ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チェダゼミナールコミュの卒業論文 第四章

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
?格差社会を検討する

1 ジニ係数からみる日本の格差状況
「格差社会」と言う言葉が近頃頻繁に聞かれるようになった。我が国は果たして本当に格差社会となっているのだろうか。所得や資産の分配の不平等度を測る尺度の1つとしては「ジニ係数」が挙げられる。係数は0と1の間の値で、1に近づくほど不平等度が高くなる。0.5と言うのは、国民の総所得の4分の3を、所得の高い方の4分の1の人だけで占める状態であり、かなり不平等な所得分配の状態にあると言われている。因みに2002年の我が国のジニ係数は、0.4983である。この数値だけ見ると我が国は、メディアが言うように「格差社会」に突入したと言って良いだろう。
因みに、社会保障による所得再分配後のジニ係数は、日本0.322、米国0.368、英国0.345、フランス0.288、スウェーデン・ドイツ共に0.252という数値になっている。この数値には見事にお国柄が表れているように思われる。格差が一番進行しているのはやはり自由主義国アメリカである。その次に階級がきっちり分かれているイギリスが続き、その後に資本主義がもはや成熟段階にある日本が来る。一方、社会保障に力を入れていて、レフトウィングの力がまだ強い国々、フランス・ドイツ・スウェーデンなどは、所得の再分配機能がより反映された数値となっている。

2 中流階級は日本に存在していたのか
(1)「一億総中流は本当か」
高度成長期の我が国は、低い階層の人ほど多くの希望と可能性を持ち、高い階層の人ほど、それまであった権利を縮小された時代であり、その意味で、個別具体的な事例はともかく、総じていえば、格差が縮小する時代であったと言える。高度成長期には、構造変化+GNP成長=発展、という国民統合のシンボルがあったが、今ではそのような量的拡大に多くを望むことはできない。
「一億総中流」という言葉が存在していたように、日本社会は多くの人が「中流意識」「プチブル意識」を持ち、ブルジョアに搾取されながら意識はブルジョア的な階層となった。
ただしここで注意が必要なのは、中流というのはあくまで「意識」の問題であり、生活格差そのものがなくなっていることを意味しない。人々が自分を中流とランクづけるのは、格差が「量的」ものだと思われている事、そして、成長によって追いつく事が可能だと希望が持てていたことに依存している。
それがバブル崩壊やグローバリゼーションを背景として格差が拡大し、その「意識」すら持てなくなっているということである。であるから、私の見解ではそもそも中流という階級は存在していない、もしくは一億人もの中流というのはまやかしであると結論づける。実質中流であったのは精々2〜3割ではなかろうか。ただ、意識だけでも中流にし、日本人の勤労意欲を駆り立てたという点では、戦後の民主化政策は成功したと言っていいだろう。

(2)専業主婦と第一次産業 
昔は専業主婦の割合が多かったといっても、第一次産業が6割もいたので、実質専業主婦とはいえない。我々下級層に専業主婦という贅沢な身分はもともとありえないということである。昔の主婦は自営業兼主婦であり、今の主婦は会社員兼主婦と言う違いのみ。正確な統計はわからないが、私の見立てでは専業主婦のみに従事する女性は、全体の2割ほどだろうと思われる。その2割の家庭は中流と呼べる。

3 民主化の意味合い 
(1) 民主化と恋愛結婚
そもそも民主化とはなんであろうか。民主化の象徴の1つとして恋愛結婚を挙げたい。恋愛結婚は1955年体制において発達した結婚形式だと言える。事実1955年当時35%ほどだった恋愛結婚率が、75年には65%にまで急増した。そもそも民主化が進まないと自由恋愛はできない。個人の自由のない社会では恋愛結婚は難しい。階級や身分の壁が存在していては駄目である。そういう意味で、まさに恋愛結婚は中流化の時代にふさわしい結婚形式だったと言える。
(2) 結婚と階層の再生産
実際、結婚ほど同じ階層の人間同士を結びつけるものはない。個人だ、自由だとはいっても、そもそも異なる階層の人間と出会うチャンスがないし、出会っても、恋愛の、まして結婚の対象とは考えないのが普通である。一流商社マンはパチンコ屋で働くおねえちゃんとは結婚しないし、ミリオネーゼ系女性は自分のオフィスを掃除する男性とは結婚しないし、一流企業の社長とホステスが結婚する事もない。なぜなら、所得、職業、学歴、趣味など、全てにわたって階層が違うからだ。階層が違うと話も合わないからだ。どんなに相手がいい人でも、結婚となると、その問題が頭をもたげる。つまり結婚のシステムを介して、同じ階級を再生産する仕組みになっているのである。

(3) 結婚とコミュニケーション能力
男性と女性が類としてではなく、個人として向き合うようになると、必然的に恋愛は困難になる。まして結婚という長期経営事業のパートナーを捜すとなれば、相手の持っている資源を事細かに吟味する必要が生じるし、そのためには相手をよく知るためのより高度なコミュニケーション能力が必要になる。
コミュニケーション能力が高い男女ほど結婚しやすく、仕事もでき、消費も楽しむと言う一方で、コミュニケーション能力の低い男女ほど結婚しにくく、一人でいることを好み、仕事にも、消費にも意欲がないという分断が生じる。つまり、男性であれ、女性であれ、コミュニケーション能力と言う性格によって、上流と下流に分かれていく。そして、言うまでも無く、上流の男性は上流の女性と、下流の男性は下流の女性と結びつきやすい。

(4) 賞与 
賞与、いわゆるボーナスというものは、戦前の日本にはなかった概念である。つまり戦前、剰余利潤は社長が独り占めしていたのである。しかし、ボーナスがある今日はそのボーナスがまた投資マネーとなり景気の好循環が続く。これにより、労働者のやる気を引き出し、長期の高度経済成長を実現させた。ようするに、労使が妥協点を見つけ合意し、所得格差を否認したことによる。これにより有閑階級や資本家と、労働者とのセクトラル・クラッシュが起こりにくくなり、我が国は比較的円滑に経済発展を成し遂げる事ができたのである。

4 階層と選択肢
(1) 階層と勤労観
昔なら、階層の高い人より低い人のほうが昼夜を問わずに沢山働いていたはずだ。が、現在は階層の高い人ほどハードに働き、低い人ほどあまり働かない。というか、そもそも職がないという状況がある。だとしたら、今もハードに働いている人は、どうして働いているのだろうか。
最も有力な説は階層である。上流に生まれた人ほど勤勉な生活態度や、社会や国家のためにものを考え行動をすると言う習慣が身についているが、下流に生まれた人ほど怠惰に気楽に生きようとする、と言う説である。

(2)出身階層の低い生徒に見られる傾向
出身階層が低い生徒にのみ見られる傾向として、「将来のことを考えるよりも今の生活を楽しみたい」という「現在志向」的な価値観が強い生徒ほど自己有能感が強い。同時に「あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活に大した違いはない」という「成功物語否定的」な価値観の生徒ほど自己能力感が強い。つまり、出身階層の低い高校生ほど、学校、学習以外のところで、自己能力感を覚えているということである。自己能力感を自分らしさ志向や自己実現感覚と読み替えれば、下流ほど自分らしさ志向が強い事が説明できる。
 私は別に「自分らしさ」を主張する若者を否定はしない。その人自身が多様な選択肢から選択した生き方であれば問題ない。重要なのは「選択肢」があるかどうかである。
親は、そして行政、社会は、全ての子どもにできるだけ多様な人生の選択肢を用意してあげるのが義務である。

5 完全なる機会均等 
完全な機会均等とは、親の経済力、職業、地域社会の特性など、子どもが自分で選択できない外的な環境の差から来る全ての不平等をなくすということである。親が貧乏でも、低学歴でも、地位の低い職業についていても、教育観が間違っていても、無気力でも、そして住んでいる地域全体がそういう人の多い地域であっても、その子どもに能力があれば、どんなに高い教育でも受けさせる事ができ、どんなに地位の高い職業にも就く事ができるということである。能力があっても意欲がない子供もいるだろうと言う反論もありえるが、今日の教育社会学は意欲もまた階層が規定すると言っている。とすれば、完全な機会均等社会では、階層に規定された無気力は存在しない事になる。
しかし、こうした完全機会均等論は解決しがたい問題を内包している。すなわち、もし、完全なる機会均等社会が実現したら、結果の差は全て純粋に個人的な能力に帰せられる。しかしそれはそれで非常に苛酷な社会ではないかと思える。お前の成績が悪いのは、親が貧乏だからでも、低学歴だからでもなく、ひとえにお前の頭が悪いからであり、勉強や仕事に意欲を持てない性格だからなんだということになってしまう。言い訳がまったくできない。そしてそれは究極的には、頭の悪さや無気力の原因を遺伝子に求める事になり、悪しき優生思想にたどり着く危険がある。

6 格差を是認する自民党
(1) 強者の理論の依拠するところ
ジョーン・バイオレット・ロビンソンというケインズ派の女性経済学者が英国にいた。彼女は新古典派経済学を嫌悪したことで有名であり、新古典派の設ける仮説は非現実的だとした。もうひとつは、それが導く政策命題の非人間性ないし非倫理性。そしてさらに批判したことは、新古典派経済学が、ともすれば「強者の論理」にくみしがちなことである。もともと政策講義は「科学」には程遠い。税制・環境・福祉等であれ、だれそれが「望ましい」という政策は、だれそれの利害、もしくはだれそれの理念に即して決まるのであって、普遍的に「望ましい」政策などあるはずはないとしたのである。
私は今の日本政府の政策で「強者の理論」の典型であるものが「トリクルダウン理論」と「セーフティーネット論」にあると思う。

(2)トリクルダウン理論
トリクルダウン理論(trickle-down theory)とは、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論あるいは経済思想である。トリクルダウン(trickle down)とは徐々に流れ落ちるという意味で、政府のお金を公共事業や福祉などで国民(特に低所得層)に直接配分するのではなく、大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となることを示したものである。日本においても、所得税の最高税率を引き下げる時に、この考え方を根拠として用いている。サプライサイド経済学の代表的な主張の一つであり、この学説を忠実に実行したレーガン大統領の経済政策、いわゆるレーガノミクス(Reaganomics)について、その批判者と支持者がともに用いた言葉でもある。サプライサイド経済学は実行に移され、実際に経済は回復したが、何が回復原因となったについては議論が続いている。多くの専門家の意見として、連邦準備理事会議長(アメリカの中央銀行総裁)であったヴォルカー(Volcker, P.)はスタグフレーションを解決するために既に正当な政策を始めており、回復要因はこの金融政策にあったと見ている。また、レーガンの経済顧問を務めたストックマン(Stockman, D.)は後に、サプライサイド経済学やトリクルダウン理論はレトリックだったと述べている。
(3)セーフティーネット論
自由に活躍する人の裏には、パイプラインから漏れ、正社員にもなれず、家族を作りたくても作れない人がいる。いくら選択の自由が与えられていても、その選択肢が実現しないなら、選択肢が無いのと同じである。ジグムンド・バウマンが言うように、有史以来、平凡な才能の持ち主にとっては、自由な選択肢は「嫌悪すべきもの」であった。自民党の現在の政策が「強者の理論」と呼ばれる所以である。
セーフティーネットをいうのなら、経済的セーフティーネットだけではなく、心理的セーフティーネットをこそ構築すべきである。
さらに言うなれば、ニューエコノミーの「負け組み」とは単に生活ができなくて、住居が無くなったり、飢えに苦しむ人ではなく、「生活に希望が持てなくなっている人」の事である。相対的に豊かな社会では、人間はパンのみで生きているわけではない。希望でもって生きるのである。ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チェダゼミナール 更新情報

チェダゼミナールのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。