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仏教を学ぶコミュの賽の河原地蔵和讃

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コミュ内全体

地蔵和讃は、とても深い物語だと思っています。
最近、お地蔵様の話や、菩薩さまの話が話題になりましたので、
ぜひ地蔵和讃から学ぶのが良いと思いました。



これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原のものがたり

この世に生まれ甲斐もなく
親に先立つありさまは
諸事の哀れをとどめたり

二つ三つや六つや七つ
十にもたらぬ幼児(おさなご)が
賽の河原に集まりて
苦しみ受くるぞ悲しけれ
娑婆(しゃば)とちがいて幼児が
雨露しのぐ住家さえ
なければ涙の絶え間なし
河原に明け暮れ野宿して
西に向いて父恋し
東を見ては母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とはこと変わり
悲しき骨身を透(とお)すなり

ここに集まる幼児は
小石小石を持ち運び
これにて回向(えこう)の塔を積む
手足石にて擦れただれ
指より出ずる血の滴(しずく)
身体を朱(あけ)に染めなして
一重積んでは幼児が
紅葉(もみじ)のような手を合わせ
父上菩提(ぼだい)と伏し拝む
二重積んでは手を合わし
母上菩提回向する
三重積んでは古里(ふるさと)に
残る兄弟わがためと
礼拝回向ぞしおらしや

昼はおのおの遊べども
日も入相(いりあい)のそのころに
冥途(めいど)の鬼があらわれて
幼きものの傍により
やれ汝らなにをする
娑婆と思うて甘えるな
ここは冥途の旅なるぞや
娑婆に残りし父母は
今日七日(なのか)や二七日(ふたなのか)
四十九日(しじゅうくにち)や百箇日
追善供養のその暇に
ただ明け暮れに汝らの
形見に残せし手遊びや
太鼓人形かざぐるま
着物を見ては泣き嘆き
達者な子どもを見るにつけ
なぜにわが子は死んだかと
酷(むご)やあわれや不憫やと
親の嘆きは汝らの
責苦を受くる種となり

かならず我を恨むなと
言いつつ金棒振り上げて
積んだる塔を押し崩し
汝らが積むこの塔は
歪(ゆがみ)がちにて見苦しし
かくては功徳になりがたし
とくとくこれを積み直し
成仏願えと責めかける

やれ恐ろしやと幼児は
南や北やにしひがし
こけつまろびつ逃げ回る
なおも獄卒金棒を
振りかざしつつ無慙(むざん)にも
あまたの幼児にらみつけ
すでに打たんとする陰に
幼児その場に手を合わせ
熱き涙を流しつつ
ゆるし給(たま)えと伏し拝む

おりしも西の谷間より
能化(のうけ)の地獄大菩薩
動(ゆる)ぎ出でさせ給いつつ
幼きものの傍により
なにを嘆くか嬰児(みどりご)よ
汝らいのち短くて
冥途の旅に来たるなり
娑婆と冥途は程遠し
いつまで親を慕うとも
娑婆の親には会えぬぞよ
今日よりのちは我をこそ
冥途の親と思うべし
幼きものを御衣(みころも)の
袖(そで)や袂(たもと)にだき入れて
憐れの給うぞありがたや
いまだに歩まぬ嬰児を
錫杖(しゃくじょう)の柄にとりつかせ
忍辱(にんにく)慈悲の御肌(みはだえ)に
泣く幼児を抱きあげ
助け給うぞありがたや

コメント(36)

これはお父さんとお母さんの心の中の話。

賽の河原の幼子は、父母のために石を積みます。
「お父さん、お母さんが幸せでありますように」
とう言って、石を積みます。
死んでもなお、父母のことを思う子供のいじらしさです。

しかし、幼子がそう思えば思うほど、お父さんとお母さんの苦しみは癒えません。
むしろ、悲しみに身が引きちぎられる思いです。

だから、鬼たちが現れ、幼子たちの石塔を壊します。
「かならず俺を恨むなよ」と、金棒を振り上げて、鬼が幼子たちの石塔を壊します。
子供たちには、彼が鬼にしか見えません。
しかし、本当は、鬼も仏様の化身かもしれません。
鬼たちは幼子の成仏を願っている、閻魔様のお使いでしょうか。

地蔵菩薩は、そんなむごたらしい地獄で、ただただ、幼子の親代わりをします。
それは正しいことでしょうか。
むしろ、鬼たちの方が正しいかもしれません。
しかし菩薩様は、それでも、幼子の親代わりをせずにいられないのです。

みんなが修行をしています。
幼子は幼子の修行をしています。
鬼は鬼の修行をしています。
地蔵菩薩は地蔵菩薩の修行をしています。
お父さんお母さんは、お父さんお母さんの修行をしています。

大乗仏教では、菩薩が仏様になるとき、一切衆生が覚ると言われています。
地蔵菩薩はいつ覚るのでしょうか。
幼子が、父母は幸せであったと気付くときでしょうか。
幼子が、鬼たちは本当は優しかったと知るときでしょうか。
父母が、幼子たちの幸せを見るときでしょうか。

人が仏になるときは、必ず、菩薩行を経て、仏になるそうです。
そこに不幸な人がいるのを見て、徹底的に利他をして、そうしていつか気付くのでしょうか。
そうしなければ、気付けないのでしょうか。
みんなで一緒に気付くのでしょうか。
それとも、もとからみんな気付いていたと分かるのでしょうか。
いや、菩薩のままで良かったと知るとき、すでに仏なのかもしれません。
私の解釈です。
みなさんもそれぞれに解釈をして、学ぶと素晴らしいと思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/uuatanabetakahiko/28829673.html

↑この和讃は上記よりもっと描写がむごいですね。
地蔵和讃は日本各地に様々なバージョン違いがあるそうです。

私は、酷たらしい描写の方が好きです。
人間は、本当に酷たらしいような悲しみに、まったく理不尽に襲われることがあります。
この理不尽を受け止めるための知恵を、ご先祖様が和讃にして残してくださったと思います。

歌詞の一節。

『娑婆に残りし父母は
 今日七日(なのか)や二七日(ふたなのか)
 四十九日や百箇日
 追善供養のその暇に』

亡くなってから7日ごとに勤められる初七日法要、二七日法要、三七日法要……そして七七日法要(四十九日)を経て中陰法要が明け、その後に百箇日法要がやってきます。
故人が亡くなってから百日目に行われる百箇日法要の別名は、卒哭忌(そっこくき)。
泣くことを卒業する日、つまり涙をぬぐう日です。
「賽の河原地蔵和讃」の文々のなかに「一周忌」以降の言葉が登場せず、百箇日までしか歌詞に出さなかったのには、やはり意味があるのではないでしょうか。
つまり、そこで涙を卒業することが、子どもらの供養につながるということを暗に示唆したと考えられます。

『百箇日は卒哭忌。
 涙を卒業する日。
 笑顔が故人の供養となる日である。』

私が初めてこの「賽の河原地蔵和讃」を読んだ時、心をえぐられたような衝撃を受けました。
声を出して涙したことを覚えています。
過去、10年以上、自閉症の子供たちを支援していた時に、親御さんたちに読ませたことがあります。凄い反響でした。それぞれが何を感じたのかはわかりません。

地蔵菩薩と子供は切り離せませんね。
私の親しい友人に、お地蔵さんが嫌いな人がいます。女性なのですが、その人は霊感が強く、
お地蔵さんが時々付いてきちゃうらしいのです。この歌とは関係ないですが。

とにかく深い深い思いの歌です。
久々に読みましたが、読むたびに涙が出ます。
もう私の親は他界してますが、今回は違う思いがこみ上げてきました。

ありがとうございました。

(ー人ー)

『地蔵菩薩』

釈尊の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道に現れて衆生を救う菩薩であるとされるています。私達にとって、とてもありがたい仏様です。

『六地蔵』
天道→大堅固地蔵(だいけんごじぞう)
人間道→大清浄地蔵(だいしょうじょうじぞう)
修羅道→清浄無垢地蔵(しょうじょうむくじぞう)
畜生道→大光明地蔵(だいこうみょうじぞう)
餓鬼道→大徳清浄地蔵(だいとくしょうじょうじぞう)
地獄道→大定智悲地蔵(だいじょうちひじぞう)

仏教徒関係なく、お地蔵さんを大切に。
これはすべてに繋がってくると思います。

(ー人ー)
今日はお客さんと鎌倉に行ってきました。

お地蔵さんがたくさんいらっしゃいました。

よくお地蔵さんには赤いよだれかけがかけてあります。
自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけを奉納するのだそうです。
よだれかけだけではなく、丸い頭にかぶせる頭巾を奉納されることもあります。

このよだれかけや頭巾、なぜ赤色なのでしょうか?

赤という色は「清く」「正しい」そして「正直な色」と信じられており、魔よけとして赤ちゃんやお地蔵さんに赤いものを着せる風習があります。

還暦でも赤いものを身につけますが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、お地蔵さんや赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られています。

色々な理由でそこに立てられたお地蔵さん。
もっと人々に、守られていると言う意識や、感謝を向けられてもいい様な気がします。

仏教徒ならば尚更です。

このトピに書き込んでいると、お地蔵さんへの感謝。真の感謝の行だけでも十分なような気がしてきました。

どちらにしろありがたいことです。
この縁に感謝。

(ー人ー)

子供も菩薩も鬼も五蘊から離れて厭離して解脱してください(^^)
>>[8]

ナニカをナニカとして理解するというそのことが、そのまま世界観なんです。
地蔵和讃に語られていることは、
原始仏教で釈尊が説いた現実解釈そのままですよ。
解脱ということは、単一の世界観にこだわらないということです。
『みんな解脱してください』などと言った瞬間、自分こそ『みんな解脱すべき』という執着握りしめています。
>>[11]

自分のマニュアル通りに動かない仏教徒を認められないだけだと思います。
ご存知の、温泉さんの言い回しには問題ありと思いますが、私には温泉さんの言葉の方が入ってきます。同じへそ曲がりでも、温泉さんタイプの方が好きです。それはおそらく、私が同じような曲がり方をしているのだと思います。
どちらにしろ、どこの誰かもわからず、どのような経験をしてきたのか、人それぞれの言葉の持つ意味の違い、更に宗派の違い、それを考えて言葉にした方がいいと思うのですが、真理だけの話ならこんなコミュは成立しません。

お地蔵さんのように、只立っているだけの様に見えるものも、その通りなのだと思います。逆に、何も言わず、ただただ人を救っているだけのお地蔵さんの様になりたいです。と言っても、私の本来の面目はお地蔵さんと同じなのでしょうが。

〇△□
>>[11]

名前を出してすいません。

253さんは、楽しく生活されてると言ってましたが、もうそこで解脱されているとは言えないですね。よく解脱してまた世間に戻ると言われてますが、「戻る」と言うものは仏教にはないです。これも私の我が言葉に出しているのだとは思いますが。

まぁ、どちらでもいいですね。

無表情のお地蔵さんに笑われます。

○△□
私は、
子供も菩薩も鬼も五蘊から離れて厭離して解脱してください(^^)
というのは、良い言葉に思う。

子供が積む石を、鬼が崩すのは悲しいが、
解脱した子供が積む石を、解脱した鬼が崩すのは、目出度い気がする。

地蔵和讃は、そのままで円満と思う。
全員、やさしいんだ。
鬼は鬼で、親は親で、子供は子供で、みんながみんな他者の幸せ思っている。
そして、地蔵菩薩は、子供の涙をぬぐうことで、全員をいっぺんに救おうとしている。
子供が子供自身の涙から解脱できれば、鬼も、親も、みんながそこから解脱できる。

幼くして死んだ子供のことを、みんなかわいそうに思っている。
かわいそうに思う心から離れた冷たい心が悟りじゃない、何とも感じないクールな心が悟りじゃない、みんながかわいそうに思っている、その心を救いたいのが菩薩の心で、菩薩によって救われていくことが確定して今まさに救われている、この世界全体が仏で、全ては仏であったと知る、そのことが悟りだと思う。

仏の世界は、この世が浄土となっていく現在進行形の世界でもある。
だから諸仏の仏国土は、必ず弥勒菩薩を始めとした諸菩薩を内包する。
諸仏の仏国土には、たくさんの菩薩たちが住んでいる。
私たちは本当には、すでに仏国土に住んでいる。
仏国土を建国しようとしている、その利他行菩薩行の中に、実はすでに仏国土は出来上がっている。
全ての登場人物がやさしい、キラキラと光る宝石のようにやさしい、すれ違いはあっても、いつか必ず菩薩の働きによってみんなが笑顔になれる、そんな仏国土に、誰もが住んでいる。
地蔵和讃は、そのことをとても分かりやすく教えてくれていると思う。

五蘊を見るのは五蘊だと思う。
もし、五蘊から解脱できないかわいそうな人が見えるなら、それがそのまま自分という五蘊だと思う。
そこに五蘊なり何なりの対象を見ている、その自分の想い、考え、感覚、世界について、「それは無常に過ぎ去っていくひとときのものだ。それは自分とも他者とも呼べるものではないひとときの現象であり、ひとときの想い、考え、感覚に過ぎない。」と考えて、その「そこに五蘊を見ている、その自分の想い、考え、感覚、世界」にこそ過患(わずらい)を見て、そこから離れる。
離れたら、だんだん見えてくる。
五蘊以外に五蘊はない。
五蘊を解脱した本体が救われるんじゃない。
解脱された五蘊が、五蘊のまま救われる。
救っているのが菩薩で、その菩薩を含めた全部の、無数の私と無数の他者が救われ往くこの世界が仏国土そのまんまだと思う。

みんな、やさしいんだよ。
五蘊を見ている自分も、泣いている幼子も、幼子を棒で打つ鬼も、みんな優しいんだよ。
だから、菩薩たちは一生懸命、みんなをいっぺんに救おうとしている。
自分もそんな菩薩であるし、世界は今もここで現にこうして菩薩たちによって救われ続けている。
全ての衆生は必ず救われる、それで円満な世界がある。

「あいつはかわいそうだ」
「あいつはもっと頑張った方がいい」
「みんなが解脱しますように」
なんて言っている、その言葉はそのまんま、言っている本人に帰っている。
そのことを知るのが縁起を知る第一歩と思う。
縁起を知っていくその智慧が、仏国土に還り往く船となると思う。

地蔵和讃は、とても素晴らしい智慧を、そのまんま教えてくれていると思う。
>>[14]

仰る通りです。
ただ、偏屈な強い我をもつ私には、それぞれの行の話をしているところで、解りきった真理の話をこのタイミングで?と言う思いが湧いてきてしまうのです。

固定概念に過ぎないです。
解っていてもなかなか治らないしょうもないオヤジです。
スターの積んだ石を253という鬼が崩しに来たり、
253が積んだ石をスターという鬼が崩しに来たり。

これに文句垂れたらアカンやろう。
だって和讃そのままの世界なんだから。

お互い親切で石を積んで、親切で崩してんのね。
いつかどちらも同時に救われるし、
既に救われた同士の日常風景とも言えるし。

松に風吹くのは習いで、気にしていては楽しめんよ。

この和讃とは関係ないですが、
この和讃を久々に読んだ時思い出された歌があります。

夏川りみの「童神」と言う歌です。よろしかったら聴いてくんなまし。
https://www.youtube.com/watch?v=v6pYMFyPQlk

子守歌ですが、この歌を聞いた時も泣けました。
>>[18]

ジセンさん言う通りだが、松に風吹くだけを気にせずにおれんのも人間よ。
それもそれで楽しいのさ。

253さんは、合わせ鏡みたいなもんでね。
俺こそ、心から大乗仏教を馬鹿にしてきたんだ。
大乗仏教は、仏教が曲がって伝わったもので、本当の仏教とは似ても似つかないカルトみたいなもんだと思ってた。
スッタニパータとダンマパダで十分と思っていたし、内心では、大乗仏教はアホが迷信を信じているんだと思ってた。
俺は過去、そういう心に住んでいたんだ。

俺は253さんを通して、その過去の俺に話しかけているんだと思うよ。

今思えば、俺にとっては、大乗仏教を馬鹿にする大馬鹿者であったことこそ、まったくありがたいことだったよ。
あれがあったからこそ、多くの人に育てていただいた。
まったく自分が恥ずかしくて情けなくて、できれば内緒にしたいくらいの過去だけど、今は馬鹿だったことも感謝だなと思う。

253さんはスターさんとは違うけど、たぶん253さんなりに、スターさんの文句も肥やしにしていくんじゃないかな。
スターさんはスターさんで、文句たれの菩薩行せずにおれんのだから、それでええと思うよ。
私は子供も親も鬼も全て解脱してくださいと願っただけです。
それは子供も親も鬼も幸せに思えなかったからです。
私がそのように感じただけで、これが大乗への批判と取られるのが残念でした。
私は解脱していないとの意見がありましたけどその通りで私も解脱していません。
まだまだ欲も怒りもあります。
皆様を怒らせてしまった事にはお詫びするとまた怒られますのでしませんが遺憾に感じております。


できましたら悟っていない解脱していない未熟者がレベルの低い事を言ってるわと寛大に見ていただければ幸いです。
>>[24]

おそらく全員が未熟者、その未熟者同士の我の出し合いにすぎません。
その中でも気づきがあるないは、縁に任せるしかありません。

実際、興味・学び・暇つぶし・現実逃避など、ここに来る人も様々です。

〇△□
>>[25]

ありがとうございます。
私は小乗くらいしか素養のない奴ですので大乗の大慈悲を判らない小輩と受け流していただければと思います。

どうでもいいと思えばそうなのですが、他のトピで「賽の目」と言う言葉が出たので思い出しカキコ。

昔私は賽子(さいころ)を常に持ち歩いている生活をしていました。「賽は投げられた。」なんて言い回しもします。これから書き込みますその「賽」の疑問についてご意見をいただきたいのですが、よろしくお願いします。

賽子は、神との関わり合い、神占の道具であったから、当然偶然に支配されるために、あのような正確な立方体の形でした(天地四方をかたどり,1が天,6が地,5が東,2が西,4が南,3が北を表わし,対応する両面の数の和が7になる。)。やがて勝負事につかわれるようになりましたが、本来は神
に関わり、神に問い、神に捧げ奉る祭祀のものでした。

いちばん難しいのが、「賽の河原」です。某漢和辞典によると、法華経 方便品が出典とあるのだけれど、見つからない。いったい何で「賽」なのか?
「賽の河原」信仰は、衆生の身代わりになって地獄での苦しみを救い、また子供の姿で現れると考えられた地蔵菩薩と、在来の道祖神信仰が習合したものだと考えられます。つまり、「賽の河原」の「賽」は、助けにやってくる地蔵=賽の神(道祖神)から来ているのだと思います。。
「賽日」といえば「やぶいり」のことで、地獄の釜が開く日のことですが、だから地獄の休日となります。、「賽の河原」もそうですが、これだと「賽」が「地獄」を意味するような感じになります。これは逆に「賽の河原」信仰の後にできた考えのような気がします。

色々考えると、髪の毛が落ちるばかり、考えないのが一番なのでしょうが・・・・

知足と言えども坐りが足りてないのですね。

〇△□(←正にこれかな?)
>>[29]

縄文時代の昔から、古代の時代には、『忌籠り』とか『モガリ』と言って、
人が亡くなってもしばらくの間は死者を埋葬しないで、喪屋(これもモヤね)に置いて、
親族がそこで死者と一緒に過ごす風習がありました。

今では通夜が1日行われますが、『忌籠り』とか『モガリ』と言うのは、
この通夜を1ヶ月とか、半年とか、1年とか続けるようなものです。
実際、現代の日本で行われている通夜は、このモガリのなごりと考えられます。

「忌む」という言葉には「憎み、嫌う」というような意味がありますから、
現代ではあまり良い言葉としては捉えられていませんが、
古代においては、「忌む」とは、「忌み清める」ことだったと考えられます。
だからこそ、後に、弥生時代に祭祀を担当する氏族は、忌部氏と呼ばれました。

人間は、生きていれば、必ず悲しいことがあります。
そして、ときには憎しみの心を持つこともあります。
縄文人たちは、その「カナシミ」や「ニクシミ」を、「忌み清めた」のです。
「忌む」というのは、具体的には、「痛いの痛いの飛んでいけ」と同じような原理で、
人型に、「カナシミ」や「ニクシミ」を移して、それを壊したり捨てたり流したりすることで行たと考えられます。
そうして、自分が清められるのです。

縄文人は、遺体と共に過ごすことで「モガリ」をして、
自分が身に着けていた装身具を撫でて息を吹きかけて、その装身具にカナシミを移して、
それを壊したり捨てたりして「飛んでけ」をしたのです。

そのとき、使われることが多かったのが櫛です。
古代の文化では、男も女も基本的に髪は結ってまとめたから、
髪をまとめる道具として誰もが自分の「櫛」を持っていました。
櫛は「串」であり、「奇し」でもあって、常に身に着けているものだから、自分の分身でもあったです。
縄文時代の土偶の文化も、基本的には同じと考えています。
土偶は古代、病気を治すための呪術から始まったはずです。
『痛いの痛いの飛んでいけ』です。

土偶に息を吹きかけて、身体を撫でて、病気を土偶に移して、病気ごと土偶を壊したり、捨てたりした。
土偶の多くが意図的に壊された状態で出土するのは、そうやって使ったからです。
土偶には女性を形取ったものが多いけれど、これは出産の時、安産を祈願して作ったものかもしれません。
安産を祈って、あらかじめ作っておいて、未来の忌み事を、あらかじめ移したとも考えられます。
ミソギや「忌み清め」というのは、縄文人の思考様式そのものだったのだと思います。

古事記で、イザナギは、イザナミの死が受け入れられなくて、黄泉の国に行きますが、
そのシーンでも、櫛を投げて、痛いの痛いの飛んでけを死ながら忌み清めています。

弥生時代の遺跡からは、斎串(忌串)と呼ばれる、卒塔婆みたいな木の杭が大量に出土しますが、
おそらくこれも、痛いの痛いの飛んでいけ、の忌み清めの儀式の跡だと思います。
これらは忌部氏(いんべうじ)、斎部氏(いんべうじ)が取り仕切りました。
今でも、『斎忌』という言葉があります。

後に、斎は「祭」となり、いつしか、賽になったと考えられます。
「賽の河原」の「賽」は、斎であり、『斎忌』であり、古代から続く日本人の思考様式に寄っているのだと思います。

ちなみに、サイコロを振るという行為は、ウケヒから来ていると考えられます。
ウケヒというのは、古代において誓いの儀式でしたが、後に、占いの儀式と混同していきました。
誓いの儀式は、神の前で行うので、忌み清めをしてから執り行いました。
古事記にも、スサノオとアマテラスのウケイのシーンが出てきます。

つまり、賽の河原は、誓いの場であり、忌み清めの場でもあるということだと思います。
賽は斎に通じ、祭に通じ、忌に通じ、忌み清めに通じ、ウケイに通じているのだと思います。
百箇日は卒哭忌です。
涙を拭いて、新たな一歩を踏み出す、誓いの日なんでしょう。
日本の貴族が持っている、木の棒、シャクとも呼ばれるものがありますが、あれが斎串(忌串)の名残です。
何か急な忌みごとあれば、あれに息を吹きかけて、撫でて、流したようです。
そのような祭事が今も残っています。
>>[30]

ありがとうございます。
「清める」と言う意味で「塞」が使われたと言うのならわかりますが、仏教は死者を清めると言うことはないです。まぁ、時代の流れでできた言葉なのでしょうから、ってなところで、自分の中で解決しておきます。

昨今は、昔は逆の意味で使っていた言葉や、違うニュアンスで使っていた言葉が、普通に使われていて、辞書もどんどん書き換えられています。私みたいなオヤジには、毛の抜ける思いが多いです。だからこそ「無常」に対する良い修行になっているのですね。

ありがたいことです。
本当はこう考えようとしている自分がいるわけです。まぁいっかぁ

○△□
>>[32]

簡単に言えば、賽=斎=祭の儀式の場が、賽の河原で、
そのお祭りの内容が、誓いの儀式ということだと思います。

清められるのは、賽の河原を思い浮かべている当人です。
清められるというのは、水に流されて、ニクシミやカナシミ抱いた私が消えていなくなるということだと思います。

河原は、何かを水に流す場所には最適で、演芸を行う河原乞食の住む場所でもあります。
涙を拭う、儀式の場所なんだと思います。
>>[33]

ありがとうございます。

とても良い行になっています。

オンカカカビサンマエイソワカ

(ー人ー)


オンカカカビサンマエイソワカ

( ̄人 ̄)

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