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一遍 (捨てるという生き方)コミュの自力、他力を超越したところの「他力」

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親鸞聖人は自力と他力を、
分けて考えたんです。

信・不信(信じる・信じない)も、
重要な問題なので分けて考えました。

でも一遍上人は違いました。
たとえば罪と無罪、浄と不浄、自力と他力など、
相対的思考は「初門のことである」と言っています。

なぜなら、
自分の信不信、浄不浄、罪無罪、自力他力を頼って、
往生を願うことは、最終的に自力の姿ではないでしょうか?

極楽往生するのは、
私の功績ではなく、
阿弥陀仏の本願によるものです。

これは何をなしてもイイと言っているのではありません。
極楽往生には、
私の力はすべて無効だということです。

自力に対しての、相対的・他力ではなく、
自力、他力を超越したところの絶対的他力、
一遍さんは、
それこそが真の他力だと考えていました。

「自分のはからいで往生しようとする」のは、
自分の考え、行いを当てにしていることです。

あなたの「行い」で往生するのではなく、
ナミアミダブツが往生する、

一遍さんは他力と云う「我」があってもいけない、
自力の行も他力の行も、
それらはすべて往生には必要がないものだと言っています。


「風の風情も往生せず」
「身の振舞いも往生せず」
「心のもちようも往生せず」
そのような行いは往生とは無関係です。
「ただ、南無阿弥陀仏が往生するなり」

一遍上人にあっては、
「一度正直に帰命せし一念のあとは」
もう私は私でなく、
私の心も、身の振舞いも、言葉も、命さえもが、
南無阿弥陀仏そのものだと云うのです。

だったら、南無阿弥陀仏が、
南無阿弥陀仏と言っているのですから、
もうほかの行いは何もいらないことになります。

極楽に行きたいとか、
地獄に堕ちるのが嫌だとかを捨て、
善や悪をも捨て、
良い悪いも捨て、
好き嫌いも捨て、
悟りや迷いも捨て、
一切のことを捨てて念仏することこそ、
阿弥陀仏の本願にかなうと、
一遍上人は教えてくださっています。

だから今日から、
「今、死んでいくとき」
そう考えたら人と念仏は一つになれます。

今、この命が尽きると思って、
すべてを捨てて、
「ナムアミダブツ」と唱えてみてください。

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