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チェダゼミナールコミュの西アジアの変動 P104〜

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【オスマン帝国(トルコ)の衰退と改革】
 かつて東欧・西アジア・北アフリカにかけて広大な領土を築き、ヨーロッパにとって脅威であった1( オスマン帝国 )。しかし、1811年には2( エジプト )が独立し、1830年には3( ギリシャ )も独立した。危機に直面したオスマン帝国は、近代化を進める。アジア初の憲法4( ミドハト憲法 )が1876年に制定され、議会も作られた。憲法や議会のない国は一流の国とは認められなかったためだ。しかし、翌年5( 露土戦争 )が始まると、6( スルタン )<イスラム王朝の君主の称号>は憲法を停止し、専制政治を続行した。ミドハト憲法復活は1908年の7( 青年トルコ革命 )まで待たなければならない。ミドハト憲法停止中の1889年2月11日、アジア初の憲法8( 大日本帝国憲法 )が発布された。日本がアジアNo1に向け、本格的に始動し始めた。

【アラブのイスラーム改革運動】
 アラビア半島の大部分を占める9( サウジアラビア )は、10( サウード家 )が作り上げた王国で、現在でも憲法や議会はない。つまり現在でも世襲で選ばれた独裁者が国政を取り仕切っている。サウジアラビアといえば11( 石油 )資源が豊富で相当豊かな国であるため、国民の生活もそこそこリッチである。生活に不満がないため、国王を倒そうなどとは思わないのだ。現在のサウジアラビアの原型となったのが12( ワッハーブ王国 )である。ワッハーブとは人名で、彼はイスラム原理主義者である。ワッハーブ王国は何度か滅ぼされたが、現在のサウジアラビアに継承されている。サウジアラビアにはイスラム教の聖地13( メッカ )や14( メディナ )がある。

【エジプトの改革と植民地化】
 エジプトは1811年にオスマン帝国から独立を果したものの、今度は英仏の餌食となる。エジプトには地中海からインド洋に抜ける15( スエズ運河 )がある。この運河を使えば、従来の喜望峰経由の半分以下でアジア(インド)へ行けるため英仏はスエズ運河支配権をめぐって争った。最初にスエズ運河の開発に乗り出したのはフランスで、16( レセップス )が10年かけて完成させた。先を越されたイギリスは運河建設を邪魔していた。当時のイギリス首相は保守党の17( ディズレーリ )だったが、彼は( ユダヤ人 )大富豪ロスチャイルドから運河株買収の資金を借りて、買収した。英仏の支配に不満を持つエジプトは18( アラービー・パシャ )は反乱を起こしたが、イギリスが鎮圧し、エジプトは事実上イギリスの植民地となった。結果としてイギリスは「インドへの道」をガッチリ確保した。

【イランの改革】
 イランはイギリスとロシアの侵略を受けた。イランにおける二国間の勢力範囲は最終的に1907年の19( 英露協商 )によって決定した。取り分はロシアの方が広いが、ロシアは不凍港をゲットするには至っていない。

インドの衰退 P106〜
【イギリスのインド征服】
 インド支配は、長らく英仏が争っていたが、1757年の1( プラッシーの戦い )でイギリスが勝ち、イギリスが支配していくこととなった。またインドの南にある2( セイロン )<現スリランカ>も1796年にイギリス領となった。セイロンと言えば有名なのは3( 茶 )、セイロンティーである。イギリス人は1日に五回のティータイムがあります。ティータイムの楽しみである、茶・砂糖・チョコレートなど、このすべてが熱帯産・もしくは温帯の高温多雨地域である。イギリス人の優雅な一時は、植民地の犠牲の上に成り立っているのである。

【インド社会の変貌】
 イギリスでは1760年代から4( 産業革命 )が始まった。きっかけはコットンフィーバー。服の原料は絹・麻・毛など色々あるが、綿はそれらの中のいいとこ取り。吸水性・保温性・値段・着心地すべてがよかった。インドの5( デカン高原 )は綿の一大生産地であったため、イギリスはインド産の綿を大量に輸入した。通常輸入品には6( 関税 )がかかるが、イギリスは関税を廃した7( 自由貿易 )政策を進めた。イギリスは産業革命を起こしているため、服作りは手作業ではなく、機械で大量生産が出来るため、安くて質のよい服を作ることが出来た。出来た服をまた自由貿易によって安くインドに売りつけるが出来たため、インド経済は大打撃を受けた。 
 ただ、この時点ではまだインドの経済支配のみで、政治支配までは行なっていなかった。インドの経済支配を担っていたのは、対アジア貿易会社である8( イギリス東インド会社 )であった。

【シパーヒーの反乱】
 イギリスのインド支配が強まる中、インド人の不満は高まった。プラッシーの戦い(英VS仏)から丁度100年後の1857年、9( シパーヒーの反乱 )<英VS印>が起こった。しかし、インド側は、共通の目的や強力な指導者を欠いていたためにイギリスに鎮圧されてしまった。戦争に勝つためにはまずナショナリズム(国民意識)が必要だが、インドにはこれが決定的に欠けていた。シパーヒーの反乱を鎮めた後、東インド会社を解散し、インドの直接統治に乗り出した。つまり政治面においても支配が始まるのである。
インド・東南アジアの植民地化 P108〜
【インド国民会議派の結成】
 イギリスのインド統治の本格的な政治支配としてまず行なったのが、インドの呼び名をインド帝国と改め、さらにその国王に1( ヴィクトリア女王 )を据えた。
 さらにインド軍を編成し、2( アフガン戦争 )を戦わせ、ロシアの3( 南下政策 )を阻止した。インド軍はWW?・?においても大量に出兵している。インドは経済大国ではないが、人口大国であるから大量の兵士が集まる。というより、経済が不調の方が軍隊が集まりやすい。経済が不調ということは、就職先がないということなので、軍隊が就職先の受け皿となるのだ。

【オランダ領東インド】
 オランダは4( アンボイナ事件 )でイギリスを駆逐してから、東南アジアの香辛料貿易を独占してきた。以後、オランダはジャワ島の5( バタヴィア )に商館を置き、アジア貿易の拠点としてきた。この時、オランダのインドネシア支配はあくまでも経済(貿易)面のみに過ぎなかったが、1825年に現地の人々がジャワ戦争を引き起こした。オランダはこれを鎮圧し、6( オランダ領東インド )<インドネシア>とし、政治面においても支配を開始、つまり植民地化した。
 東南アジアなどの熱帯地域には、香辛料を始めとして、コーヒー・さとうきびなど、熱帯でしか作れない作物が栽培される。要は、ヨーロッパでは絶対生産出来ない、つまり非常に貴重で高価なものが栽培される。そのため、オランダはインドネシアに対し、7( 強制栽培制度 )を行い、現地の稲作の生産はストップさせたため、インドネシアでは多くの餓死者が出た。

【フランス領インドシナ】
 東南アジアはインドと中国にはさまれた地域にある。中国はChinaと呼ばれるが、これは中国の呼称「支那(シナ)」に由来している。中国・インドにはさまれた半島のことを8( インドシナ )半島といい、ここに9( ベトナム )・10( ラオス )・11( カンボジア )が存在する。インドシナ半島の国々は長い歴史の中で、インドに支配されたり、中国に支配されたりの繰り返しであったが、19世紀は中国がインドシナを支配していた。しかし、アヘン戦争で中国がイギリスに敗北し、中国が弱い国だと世界にバレてからは、中国が支配していたインドシナ半島にもヨーロッパの国が押し寄せることとなった。これに対し中国(清)は反発し、1884年に12( 清仏戦争 )が起きたが、フランスが勝利し、インドシナはフランスの領土となった。



【植民地としての東南アジア】
 イギリスはアンボイナ事件でオランダに敗れて以来、一度は東南アジアから撤退したが、産業革命を終えた19世紀に再びやってきた。イギリスはヨーロッパの大国の中で唯一の島国の利点を最大限生かし、海運大国を目指した。スエズ運河買収の件と同じように、船舶が通る、もしくは停泊するような立地条件の植民地獲得を目指したのだ。それが13( シンガポール )・14( マラッカ )・ペナンからなる海峡植民地である。さらに英領インドから見て東に隣接する15( ビルマ )<現ミャンマー>も植民地化し、インド帝国に編入した。
 一方で東南アジアで唯一植民地化されなかった国が16( タイ )である。タイは英領インド帝国と仏領インドシナの丁度中間地点に存在する。もし、ここを英仏が奪い合うことになれば、英仏の実力が拮抗しているため両方とも大きな損害を被ることになる。そのためタイだけは植民地化されず、英仏の17( 緩衝国 )としての役割を果した。もちろん理由はそれだけではなく、タイ国王18( ラーマ五世 )の近代化政策の影響も大きかった。
 東南アジアを植民地化することは、戦争を有利に進めるための資源確保にも繋がった。石油・ゴム・錫などは戦闘機の燃料・タイヤ・鉄板部分として使用された。熱帯地域の植民地で、安い労働力を使い宗主国向けへ商品をつくる大規模農園を19( プランテーション )という。かつては安い労働力として奴隷が用いられたが、奴隷制は世界的に廃止の流れとなっていた。そこで安い人件費として20( 中国 )や21( インド )の移民が注目された。彼らを22( クーリー )<苦力>という。

〔まとめ〕
英領⇒ビルマ・マレーシア(マラッカ・ペナン)・シンガポール
仏領⇒ベトナム・ラオス・カンボジア
蘭領⇒インドネシア
米領⇒フィリピン(米西戦争前はスペイン領)
ポルトガル領⇒(東)ティモール

※ティモールは1976年までポルトガル領。つまり戦後も、ポルトガルの影響を受けていたためキリスト(カトリック)教徒が多い。一方で、領土を接するインドネシアは1949年にオランダから独立しているが、オランダはプロテスタントであるため、海外に布教活動(対抗宗教改革)はしていない。そのため、インドネシアの宗教は23( イスラム教 )であった。キリスト教とイスラム教は仲が悪いため、東ティモールは2002年に独立し、東南アジア11カ国目の国となった。

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