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「麒麟がくる」感想コミュコミュの6/14 特集番組『戦国大河ドラマ名場面スペシャル「独眼竜政宗」』

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●人気のあった戦国大河ドラマの名場面集。 今回は「独眼竜政宗」
●出演者が語る秘話
●戦国大河好きなゲストの熱いトーク
をお届けする特番となります。

コメント(22)

気が付けば息をするのも瞬きをするのも忘れたように見入ってしまっている
『麒麟がくる』で描かれた桶狭間の合戦を引いて「その8年後に伊達政宗は産まれた」と言うイントロが良かったです

やはり伊達政宗は産まれるのが少しだけ遅かった

伊達が最後には中央の豊臣や徳川に屈したのが改めて分かる入り方でしたね



梵天丸もかくありたい!

言ってみたかっただけ
麒麟が来るも、かくありたい。


(ホンネ)
やっぱり世界のケン・ワタナベは迫力が凄いや!

あの薩摩の殿様役も良かったんですが、何せドラマの内容がトンデモだったのが残念でした

また是非とも大河ドラマには出ていただきたいものです

(斉藤道三役だったらどんなだっただろう?)


それから『麒麟がくる』でも役者さんと役柄のイメージが一致しない云々が言われますが、それで言うと勝新太郎の秀吉

秀吉のイメージとは全然違うのですが、そんなイメージなど力ずくで木っ端みじんに打ち砕いてしまうような流石に圧巻の演技でしたなあ
本当に良いのか?

中断の間とは言え『独眼竜政宗』や次回『国盗り物語』なんて放映して良いのか?


話は大きく脱線しますが、男子100mで初めて10秒の壁を破ったのは1968年10月14日アメリカ合衆国のジム・ハインズによって記録された9.95秒でした

ご存知のように2009年8月16日ジャマイカのウサイン・ボルトによって9.58秒までこの記録は伸びた訳ですが

果たしてハインズとボルトで競走させてみればどちらが速いのか?

記録だけを見ればボルトの方が速いのは言うまでもない事ですが、1968年と2009年とではあらゆる面で条件が違うと言えます

先ずはトラックがスピードの出やすいものに進化してきています

スパイク・シューズもしかり

大会当日にピークを持ってくるようなコンディショニング、ふだんのトレーニングも違います

ハインズにこれらの条件を与えればどちらが速いかなんて簡単に比べられるものでは無くなってきます


同じように往年の大投手金田正一と大谷翔平はどちらが凄いか?

王や長嶋とイチローはどちらが凄いか?

メッシやクリスティアーノ・ロナウドとペレやヨハン・クライフとどちらが凄いか?

私が好きな洋楽で言うと1970年前後のものと今のものでは圧倒的に違いが感じられます


比べる事が無理で無駄と言うべきものかもしれませんが、昔の方がと思ってしまうのです


何なのでしょうね?

今の方がデジタルだのCGだのドローンだの画面の中の情報量は遥かに多い筈です

ですが画面から受ける「圧」が全然違うと感じてしまうのです


年寄りの繰り言か . . . (-_- )
" 伊達 " にまつわるよもやま話

大阪市の西区に " 立売堀 " と書いて " いたちぼり " と読むおそらく大阪以外の人には読めないだろう難読地名の所が有ります

余談ですが京都にも " 立売 " と言う地名が有るのですが、こちらは " たちうり " と読みます

おそらく大阪以外の人には読めないと書きましたが、1973年にここ立売堀の機械工具商を舞台とした花登筺氏原作で西郷輝彦さん(そう言えば『独眼竜政宗』にも片倉小十郎役で出ておられますね)主演のドラマ「どてらい男(やつ)」と言うものが有りましたので、年配者の中にはこの難読地名を読める方も居られるかもしれませんね


それはさて置き伊達のお話ですが

この地名の由来は実は伊達から来ています

大阪はご存知の通り江戸時代には「天下の台所」と呼ばれた日本全国から物資が集まる街でした

大阪の町割りは太閤さん(豊臣秀吉)が大坂城を築く時に基本的に行われたもので、大阪は西に大阪湾が開けその東側に町が広がっています

当時の物流の主なものは船によって行われていましたので、大きな船から小舟に物資を積み替えて東西方向に開削された掘りによって運ばれていました


時は大坂の陣のおり伊達政宗はこの地に陣を敷いたのです

その時に掘った掘でしたので当初は " 伊達掘 " と呼ばれていましたが、江戸時代の大阪の民は豊臣に敵対した伊達は好きでは無かったのです

そこで伊達を " いたつ " と読みさらに転じて鼬(いたち)になぞらえて " いたち " へと呼び方を変えていったそうです

立売の文字が当てられたのは当時はこの辺りは材木の売買が盛んに行われて、扱うのは材木ですので店の中では行いません

外で立ち話で商談をまとめたからとされています
政宗は生まれるのが遅かった。
信玄は生まれるのが早かった。

雷電と大鵬はどちらが強いか。
ゼップ・マイヤーはメッシのPKを止められたか。

皆さんの投稿を興味深く拝読しました。

たしか「独眼竜政宗」にはこんな例えがありました。
(私、まだ日曜日の録画を観てませんあせあせ(飛び散る汗))

政宗の年齢を秀吉、家康と比較し、それにプロ野球を引用したのです。

秀吉=長嶋。家康=王。政宗=清原。
これと同じ年齢差だったようです。

つまりは一括りに戦国大名といいますが政宗にとって秀吉や家康は親と同じ年齢なのでとても天下取りを競う相手ではないわけですね。

ドラマでは天下取りはもう決してしまってるわけですから母との確執、母の実家の対最上(今は亡き原田芳雄)などか前半の主題だったと記憶しますが、あのドラマは「伊達家」をきちんと描いていました。
だから入り込んで行けた、そんな気がします。

勝新の秀吉。
秀吉と言えば竹中直人や小日向文世のイメージがなんだか秀吉っぽいとすっかりハマってしまいましたが、あんなヤクザの親分みたいな勝新秀吉はなかなか世間を驚かせたのでは?

長くなりました。

やはり竹下景子は美しい。
>>[9]

結論!

やはり1970年前後の音楽の方が宜しい
>>[9]
 年齢的には、真田幸村(信繁)がちょうど伊達政宗と同い年、または若干若いのですね。幸村も生まれるのが遅かった武将と言えそうですね。

 伊達政宗は伊達62万石を子孫に残し、真田幸村は「日本一の兵」の名を後世にまで轟かした。

 どちらもひとかどの人物ですね。

 ところで、ずんだ餅は好きです。
>>[10] 76くらいになると変なものが出てくるんですよ。って言うかやっぱそこ、ですか?(笑)
>>[11]さん おっしゃる通り、少し遅かったですね。それと生年もさることながら境遇も大切かなと。

秀吉だって信長の家臣だったからで、毛利や今川、北条の家臣だったら天下は取れなかったでしょう。

やはり努力と運、このふたつが揃ってないと駄目ですかね〜?
桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)信長26歳の時のものですが、この時秀吉は23歳、家康は17歳、政宗はまだ産まれさえもいません

桶狭間の戦いによってその先の戦国レースの様相が大きく決定付けられたと言っても過言では無いですが、やはり三英傑との年齢差は如何ともし難くスタートが遅れたハンディキャップは否めないと思います

更に地の利と言う点でも中央からかけ離れた東北にあっては不利と言わざるを得ず、同じ事は島津などもそうでしょうし、また背後に強敵の上杉を抱えた武田や逆も然りで上杉などもお互いとの争いで力を削がれたと言えるでしょうし、何処で勢力として発生するかも大きな要素かと思われます
伊達政宗関係ない話を書きます。
ずいぶん昔に信長について某所に書いたものです。

=============================
織田信長の領土、尾張名古屋は、木曽川、長良川、揖斐川と日本有数の河川が
領土の真ん中を流れています。

この条件がすべての始まりなんです。

この三大河川が毎年台風で氾濫したんですね。毎年のように洪水です。
平地が多い割には台風被害のない米作に適する土地が少ないって事なんですね。

ですから、産業が米作よりも桑(多年生植物、根が深く台風に耐える)を植え、
蚕を飼って絹織物の生産に力を入れることになりました。
主要産業が繊維産業になるしかなかったんです。

だから信長の領土での税は、絹織物の物納が多かったのです。
信長の政策が若い時から京に向いてたのは、過剰な繊維製品のはけ口を求めたためなんですね。

楽市楽座も同じ発想です。
領土内の繊維製品をいかに安く消費地の京に移送するかを考えた方策だったんです。

米作に向かない領土内の主要産業が繊維に傾いていたという事は、
女子労働への依存が多いという事でもあります。
男でなければという力仕事がそんなにないんですね。

という事は男は比較的自由という事でもあるんです。
ここに信長が、男を兵士として通年雇う事ができたという理由になるんです。
この頃、他の大名の所の兵士は普段は農民でした。
農作業をしなければならない男手を戦争のたびに借り出しています。
これは農民にとって痛手です。
農民にとって痛手という事は領主にとっても痛手です。
領主の国力が落ちるという事でもあります。

信長の所の兵は違います。専門の兵士を手元に置いておけたのです。
男手を取られても養蚕産業は痛手ではなかったんですね。
だからといって、尾張兵が強かったかというとそうではないんです。

尾張の土地は毎年氾濫する土地。
氾濫のたびに測量しなければ誰の土地かわからなくなるような土地なんです。

なにがなんでもこの土地を守るというような米作農家のような土地に対する執着心が
弱いんです。

だから尾張兵はの特徴は、機動力という長所と弱兵だという短所があります。(笑)
ここに信長が鉄砲という飛び道具の導入を急いだ理由があります。
そして尾張には「飛び道具は卑怯」と叫ぶ鎌倉武士の伝統もなかったんです。

信長が日本統一直前まで行けたのは「領土内に氾濫する河川が三つもあったから」が
そもそもなんですね。
>>[17]
 地の利は確かに大きいですね。
 3英傑はいずれも尾張・三河という隣接地の出身ですね。
 その縁で、3人は主従関係だったり、同盟関係だったりしつつ、影響し合いながら、3者それぞれに良いポジションを保持していったように思います。
 これが、東北や九州だったらこんな風には行かなかったかもしれませんね。仰るとおりと思います。

 以前、戦国合戦系のゲームにはまっていました。昔のゲームでは、島津や松前を選ぶと有利でした。背後を心配する必要がないので、ひたすらに前に攻めて行けました。(^_^) このあたりのゲームバランスは後には修正されたことでしょう。
 武田も有利でした。北条・今川と三国同盟を結んでいるので、東と南を気にすることなく、南信濃を取り、そのままの勢いで三河・尾張を取れば、かなり有利になります。うっかり北信濃に手を出すと越後の上杉と境を接することになり、とてもとても厄介なことになります。このあたりは史実と重なります。
 伊達や真田は、領地がある程度大きくなった頃には、もうすでに中央の勢力が大きくなりすぎていて、太刀打ちできません。よくできていました。

 ゲームは、史実と即かず離れずくらいがおもしろそうです。島津はともかく松前が天下を取るというのはどうも。(^_^;
『独眼竜政宗』にはこんな人も出ていたんですね!

Wiki先生の記述より

屋代勘解由(やしろ かげゆ)演:江夏豊伊達家の旗本。通称「勘解由兵衛(かげゆひょうえ)」。第11話で初登場。牛のように大きな角が付いた兜が特徴的で、左利きの猛将であった。

ちょっと話題作りを狙った?ウッシッシ
大河ドラマってその時のライフスタイルがけっこう関わっていると感じます

『独眼竜政宗』は1987年放映で、私は31歳でした

で、考えてみると「大河ドラマ最高視聴率」と言うのもあってよく過去の名作大河として取り上げられるからでしょうか、観ていたようには思うのですが、よくよく考えてみるとそれほど観ていなかったのかも

と言うのもその時のライフスタイルなんですが、日曜日の20時なんて彼女と遊ぶのが忙しくて家に居なかったはずなんです

再放送も土曜日ですのでたぶん家には居なかったような


今は . . .

しっかりと大河ドラマを観る時間が有ります (^_^;)
「独眼竜政宗」土曜日再放送視聴。

とにかく「圧」が凄かった。
勝新と若きケン・ワタナベなんかは、圧vs圧だ。(笑)
まぁ、今回は見どころを繋げているから余計に「圧」場面ばかり見せられたから、余計にそう感じたんだろう。

「大河に何を求めるか」ここに尽きるんだと思う。
「昔の大河はもっと〇〇だった」という懐古派は、「圧演技」と「圧俳優」を求め、今のドラマの「圧」不足を嘆いているのだろうなと思った。

いや、見てて面白いんだよ。
もっと見せてーと思ったし。

でも、令和の大河は、こういう麒麟風味で良いんじゃないか。
不満はあるよ。あるけれど、毎週日曜日、勝新の迫力と存在感と睨みを利かせた秀吉を見るとなると、ちょいと胸焼けする。

何も活躍しない光秀を見てる方が毎週みるなら良いかもしれない。令和だし。
なんかそう思った。(笑)

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