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チェダゼミナールコミュの? 鎌倉幕府の成立 P88〜 資料集102

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【源平の争乱】
さて、平安時代末期に絶大な権力をもった平清盛。武士でありながら、政治家の頂点1( 太政大臣 )にまで登りつめました。実は清盛には三つの顔があります。資料集P96を見ると、武士としての顔、政治家としての顔、そして出家したときの顔。どちらにしても清盛が絶大な権力を持っていたことを物語っています。清盛は2( 後白河法皇 )を鳥羽殿に幽閉(閉じ込めること)し、後白河法皇が院政をできないようにしてしまいました。武士が天皇を押さえ込んだわけです。そして、1180年(治承4年)、3( 安徳天皇 )を天皇にしました。安徳天皇とは、平清盛の娘と高倉天皇の間に生まれた子供です。つまり、平清盛からすれば孫にあたります。しかも、安徳天皇はまだ幼児でした。つまり、平清盛は自分の孫でまだ幼い人物(この時まだ3歳!)を天皇にすることによって、政治の実権を握ろうとしたわけです。
このような独裁者が出てくると、必ずそれに反発する勢力が出てきます。まず、幽閉された後白河法皇の第三皇子4( 以仁王 )です。彼の心情はおそらく、「平清盛さえいなければ、父も幽閉されることはなかったし、次期天皇は自分だったのに」です。以仁王は、1180年、平時打倒の令旨(りょうじ)という命令を出します。これに呼応して、平治の乱では平清盛側についていた5( 源頼政 )が平氏打倒のため挙兵。平氏を追い詰めるが、宇治平等院で、以仁王も頼政も戦死してしまった(1180年5月26日)。この平氏に対する反乱に驚いた平清盛は翌月6月に、清盛の拠点である摂津国(現在の兵庫県神戸市近辺)6( 福原京 )に遷都しました。しかし、この遷都には貴族や大寺院からの反発が大きく、結局その5ヵ月後の11月には再び京都に都が戻りました。反発理由は色々ありますが、その一つに、福原京(現神戸市)は、平地が狭くてとても平安京なみの都城は造営できなかったからというのがあります。神戸市は港町には向いていても、都としては向いていなかったということです。一方、以仁王の平氏打倒の命令は全国の武士に伝えられ、8月には、平治の乱で敗北し、7( 伊豆 )に流されていた8( 源頼朝 )が挙兵。頼朝は平治の乱で戦ってはいませんが、父である源義朝が負けたため、幼少の頃に伊豆に流されてしまいました。だから当然「いつか平氏を倒して父の敵を打ってやりたい」と考えていたはずです。頼朝は9( 石橋山の戦い )で平氏側の大庭景親(おおばかげちか)に敗北し、回路で安房<千葉県南部>に逃れ、その後鎌倉に入り、反撃のチャンスを窺います。同じ8月には甲斐(今の山梨県)源氏が、9月には10( 源義仲 )も木曽で挙兵。通常、反乱のリーダー格や言い出しっぺが死んだり負けたりすると、その反乱は治まるのが普通です。しかし、反乱軍(源氏)の戦意高揚のため「実は以仁王と源頼政は生きていて東国に逃れ、頼朝や甲斐源氏のもとにいる」との噂を源氏側が意図的に流しました。それによって、源氏側の軍勢が次第に優位となり、徐々に平氏は追い詰められていきます。実際に、10月には一度は平氏側に負けた頼朝が、11( 富士川の戦い )で平氏軍を一蹴しています。
この源平の争乱のポイントは、源氏の拠点が東国(関東)に対し、平氏の拠点が西国(関西)であるということです。もっと言うなら、平氏の拠点が、港町神戸に対し、源氏の拠点が,後の幕府を開く場所となる鎌倉です。平氏側の勢いを削いだ出来事としては、1181年の清盛の突然の死(64歳)がまず挙げられます。清盛は晩年、体調が優れませんでした。若いころに戦いに明け暮れた時のツケが回ってきたのでしょうか。清盛が出家したのも、病苦を免れるためだと言われています。平氏側のリーダー格が死んだことによって、平氏側のモチベーションは下がります。さらに追い討ちをかけるように、西国で12( 養和の飢饉 )<1181〜82年>が発生。西国の生産能力も落ちてしまいました。この飢饉は壮絶で、母が餓死したことを知らずに乳飲み子が母の死体にすがっている姿も見られたといいます。一方で同じ時期の東国は豊作だったそうです。「腹が減っては戦は出来ぬ」といいます。戦争において、食糧が採れるか採れないかは、死活問題です。これらの出来事によって、以後の戦いは源氏側の連戦連勝。まずは、1183年5月、源義仲が越中(富山)・加賀(石川)国境の倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平氏軍を撃破。これによって、平氏の都落ちが確定。平氏は京都に居られなくなります。平氏側は、安徳天皇を奉じて西国へ逃走(1183.7)、以後、平氏側は瀬戸内海周辺を転々と逃げていきます。一方で源義仲は入京を果たし、頼朝・平氏と全国を三分するほどの勢力となる。そして平氏の拠点福原(神戸市)周辺で争われた13( 一の谷の戦い )(1184.2)で平氏は破れ、さらに現在の香川県で争われた讃岐14( 屋島の戦い )(1185.2)でも平氏は敗北。源平の最終決戦は、現在の山口県下関市の長門15( 壇の浦の戦い )<1185年3月>で勝負あり。一の谷・屋島・壇の浦の戦いでは、頼朝(義朝の三男)が派遣した弟二人、義朝の九男16( 源義経 )と六男17( 源範頼 )の活躍で、源氏側の勝利となります。平清盛にかわいがられていた孫の安徳天皇は、祖母の平時子に抱かれ、関門海峡の海に飛び込み、自殺しました。源平の争乱は1180年から5年も続き、この一連の戦いを、時の年号をとって18( 治承・寿永の乱 )といいます。



























【鎌倉幕府】 資料集103〜104
 鎌倉幕府は、反平氏の諸勢力のうち、東国の武士団が源氏の嫡流(本家の血筋)である。1( 源頼朝 )のもとに集結したのが始まりである。さて、頼朝がどのように武士団を手懐けていったかというと、簡単に言えば「俺のために戦ってくれたら、土地をあげるよ」です。頼朝(将軍)と主従関係を結んだ武士を2( 御家人 )といいます。要は、将軍の家来です。もう少し詳しい説明はまた後でするとして、まずは頼朝が築き上げた鎌倉幕府についてみていきます。鎌倉は頼朝のひいひいひいじいちゃんである源頼義が居住して以来の故地である。頼朝は、ここを拠点に幕府を開くわけです。ポイントは、東国は西国に比べ、まだまだ未開発な地域が多いことです。今でこそ関東地方は世界一の都市圏ですが、かつては辺境の地です。最初に、頼朝は幕府の家来である御家人統率のための役所3( 侍所 )を設置します(1180年)。この侍所の長官を4( 別当 )といい、初代別当には下級武士出身の5( 和田義盛 )が就きました。1183年10月には、頼朝は後鳥羽法皇に迫って、東国支配の権利、行政権を認めさせました。この出来事を6( 寿永二年十月宣旨 )といいます。翌年1184年には、一般政務を行う7( 公文所 )<1191年以降8( 政所 )>を設置し、訴訟事務を行う9( 問注所 )を設置しました。この公文所の長官のことも別当といい、初代別当には公家(下級貴族)出身の10( 大江広元 )が任命されました。注意が必要なのは、問注所の長官だけは別当とは言わず11( 執事 )といいます。初代執事には公家(下級貴族)出身の12( 三善康信 )が任命されました。ポイントは、初期の鎌倉幕府は、下級貴族や下級武士によって支えられていたことです。つまり、人事を身分で決めるのではなく、実力で決めていたということです。
極めつけは、1185年の平氏滅亡後、13( 守護 )・14( 地頭 )の任命権・兵粮米(ひょうろうまい)徴収権(翌年1186年停止)・国衙役人の支配権も朝廷から承認されました。つまり東国だけじゃなくて、日本の首都のあった西国までの支配権を手に入れたことになります。守護・地頭については重要なので、もう少し詳しく説明します。守護とは、東国の有力な御家人の中から選ばれ、1国ごとに1人が任命される、いわばその地方(国)のボスです。後の守護大名・戦国大名につながる職です。この守護には、東国出身の有力御家人から選任されました。主な任務は、御家人を指揮して治安維持に努め、警察権を行使し,戦時にはその地方の軍事的リーダーとして働くことです。守護はある意味名誉職なので、守護としての収入源はありません。さらに守護には地方行政官としての役割、つまり県知事的な役割もありました。国衙在庁官人を支配し、国衙の行政事務を継承しています。つまり、守護がかつての国衙の任務を吸収しているわけです。例えば、荘園や公領の面積、領主などの氏名を調査して記載した、本来国衙の土地台帳としてつくられていたものが、15( 大田文 )<おおたぶみ>と呼ばれる、幕府の命令によってつくられるものになった。また平常時には16( 大犯三カ条 )<たいぼんさんかじょう>という三つの仕事もこなさなければなりません。三つの仕事とは?大番(おおばん)催促?謀叛人逮捕?殺害人逮捕です。?の大番催促とは、御家人に対し京都大番役(京都の朝廷警備)の催促を行うことです?の謀叛人とは、時の権力者に逆らった人のことです。例えば、将軍の悪口を言ったとしても逮捕されてしまいます。?は説明するまでもないですが、人殺しをした人を逮捕することです。
 続いて地頭についての説明です。地頭は、公領・荘園ごとに設置され、御家人が任命されます。任務は17( 年貢 )の徴収・納入,現地の管理,治安維持です。自動の設置範囲は、初めは平氏旧領,謀叛人所領に限定されていました。つまり、治承・寿永の乱で負けた平氏側の土地や、謀叛人の土地は奪いやすいからです。下線部を18( 平家没官領 )<へいけもっかんりょう>しかし、次第にその他の土地も鎌倉幕府が支配していき、全国的に広がっていきます。給与は、従前の荘官収益がありましたが、これは各地の慣例により相違がありました。守護・地頭の意義は、将軍が、御家人の在地領主権を保障してあげるかわりに、「いざというときには将軍のために命を懸けて戦えよ」という、持ちつ持たれつの関係性が出来上がったことです。
こうなってしまうと、本来の日本の支配者である天皇の立場がありません。あまりに頼朝の権力が強くなりすぎたため、後白河法皇は頼朝の弟、19( 源義経 )に「頼朝を倒せ!」と命令します。結局この兄弟ゲンカは兄である頼朝に軍配が上がり、義経は遊女の静と逃亡。静は捕まり鎌倉に送られたが、義経は20( 奥州藤原氏 )の元に逃げてしまいました。頼朝はここぞとばかりに奥州藤原氏をつぶしにかかります。東国・西国ときて、東北までをも支配すれば全国統一達成だからです。しかも東北を制圧すれば征夷大将軍になる資格を得ることもできます。結局21( 藤原泰衡 )が滅亡したことによって、頼朝の全国統一は完成されました(1189.11)。翌年1190年には、念願だった上洛(日本の首都であった京都に入ること)が実現して、22( 右近衛大将 )という称号を手にしました。最終的には、後白河法皇が死んだのをきっかけに後鳥羽天皇から念願の23( 征夷大将軍 )の称号を得て、鎌倉幕府を開きます(1192.7)。
 鎌倉幕府の地方支配は、守護・地頭のほかに京都全体の治安維持と朝幕関係を調整する24( 京都守護 )<承久の乱後25( 六波羅探題 )>,九州の治安維持のため26( 鎮西奉行 )<元寇後27( 鎮西探題 )>,東北の治安維持のため28( 奥州総奉行 )がおかれました。

【幕府と朝廷】
 飛鳥時代から、奈良・平安時代までの日本の支配者は天皇でした。そして天皇が政治を行う場所を29( 朝廷 )といいました。しかし、この鎌倉時代からは日本の支配者が30( 将軍 )<武士>に変わります。将軍様が政治を行う場所を31( 幕府 )といいます。幕府とは、将軍のもとでの軍事(武家)政権なのです。因みに朝廷とは公家政権です。幕府の基盤は、将軍と御家人との主従関係(持ちつ持たれつ)が基本です。その主従関係のキーワードは土地です。誰だって、きつい思いをしたり死ぬのは嫌です。だけど、土地という人参をぶら下げられるとそこにはある種の契約が生まれます。つまり将軍は、普段から部下の御家人に対して恩を売っておくのです。これを32( 御恩 )といいます。御家人を地頭に任命することによって、?先祖伝来の所領支配を保障したり、?新たな所領を与えるなどをしているわけです。下線部?を33( 本領安堵 )といい、下線部?を34( 新恩給与 )といいます。その代わり御家人は35( 奉公 )、つまり将軍に尽くすことでその恩に報いるわけです。具体的には、京都の朝廷を警備する36( 京都大番役 )や、幕府のある鎌倉を警備する37( 鎌倉番役 )、そしていざ戦争となれば、将軍のために命を懸けて戦うことが任務です。
 
〔公武二元支配〕
 守護・地頭の設置で幕府の全国支配の足がかりができたとはいえ、幕府が実質的に統治できたのは東国だけであり、京都では従来どおり院政を軸とする公家政権が存続していました。土地を支配したのは地頭だけではなく、旧来の荘園や公領も沢山あったということである。武家政権が本格的に優位になるのは、1221年の38( 承久の乱 )後を待たなければならない。

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