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仏教を学ぶコミュの大パリニッバーナ経

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コメント(46)

このようにして修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである(大パリニッバーナ経,第二章 26)
初期仏教の釈尊は修行者に対して釈尊に依存する事を否定されました。
釈尊は既に理法を説いたのだから後はその通りに実践しなさいと説かれました。
>>[1]

元気に生きている人間だけを見ていると、ついつい生きていることが当たり前のように思い込みがちですが、そんな一人一人も、実は死ぬことが当たり前なのですね。
>>[2]

常にさまざまなことに明らかな気づき(念、観)を持っていること。
>>[3]

「ゴータマ・ブッダにはまだ生前、はっきりと言葉にしなかった秘密の教えがあるんじゃないか」という推測や探究は、人の心がついつい渇き求めるところですね。
>>[5]
>>[6]

四念処は、「好きだ、もっと欲しい」という貪欲や、「嫌いだあ、遠ざけたい」という憂いを見逃さず、気づき、発見し、そうした心の曇り・動揺をいっさい清らかにはらい、静めるものですね。
>>[4]

身体の本当に心地いい状態を実現するのにサマタにより定を深めることはとても有効ですね。
この大地は水の上に安立し、水は風の上に安立し、風は虚空の上に存する。アーナンダよ。だから、まことに大きな風が吹くとき、大きな風が吹いて水を動揺させるとき、動かされた水は地を動揺させる(大パリニッバーナ経,第三章 13)
八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか。内心において<物質的なもの>という想いをいだいている者が、外において<物質的なもの>を見る。これが第一の解脱である(大パリニッバーナ経,第三章 33)
内心において<物質的ならざるもの>という想いをいだく者が、外部において<物質的なもの>を見る。これが第二の解脱である。すべてのものを<浄らかである>と認めていること、これが第三の解脱である(大パリニッバーナ経,第三章 33)
<物質的なもの>という想いを全く超越して抵抗感を消滅し、<別のもの>をいう想いを起さないことによって、<すべては無辺なる虚空である>と観じて、<空無辺処>に達して住する。これが第四の解脱である(大パリニッバーナ経,第三章 33)
<空無辺処>を全く超越して、<すべては無辺なる識である>と観じて、<識無辺処>に達して住する。これが第五の解脱である。<識無辺処>を全く超越して、<何ものも存在しない>と観じて、<無所有処>に達して住する。これが第六の解脱である(大パリニッバーナ経,第三章 33)
<無所有処>を全く超越して<非想非非想処>(想いがあるのでもなく想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の解脱である。<非想非非想処>を全く超越して<想受滅>(表象も感受も消滅する境地)に達して住する。これが第八の解脱である(大パリニッバーナ経,第三章 33)
私はあらかじめこのように告げてはおかなかったか。「愛しく気に入っているすべての人々とも、やがては生別し、死別し、生存の場を異にするに至る」と(大パリニッバーナ経,第三章 48)
アーナンダよ。生じ、存在し、つくられ、壊滅する性質のものが、壊滅しないように、ということがこの世でどうして有り得ようか。このような道理は存在しない(大パリニッバーナ経,第三章 48)
>>[14]

仏教で四大と呼ばれる地水火風は、現代で言われる物質の《原子》と混同されて理解されるケースが多いようですが、実際には、原子とはあまり関係ないようです。
地は、固さ、荒さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ。
火は、流動性、粘着性。
水は、熱さ、冷たさ。
風は、支える力、推す力。
ということのようです。

釈尊は私たちが感覚器官において感じる全てが世界の全てであり、それらこそを観察の対象としていますから、この経典のこの部分で言う『地震』とは、まさに私たちの認識が大きく揺り動かされることを言っているようです。
あ、火と水、逆ですね。
訂正します。
>>[15]

>内心において<物質的なもの>という想いをいだいている者が、外において<物質的なもの>を見る。


これはよりわかりやすく言うならば、どういうことでしょうか。
>>[24]

いわゆる正念の鍛練の最初に現れる智慧で、名色分離智といわれるものだと思います。
>>[25]

それは形あるものと形の無いものーー大雑把に言えば物質的なものと心の内容の二種がこの世にはあるということを分別できるようになれよ、ということでしょうか。
「内心において〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が、外において〈物質的なもの〉を見る 」という記述からはにわかには受け取りづらいように思いますが。
>>[24]

八解脱のこの部分は、なかなか解釈が難しいですよね。
ネットをずらっと見てみても、しっくり解説している人はいないようでした。

まず、現代に生きる私たちと、2500年前の人間とでは、概念の豊富さにおいて強烈な差があることを思い出さなければならないと思います。
「空間」も、「物質」も、非常に現代的な概念であって、古代には現代の私たちが思うような意味合いは持っていなかったと思います。

さて。
「内心において<物質的なもの>という想いをいだいている者が、外において<物質的なもの>を見る」
というのは、まさに、現代の私たちの当たり前の感覚「私たちは外部の対象となる物質を心に受け止めている」という事態を指す言葉であると私は思います。

2500年前のインドでは、そもそも、「あちら側の対象」と「こちら側の印象・感覚」を分けて別々に考えるということを、多くの人がしなかったのではないかと思います。
「感覚している主体と、感覚された客体がある」、というフレームで物事を理解するとき、原始的な、非分析的な、非常に素朴な<私>から離れることができます。
これが八つの解脱のひとつだと思います。

「内心において<物質的ならざるもの>という想いをいだいている者が、外において<物質的なもの>を見る」
これはまさに、私たちが感じ考えている現実世界が、目耳鼻口体心において感じられたものであり、私たちが対象だと思っているものは目耳鼻口体心において感じられた以上でも以下でもなく、全ての対象は私たちに感じられたところにおいてのみ存在している、と理解するフレームかと思います。

このように、世界は様々なフレームにおいて理解されたところに存在していると思います。
それらを、たしかにフレーム上のことであると確かに知って、それぞれのフレームでの理解に自由に行き来するのが如来なのかなと思っています。
>>[26]

物質を観ている私と、観られている物質の両方を更にまた別の者が観ているという感じになるかと思います。
八解脱とは?「大縁方便経」その2 まえ出てたところ、
https://ameblo.jp/nibbaana/entry-10543277996.html
八解脱 真宗wikiarc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AB%E8%A7%A3%E8%84%B1

ところで想受滅(滅尽)だけど、wikiの五蘊の説明では、
受蘊- 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊- 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
ってことなのでこの二つが滅せられるといいってことでしょうか?
ちょっと注意事項、定wikiから抜き出し、

無心定(無想定と滅尽定)および九次次第。
無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも心・心所を全く滅する定である。
無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。藤本晃は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている。
スターさん、253さん、ありがとうございます。
「(内心において)〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が、(外において)〈物質的なもの〉を見る 」(中村元訳)という文章はにわかにはいかに解釈したらいいのか、ほんと戸惑うものですね。
しかしそれを素通りすることなく、各人が自分なりに深く考察してみるところにまた、経典の持つ深い味わいがあると思っています。

果たして僕は中村先生が中村先生の解釈により括弧で補った部分がかえってかわりづらくしているんじゃないだろうかとも考えます。すなわち中村先生による言葉の補充をいったん御破算にして原文で考えてみるほうが当時の人々の受けとめた通りでもあるし、むしろ理解しやすくなるんじゃないか。

「〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が、〈物質的なもの〉を見る 」
>>[27]

僕は試しに次のように受けとめてみました。


アーナンダよ、八つの解脱がある。その八つとはいかなるものか。

形あるものを心に思い描くから、人は外部に形あるものを見ることになるのだ。
これを悟るのが第一の解脱である。

あたかも外部に形あるものが存在しているように見えても実は本当は、確かな形などない心の中の表象に過ぎないんだと悟った者が、それでもちゃんと外部に形あるものがあるのを穏やかに見ることができること。
これが第二の解脱である。

いかなるものが眼に映ろうと、すべてそれらは自らの心に起源があることを知った上で、それゆえいっさいは汚れたもの、醜いものなど何も無い。すべては浄らかであると心の底から悟ること。
これが第三の解脱である。

>>[35]

とても素晴らしいですね。
私の説明より、もっとすっきりして分かりやすいです。
いっさいの形あるもの(色)は汚れたもの、醜いものなど何も無いが、かな、
心(名)の方は言ってないと思う。心の方は汚れていたり醜かったりもするし、
大体この観法自体が貪欲除去のものっぽいし、
まぁ一番、大切なのはこれ等の鍛練を実際にやっていく事です(^^)
そういえば3番目の清浄無相はたぶん真実報土の浄土で涅槃ですよ。
心が物事をそう決めているんだけど、殺人とか窃盗とかどうよ?ってことを言うと、
煩悩とか悟りとかも心によって決められているってことになって、
おかしなことになりそうですよ。
4番目からってのはなんでしょうね?
ちがった、
>>阿弥陀仏の浄土は完全に煩悩が寂滅した無為涅槃であるから(涅槃wikiarc)
8番目の滅尽定が煩悩がないといわれる涅槃状態
(煩悩がない聖人が8番に到達できるからいくらか前ぐらいから煩悩はないのかも)
あ、でも外に煩悩があるわけじゃないし、か。
>>40訂正
涅槃wikiarc じゃなくて 真実報土wikiarc
>>[37]

周りに見える現実や事象を、「ああ、嫌だなあ」「汚いなあ」と判断するのは確かに自分の心ですね。心に何らかの価値基準をいやおうなしに人間の心というやつは持っているから、「ああやだ」「ああ汚い」と事象を見ては判定する。
それは逆に言えば、人間がその心の価値基準をがっちり握りしめることを自らゆるめることもできるようになったなら、同じ事象を見ても、もっと別の肯定的評価を与える自由も持てるようになるかもしれない。
よりやわらかな眼で、かつては「嫌だ」「汚い」と思った事象にもまったく別の価値を見出せるようになるかもしれない。
もちろんそれは「自分も同じように染まってしまえ」というのとは全然違うことですけどね。
>>[44]

この世の見方についても、「本当に大変な所だなあ、難儀な所だなあ、嫌だなあ、苦しいなあ」という見方から、仏教を学び、修行を深め、突き抜けると、このままの世界に立ちながら、この世の有り難さ、もったいなさに心から拝むような気持ちになりますね。
修行僧たちよ、修行僧はみずから念じて、よく気をつけておれ。これが、お前たちに説くわたしたちの教えである(大パリニッバーナ経,第二章 12)

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