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チェダゼミナールコミュの37 帝国主義の国際対立 教材研究

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37 帝国主義の国際対立
 *日露戦争後ヨーロッパ列強の対立はどう変わったのか,イギリス・ドイツの関係を中心に跡づけてみよう。

●戦争の危険●
 帝国主義時代には国家間・民族間の対立が深まり,戦争の危険も増大した。列強は植民地や勢力圏の拡大にしばしば武力を用い,そのため清仏戦争・日清戦争・アメリカ=スペイン戦争・南アフリカ戦争などが相ついでおこった。しかし強国どうしのあいだでは,なお戦争をさけようとする努力がまさり,たとえば1898年のファショダ事件なども,最後にフランスがイギリスに譲歩して解決した。また1904年に中国東北部を舞台に〔1       〕がおこると,日本・ロシアとそれぞれ同盟を結ぶイギリス・フランスも戦争にまきこまれる危険が生まれた。これをさけるため両国はにわかに接近し,同年,今まで争ってきた〔2       〕と〔3       〕をたがいに相手の保護国と認めあって〔4       〕が成立した。また〔1       〕でロシアがやぶれたあと,イギリスとロシアは,〔5       〕の西アジア進出,〔6       〕の立憲革命に対抗するため手を結び,1907年,〔6       〕での両国の勢力圏を定めて,〔7       〕を成立させた。

〈語群〉
ア.日露戦争  イ.エジプト  ウ.ドイツ  エ.イラン  オ.英仏協商  
カ.モロッコ  キ.英露協商

《解答》
1ア 2イ 3カ 4オ 5ウ 6エ 7キ

●イギリスの覇権ゆらぐ●
 19世紀には広大な植民地をもつイギリス帝国が,世界の政治・経済から文化までリードした(パクス=ブリタニカ)。しかし世紀末にはこの覇権もゆらぎはじめ,列強が世界の分割でイギリスと肩をならべたほか,電気・化学のような新産業をはじめとする工業力でもアメリカ合衆国とドイツに追い抜かれた。以後イギリスは「〔1       〕」として金融業や海運で力をふるいつつ,植民地・勢力圏の維持拡大につとめた。また外交でも,これまでイギリスは,海上での支配権を背景に,どの国とも軍事同盟を結ばない「〔2       〕」をほこってきたが,20世紀はじめ〔3       〕戦争でブール人の抵抗に苦しみ,また中国大陸でロシアの進出をおさえるため,1902年〔4       〕を結ばざるをえなくなった。

〈語群〉
ア.世界の銀行  イ.南アフリカ戦争  ウ.名誉ある孤立  エ.日英同盟  

《解答》
1ア 2ウ 3イ 4エ 

●ドイツの挑戦●
 世紀の変わり目にヨーロッパ第1の工業国に躍進したドイツは,植民地獲得での遅れを取りもどすため「陽のあたる場所」を求め,海外進出につとめた。このため皇帝〔1       〕は大海軍の建造に着手し,イギリスもこれに対抗したので,両国のあいだで建艦競争が激化した。
 一方,ドイツはトルコでバグダード鉄道の建設を進め,トルコ陸軍の近代化をたすけた(〔2       〕?)。これは,解体しかかったオスマン帝国に領土的野心をもつ国ぐにとの摩擦を増大させ,とくに地中海への出口を求めるロシアと,ドイツの急速な進出を〔3       〕への挑戦とみるイギリスが反発した。
 日露戦争後,国際関係はイギリス・ドイツ間の対立を軸に展開し,イギリスは英仏協商と英露協商を通じてフランス・ロシアと結び(〔4       〕),ドイツ・オーストリア・イタリアの〔5       〕と対決した。孤立を深めるドイツはイギリス・フランスのあいだをさくため,1905年と11年の二度にわたり〔6       〕?をおこしたが,失敗におわった。


?ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードの3都市の頭文字をとって3Bという。
?英仏協商でモロッコをフランスの保護領としたためにドイツは反対し,1905年(ヴィルヘルム2世のタンジール訪問),11年(軍艦の派遣)と3度にわたり抗議したが失敗,ドイツの孤立が深まった。

〈語群〉
ア.モロッコ事件  イ.3C政策  ウ.3B政策  エ.三国協商  オ.ヴィルヘルム2世  
カ.三国同盟  

《解答》
1オ 2ウ 3イ 4エ 5カ 6ア 
〔指導上の留意点〕
▼植民地獲得競争を背景とする列強間の対立・抗争が,同盟関係の積み重ねを通じて陣営間対立に系列化されていくプロセスを,教科書のチャートなどを利用しつつ明らかにする。
▼英・露の対立を軸に展開していた国際関係が,日露戦争(→テーマ39で詳述)を境に大きく転換し,英・独の対立が焦点をなしていくことを理解させる。
▼相対的地位を低下させるイギリスと新興の大国ドイツに着目しながら,各国の経済的・軍事的実力の変動と植民地領有の問にアンバランスが生じていることに気付かせる。
▼イギリスとドイツのダイナミックな世界政策(3C政策と3B政策)の対立を,教科書の地図を利用して視覚的にとらえる。

清仏戦争 1884年から1885年にベトナム(越南)の領有を巡って起きたフランスと清との間の戦争。

ベトナムの植民地化
19世紀初めにベトナムには阮朝が成立したが、領土の拡張を目指すナポレオン3世治世のフランスは、ベトナムへの数度にわたる挑発行動の後、1857年に発生したベトナムによるキリスト教徒迫害の報復として、翌1858年にスペインと共に攻撃、侵攻した(第一次仏安戦争)。1862年まで続いた攻撃によって、ベトナムはサイゴン条約(第一次)でコーチシナのフランスへの割譲を認めた。これを糸口に、フランスは翌年にカンボジアを保護国とし、1869年にコーチシナ3省を領有した。その後本国ではナポレオン体制が崩壊したが、1873年に再度攻撃、第二次仏安戦争となり、翌年に第二次サイゴン条約を締結した。

インドシナ植民地の完成
フランスはすでに掌握したベトナムとカンボジアを併合してフランス領インドシナ連邦を建設、1893年にはラオスを保護国として連邦に組み込み、植民地が完成した。この体制は、第一次インドシナ戦争によって連邦が解体するまで続いた。

米西戦争 
1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争である。結果としてカリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。キューバ独立軍との関係から、スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西玖戦争)とも呼ばれる。

背景
世界的な強国としてのスペインの地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下し、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか残らなかった。その多くは独立し、また多くの地域は独立のための運動を繰り広げていた。フィリピンではエミリオ・アギナルドにより、キューバではホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が活動していたが、スペイン政府はこれらの脅威に対する金融あるいは人的資源を持っていなかった。そこでキューバに於いてキャンプを構築し住民と独立軍を分離し支援を止めさせる作戦を布告した。スペインは、さらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な扱いを行った。1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインの立場は完全には回復しなかった。
キューバでのこれらの出来事は、アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期と一致した。各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。

そのため開戦への他の圧力、アメリカ海軍は増強されていたが、実戦は未経験であった。海軍は開戦の一年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃するための計画を作成していた。西部への拡張およびアメリカインディアンとの大規模交戦の終了は陸軍の任務を減少させ、軍の指導陣は新しい任務を望んだ。早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニーに関する理論はちょうどフロリダの沖合に非常に魅力的に見える島を作った。キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だった)はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラスカ州の上院議員ジョン・M・サーストンの言葉:「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」
戦争の始まり
1898年2月15日にハバナ湾で米海軍の戦艦メイン (USS Maine, ACR-1) が爆発、沈没し 260 名の乗員を失う事故が発生した(この中には 8 名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの 2 紙を始めとした当時の米国のメディアは、スペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「メインを思い出せ!くたばれスペイン!」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。

爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが、燃料の石炭の偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている。一方石炭自体にその原因を求めるものや、米国を戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であっただろうという点では一致している。

マッキンレー大統領は開戦に同意せず世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペイン首相サガスタ (Praxedes Mateo Sagasta) は、キューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。

アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つという、覇権の移譲とも取れる流れになっている。スペインは戦後、植民地を失ったために国力が低下し、新興国家アメリカにあっけなく敗れたことから、欧州での国際的地位も発言力も同時に失った。ルネサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。


ボーア戦争(ボーアせんそう、Boer War、Anglo Boer War)は、イギリスと、オランダ系ボーア人(アフリカーナー)が南アフリカの植民地化を争った二次にわたる戦争。南アフリカ戦争、ブール戦争ともいう。
第一次ボーア戦争
第一次ボーア戦争(1880年12月16日 - 1881年3月23日)とは、トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争のこと。そのためトランスヴァール戦争(Transvaal War)とも呼ばれる。

19世紀、17世紀ごろからケープ植民地に入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。

イギリスのケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めてアフリカ大陸内部へ更なる植民を開始し、ズールー族を駆逐して1839年にナタール共和国を建設する。 しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立。イギリスも両国を承認した。

1860年代以降、トランスヴァール東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師が大量に流入しはじめた。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化する(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズも含まれていた)。

内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。しかしこの動きを警戒したイギリスは、トランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。

この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。

1881年2月27日、マジュバ・ヒルの戦いで英国軍はボーア人に惨敗。これにより1881年3月23日、プレトリア協定が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。

第二次ボーア戦争
第二次ボーア戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)は、独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国およびトランスヴァール共和国と、大英帝国の間で戦われた。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収された。

英国はボーア戦争に大量の人員・物資を裂かざるを得ない状況になったことが影響し、義和団事件以降、満州に影響力を強めるロシア帝国に対抗する為、1902年1月日英同盟を締結した。

英仏協商(えいふつきょうしょう/仏: Entente Cordiale)
1904年4月8日にイギリスとフランスの間で調印された外交文書とそれによる英仏間の外交関係。原語の意味は"友好的な相互理解"を意味する。

これにより両国の植民地政策の対立は解消され、数百年にもわたった英仏間の対立関係に終止符が打たれた。
2004年には、調印100周年を記念して様々な行事が行われた。
栄光ある孤立(Splendid Isolation)は、19世紀後半におけるイギリスの非同盟政策を象徴する言葉。
ただし、この言葉が実際に用いられたのは、1896年1月16日に開催されたカナダ議会において、イギリスは外交的に孤立しても栄光ある存在であることは不変であり、カナダ自治領はイギリス本国を断固支持するという趣旨で用いられたものであった。当時、イギリス本国は、ボーア戦争で予想に反した苦戦を強いられており、そこへ追い討ちをかけるように発生したアメリカ大陸におけるカナダ以外の数少ないイギリス領であった英領ギアナとベネズエラの国境紛争が勃発という状況下で、カナダ自治領のイギリス本国への強い支援のメッセージの一環であった。同時にこれは国際的に政治力をつけてカナダ自治領に対する心理的圧迫要因となっていたアメリカ合衆国に対しても、イギリス本国がベネズエラと同様に強硬な姿勢を示すことを期待する意図も含まれていたとされている。

この言葉がイギリス本国に伝わると、ボーア戦争の不振とドイツ帝国による外交攻勢に悩まされていたイギリス本国では、大いに勇気付けられる言葉として受け取られ、5日後にはイギリスのジョセフ・チェンバレンがこの発言が引用して自国民を鼓舞する演説を行い、更に翌1月22日付の『タイムズ』が取り上げたことから、一種の流行語となり、それがいつしかこの時代のイギリス外交を象徴する言葉となったのである。

クリミア戦争終結後のイギリスは、強大な経済力と海軍を中心とした軍事力を背景にした等距離外交を展開することによりヨーロッパの勢力均衡を保った。しかし、アメリカ合衆国やドイツ帝国といった後発国の発展により、1870年代頃からイギリスの経済的優位にもかげりが見え始めた。更にドイツを中心とした三国同盟とフランスを中心とする露仏同盟が形成されると、ヨーロッパの主要国のほとんどがそのいずれかに傾斜するようになり、イギリスのヨーロッパ外交における孤立が深刻化してきた。そしてボーア戦争で予想に反した苦戦を強いられた事により、非同盟政策の前提であるヘゲモニー保持に不安の見え始めたイギリスは1902年、栄光ある孤立を放棄し、ロシアの南下(南下政策)に対する備えとして、義和団の鎮圧で評価を受け、極東においてロシアと対立の深まりつつあった日本と日英同盟を結ぶことにより孤立は終結することとなる。


日英同盟(にちえいどうめい, The Anglo-Japanese Alliance)は、明治時代後期に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟。第一次日英同盟は1902年(明治35年)1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時までの間、日本の外交政策の基盤となった。


ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)は、第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝(在位:1888年6月15日 - 1918年11月28日)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(Friedrich Wilhelm Victor Albert von Preußen)。フリードリヒ3世の長男。

帝国主義的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、ドイツを第一次世界大戦へと導いた。

生誕
少年期のヴィルヘルム2世の性格は自己中心的で移り気、左腕の発育不全を気に病んでいた。この不全は出生時に罹患した合併症によるもので、しばしば電気ショック療法などの苦痛を伴う治療を受けたが治癒しなかった。
ヴィルヘルム2世はカルヴァン派のゲオルク・ヒンツペーター博士によって朝6時から夕方6時まで一日12時間におよぶカリキュラムの厳格な教育を受け、1874年から1877年までカッセル=ヴィルヘルムスヘーエのギムナジウムに通ったのちボンで政治と経済を学んだ。その頃、従妹にあたるヘッセン大公女エリーザベトに恋心を抱き、プロポーズまでしているが、彼女がこれを受け入れることはなかった。1881年にはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女アウグステ・ヴィクトリアと結婚した。

世界政策
1888年6月15日、父フリードリヒ3世の死にともなってヴィルヘルム2世はプロイセン国王およびドイツ皇帝となった。即位したヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の存廃をめぐって宰相ビスマルクと対立し、ビスマルクは1890年に辞任する。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は廃止され、「世界政策」と呼ばれる帝国主義的膨張政策が展開されていくことになる。(→3B政策・パン=ゲルマン主義)

帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政にはヴィルヘルム2世の意志が大きく反映され、ドイツを「陽のあたる場所へ」という標語のもと、植民地獲得に力が注がれた。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、ロシア帝国やイギリス帝国との関係を悪化させることになる。

1896年、イギリスの支援を受けた勢力が南アフリカのトランスヴァール共和国に侵入した時、ヴィルヘルム2世はトランスヴァール首相クリューガーに激励の電報を送り、イギリスとの関係を悪化させた。また1898年、海軍次官ティルピッツはヴィルヘルム2世の指示に基いて艦隊増強の指針を定めた「艦隊法」を制定したため、イギリスとドイツの建艦競争は激化した。さらに、東アジアにおけるイギリス勢力を牽制(けんせい)するため、従兄弟に当たるロシア皇帝ニコライ2世に「余は大西洋提督とならん。貴殿は太平洋提督となられよ」と甘言を弄し、ロシアに満州方面への勢力拡大を勧め、日露戦争の原因を作った。

1905年、ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問、大艦隊を見せつけてフランス・スペインの勢力圏モロッコを脅かし、第一次モロッコ事件を引き起こした。この時は自ら諸外国に列国会議の開催を呼びかけ、翌1906年にアルヘシラス会議が開催されたが、フランスと三国協商を結んでいたイギリスとロシアはフランス・スペインを支持し、三国同盟を結んでいたイタリアは仏伊協商を結んだばかりでフランスとの関係を重視、唯一の支持国であったオーストリアも消極的な支持に留まり、結局アフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。さらに1911年にも、モロッコのアガディールに艦隊を派遣してモロッコの領土保全と門戸開放を訴え、フランスの権益を侵そうとして対立を深めた(第二次モロッコ事件)。

また1905年に日露戦争でロシアが敗れると、黄禍論を発表して白人優位の世界秩序構築と、そのために日本をはじめとする黄色人種国家の打倒を訴えた。これはドイツ帝国主義の正当化と、海軍力増強を対英戦ではなく対日戦のためと世界に認識させる意図であったが、効果は無かった。

1908年、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」のインタビューに答えてドイツの内政と外交について語り、その侵略政策的内容によって内外から激しく批判され、皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになった。

第一次世界大戦
列強との対立はついにドイツを第一次世界大戦に巻き込む。ヴィルヘルム2世はオーストリアとの同盟を重視すべきだと主張して世論を参戦に導いたが、軍事的に指導権を制限され、大戦末期にはヒンデンブルクとルーデンドルフによって政治的にも実権を失った。

1918年11月9日、宰相マックス・フォン・バーデンは一方的に皇帝の退位を発表、ヴィルヘルム2世は司令部のあったオランダに亡命した。11月28日、皇帝は退位宣言に署名し、ホーエンツォレルン家によるドイツ支配は終焉を迎えた。元皇帝はホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載してドイツを去ったが、似たような境遇に遭ったヨーロッパの王侯達の中でヴィルヘルムのように多額の財産を確保して国外退去したものは稀であった(ロシア帝国のニコライ2世は家族ともどもボリシェヴィキに捕えられ、後に処刑。オーストリア=ハンガリー帝国のカール1世は大西洋上のマデイラ島へ亡命)。オランダ政府は政治活動の停止を条件に受け入れを承諾して、元皇帝のドイツへの引き渡しを拒み、ヴィルヘルム2世はユトレヒト州ドールンで、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐る余生を過ごすことになる。彼は小さな城館で少数の旧臣を従えながら、政治的な影響力は無いものの、貴族として安楽な生活を送りながら歴史に埋没して行った。

ヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いており、戦後もドイツの保守派や右翼に対して一定の政治的影響力を保っていた。ナチス党にも好意を寄せており、ドイツ本国に留まっていた元皇太子ヴィルヘルムをナチ党に入党させ、また1931年にはヘルマン・ゲーリングがオランダを訪れてヴィルヘルム2世に面会している。しかしヒトラーが反君主主義者だと知ると、ナチス支援も消極的になっていった。一方で1940年5月、オランダがナチス・ドイツ軍に占領されそうになった際には、イギリスのチャーチルからヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがあったにもかかわらず、これを拒絶してオランダに残り、ドイツ軍の保護を受けている。さらに同年、かつてドイツ皇帝だった自分が成し遂げることができなかったパリ陥落をドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打った。またナチスを出迎えようとしたが、冷たく無視されたと言われる。

ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。

黄禍論者(黄禍論は中国を対象としたものである)であったが、日本には並々ならぬ関心を持っていた。陸軍大演習の際、日本軍人に「日露戦争の日本軍の戦法を採用した。」と説明したり、ベルリンを散歩の際、居合わせた日本人留学生に声をかけて激励したこともある。[1]

モロッコ事件(- じけん、Moroccan Crisis)とは、20世紀初頭のモロッコを巡って生じたドイツ、フランスを主な当事者とする国際紛争である。1905年及び1911年の2度にわたって発生し、前者を第一次モロッコ事件(タンジール事件)、後者を第二次モロッコ事件(アガディール事件)と称する。英語表記は通常 "Moroccan Crisis"(「モロッコ危機」)であるが、日本では「モロッコ事件」と呼ぶことが多い。

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