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〜〜新撰組〜〜コミュの新撰組隊士について

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組織
新選組は局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤、監察方(諜報)や勘定方(会計)などを配置した。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各組は一番から十番まであり、各組の人員は十人前後。また、組長の下に伍長を置いた。なお、新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり洋式軍制などの影響が指摘されている。

隊士達は日常的には武術の稽古や京都市内の見回りや潜伏している浪士の探索などを行った。剣術集団である新選組は、中心となる近藤ら試衛館の天然理心流に加えて神道無念流、北辰一刀流などさまざまな剣術流派に加え、槍術や柔術などを学んだ隊士もおり、実戦本意の集団戦法の集団であった。

結成当時には財政難であったと推測されるが、京都守護職配下時代は、隊の運営資金を会津藩からの御用金で賄っていた。また、一部は豪商などから提出させた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。諸々の事件への出動により報償金が下されることもあった。

以下に構成員。新選組の隊名を用いる以前(壬生浪士組)の時期を含む。


歴代局長
芹沢鴨
新見錦
近藤勇

会津新選組隊長
山口二郎

箱館新選組隊長
大野右仲
相馬主計

歴代副長
新見錦
山南敬助
土方歳三
安富才助

総長
山南敬助

参謀
伊東甲子太郎
武田観柳斎

組長・組頭
一番隊組長:沖田総司
二番隊組長:永倉新八
三番隊組長:斎藤一
四番隊組長:松原忠司
五番隊組長:武田観柳斎
六番隊組長:井上源三郎
七番隊組長:谷三十郎
八番隊組長:藤堂平助
九番隊組長:鈴木三樹三郎
十番隊組長:原田左之助
〜1864年編成時組頭

二番隊組頭:伊藤甲子太郎
五番隊組頭:尾形俊太郎

諸士取調役兼監察方/浪士調役
山崎烝
島田魁
川島勝司
林信太郎
浅野薫(藤太郎)
篠原泰之進
新井忠雄
服部武雄
芦屋昇
吉村貫一郎
尾形俊太郎
大石鍬次郎
安富才助
岸島芳太郎
安藤勇次郎
茨木司
村上清
谷周平
川村隼人
近藤隼雄

勘定方
河合耆三郎
尾関弥四郎

会計方
酒井兵庫
岸島芳太郎
中村玄道
安富才助
神崎一二三
青柳牧太夫
矢田賢之助
大谷勇雄

伍長
奥沢栄助
島田魁
川島勝司
林信太郎
葛山武八郎
前野五郎
阿部十郎
山武八郎
伊東鉄五郎
近藤芳助
粂部正親
加納鷲雄
中西昇
小原幸造
富山弥兵衛
中村小三郎
池田小太郎
橋本皆助
茨木司
尾関政一郎
志村武蔵

初期副長助勤
平間重助
野口健司
安藤早太郎
平山五郎
佐伯又三郎

国事探偵方
御倉伊勢武
荒木田左馬之助
楠小十郎
松永主計
松井竜三郎
越後三郎

文武師範
撃剣師範 沖田総司
撃剣師範 池田小三郎
撃剣師範 田中寅蔵
撃剣師範 新井忠雄
撃剣師範 吉村貫一郎
撃剣師範 斎藤一
柔術師範 篠原泰之進
柔術師範 柳田三二郎
柔術師範 松原忠司
槍術師範 谷三十郎
槍術師範 谷万太郎
馬術師範 安富才助
砲術師範 清原清
砲術師範 阿部十郎
文学師範 武田観柳斎
文学師範 斯波雄蔵
文学師範 尾形俊太郎
文学師範 毛内有之助

美男五人衆
山野八十八
佐々木愛次郎
馬越三郎
馬詰柳太郎
楠小十郎

平隊士/同志
下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。
蟻通七五三之進
佐々木蔵之助
馬詰柳太郎
馬詰信十郎
濱口鬼一
中村金吾
土方対馬
森六郎
山野八十八
蟻通勘吾
宿院良蔵
馬越大太郎
馬越三郎
松崎静馬
篠塚峯蔵
藤本彦之助
伊藤与八郎
柳田三二郎
上田金吾
和田隼人
中村久馬
菅野六郎
三品仲治
伊木八郎
木内峰太
松本喜次郎
竹内元太郎(石川武雄)
新田革左衛門
松山幾之助
塚本善之助
室宅之助
和田重郎
牧野源七郎
小川一作
佐野七五三之助
中西昇
柴田彦三郎
木下弥三郎
木下巌
沼尻小文吾
上坂甲太郎
宮川数馬
水口市松
金子次郎作
三浦啓之助
輪堂貞造
池田七三郎
富川十郎
中村五郎
中島登
加藤羆
施山多喜人
田村銀之助
三好胖
菊池央
桜井数馬
松本捨助
井上泰助
大谷良輔
漢一郎
市村辰之助
鷲崎連
高梁雄之進
加賀爪勝之進
広瀬時宏
伊藤源助
木村広太
柏尾一郎
日下部遠江
日下部四郎
岩崎一郎(南一郎)
上田馬之助

自称新選組隊士・関係者など
大石造酒蔵
結城無二三
奥田松五郎
山浦鉄四郎
永田克忠

壬生浪士組同士
殿内義雄
家里次郎
根岸友山
粕谷新五郎
遠藤丈庵
神代仁之助(上城順之助)
阿比類鋭三郎
鈴木長蔵
清水吾一

箱館新選組
箱館新選組隊長相馬主計
陸軍奉行並土方歳三
陸軍奉行並添役大野右仲
改役頭取森常吉
頭取改役島田魁
頭取改役角ヶ谷糺
改役下役会計頭取青地源太郎
会計方山崎八蔵
土方附属市村鉄之助
土方附属野村利三郎
一分隊

差図役青山次郎
嚮導役粕屋小次郎
嚮導役西脇源六郎
〜一分隊平隊士〜

五十嵐伊織
上田安達之助
酒井要二郎
鈴木量平
高岳倉太郎
高橋三五郎
竹内篤平
中沢務
野村遊喜
福田勝之進
松井徳三郎
三浦松五郎
水谷藤七
若田栄吉
二分隊

差図役尾関泉
嚮導役佐久間顕輔
嚮導役中島登
〜二分隊平隊士〜

青木連
明石覚四郎
内山栄八
江川七郎
小島造酒之丞
小林幸二郎
田岡太郎
高須熊雄
竹内徳雄
土田新之丞
鳥羽多喜松
長瀬清蔵
古屋丈之助
細川千太郎
本田岩吉
宮崎繁之丞
吉田万吉
三分隊

差図役山久知文二郎
嚮導役佐久間銀太郎
嚮導役阿部隼太
〜三分隊平隊士〜

秋山義三郎
岩崎勝二郎
大河内太郎
神戸四郎
木下勝蔵
木村忠二郎
佐々木一
佐藤房太郎
高橋恭輔
田村一郎
千葉栄
坪田忠蔵
鶴岡鎌四郎
寺井主税
寺嶋繁三
福与男也
前田岩太郎
真崎宅太郎
枡沢騰馬
四分隊

差図役石井勇次郎
嚮導役前場喜司馬
嚮導役横倉甚五郎
四分隊平隊士

金子庄兵衛
関川代二郎
中川小次郎(小十郎とも)
長沢政之丞
野辺民雄
藤井安八
前田四右太郎
松沢弾治
山際平三郎
所属隊不明

差図役谷口四郎兵衛
差図役山形時太郎
嚮導役粕屋十郎
平隊士蟻通勘吾
平隊士大橋山三郎
平隊士乙部剛之進
平隊士川村八十右衛門
平隊士栗原仙之助


コメント(2)

新選組「組織編成表」

◆文久三年(1863年)三月
■局長 芹沢鴨・近藤勇・新見錦
■副長 山南敬助・土方歳三
■助勤 沖田総司・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・井上
源三郎・平山五郎・野口健司・平間重助・斎藤一・
尾形俊太郎・谷三十郎・松原忠司・安藤早太郎
■調役並監察 島田魁・川島勝司・林信太郎
■勘定役並小荷駄役 岸島由太郎・尾関弥兵衛・河合耆三郎・酒井兵庫

※文久三年(1863年)三月十二日深夜、壬生浪士組が会津藩預かりとなった。将軍家茂の警護を目的とし、京へ上洛した幕府浪士組のうち、江戸帰還に反対し、京に残留を希望した者達による結成だった。
※残留メンバーは、江戸試衛館出身の近藤勇以下、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助ら8人と、水戸出身の芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司ら5人。これに現地参加の斎藤一、佐伯又三郎が加わった15人である。他に浪士組から残留を申し出たのが、殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、清水吾一、上代順之助、鈴木長蔵、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎の9人。総勢24名ということになった。
※この24人が壬生浪士組の創設メンバーではあるのだが、近藤一派と芹沢一派、それに斎藤・佐伯といった15人と、殿内ら9人とは折り合いがどうにもよくなかったようだ。9人のうち病気で急死した阿比留以外8人は、時待たずして全員脱走する。中でもリーダー格であった殿内と家里はふたりとも近藤達によって暗殺されてしまうのだ。まだ新選組を名乗っていなかった頃とはいえ、彼らは内部抗争による最初の犠牲者であることに違いない。
※この編成表は職制が定まらない3〜4月のもの。あくまでも暫定的な措置であり、正式編成後(次の編成表参照)、ここでは3人局長だったうち、新見が副長に降格されている。

◆文久三年(1863年)六月
■局長 芹沢鴨・近藤勇
■副長 新見錦・山南敬助・土方歳三
■副長助勤 沖田総司・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・井
上源三郎・平山五郎・野口健司・平間重助・斎藤一・佐伯又三郎・尾形俊太郎・松原忠司・安藤早太郎
■諸士調役兼監察 島田魁・川島勝司・林信太郎
■勘定方 河合耆三郎
■平隊士 *約30名

※会津藩から人員を増強して一隊を組織せよと指示を受けた壬生浪士組は、京坂で隊士募集を行なう。5月25日までに36人、6月には52人の総員を抱えるようになった。
※暫定措置で作成された前編成表では局長だった新見が副長に降格となり、副長は3人だったことが解る。その下に副長助勤と称する幹部職を置いた。近藤派、芹沢派の残る全員と、新入隊士・尾形俊太郎らを加えた13人が、平隊士30人を指揮した。
※耳慣れない<諸士調役兼監察>とは、不貞浪士の動向を探索する役目と、隊内を取り締まる役目を兼ね備えた職である。さらに隊の会計を司る勘定方も置かれ、これには商人出身の河合耆三郎が任命された。

◆元治元年(1864年)六月
■局長 近藤勇
■総長 山南敬助
■副長 土方歳三
■副長助勤 沖田総司・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・井
上源三郎・斎藤一・尾形俊太郎・松原忠司・安藤早太郎・武田観柳斎・谷三十郎
■諸士調役兼監察 島田魁・川島勝司・林信太郎・山崎烝・浅野薫
■勘定方 河合耆三郎・尾関弥兵衛・酒井兵庫
■平隊士 *約20名

*文久3年9月18日、近藤一派の手によって芹沢鴨が粛清されると、同月25日には<新選組>という隊名が会津藩から与えられた。
*局長は近藤勇ひとりになり、隊の運営は近藤派が一手に仕切ることになる。新体制では土方が単独で副長を務め、山南には近藤局長の相談役という、新設のポストが用意された。これは命令系統の一本化を図った土方の策とも言われている。何しろ副長助勤や監察といったすべての幹部に直接指示を下せるのは総長ではなく、副長だけなのだ。このあたりで武田観柳斎、谷三十郎が名を連ね、監察として山崎烝も加入した。
*この体制で元治元年(1864年)6月5日の<池田屋事件>を迎えることとなる。しかし、京に吹き荒れる志士達の暗殺やテロ行為に畏怖した者達が多く、直前になって脱走者が相次ぎ、当日の総員は42人までに減少してしまう。後に郷里へ宛てた近藤の書簡で、池田屋事件の際は隊内で病気の者が多く、出動出来た隊士が少なかったとあるが、実は脱走者が多くて人員が減少していたのである。流石にそれでは体面が悪いと判断したのだろう。
*この池田屋事件の戦闘で副長助勤の安藤早太郎が討死するという、新選組にとっては大変苦しい時期でもあった。

◆元治元年(1864年)十二月
■局長 近藤勇
■副長 土方歳三
■組頭 一番=沖田総司
二番=伊東甲子太郎
三番=井上源三郎
四番=斎藤一
五番=尾形俊太郎
六番=武田観柳斎
七番=松原忠司
八番=谷三十郎
■小荷駄雑具方 原田左之助・河合耆三郎・山崎烝・尾関弥四郎・酒井兵庫 他
■諸役 8名
■平隊士 *39名

*池田屋事件の功績により、会津藩から与えられる人件費は増えた。これにより隊士の人数も増員となる。10月に江戸で行なわれた隊士募集の結果、北辰一刀流の道場を開いていた伊東甲子太郎という大物と、その一派が加盟する。
*70人あまりの勢力となった新選組は12月、目前に迫った長州征伐に備えて戦時の際に行軍陣形を定めることにした。最初の表は役職で、その下の表が<行軍録>として作成された配置図である。誠の隊旗を先頭に二列の隊伍を組んでいる。注目したいのは、副長助勤が隊士を5人抱える小隊長となっている点。また、平時には勘定方、監察である部署が、小荷駄雑具方を務めた。それを副長助勤の原田左之助が一隊として統率している。
*なお、この行軍録には山南敬助、永倉新八、藤堂平助の名がない。病気や謹慎、出張といった理由から行軍予定には加わっていなかったからだ。ちなみに永倉は先の局長批判で謹慎を命じられている。

◆慶応元年(1865年)四月 [西本願寺]
■総長 近藤勇
■参謀 伊東甲子太郎
■副長 土方歳三
■組長 一番=沖田総司
二番=永倉新八
三番=斎藤一
四番=松原忠司
五番=武田観柳斎
六番=井上源三郎
七番=谷三十郎
八番=藤堂平助
九番=鈴木三樹三郎
十番=原田左之助
■諸士取扱役兼監察 山崎烝・篠原泰之進・新井忠雄・服部武雄・芦屋昇・吉村貫一郎・尾形俊太郎
■伍長 島田魁・川島勝司・林信太郎・奥沢栄助・前野五郎・阿部十郎・葛山武八郎・伊東鉄五郎・近藤芳祐・久米部正親・加納鷲雄・中西昇・小原幸造・富山弥兵衛・中村小三郎・池田小太郎・橋本皆助・茨木司
■文武師範
●銃剣=沖田総司・池田小太郎・永倉新八・田中寅蔵・新井忠雄・吉村貫一郎・斎藤一
●柔術=篠原泰之進・梁田佐太郎・松原忠司
●槍術=谷三十郎
●馬術=安富才助
●砲術=清原清・阿部十郎
●文学=武田観柳斎・斯波雄蔵・尾形俊太郎・毛内監物

*この編成表が発表される4ヶ月前の2月23日、総長の山南敬助は隊を脱走した罪により壬生村の前川邸にて切腹している。
*脱走の理由については子母澤寛 著『新選組始末記』によれば、屯所を西本願寺集会所に移転する件で意見が割れたのを理由としており、他にも日頃土方と性格も意見も合わず、そこにきて総長という“実権がない、ただのお飾り”職に不満を抱き、脱走したと長年定説のように言われてきた。
*大正の世まで存命した永倉新八はこの件から50年を経た頃、22日に置手紙を残し突如脱走したものの、大津で追っ手の沖田総司に追いつかれ、明け23日に屯所へ戻り、切腹したと語る。だが、いささか小説的描写が多く、しかもこれを認める資料も他になく、すべてを鵜呑みには出来ない。
*この編成表は、山南亡き後に作成されたものである。注目すべきは伊東甲子太郎に参謀という新設の職が用意されたこと。これは伊東に対しての期待の表れであり、その反面文字通りスタッフ職である。山南の総長と同じく、直接部下に命令する権限はない。
*この時の隊士総数は約140人であった。

◆慶応元年(1865年)六月
■局長 近藤勇
■参謀 伊東甲子太郎
■副長 土方歳三
■組頭 一番=沖田総司
二番=永倉新八
三番=斎藤一
四番=松原忠司
五番=武田観柳斎
六番=井上源三郎
七番=谷三十郎
八番=藤堂平助
九番=三木三郎
十番=原田左之助
■諸士調役兼監察 山崎烝・篠原泰之進・新井忠雄・服部武雄・芦屋昇・吉村貫一郎・尾形俊太郎
■勘定方 河合耆三郎・尾関弥兵衛・酒井兵庫・岸島芳太郎
■伍長 20名
■平隊士 *約100名

*新選組はさらに大規模な隊士募集を行なった。5月には江戸から約50人もの新入隊士を得た。募集は同時に京坂でも進められ、総員は134人となる。そのため、ここで新たな編成表を作成することとなった。
*特筆したいのは副長助勤が組長となり、一隊を率いる小隊制度がここに確立されていることだ。5人の平隊士をひとりの伍長が束ね、そのグループをふたつ合わせて一組とし、その上にひとりの組長を置いている。要するに一組は13人で構成されることになり、これが一番から十番までの十組設けられた。新選組にとって、戦力、組織、動員すべてが充実していた時期でもあっただろう。

◆慶応元年(1865年)九月
■局長 近藤勇
■副長 土方歳三
■軍奉行 伊東甲子太郎・武田観柳斎
■小荷駄奉行 原田左之助 伍長(1人)
■平隊士
●槍頭 斉藤一・井上源三郎 伍長(3人)平隊士
●大銃頭 谷三十郎・藤堂平助 伍長(1人)平隊士
●小銃頭 沖田総司・永倉新八 伍長(4人)平隊士

*長州征伐のために再び作成された行軍録。これが作られる前に三木三郎が諸士調役兼監察に、松原忠司が平隊士にと、それぞれ降格されており、そのため副長助勤は8人となっている。それがみな、戦時における小銃隊、大銃隊、槍隊、小荷駄方を率いる役目につき、兵法家の武田観柳斎だけは伊東甲子太郎とともに全隊を仕切る軍奉行となった。
*この行軍録に記された隊士数は193人にものぼる。ただし、同年7月頃の在隊者名簿<英名録>に記録された人数を59人も上回っているため、いくら何でも急増員したとは思えないことから、あくまでもこの行軍録は現実の編成ではなく、机上で練られただけのものと考えた方がよさそうだ。
*ちなみに<英名録>は、島田魁が遺した隊士名簿のひとつ。慶応元年7月頃の名簿で、143人の隊士が出身地とともに記載されている。
*また、平時においては従来通りの小隊制度が引き続き取られ、慶応二年9月12日の三条制札事件の時には原田左之助が七番組組長として出動、活躍した他、三番組と五番組が現場に駆けつけている。ただし、原田以外の副長助勤は参戦しておらず、三番、五番の両組は、監察の新井忠雄と大石鍬次郎が率いていたという。斎藤、武田は何をしてたんだろう…(汗)。
 
◆慶応三年(1867年)六月
■局長 近藤勇
■副長 土方歳三
■副長助勤 沖田総司・永倉新八・原田左之助・井上源三郎・山崎烝・尾形俊太郎
■諸士調役兼監察 吉村貫一郎・大石鍬次郎・安富才輔・岸島芳太郎・安藤勇次郎・茨木司・村上清・谷周平
■勘定方  
■伍長  
■平隊士
 
*慶応3年6月になると、新選組総員105人は会津藩の支配から離れ、幕府直参に取り立てられる。これがその編成表。
*この年の3月に伊東一派13人が御陵衛士として新選組から分離脱退しているため、斎藤一と藤堂平助のふたりが副長助勤から姿を消している。ちなみに斎藤が伊東派と行動を共にしたのは、近藤から命じられ間者として入ったため。伊東粛清後は隊に復帰している。また、武田観柳斎は薩摩藩と内通していた容疑がかかり、粛清された。
*手薄になった助勤には監察から山崎烝が昇格し、尾形俊太郎が復職した。
 
◆慶応三年(1867年)十二月 [不動堂村]
■局長 近藤勇 局長付 両長召抱人
■副長 土方歳三 両長召抱人
■副長助勤 沖田総司・永倉新八・井上源三郎・山口二郎・原田左之助・山崎烝
■諸士調役兼監察 大石鍬次郎・吉村貫一郎・安藤勇次郎・尾形俊太郎・村上清
■勘定方 岸島芳太郎・大谷勇雄・安富才輔・中村玄道・神崎
一二三・青柳牧大夫・矢田賢之助
■伍長 島田魁・林信太郎・尾関政一郎・前野五郎・小原幸
造・伊藤鉄五郎・近藤芳祐・久米部正親・仲村小三郎・志村武蔵
■平隊士 竹内文三郎・野村利三郎・相馬主殿・田村大三郎・
富永政之助・森平八・船津鎌太郎・沼尻小文吾・林小五郎・岡島品三郎・加賀爪勝太郎・三品一郎・三品二郎・西岡万助・石井清之進・蟻通勘吾・田村一郎・山野八十八・玉置伊之助・梅戸勝之進・鈴木直人・今井祐次郎・水口市松・佐久間健助・荒木信太郎・小林幸之助・木下巌・宮川数馬・松本喜二郎・
中条常八郎・小幡三郎・真田賢之助・和田十郎・古川小二郎・上坂甲太郎・小林峯三郎

*鳥羽伏見の戦いを控えた新選組では、総員157人を再編成した。山口二郎と名を変えた斎藤一が副長助勤に復帰した関係で、尾形俊太郎が再び観察に逆戻りすることとなった。ただし、永倉新八が遺した隊士名簿<同志連名記>では、尾形は副長助勤のままの記述となっている。老齢になってから回想して綴った、彼の記憶がどこまで正しいのか。いささか判断に窮する。
*この編成で目新しいのは、局長付と両長召抱人の設置だ。局長付とは新入隊士を一定期間、仮隊士として局長の支配下に置く制度である。両長召抱人というのは文字通り局長と副長の世話係的小姓を務めるものだった。こうしたことから新選組の組織も底辺の広がりをみせている。
 
◆慶応四年(1868年)一月 [江戸]
■隊長 近藤勇
■副長 土方歳三
■副長助勤 沖田総司・永倉新八・原田左之助・尾形俊太郎・山口二郎
■浪士調役 大石鍬次郎・川村隼人
■会計方 岸島芳太郎・矢田賢之助・中村玄道・大谷勇雄・安富才輔・神崎一二三
■伍長 島田魁・林信太郎・小原幸造・近藤芳祐・志村武蔵・久米部正親・尾関政一郎・前野五郎・中村小三郎
■平同士 西岡万助・野村利三郎・相馬主殿・蟻通勘吾・田村一郎・富永政之助・山野八十八・玉置伊之助・土坂甲太郎・岩崎一郎・松原幾太郎・松本喜二郎・中条常八郎・梅戸勝之進・沼尻小文吾・加賀爪勝太郎・佐久間健助・荒木信太郎・小幡三郎・三品二郎

*正月に勃発した鳥羽伏見の戦いで、新選組は21人もの隊士が戦死を遂げてしまった。中でも慙愧に耐えないのは副長助勤の井上源三郎と山崎烝の戦死であろう。井上は試衛館時代からの同門であり、近藤・沖田の兄弟子だった身内同然の人である。また、山崎烝は創成期からの古参隊士であり、探索では多くの結果を挙げた人物とされている。
*この編成表は江戸に退却後作成された、実質的には新選組組最後の織図である。以後、2度作成されてはいるが、それは慶応4年5月と明治2年5月のことである。
*慶応4年5月の編成は隊長が斎藤一こと、山口二郎となっている。ここで紹介した江戸での編成表からの間に起きた出来事を紹介しておこう。
*江戸退却後の慶応4年2月30日、新選組は<甲陽鎮撫隊>として甲府城の接収に向かうこととなる。局長の近藤勇は<大久保大和>と、副長・土方は<内藤隼人>という名を拝命し、甲州勝沼の戦いに挑む。しかしこれに敗戦。近藤は隊士の取りまとめを永倉新八と原田左之助に命じ、3月8日に八王子まで落ち延びた。ここで近藤は援軍を求めて奔走していた歳三と再会、9日には夜陰紛れて日野を通過し、10日の深夜までに井戸へ帰った。
*再び江戸で集結した新選組残存隊士達。ところがここで、不協和音が起きてしまう。近藤、土方と意見が合わないまま永倉・原田が離隊。病に倒れていた沖田も静養に入り、その後、局長の近藤が下総流山で新政府軍に投降し断罪に処せられた。土方は近藤を救うべく勝海舟に面会を求め、八方手を尽くすが叶わなかった。わずかな隊士を引き連れた土方は大鳥圭介の旧幕府軍に参加、残る大使は会津へと落ち延びた。
*会津戦では足に怪我を負った土方が戦列を離れ、新選組の指揮は斎藤一こと山口二郎に託される。この時点で新たに編成された新選組は、土方が丹精込めて作り上げたものとは異なってしまう。そして最終戦地、蝦夷(北海道)では司令官となっていた土方は、様々な隊を指揮する立場となり、京都時代の隊士よりも戊辰戦争後に入隊した者が多い混成集団である新選組に対し、どのような感慨を持っていただろう。
*最後の編成表は明治2年(1869年)5月に作成されている。この5月11日に土方は戦死した。それから7日後、五稜郭は陥落した。事実上、機能していた頃の新選組編成表までとして、会津でのものと、五稜郭でのものは割愛させていただいた。
新選組「年齢早見表」
2004.09.05.更新
◆年齢差の±は、近藤勇の年齢より幾つ上か、下かとなっています

出生年月日 氏名   備考
文化5年(1808) 鵜殿鳩翁 +26 幕臣。浪士組取扱いを任命される。本名は鵜殿長鋭
文化6年(1809)1月27日 根岸友山 +25 *壬生浪士組結成メンバー
文化8年(1811) 佐久間象山 +23 学者。開国を説き、尊攘派の憎しみを買い、斬殺さる
文化10年(1813) 真木和泉 +21 長州藩士。禁門の変で山崎天王山に敗死
文化12年(1815) 井伊直弼 +19 彦根藩家老
文化13年(1816) 来島又兵衛 +18 長州藩士。蛤御門で薩摩軍と激戦、狙撃され斃れた
文化13年 永井尚志 +18 幕臣、若年寄
文化14年(1817) 大久保一翁 +17 幕臣
文政2年(1819) 毛利敬親 +15 長州藩藩主
文政3年(1820)8月16日 粕谷新五郎 +14 *壬生浪士組結成メンバー
文政3年 中村玄道 +14 新選組隊士。伍長、勘定方、小荷駄方
文政3年 宮部鼎蔵 +14 熊本藩軍学師範。池田屋事件で自決
文政6年(1823) 神崎一二三 +11 新選組隊士。勘定方
文政6年 勝  海舟 +11 幕臣。戊辰戦争での江戸無血開城は有名
文政6年 周布政之助 +11 長州藩政務役。高杉晋作のよき理解者
文政7年(1824) 平間重助 +10 新選組幹部。副長助勤。芹沢一派
文政7年 大村益次郎 +10 長州藩医。長州藩の軍事指導者。本名村田蔵六
文政8年(1825) 岩倉友山 +9 右大臣、後の岩倉具視
文政10年(1827) 芹沢  鴨 +7 新選組筆頭局長。本名は下村継次
文政10年(1827)1月15日 島田  魁 +7 新選組隊士。諸士取調役兼観察、二番組伍長
文政10年(1827)9月25日 佐藤彦五郎 +7 天然理心流・近藤周助門人。土方歳三の義兄
文政10年 山内容堂 +7 土佐藩藩主
文政10年 小栗忠順 +7 幕臣。小栗上野介
文政11年(1828)10月20日 篠原泰之進 +6 新選組隊士。諸士取調役兼観察、柔術師範
文政11年 河井継之助 +6 長岡藩士
文政12年(1829)3月1日 井上源三郎 +5 新選組幹部。副長助勤、六番組組長
文政12年(1829)12月7日 西郷隆盛 +5 薩摩藩士
文政12年 平山五郎 +5 新選組幹部。副長助勤。芹沢一派
文政12年 武市半平太 +5 土佐藩郷士。投獄の上、切腹。後の武市瑞山
文政13年(1830)2月1日 小島鹿之助 +4 天然理心流・近藤周助門人。近藤勇の支援者で義兄弟
天保元年(1830) 清河八郎 +4 浪士組結成立役者、庄内藩脱藩
天保元年 殿内義雄 +4 *壬生浪士組結成メンバー
天保元年 広沢富次郎 +4 会津藩士。公用局公用方
天保元年 吉田松陰 +4 長州藩脱藩。松下村塾を開き、俊才を育てる
天保元年 大久保利通 +4 薩摩藩士
天保2年(1831) 尾関弥四郎 +3 新選組隊士。勘定方、尾関雅次郎の兄
天保2年 孝明天皇 +3 第121代天皇。慶応2年12月没
天保3年(1832)6月 松本良順 +2 将軍家従医。近藤勇の義兄弟のひとり、後の松本 順
天保3年 服部武雄 +2 新選組隊士。諸士取調役兼観察
天保3年 大鳥圭介 +2 幕臣。戊辰戦争敗戦後、新政府に出仕する
天保4年(1833)6月26日 桂  小五郎 +1 長州藩士。後の木戸孝允
天保4年 山南敬助 +1 新選組幹部。副長、総長
天保4年 志村武蔵 +1 新選組隊士。伍長
天保4年 大谷勇雄 +1 新選組隊士。伍長、勘定方、小荷駄方
天保5年(1834)10月9日 近藤  勇 ±0 新選組局長。天然理心流4代目宗家
天保5年 横倉甚五郎 ±0 新選組隊士。伍長
天保5年 橋本左内 ±0 福井藩士。安政の大獄で斬首される
天保6年(1835)2月7日 新井忠雄 −1 新選組隊士。諸士取調役兼観察、剣術師範
天保6年(1835)2月28日 毛内有之助 −1 新選組隊士。諸士取調役兼観察、文学師範
天保6年(1835)5月5日 土方歳三 −1 新選組副長。近藤勇の盟友
天保6年(1835)11月15日 坂本龍馬 −1 土佐藩脱藩。京都近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺さる
天保6年 松平容保 −1 会津藩主。京都守護職
天保6年 谷  万太郎 −1 新選組隊士。槍術師範
天保6年 井上聞多 −1 長州藩士、後の井上 馨
天保6年 伊東甲子太郎 −1 新選組幹部。参謀、文学師範
天保6年 沼尻小文吾 −1 新選組隊士。伍長
天保6年 立川主税 −1 新選組隊士。局長附
天保6年 橋本皆助 −1 新選組隊士。伍長
天保7年(1836) 新見  錦 −2 新選組幹部。局長、副長。芹沢一派
天保7年 佐野七五三之助 −2 新選組隊士。平隊士
天保7年 山岡鉄太郎 −2 幕臣。後の山岡鉄舟
天保7年 榎本武揚 −2 幕臣。旗本榎本園兵衛の次男
天保8年(1837)7月12日 三木三郎 −3 新選組幹部。九番組組長、伊東甲子太郎の実弟
天保8年(1837)8月22日 阿部十郎 −3 新選組隊士。伍長、砲術師範
天保8年 徳川慶喜 −3 徳川15代将軍
天保8年 有馬藤太 −3 薩摩藩士、下総流山で近藤 勇を捕縛
天保9年(1838)1月6日 青柳牧太夫 −4 新選組隊士。伍長、勘定方、小荷駄方
天保9年(1838)2月2日 中島  登 −4 近藤勇の旧友、新選組隊士。局長附
天保9年 河合耆三郎 −4 新選組隊士。勘定方
天保9年 大石鍬次郎 −4 新選組隊士。諸士取調役兼観察
天保9年 望月亀弥太 −4 土佐藩士。池田屋事件で自害
天保9年 後藤象二郎 −4 土佐藩上士
天保9年 中岡慎太郎 −4 土佐藩脱藩。京都近江屋で坂本龍馬と共に暗殺さる
天保9年 岡田以蔵 −4 土佐藩足軽。人斬り以蔵
天保10年(1839)8月20日 高杉晋作 −5 長州藩士。吉田松陰門下生。維新前に労咳で病死
天保10年(1839)11月9日 加納鷲雄 −5 新選組隊士。伍長
天保10年 永倉新八 −5 新選組幹部。副長助勤、二番組組長、剣術師範
天保10年 安富才助 −5 新選組隊士。諸士取調役兼観察、馬術師範、勘定方
天保10年 蟻通勘吾 −5 新選組隊士。平隊士
天保11年(1840) 原田左之助 −6 新選組幹部。副長助勤、十番組組長
天保11年 吉村貫一郎 −6 新選組隊士。諸士取調役兼観察、剣術師範、目付
天保11年 伊藤鉄五郎 −6 新選組隊士。伍長
天保11年 渋沢栄一 −6 幕臣
天保11年 久坂玄瑞 −6 長州藩脱藩。禁門の変で負傷し、鷹司邸内で自害
天保12年(1841)4月17日 久米部正親 −7 新選組隊士。伍長
天保12年(1841)11月15日 香川敬三 −7 水戸藩脱藩
天保12年 吉田稔麿 −7 長州藩士。池田屋事件で負傷し、藩邸前で自害
天保12年 伊藤俊輔 −7 長州藩、後の伊藤博文
天保13年(1842) 沖田総司 −8 新選組幹部。副長助勤、一番組組長、剣術師範
天保13年 阿比留鋭三郎 −8 *壬生浪士組結成メンバー
天保13年 中西  登 −8 新選組隊士。伍長
天保13年 池田小三郎 −8 新選組隊士。伍長、剣術師範
天保14年(1843)5月 近藤芳助 −9 新選組隊士。伍長
天保14年 野口健司 −9 新選組幹部。副長助勤。芹沢一派
天保14年 富山弥兵衛 −9 新選組隊士。伍長
天保14年 相馬主計 −9 新選組隊士。局長附、箱館新選組隊長
天保14年 宮川信吉 −9 近藤勇の甥、新選組隊士。
天保14年 伊庭八郎 −9 幕臣。講武所指南役心形刀流伊庭軍兵衛の長子
天保15年(1844)1月2日 斎藤  一 −10 新選組幹部。副長助勤、三番組組長、剣術師範
天保15年 真田四目之進 −10 新選組隊士。伍長
天保15年 今井祐次郎 −10 新選組隊士。諸士取調役兼観察
弘化元年(1844) 藤堂平助 −10 新選組幹部。副長助勤、八番組組長
弘化元年 野村利三郎 −10 新選組隊士。局長附
弘化2年(1845) 松本捨助 −11 新選組隊士。局長附
弘化2年 前野五郎 −11 新選組隊士。伍長
弘化3年(1846) 木下  巌 −13 新選組隊士。伍長
弘化3年 徳川家茂 −13 徳川14代将軍。慶応2年大阪城中で病死
嘉永元年(1848)5月20日 近藤周平 −15 近藤勇の養子、新選組隊士。諸士取調役兼観察
安政4年(1857)12月5日 井上泰助 −24 井上源三郎の甥、新選組隊士。両長召抱人

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