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仏教を学ぶコミュの天上界と仏界

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コミュ内全体

 仏典に出てくる「天上界」と「仏界」について、何らかの見解をお持ちの方は、どうぞこの対話にご参加頂き、その見解の正しさを証すことができれば、他の方々の光明ともなり、悟りへの道を正す機縁ともなりますので、是非とも積極的な発言を願います。

 このトピックの主旨は以上のようなものですが、敢えてこのトピを立てたのは、コミュ中の対話で「天」の言葉が出たとき、天を否定する感情が伝えられることはあっても、「天とは何か」に言及する話者が居ないという実態を憂えたからです。

 或いは現状のこのコミュでは、まともに「天とは何か」の対話に参加できる知性はスターさんだけかも知れませんが、それだからこそ尚更この直感を覆すような、他の方々の見解が聞けることを願っているのです。

 勿論ここに言う「天上界」は「真天」のことであり、釈迦が家を出て仏として世に出る(悟りを開く)前に成就していた天上界のことですから、釈迦が此の世に誕生した直後に天地を指差しつつ「天上天下唯我独尊」と語ったという逸話の意味での「独尊」即ち「真天」の意味(厳密に言うと天上界は真天の体内)です。ですから、このトピ中の対話では、禅天などの「考察された天」などを持ち出して、対話を混乱させるようなことはしないでください。

コメント(601)

>>悟りの完成部分を引用されたって
完成させる行の部分も書いてあるようですよ、
菩薩も仏も般若波羅蜜多の修行によって心の傾倒をなくし
無上正等覚を得ることが出来るのです(得るより至るがいいかも)
波羅蜜は545でリンクしてます。
食い違いがあるとすればナビさんのは表現が反対になっているって点
無我=我、真我=無我かな、
でも、水も波も同じものだよねって思ったりする。
>>[563]

 これまでに何度も丁寧に解説してありますが、何も読んでいない、或いは読み取れないということでしょう。

 本当に世話の焼ける方だと思いますが、何方にも分かり易いように、構図を付け足してご覧にいれますので、今度こそちゃんと読み取って下さいよ。
 《無我を殺して真我を得る》[成仏への構図の補足]

 成仏への修行法は既に構図として示した通りですが、今回は其れに前後する二つの構図を加えて示しますので、まだ十分に呑み込めなかった方にも、これを見れば明確に理解できるかと思います。

---------------
 [凡夫位から見た構図](世間の大多数の心象)
 (菩薩地以前の人)
【色(波)=無我(人我)】:【空(水)=無我(人我)】
---------------
 [修行位から見た構図](凡夫を火宅から救出する菩薩法)
 (この菩薩法を実践中の人)
【色(波)=無我(人我)】:【空(水)=真我(仏我)】
---------------
 [成仏位から見た構図](仏我が覚醒して大自在の座位に安住した心象)
 (この菩薩法を成就して仏心を覚醒した人)
【色(波)=真我(仏我)】:【空(水)=真我(仏我)】
---------------

 以上です。皆さんに仏眼が開かれますように。
無我については、伝統仏教的な用法用例に基づいて、使ってほしいな。
逆に使われると、文意が混乱するし、諸法無我なんかの取り扱いが出来ないので。

諸法無我は、諸法=空です。諸法そのままで空なので、お間違いの無いように。
結局肯定しても否定しても我が強くなるだけかな、
やっぱほたっとくのが良いかも。
だいぶコメントが進んでいますね。

群盲象を評すの比喩はいかがでしょうか。

何人かの目の見えない盲人が、象を撫でています。

足を触った盲人は「柱のようです」と答えます。
尾を触った盲人は「綱のようです」と答えます。
鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えます。
耳を触った盲人は「扇のようです」と答えます。
腹を触った盲人は「壁のようです」と答えます。
牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えます。
それを聞いた王は答えます。
「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」

盲人が現象を触りますと、そこに盲人にとっての存在が現れます。
それはそれぞれの盲人にとっての、かけがえのない現実です。
それはそれで正しいのです。
しかし、盲人の知る象は、目の見える人の見ている象とはずいぶん違います。

もしある時、盲人の目が開き、目が見えるようになったなら、盲人は初めて象を見て、自分が感じていた象とは、ごく一部だったことに気付くでしょう。
これが宿命通ですね。

そして、元盲人は思います。
なるほど、象の足を触る盲人にとっては、象は柱のようでしょう。
尾を触る盲人にとっては、象は綱のようでしょう。
このように知るのが、仏教で言う天眼通ですね。

そして、自分はもう、象を柱や綱のように見ることはあるまいと知ります。
これが漏尽通ですね。


仏教では、盲人の目を開くのは、寂滅です。
仏教では、盲人は本当には盲人ではなく、本当にはしっかりと象が見えていると考えます。
しかし、自分を盲人と思い込み、象を触った感触ばかりに気を取られ、現に見えている象の姿に気付いていないのです。
だから、自分を盲人と思うことを止めて、感触ばかりに気を取られる自分を鎮めます。
そうすると、ある時、象が見えていることに気付くでしょう。



このときの、象が色ですね。
盲人の触った感触が空であり無我です。
盲人たちに
「あなた達は全て正しい」
と言っている王様が仏様です。
象は柱のようで結構。
綱のようで結構。
あなた達はみんな正しいのです。

目が見えるようになれば仏様と思うなら、ちょっと間違いと思います。
目が見えるようになったら、そこから始まる修行があります。
盲人たち皆さんは正しいと知るのが最後の修行と思います。
これを「三転十二行相を行じて全ての如実知見を清浄にする」と言うと理解しています。

自分は見えるようになったからと盲人たちを見下す元盲人にならないように気を付けなければなりませんね。
盲人たちは皆さん全て正しいのですよと、高らかに教えたのが法華経と思います。
象は水で空かな、象の各部分が色かな、
盲人、おし、めくら、つんぼ、って感じで論註に何かあったように思う。
みんな正しいなら修行しないでいいじゃん。
みんなそのままでいいんだから。
あ、論註じゃないかも。親鸞聖人が書いたものだったっけ?
良く覚えていない、、。
>>[570]

「みんながそれぞれそのままに正しい」が正しいのに、どれが正解でどれが間違いなのか気にして苦しんでいる人ばかりだから修行が必要なんです。

人は皆さん、今ここで安心して満足して幸せになればいいんです。
しかし、凡夫は幸せはあっちにあってこっちにないと思っています。
だから修行して、自分の勘違いに気づいて、元から安心あったことに気付くんです。
ナビさんの水と波の例えで言えば、目が見えている人が見る普通の象が水。
盲人が見る柱のような象や、綱のような象が波。
水と波は一つですが、悟りの浅い人は波ばかり見て水が見えません。

ナビさんは「無我」という言葉を「本質を持たないもの」というような意味で使っているように思います。
よって、菩薩以前の盲人が見る柱や綱のような象は本質を持ちませんから無我です。
菩薩以前の盲人が空想する「盲人でない人が見る象」も本質を持たず無我です。

菩薩にとっては、柱や綱のような象は本質を持たない無我である一方、「盲人でない人が見る象」という本質(真我)が開かれています。
覚った人は、盲人の評する柱や綱のような象も本質(真我)の一部と知り、盲人でない人の見る象も本質(真我)であると知っています。

というような話なのかなと思います。
波から水へ入れ替わったって感じで言ってるから、
本質がどうのってのはもうちょいはっきり聞かないとわからない、

>>【色(波)=真我(仏我)】:【空(水)=真我(仏我)】
ここだけなら
真我を無我にするとようやく同じようなこと言い始めたかなって思ったりする。
でもまあ、travanのとは違うんでしょ、

他は突っ込みたいようなところもある
凡夫って言いたくないけど一般の人って空知らなくない? って思ったりする。

片一方は本質を持たなく、片一方は本質を持つのは???
>>[573]

人は皆さん異なっていますから、異をとなえても間違いではないです。

ただ、ことさらに異を立て間違いを立てて苦しむ人は気の毒ですので、仏様はそのような人に真実を伝えるために、様々に異なる方便を立てました。
>>[576]
いやいや、スターさんの正しいに異をとなえると
間違いになるんじゃないんですかってことですよ。
>>[577]

そうですよ。
スターさんから見た正しいこと間違っていることあって当然です。
TRAVANさんから見た正しい間違っているもあって当然です。
そのまま全員それぞれにとって何も間違っていません。
「象は柱のようであって綱のようではない」
「いやいや、象は綱のようであって柱のようではない」
とそれぞれ思って当然です。
象と象の鼻とパイプのような、かな。
>>象は柱のようであって綱のようではない
そうかもね。かな。
象をそれぞれの持っている知識によってああだこうだといっている図か、
>>[581]

チュンチュン教にようこそ。
教祖はジセン禅師です。
無我をお釈迦様時代のように「執着する対象は存在しない」と言う実践項目にしておいたままにしておくとどうなるか。
執着するものがない=無我と言うことは、何ら特別なもの、価値のヒエラルキーなどが存在しないことになる。「私にとってこれだけは特別だ」という執着がなくなることは、万物の平等にいきつく。
それは、無常に等しい、無常を無常のままに摂するのに等しいともいえる。人間の根源的無知(無明)とは、この万物の平等を否定したとき、必ず無常という事実に裏切られることから生ずる「苦」に結実する。
無我によって執着を離れ、万物の平等の広大な宇宙に我が身をおくとき、そこに滅ぼすべき「苦」さえも消滅する。
そして「苦(=ストレス説を亭主は唱える)」のない大自由の中を自在に生きる生き方が「仏教的」生き方である(真我と呼ぼうと涅槃と呼ぼうと同じであろう)。
亭主はさように考える。
>>[574]

 こんばんは、スターさん。

 30分ほどの空き時間ですから、細かいことは書けませんが、スターさんの読解力には何時もながら感心しています。ただ、小生の意図が伝わっていないので、それについて説明します。

 [凡夫位から見た構図]・[修行位から見た構図]・[成仏位から見た構図]とありますね。この真ん中の[修行位から見た構図]だけは正しくないのです。これは小生が教導目的で創作したものなのです。だから現実には[凡夫位]と[成仏位]しかなく、[修行位]の見解は菩薩(成仏位)が凡夫を導く為に方便の法を創作する場合には、このようになるだろうということです。何故なら、こうしないと悟りへの道が現れないからです。

>[569]盲人たちは皆さん全て正しいのですよと、高らかに教えたのが法華経と思います。

 仏から見ると「一切皆空」(水性)ですから、正しいとか間違っているとかの区別が消えて、一切は仏の身体の中に収まっているという意味になり、故に生死の相も消えて安楽と自在を得ているのです。

 これに対して、凡夫位の心は「諸法無我」に囚われた無仏の世界なので、見ること為すこと一切が無常ですから、生死が有り「一切皆苦」(波性)から抜け出ることが出来ないということです。

 ところで空海の論書、お気に召しましたか。般若は第七住心で「覚心不生心」ですね。不生だから不滅です。つまり空は不生で不滅ですが、空海の波浪と水性の解説など、分かり易いというか上手いですね。

 では時間ですから、後日ゆっくり。(無我と真我を内外に分けず、表裏一体に、というような話を確認してみたいと思っています)
>>[583] スター
チュンチュン教主呼んだ?

チュンチュン教だとこんな感じ。

「ゾウってなんか立派なホースなんだよ。火事の時よさそう」みんな「へー。いいないいなー」
「ゾウって、立派な石で、ハンコとかいっぱ作れそう」みんな「へー。いいないいなー」
「ゾウってすげー風来る大団扇なんだよ」みんな「へー。いいないいなー」
「ゾウってびくともしない柱だよ。地震だってびくともしないぜ」みんな「へー。いいないいなー」

「つまりゾウっちうモノはやな、、」みんな「ブーーーーー」
>>象をそれぞれの持っている知識によってああだこうだといっている図
なんだけど、実体があるなんてことになると違うってことにはなりそうですが、
空は第七住心で覚心不生心ですね
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-244.html

弘法大師の般若心経秘鍵、般若心経の註釈書らしい。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-10.html
第八住心=一道無為心−すべてが真実である
ちょい分りにくかったので調べてたら大覚寺に関連したものがあたったので、リンク
https://www.daikakuji.or.jp/dl/database_site/lower_html/menu08.html
といっても自分は良くわからないけれど、
>>[574]

 昨夕は急ぎ書きでしたから、小生が思う所も殆ど書けませんでした。なのでスターさんには伝わるだろうと信じて、[修行位から見た構図]の勝れた法相を説明しておきます。

 《 [修行位から見た構図]は実存法 》

 昨夕は“この真ん中の[修行位から見た構図]だけは正しくないのです。”と語りました。では、誰にとって正しくないのでしょうか。それも明かしましたね。つまり[凡夫位から見た]場合と、[成仏位から見た]場合です。言い換えると「凡夫が見れば間違って見える」のであり「仏が見ると間違って見える」のですね。しかしそれを承知で菩薩は[修行位から見た構図]を考案します。つまり迷っている凡夫を哀れんで「悟りの道」を作ったのですね。

 だから“この[修行位から見た構図]を信じて対話に参加すれば、悟りの道を歩むことが出来た”という実相が浮かび上がってきます。

 では「対話に参加する」とはどういうことでしょうか。勿論外野席に陣取って野次を飛ばすことではありません。そんなことをしていたって、永遠に悟りの道は見えて来ないからです。「対話に参加する」には「対話の中に自分自身を見付けること」が前提になります。つまり「自分が言葉を読む」のではなくて、「自分が言葉に成る」ということです。それが出来る人にだけ、恰も正しくなく見えた[修行位から見た構図]が命を得て、生き生きとした真実の構図として効力を現し、修行者を仏に等しくさせるのです。

 なので“[修行位から見た構図]は実存法”なのです。

 しかし、このコミュでは実存者として目覚めた人(この対話に参加できる資格のある人)は未だ現れず、一人も対話に参加しませんでした。もし、己の実存に目覚めた人がこのコミュに一人でも居れば、小生の菩薩行である慈悲の[修行位から見た構図]の意義を一目で見抜き、喜々として対話に参加し、仏と仏の談話が弾んだものをと、今では空しい思いしか残っていません。

 このコミュに来て、一番困ったことと云えば、仏も見えず、実存にも目覚めていない「ジセンさんの場外野次」でしたね。もし小生がこのコミュの主宰者であったら、即座に追い出していたことでしょう。

 しかし今となっては過ぎ去ったハプニング。一切皆空の仏の目には、何事も空の彼方に消え去っていて、「日々是れ仏日」の雲一つ無い晴天続きでした。

 ところで昨夕は“後日ゆっくり。(無我と真我を内外に分けず、表裏一体に、というような話を確認してみたいと思っています)”などと語りましたが、この言葉の心は、「スターさんだけと対話を続ける場が欲しい」ということであり、「スターさんの来るべき成仏成就を共に喜びたい」ということでもあります。

 その為には、このコミュは相応しくないので、小生が臨時に小さなコミュを作りますから、実存に目覚め、自身真言に変じてまともに対話の出来る人達だけの「日々是れ仏日」の場にご参加願おうかとの思いを伝えたかったのです。
 《無我を殺して真我を得る》は生じず滅せずのままに

 この対話に誘った小生の意図は、未だ一人の参加者も現れずに「不生不滅」の姿を呈しています。

 多分此処で何時まで待っていても、まともな参加者には出会えないことでしょう。

 そこでこの対話は、永遠に死ぬことのない《無我を殺して真我を得る》というタイトルと[修行位から見た構図]という素晴らしい実存法を残したまま、一旦休止致しましょう。

 小生はまだしばらくmixiで遣り甲斐のあることを見付けたので、今後小生からの書き込みは休止し、外野の野次にも応じませんが、もしまともな実存者の返信通知を感知すれば、応答致しますので、何時でも返信を入れてください。
新しいコミュ作るの大賛成。ここでそのコミュの宣伝もOKでしょう。
前向きな話だし、草刈場だし。

作っても私は行かないから安心して。

このスターのコミュ、仏教亭、仏教コミュでは私は木戸御免なんで、自由に書かせて頂いてる。
コミュ主が、他の人は書かないでって言ったら書かないけど、たいてい理由のあることなんで遠慮はする。
過去その理由は、他のメンバーを守るためか、頭のおかしな人、頑な人を、癒す目的があっげな。
とはいえ、やはりこっちに書きますってことにならない保証はありません。
二度さようならを言って二度戻ってきた人ですから。
たくさーん宣伝して、多くの人が集まるといいですね。
だーれも来なかったら、法を求める人の少なさを嘆くか、別の心配をするかどっちかだ。

思えばひとりでも喋れる阿呆陀羅さんは、偉かった。
 スターさんから対話の承諾を得て『《無我を殺して真我を得る》という法を般若経から読み取る対話』を始めてから二ヶ月余り経ちますが、未だ誰も正面から対話に応じる人さえ現れません。やはりこの法界談話は難しいのでしょう。でも気長に待っていますから、解が観えた方が居られましたら、何時でもその喜びの言葉を示してください。

 なぜ「解が観えた」ら「喜びの言葉」を語るのか。それは「無我を殺して真我を得た」なら、誰もが「思わず身震いするほどの喜びを覚える」ことになるからです。これに対しても「なぜ?」と問いますか? 答えは「解が観えた」時に分かります。そしてこの期を境に、仏教が説く法界の全容が、手に取るように解るようにもなりますよ。

 この対話は、もともとスターさんとの二者対談の予定でしたが、勿論他の方も真面目に悟りを求める方であれば参加し、この入仏界体験を成就して欲しいものでした。なので今後《無我を殺して真我を得る》ことに成功した方が現れるのを、小生がmixiに留まっている限り、楽しみに待っています。
(仏教コミュでもちょうど同じ問題について書きましたが)
何かしっかりとした自性を持つものがあるかのように自己だったり何ものかだったりにこだわり、とらわれ、そのせいで苦しんでいる生き方に縛りつけられたままになっている私たちに、ブッダはそんなしっかりした自性を持ったもの(我)など何も無いのだから見掛け上の我に執着するせいで苦しみから脱却できない生き方はもうやめなさいと教えられた。

これに対して、「見掛け上の我とは明らかに違う真我があるのだ、それに生まれ直すことこそがブッダも実は示唆していた最終的に逝くべき所なのだ」という表現もありますね。
無我という消極的、否定的な表現にとどまるか、それとも真我という積極的、肯定的な表現に踏み入るかは、極めて微妙な問題であり、表現にとらわれず真意を体現するなら、どちらでもかまわないと思います。
要は終局的にどちらの表現、言語化を選ぶにしろ、内実がともなっているかどうかこそが大事だろうと思います。
>>[596]

>無我という消極的、否定的な表現にとどまるか、それとも真我という積極的、肯定的な表現に踏み入るかは、極めて微妙な問題であり……

 解らない問題を憶測で処理するのは良くありませんね。無我と真我は表現の問題ではないのです。

 この話題『《無我を殺して真我を得る》という法を般若経から読み取る対話』の考察法は既に示してありますが、まだ読んでいないようですね。般若心経は同じものを言い換える法を説いているのではないのですから、じっくり読み解く努力をされることを望みます。般若心経が読めれば無我が消えて真我が得られます。つまり仏の世界に入ることが出来るということです。78910さんの場合、何度か「解脱出来た」と思う体験を経て、この入仏界が果たせる筈です。
>>内実がともなっているかどうかこそが大事だろうと思います。
一応四十八願が如来の条件っぽいですよ(こうなれば如来、仏って言える)
や さ し く わ か る 四 十 八 願
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/48gann.html
地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいるとするならば、三悪道の者はいないとか、
宿命を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないなら、六神通とか、
でもちょいよくわからないものもあったりしますが。
六神通 調べたら菩薩も持ってるんだ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A
四十八願は菩薩の条件か?
>>六神通
でもまあ四智あたりにも関係してるから、仏が持ってないってことはないかな。
四智
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E6%99%BA
バカヴァッドギーターの世界;上村勝彦(ちくま学芸文庫)一切を最高存在(ギーターではヴィシュヌの化身たるクリシュナ)にすべての行為を「放擲」すれば、かならずブラフマンに達すると説かれていて、いわゆる「大乗」仏教の展開が、ヒンドゥ教の発展と並行しているのがよくわかる、インドならではの事情だと思います。

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