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峯村 敏明コミュの平行芸術展 第3回展 『唯表面主義の綻び』

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唯表面主義の綻び


私たちのすむ現実の世界では、表のあるところ、必ず裏がある。物体はすべて表面に蔽われているとはいえ、その表面も、太陽光線や重力、あるいは私たちの視線や用途に従って、裏面に回る部分を必ずもっている。
 むろん、窓や扉のごとき両義的な仕切りもあって、そこでは、内から見れば内側が表面、外から見れば外側もまた表面ということになる。この両義性を観念として増幅してゆけば、世界のすべてを表面の譜として読むことも可能だろう。が、それはあくまで観念のうえでのこと。目で見る現実の世界では、こちらを表面と見立てればあちらはかりそめにも裏側とならざるをえない。幻想か純理の世界に遊ぶのではないかぎり、人は同時に二つ以上の視座に立つことはできないからだ。
 ところで、視覚芸術とは、元来、まさしく人に二つ以上の視点を持たせてくれる幻想と観念の世界であった。「見る」ことの欲望と技術と能力が、現実の垣根をヒョイと飛び越えて、裏面をも表面に送り返し(絵画)、無限に表面する物体の内側に裏面の芽を封じ込める(彫刻)という”唯表面”の世界を仮構してきたのである。
 絵画とは、みずからの裏面に無関心を決め込んでいていい、可視表面だけの世界であった。
 彫刻とは、物体の裏側をも表面として励起させ切ったときに成立する”もう一つの実在”への信の世界であった。
 この唯表面主義の伝統は、絵画・彫刻の形式区分を脱したはずの1960年代の立体造形にまで脈々と息づき続けている(ジャッド、マックラッケン、アーチウェイジャーらの作品を想起せよ)。唯表面性の原理の方が、イリュージョニズムのそれより、少なくとも西欧美術の系譜においては、いっそう根源的であったということであろうか。
 だが、60年代の末あたりから、もう一つの原理が視覚芸術の世界に現われ始めたように思われる。フランスでは絵画が一時的実験的にカンヴァスの裏を問うた(シュポール/シュルファス)だけだったが、日本やアメリカでは、現実の事物、すなわち表も裏もある物体が作品のなかでその二面性を主張するという事態が発生した。菅木志雄に代表されるモノ派がそれであり、リチャード・セラに代表されるアンチ・イリュージョンの世代がそれである。
 遡れば、唯表面主義の最初の綻びはキュビスムのコラージュであった。だが、それを引継いだはずの構成主義は、タトリンを別にして、おおむねこの綻びを繕う方向で展開してきたように思われる。レリーフ、レリーフや彫刻への彩色、箱のオブジェ、線による構成等は、開きはじめた(裏返りはじめたとは言えないまでも)画面と物体を、再び表面の織物として何とか収拾しようとする努力のあらわれではなかったのか。
 それにひきかえ、60年代末以後に活発になった事物の自然性を尊重する芸術作法には、もはや唯表面主義の規制力は薄い。構成主義の影響がみられる作品の場合でも、金属や木材や布や紙が空間を走るとき、空間は表面によって鎧われた連続的な構成となるよりも、表面の翻りを許す多義的かつ断続的な場となっている。
 さらに、表面は裏返ることまでも覚えた。布や紙や板は、物体の表面を形成する役割から解放されて、空間の中で裏を返して立ち始めた。裏返って、それは、空間を、表と裏、ここと向こう、可視と不可視、事実と可能性等に文節する。文節されたこの不均質かつ不連続な空間は、もはや一つながりの表面というオブラートにくるんで嚥み下すわけにはいかない。作品は、甘さと苦さと、表と裏と、滑らかさとざらつきの、相携えて現象する世界となった。三千年来、物体の自立を渇望し、表面の仮構に終始してきた視覚芸術が、空間文節という新しい文法を手に入れたのである。
 構成と文節──これら二十世紀前半と後半に生まれた新しい文法は、現実には彫刻によって吸収・同化されることが多かったとはいえ、元来、彫刻とは別種の芸術への芽をはらんであった。翻るにせよ裏返るにせよ、表面は鉄壁であることを止めたのである。インスタレーションという新種の芸術を根拠づけてくれるのは、このような表面の綻びという事態なのであって、たんなる物体の布置や散乱なのではあるまい。

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