識がいかされますね。まずは、for that matterですが、EDICには次のような例文があります:

Both men and women--even dogs, for that matter--have traveled in space.(男も女も,さらに言えば犬までもが,宇宙旅行をしたことがある)

さらに、OEADで見ると:

for 'that matter

used to add a comment on sth that you have just said:
(ex) I didn’t like it much. Nor did the kids, for that matter.

という説明がありますね。要するにfor that matterは「さらに言えば」という感じですから、「彼らはみな、そしてさらに言えばロックも」というくらいに処理したいところですね。

次に問題となるのが、could do worse than…の表現で、これは熟語として知らずとも部分の意味から推測可能ですが、「...するのも悪くない」というくらいの意味です。意外と知られていませんが。
訂正:

そして、彼らが思想家として偉大でなかったのかどうかについては判断しかねたが、いずれにせよ、彼らが非常に興味をそそる人間であるということだけは間違いなかった。


いざ読んでみると、この文には「彼ら」が多すぎたのだ。ということで、

⇒そして、思想家として偉大でなかったのかどうかについては判断しかねたが、いずれにせよ、非常に興味をそそる人間たちであるということだけは間違いなかった。

に変形し、

[訳]
それから私はイギリスの哲学者達の著作に移ったのだが、最初は彼らに対し少し偏見を抱いていたように思う。それというのも、ドイツにいた頃に、イギリス哲学者は基本的に無視してもいい者ばかりであり、ひょっとしたらヒュームは多少読む価値があるかもしれないが、それにしても、カントが彼を論破したという経緯があるからに過ぎない、ということを吹き込まれていたからである。ところがいざ読んでみると、彼らは唯に哲学者であるばかりでなく類稀なる名文家でもあったのだ。そして、思想家として偉大でなかったのかどうかについては判断しかねたが、いずれにせよ、非常に興味をそそる人間であるということだけは間違いなかった。「リバイアサン」を読んで、ホッブズのあからさまで率直な英国人気質に感銘を受けない者などまずいないだろうし、「対話」を読めば誰でも、なんという愉快な坊さんだ、とバークレーの魅力にとりつかれるに違いない。それに、カントがヒュームの説をケチョンケチョンにやっつけたのが事実であっても、ヒューム以上に優雅に、洗練された文体で、しかもわかりやすく哲学を書くなんてことは誰にもできやしないだろう。この三人はみな、さらに言えばロックもそうなのだが、とかく、文章の書き方を学ぶものがお手本にしてもよいくらい優れた英語を書いたのである。

としておきます。

次の問題は、1800年代初頭にアメリカを旅したイギリス人作家の旅行記からの出題です。

We left Philadelphia by steamboat, at six o'clock one very cold morning, and turned our faces towards Washington.
In the course of this day's journey, as on subsequent occasions, we encountered some Englishmen who were settled in America, and were travelling on their own affairs. Of all grades and kinds of men that jostle one in the public conveyances of the States, these are often the most intolerable and the most insufferable companions. United to every disagreeable characteristic that the worst kind of American travellers possess, these countrymen of ours display an amount of insolent conceit and cool assumption of superiority, quite monstrous to behold. In the coarse familiarity of their approach, and the effrontery of their inquisitiveness (which they are in great haste to assert, as if they panted to revenge themselves upon the decent old restraints of home), they surpass any native specimens that came within my range of observation: and I often grew so patriotic when I saw and heard them, that I would cheerfully have submitted to a reasonable fine, if I could have given any other country in the whole world, the honour of claiming them for its children.
脳ミソが腐りつつある日々。語彙も増えない。

私たちは蒸気船に乗ってフィラデルフィアを出発した。とても雲の多い午前6時のことだった。そして、ワシントンのほうへと顔を向けた。この時の旅の行程では、その後の旅でもそうであったように、アメリカに移り住み、仕事の都合でアメリカを旅歩いているイギリス人の幾人かと、私たちは遭遇した。アメリカの公共交通機関のひとつに乗り合わせたすべての階級・種類の人間の中で、これらのイギリス人はしばしばもっとも耐えられない、もっともしゃくにさわる連れ合いであった。アメリカ人旅行者のもっとも最悪の部類のものがもつ不快な性質ひとつひとつで結ばれた私たちの国からやってきたこれらのものたちは、見るに耐えないほどの傲慢なまでのうぬぼれと、あつかましいまでの優越性を見せ付ける。彼らが近づいてくるときのがさつな無遠慮さ、何でもかんでも聞きだそうとするあつかましさ(それはあたかも、彼らが故郷に昔からある慎み深い抑制する心へと復讐を試みているかのように、彼らは息せき切って見せつけようとする)において、彼らは私の目に入ってきた土着住民のいかなるものも上回っている。そして私は、彼ら同郷人のことを目にしたり耳にしたりするたびに愛国的になり、それはもし私がこの世界にあるほかの国に、子孫のために彼らの命を奪うという名誉を与えることができるのならば、私は喜んでその結果課せられる罰金を支払うだろうと思うほどであった。
>K-youngさん、珈琲くん

解説が非常に遅れてしまって大変、大変、申し訳ないです。私の怠惰をどうかお許しください。今回、問題となりそうなポイントを簡単にあげ、説明させていただきました。


第一文目
珈琲氏の訳:
ワシントンのほうへと顔を向けた。

うーん、これはちょっと直訳すぎるでしょう。単純に「向かった」でよいのでは。

第二文目
K-youngさんの訳:
本日の船旅で、旅では避けられぬか、英国人数名と会う。

「旅では避けられぬか」は少し違うと思います。Subsequentは「後の」と言う意味で、as on subsequent occasionsは珈琲氏の訳のように「後の機会にもそうであったように」という意味でしょう。

第四文目、後半
ここが今回の英文の山場でした。確かに結構難しいと思います。

I often grew so patriotic when I saw and heard them, that I would cheerfully have submitted to a reasonable fine, if I could have given any other country in the whole world, the honour of claiming them for its children.

まず、同郷人の話をしている時にpatrioticと出てきたので「故国をなつかしむ、偲ぶ」というような意味かなと連想が働いてしまいがちですが、ここはあくまで「愛国心のある」という意味です。つまり、「同郷のどうしようもない輩を見て、こんな奴らを野放しにしておいたらイギリスの名誉が汚されてしまう」という気持ちをpatrioticと表現しているわけですね。

で、その後のthat節は当然、前のsoと連なり、so~that構文をなしているわけですが、I would cheerfully submitted to a reasonable fineは仮定法過去完了で、「(〜なら)私は喜んで相当の罰金も甘んじて受けるだろうに」と言っている。いきなり何で「罰金」の話が出てくるかは、最後に付されている条件節で納得がいきます。if節は

I could have given(V) /any other country (in the whole world)(O1)/ the honour of claiming them for its children(O2)

という二重目的語構文で、文字通りの意味は、「もしイギリス以外のいかなる国にであれ、彼ら(許しがたい同郷人)を自らの子供たちだと主張する名誉ある権利を与えることができるなら」ということでしょう。if節中のcouldは定石どおり「可能」の意味を表します。勿論、「名誉」というのは皮肉以外の何ものでもありません。claim...for~がやや難しかったかもしれませんが、文脈から言って、この訳しかないと思います。平たく言えば、お金を積んででも彼らにイギリスの出身であることをやめて欲しい、と思っているわけです。【訳例】のほうでは、「私」ではなくany other countryを主語にする形で訳しました。

【訳例】
とても寒い朝六時に、蒸気船でフィラデルフィアを出てワシントンに向かう。
この日の船旅で、アメリカに定住しており、めいめい所用で旅しているイギリス国民と出会う。これ以降にもそういうことは何度かあった。合衆国の公的な交通機関に溢れているあらゆる種類の人間の中で、たいてい、この者たちは一緒にいるのがもっとも許せない、我慢のならない輩である。最悪のアメリカ人旅行者に見られるあらゆる不快な特徴をみながもっており、傲慢なうぬぼれと冷めた優越感は正直見るも恐ろしいほどだ。近づいてくる際の馴れ馴れしさと、失礼極まりない詮索好きな態度(故国での旧来の上品かつ控えめな態度に息をきって復讐せんとばかりに、そういう態度を見せ付けようとしている)は、私が観察したいかなるアメリカ人にも見られないほど。彼らを見聞きした時には、祖国の名誉を守らねばという気持ちが湧き上がってきて、どこであれこの者たちの故郷をかわりにかってでてくれるような寛大な国があるなら、相当の罰金もよろこんで払おうじゃないかと思ったほどだ。
次のパッセージは以前に出題した英文でMaughamが読みやすいと言っていたイギリスの哲学者George BerkeleyのPrinciples of Human Knowledgeから抜粋してきたものです。ここで、Berkeleyは「外界の事物が我々に知覚されることから独立して存在している」という一般の意見を奇妙な謬見とみなし、それに反論を加えています。最初に出てくる、this tenetというのはこの「謬見」のことを指します。このことを踏まえて『』で括った部分を和訳してみてください。

If we thoroughly examine this tenet it will, perhaps, be found at bottom to depend on the doctrine of abstract ideas. For can there be a nicer strain of abstraction than to distinguish the existence of sensible objects from their being perceived, so as to conceive them existing unperceived? Light and colours, heat and cold, extension and figures- in a word the things we see and feel- what are they but so many sensations, notions, ideas, or impressions on the sense? and is it possible to separate, even in thought, any of these from perception? 『For my part, I might as easily divide a thing from itself. I may, indeed, divide in my thoughts, or conceive apart from each other, those things which, perhaps I never perceived by sense so divided. Thus, I imagine the trunk of a human body without the limbs, or conceive the smell of a rose without thinking on the rose itself. So far, I will not deny, I can abstract---if that may properly be called abstraction which extends only to the conceiving separately such objects as it is possible may really exist or be actually perceived asunder.』But my conceiving or imagining power does not extend beyond the possibility of real existence or perception. Hence, as it is impossible for me to see or feel anything without an actual sensation of that thing, so is it impossible for me to conceive in my thoughts any sensible thing or object distinct from the sensation or perception of it.
解説が非常に遅れてしまってすいません。他に書き込みがあるかなと思ってぐずぐずしているうちに時がたってしまいました。いくつか、気になった点を挙げ、分析していきます。

For can there be a nicer strain of abstraction than to distinguish the existence of sensible objects from their being perceived, so as to conceive them existing unperceived?

[K-youngさんの訳]
感覚器官で捉えられる事物の存在とそれが知覚される事とを区別すれば、事物が知覚されずとも存在することをイメージするのに、これほど都合のいい抽象に対する説明はない。

ここは理由を表す接続詞のforと、比較を適格に捉えて直訳すると、

「というのも、than以下のことをするよりも優れた抽象化の例というものがあるだろうか(いやない)」

となるべきところです。a strain ofはa streak ofと同様の意味で、「一種の抽象化」「ちょっとした抽象化」というくらいの感じですね。than以下でも注意が必要です。後半のso as to Vは「目的」としても「結果」としても意味は通りますが、so as toVはいずれにしても副詞要素ですから、前のdistinguishを修飾し、distinguish…unperceivedは一塊である、と考えるべきです。

加えて、K-youngさんの訳では、最後の部分で、「これほど都合のいい抽象に対する説明はない」となっていますが、これは文脈上少し問題があると言えます。というのも、この英文の第一文では、K-youngさんも正しく訳されていた通り「この理論(外界の事物が我々に知覚されることから独立して存在しているという考え)の根底に抽象化がある」と言うことを言っているのであって、「事物の存在を知覚から切り離すこと、が抽象化の説明になる」と言ってしまうと、順序が逆になってしまいます。そうではなく、「抽象化を行うから、事物の存在を知覚から切り離すという結果になる」わけです。

[訳例]
「というのも、知覚の対象物の存在を、それらが知覚されているという事態から切り離し、結果、それらが知覚されていない状態でも存在している、と考えることほど、抽象化と呼ぶにふさわしい行為があるだろうか」



では、第二文の後半に移りましょう。

is it possible to separate, even in thought, any of these from perception?

[K-youngさんの訳]
頭の中でも、こういう感覚上で捉えた物は、知覚と違うのか?

ここは少し意訳なされていますが、直訳で問題ないと思います。「知覚と違う」ということを言っているのではなく、「知覚と切り離して考える」ことを問題視しているのです。要するに、「これらの感覚を知覚するという行為と切り離すなどということは、現実にはもちろん、想像することさえできない」と言いたいわけですね。

[訳例]
「たとえ頭の中であっても、これらを知覚行為と切り離すことが可能であろうか(いや可能ではない)」

では、『』部分に入ります。『』部分の第一文:

For my part, I might as easily divide a thing from itself.

[K-youngさんの訳]
私とて、知覚されたものとその物自体を普通に分けて考えたりするかもしれない。

ここが、今回の出題の英文構造上の一つの山場でした。正直かなり難しかったと思います。まず、重要なのは細かい要素も無視しないということです。might as easilyという助動詞的要素が入っていますが、これは直訳すれば「同じだけ容易に〜できるかもしれない」という意味ですね。might as wellと置き換えてもほとんど意味は一緒です。このasは、原級比較as…asにおける、前半のasで、副詞的に機能し「同じだけ、同様に」という意味を表します。しかし、唐突に「同じだけ」と言われても、何を基準に「同じだけ」と言っているのかわかりません。原級比較のas…as〜であれば後半のas節がその基準を提示する役割を果たすのですが、今回のようなケースでは、基準となるものを文脈から補うしかありません。言い換えるならば、might as well V/might as easily Vというのは、might + as … as〜構文における、後半のas以下が省略された形、とも言えるのです。ですから、might as well V1 as V2というように、後半のas以下をともなった形が出てくることもあるわけです。

さて、今回のケースですが、では、ここで省略されたas V2が何かということを考えると、やはり、直前で言われていた、separate any of them from perceptionということでしょう。ですので、このFor my partの文を、基準となるもの、を補って書き換えると、

For my part, I might as easily divide a thing from itself as (I might) separate any of them from perception.

となります。つまり、

「私に関する限り、これらを知覚から切り離すことと同じくらい容易に、物をそれ自身と切り離すことができる」

というのが直訳です。さて、ここまでは文法力で再生できても、ここからは文脈把握力と、レトリックに対する耐性の問題になってきます。この文の命題内容は、上の直訳で問題ないのですが、当然、筆者の込めた意味はこれでは伝わりません。というのも、ここで言われているdivide a thing from itselfというのは、「絶対にできないこと」の一例として持ち出されているものに過ぎないからです。

[基礎編]の鯨構文の解説のところで、than以下のa horse (is a fish)というのは「絶対に間違っていること」「真実性が0パーセントであること」の例であり、鯨構文は、a whale is a fishの度合いが、そのa horse is a fishの度合いと同じだ、と主張することで、a whale is a fishということがいかに誤った考えであるかを強調する修辞法である、と説明しました。

今回の文にも殆ど同じことが言えます。筆者は、ここで問題となっているseparate any of them from perceptionがいかに不可能なことかを強調するために、それがdivide a thing from itselfという「明らかに絶対にできないこと」と同じ程度に容易だ、と言っているのです。その意図を汲んで訳すなら、

[訳例]
「私の意見を言わせてもらえば、それは物をそれ自身と切り離すと言っているようなものである(つまり、絶対に不可能である)」
「私としては、物をそれ自身と切り離すほうがまだ簡単に思えるくらいだ(つまり、絶対に不可能である)」

勿論、いわゆる[熟語]として覚えている人が多い、might as well Vが「Vしたほうがよい、Vするも同じだ、Vしたほうがましだ」といった意味を持つのは、全て、このmight + as ~ asというのが元になっているのであって、一応の訳語は覚えるにしても、常に原理を理解しておくことが重要なのですが、実際は、プロの翻訳でもこの種の構文の読み落としは結構あるようです。私自身もいくつか発見したことがあります。

さて、次に本問の山場となるのが『』部分の最終文です。先ほどの一文ほどではないにしても、慎重に読む必要があります。

So far, I will not deny, I can abstract---if that may properly be called abstraction which extends only to the conceiving separately such objects as it is possible may really exist or be actually perceived asunder.

[K-youngさんの訳]
実在しているのと実際に知覚されているのとが区別可能な事物を、区別してイメージしていることを意味して、そこだけを抽象と呼ぶようにしているのならば、である。

ここの後半のif節、まず注意すべきは、that…whichの関係ですね。現代英語では、that which=what自体、あまり見られなくなりましたが、古めの英語では、頻繁に出てきますし、今回のようにthatとwhichが遊離する場合もあります。これはK-youngさんの訳でも捉えられていると思います。つまり、if…whichまでを直訳すると

〜するものを抽象化と適切に呼ぶことができるなら
→〜するものを抽象化と呼ぶにふさわしいと見なすなら

ですね。勿論ここには著者の「それはもう抽象化とは言わないのではないか」という含蓄があります。

次にwhich以下の構造ですが、such objects as it is possible may really exist or be actually perceived asunderのところはかなり複雑で注意が必要です。まずここでのasはsuchと連動するもので、擬似関係代名詞などと呼ばれているものですが、その後ろに続くit is possible…というのは、いわゆる「連鎖関係詞」の構造です。つまり、

It is possible (that) X may really exist or be actually perceived asunder

という基底の文からXを抜き出して先行詞にすることで生じた構造ですね。そして、may really exist…asunderのところでも、andがつくる共通関係に気をつけなければなりません。

such objects as it is possible may really exist

までで考えてみた場合「実際に存在するかもしれないような事物(対象)」というだけでは、いまいち文脈にそぐわない。ここは、文末のasunder「別個に」がperceivedのみではなく、existも修飾していると考えなければ、文意がはっきりしないわけです。
[訳例]
ここまでは、確かに抽象化が可能である。もちろん、実際に別個に存在しうるものや、あるいはすくなくとも別々に知覚することが可能なものを、区別して考えるという、ただそれだけのことに対して、抽象化という呼び名を用いるのがふさわしければ、である。

=================================


今回は、Maughamが読みやすい英文と評していたとは言え、英語の構造という観点から見てもかなり骨のあるものだったと思います。難しい英文に挑戦してくださって有難うございます。哲学の翻訳、ということについてですが、専門家の翻訳でしたら「訳語」が重要になってくると思いますが、ここはあくまで英語の構造を見抜き、そこに書いてある思想を咀嚼して日本語で表現する場ですから、意味が伝わるならば、「伝統的に哲学ではこう訳されている」といったことは気にする必要はないと思います。私はロック、バークレー、ヒューム、ミルなどは日本語を介さずに全部英語で読んでますが、英語的にわからなくて理解できないところはあっても、専門訳がわからないために理解できないというところは少ないと思います。そりゃそうですよね。英語圏の素人だって読んでいるわけですから。
訳例の意味がわからない、とのことですが、どこがどういうふうにわかりにくいのか、できれば、指摘していただけないでしょうか。こちらの解説が間違っていることもありえるわけですし、そのほうがこっちとしても勉強になります。







新しい問題です。

In the related arts of politics and government, judicious economies with truth are a stock-in-trade; neither art would be possible without them. We accept the necessity at times for evasions, equivocations, dissemblings and downright falsehoods in the practices of public life, and regard as naive anyone who insists otherwise.

A.C. Grayling (2001):The Meaning of Things

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