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仏教を学ぶコミュの天上界と仏界

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コミュ内全体

 仏典に出てくる「天上界」と「仏界」について、何らかの見解をお持ちの方は、どうぞこの対話にご参加頂き、その見解の正しさを証すことができれば、他の方々の光明ともなり、悟りへの道を正す機縁ともなりますので、是非とも積極的な発言を願います。

 このトピックの主旨は以上のようなものですが、敢えてこのトピを立てたのは、コミュ中の対話で「天」の言葉が出たとき、天を否定する感情が伝えられることはあっても、「天とは何か」に言及する話者が居ないという実態を憂えたからです。

 或いは現状のこのコミュでは、まともに「天とは何か」の対話に参加できる知性はスターさんだけかも知れませんが、それだからこそ尚更この直感を覆すような、他の方々の見解が聞けることを願っているのです。

 勿論ここに言う「天上界」は「真天」のことであり、釈迦が家を出て仏として世に出る(悟りを開く)前に成就していた天上界のことですから、釈迦が此の世に誕生した直後に天地を指差しつつ「天上天下唯我独尊」と語ったという逸話の意味での「独尊」即ち「真天」の意味(厳密に言うと天上界は真天の体内)です。ですから、このトピ中の対話では、禅天などの「考察された天」などを持ち出して、対話を混乱させるようなことはしないでください。

コメント(210)

テレビに向けてリモコンのボタンを押せば、リモコンはボタンを押されたと認識しないままに赤外線を送り、テレビは処理しなければという思いを抱かずに画面を変える。
水は自分が水であると思うこともなく流れる。
人もそのように動くことができる。
>>[169]

意味付け・観念処理というのは、人間の利便性のために行われます。
観念処理するから、様々な類推もできて、文明を作ることもできます。
意味付け・観念処理は人間にとって便利です。

しかし、人間は意味付け・観念処理の過程で、自意識というものを持たざるを得なくなり、「同一性を保った自分」という架空の存在と自己を同一視し、そのことで自己同一性が崩れる(つまり死ぬ)という不安を得ました。

仏教は、ひとまず意味付け前の直接的・直感的経験のレベルの目に気付くを教えているように思います。
直接直感経験は、止むことなくありますが、普通は皆さん、観念に夢中で当たり前にある直接直感経験に気付きません。
だから心を落ち着けて、観念を落ち着けて、直接直感経験に気付き直接直感経験の目を開きます。
しかし、これで終わりじゃありません。
そこから、観念というものの正体に出会う旅があります。
そうです。
意味や観念というものは、人間のために、人間の便利のためにあるのです。
自己同一性という架空の存在と意識を同一視するのは、不安になるためではなく、ただただ、人間の便利のためにやっていることです。
なんだ、人間は愛したり信じたりするために、憎しみや不安を作ったのです。
なんだ、人間はただ愛したいし、ただ信じたいのです。
観念は、その愛したい信じたいという原初知性・原初衝動から生まれています。

ここから、迷い愛し迷いを導くという道が始まります。
それが仏の歩く道なのかなと思っています。
観念的処理をしないというのは、唯識風に言うと、阿頼耶識に操作されない ということなのかな と思います。
直接手出し出来る場所でもないので、実質的には瞑想を深めていって観てみるか、戒でもって響かせていくか という領域の話だと思います。
訂正

迷い愛し〜

迷いを愛し、迷いを導くという道が始まります。
それが仏の歩く道なのかなと思っています。
返信ぽいけど、たらたら書きのような気もするので、返信名つけません。

親しいってのが思いかも。
固定観念で考えるとわかりやすいので使っているんだけど、
親しいと思い込んでいたってことで思いは親しいなんじゃないでしょうか。
声も思い込んでいたと言えるけど声は音として認識されているだけ。

龍樹菩薩の中論の対話者が実体論者だけど、実体論が戯論なので、
戯論ってそういうことなの?、って思ったりしますよ
中論も論で実体論を否定しつつ無自性を定義してるんじゃないんでしょうか?
というか中論自体が戯論?

なにはともあれ、ここら辺の話しって難しいんですよ。
表現しにくいです。

真如の同体異名っていうのはこういうことなんじゃないんですか?
自性清浄心の同体異名は、真如、仏性〜 名前違うだけで同じもの。

万物の実相、無生、なんでもないは、認識の一番最初って感じですね、

見えると認識するは違うもので、
色形のないものは見えないから認識もされません。
真如自体が色形のないものなのかもしれません。

純粋な行為ってのがまさに171のそれ。

愛と憎しみはワンセット? 信と疑はワンセット?
ワンセットならどちらか消えると反対も消えます。
浄土教とか本願信じますけどお守りとか信じません。
一応ワンセットで存在します。

正念(良い思い、観念)ってものがあるんですよ、
じゃあ悪念(悪い思い、観念)ってものもあるんですよ。

唯識で言うとどうなんでしょう?
識は転変するからやっぱ良い観念悪い観念になりそうですよ。
どこが対応してるかは思いといえば意識でしょうか、
でも汚れた種もあるから阿頼耶識も関係してると思います。
というか転変するとあるから阿頼耶識の種は全部汚れているかもしれません。
けんりつだやしきになると汚れていないものになるのかも。
万物の実相、無生×、無相○、
いちおう分るだろうけど、無生もあるので訂正しておきます。
というか無生でもいいのかな?
観念処理について言えば、
観念処理はほぼ自動的に行われます。
石を見たら、ああ石だなと認識される。

たいていその石には、こっちから用事は無いので、これで終わり。

また石を見たら、石か、で終わっとけば無事と思います。

正念相続のときは、こっちから用事がある。
すべきことが明確なときは、すべきことを継続して運用すべきなんでしょうね。
人間の認識の、なにげにすごいところは、九官鳥やインコ類のしゃべりも「言葉」として理解する能力。AIは苦手らしい。
チワワと柴犬とダックスフントとセントバーナードをみてそこから「犬」という概念を抽出するところ。この4犬種の違いったらすごいからね。

だから「天界体験」と名付けられるものの認識も人間のパターン認識のたまものなのでしょう。
>>[179]

確かに、人間はチワワとダックスフンドのような似ても似つかないものに同一性を見出しますね。
幼き日の素晴らしく可愛らしい私と、おっさんの私も同一視出来るくらいです。
一方で、同じ饅頭を喜ぶ奴もいれば、饅頭怖がる人もいます。
私なんかはローストビーフが怖くてしょうがないです。
私を怖がらせたい人がいたら、私の住所を教えるので、送りつけないで欲しいです。
「天界体験」なるものも、かなり個別には違いがあるんだろうと思います。ただそこからわき上がった感情は、「ヌミノース」とよばれる圧倒的な体験であったでしょう。
PTSDが外から内への「焼き付け」だとすると、天界体験や霊的体験は内から内への同じくらい強力な「焼き付け」だろうと思います。
積乱雲から地上への落雷と、雲の中での放電の違いかな、上手くいえないけど。
天界体験は死と再生という事らしいんですけど、死んで再生したら輪廻転生なんですよね。
だからテーラワーダでは輪廻転生から解脱して不生不死という事なんです。
しかしナビさんの天界体験の死と再生というのは輪廻転生というわけでもなさそうでテーラワーダの不生不死から後の菩薩行を言ってるような気がします。
テーラワーダの場合は菩薩行を強調しなくても阿羅漢は菩薩の行いしか出来ないので結果的な事はあまり言う必要がないんです。
>>[163]

 スターさんの直感力は素晴らしい。と、小生は以前から感心し、魅力的な知力に尽きない関心を覚えています。

>私は、必ずしも聖霊体験が必要かどうかは分かりません。
>ただ、いくつかの段階というのはあると思います。

>まずは、空を直感する体験があります。……

 しかし、これ(聖霊体験・生天体験)ばかりは勝れた直感力を以てしても捉えるのが難しいかと思います。これは他の何方に対しても云えることですが、聖霊体験の何たるかを自分の思考力で捉えようと努めても、百人百様の空想が生まれるだけで何の成果も得られないことは歴然としています。

 という訳で、ここからはスターさんへの返信としてではなく、将来生天体験をするであろうすべての人に語り掛けるつもりで書きます。

 小生自身、生天体験時に現れる聖霊の正体を、長い間掴みかねています。それはこの聖霊体験が生じた時、小生はまだ宗教に関心が無く、天国という言葉の意味さえ考えたこともない状態だったからです。勿論「天国」という言葉は知っていました。それは子どもが童話などで「母さんは天国へ逝っちゃった」というような表現から、「死ぬことを天国へ逝くと言うんだな」と認識するのと同じ程度のものでした。

 そういう人間でも、いやそういう心の貧しい人間だったからこそ、天は憐れんで生天体験を生じさせてくれたのかも知れません。イエスが「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と知らせてくれているように。

 生天体験時に現れた聖霊衆は、天の何たるかも知らない体験者と天界へと向かう長い道中を同行します。体験者にとっては初めて出会う状況の連続で、それまで夢にも思ったことのない切羽詰まった状況を打破する為に、様々な知恵や勇気を絞り出さなくては、道案内をしてくれる聖霊衆に付き従って進むことが出来ない有様なのです。聖霊衆は時には悪魔のように、時には空飛ぶ大鳥のように、時には空中に浮かぶ人影のように、人間には通れないような場所をスイスイと先導して進むのですが、その都度聖霊体験者はその難所を通過する為に知恵を働かさなくてはなりません。例えば「無心に成らなくては通れない関門」や「時を止める神通力を発揮しなくては進路が塞がる難所」等々、「そんなこと考えたこともない」なんて愚痴を言っている暇は無く、早急に「無心に成るとはこういうことだ」と知恵を絞り、その場で実践しなくては通過できないのです。

 難所は沢山有りますが、この時体験したこれら「無心の実践」や「時を止める神通力」等々の精神力の修得は、天上界で生きる為に必要な能力だったのだということが、後々分かってきます。

([185]に続けます)
 ところで以前のコメントで「往生要集」は「臨死体験」を土台にし、仏教の悟道と仏教用語で脚色した生天体験記だというように紹介しましたが、源信が後輩の仏弟子向けに書こうとした為か、本来の生天体験(弥陀の来迎を受けた衆生が、どういう道程を辿って、どういう体験をしたか)が見え難くなっていますし、後ろの方では単なる仏道の話に変貌しています。

 生天への道の聖霊体験では、最初に臨死体験をします。ここで現れる聖霊たちの頭格は「閻魔王」です。といってもどの聖霊衆も「俺は閻魔王だ」というように名乗ったりはしません。その聖霊が「お前の生前の善行は悪行より多かったか少なかったか」と問い掛けてくるので、内心「話に聞く閻魔王というのはこれか」と思うだけです。聖霊に問い掛けられた時は、本心で答えないと聞き入れた貰えません。ですから、将来天国へ入りたいと思うなら、普段から悪い事と自覚しながらの行動は慎む習慣を身につけていたほうが良いかも知れませんね。

 閻魔王の裁きを無事通過出来たら、いよいよ善良な聖霊衆が現れて、様々な難道を神通力で作りつつ、遠い道程を延々と誘導してくれます。神通力で作られた難道は、それに対応する神通力を以て通過しなくてはならないので、次々と神通力を修得出来ます。

 こうして聖霊体験も4〜5日すると、いよいよ天国の門に到着します。この天国の門、どうやったって開きません。修得した神通力も全く通じません。ぐずぐずしていると門内で体験者の資質を観察している親分格の聖霊が「落伍者は去れ」とばかりに天高く去ってしまします。

 この天国の門の開け方を記した書物は有りません。いや、一つだけ、謎めいた表現で書かれたものがあります。それは旧約聖書の中に一カ所だけ。しかしこれを教えても役には立たないでしょう。何故なら、その物語が門を開ける鍵を表しているということが分かるのは、その門が開いて天国に入った者だけだろうからです。

 このように聖霊体験というものは、体験者が夢にも思ったことの無い事柄を、聖霊が次々と示してくれるのであって、しかもそれが天上界に向かう的確な道程だということから、これは体験者が考え得ることを遙かに超えた道理を表していることから、人間に先天的に具わった何かであるとしか言い様が無さそうですね。ですから「聖霊体験とは何か」と後天的知力や直感で推測しても、その正体を掴むことは先ず無理でしょう。
>>[176]


私が「親しむ」という言葉を使ったことが良くなかったようですね。
すみません。

いつもエサをやる人がニャアと言ったら、猫がニャアと鳴き返した、
というのも、特に意味づけや観念処理の必要なく可能です。

「猫が、よく聞く声のニャアに直接的・直感的にニャアと返した」
ということは直接的な出来事で、人間が観念的にこれを評すと
「猫が親しんでいる」
という表現になると思いますが、
親しんでいる猫自身は観念で思う必要ありません。

ウドンの例えで言えば、観念処理なくても、人間はウドンを美味しむことはできます。
「美味しい」は観念ですが、直接的・直感的に「美味しむ」ことは、当たり前にできます。
正確に言うならば、むしろ、人間は誰でも直接的・直感的に美味しんでおり、
後付けで、「これは美味しいものだ」と評しているだけかと思います。

以前、自由意志の話題で、仏教コミュでも紹介させていただきましたが、
ベンジャミン・リベットの実験などを見ても、私たちはほんの1秒にも満たない時間の中で、直感的に行動を決定してから、観念的に自らの行為を理解・意味づけをしているようです。
定義づけ・意味づけ・観念処理がない世界は、
空間的にひとつながりであり、時間的にもひとつながりであるがゆえに、
何かがあったりとか起こったりとかしようがないところです。
そこには、モノもコトもありません。

龍樹の中論の帰敬序には、こうあります。

■鳩摩羅什漢訳

 不生亦不滅
 不常亦不断
 不一亦不異
 不來亦不出
 能説是因縁
 善滅諸戯論
 我稽首礼仏
 諸説中第一


■上記の訓読

 不生また不滅 
 不常また不断
 不一また不異 
 不来また不出
 能く是の因縁を説き
 善く諸の戯論を滅す
 我れは稽首して仏を礼す
 諸説中の第一なりと


■サンスクリット語

 anirodham anutpādam anucchedam aśāśvatam
 anekārtham anānārtham anāgamam anirgamam
 yaḥ pratiitya samutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam
 deśayāmāsa saṃbuddhas taṃ vande vadatāṃ varam


■サンスクリット語の和訳

 滅することなく 生じることなく
 断たれることなく 常住ではなく
 一つではなく 異なることなく
 来ることはなく 出ることはない
 戯論の寂滅という
 縁起を示された仏を
 最高に優れた説法者として礼をいたします。
以上のように、戯論とは、
生じるものであり、滅するものであり、
変化せずに同じものであり続けたり、
変化して別のものに変化したり、
あれとこれとして異なるものであったり、
ナニカとして一つのものであったり、
あちらに行くものであり、
こちらに来るものである。
ということです。

これがそのまま、観念です。

空間的・時間的にひとつながりで分けようがない無限永遠宇宙を、
私たちは、生じるもの・滅するものとして観念的に認識します。
本当は色や形が変化しているだけで、
原子が消えたり減ったりすることはないのに!

あるいは、空間的・時間的にひとつながりで分けようがない無限永遠宇宙を、
私たちは、変化していない同じものや、変化して別になったもののそれぞれとして観念的に認識します。
目に見えなくても変化は続いているし、全てが変化し続けているのだから、
何一つ同じものはなく、何一つ同じものがない以上、ナニカが変化するなんて有り得ないのに!

あるいは、空間的・時間的にひとつながりで分けようがない無限永遠宇宙を、
私たちは、あれとこれとして異なるものや、ナニカとして一つのものとして、観念的に認識します。
分けようがないのに!

あるいは、空間的・時間的にひとつながりで分けようがない無限永遠宇宙を、
私たちは、個物に分けて、それがあちらに行くと見たり、こちらに来ると観念的に認識します。
個物もなければ、こちらもあちらも存在しないのに!

もちろん、大石が落ちてきて頭に当たれば痛いですし、痛みを感覚すること自体は観念ではありませんが、
痛みが実際に痛いことと、モノゴトを線引きして考えることは別です。


私たちはモノゴトを線引きして考えて、あたかも世界がもとから線引きされたものとしてあるように考えています。
しかし、実際には、世界は世界ですらありません。
今この瞬間に、私たちそれぞれが、感覚から入ってきた情報を、それぞれの経験則で大雑把に線引きしているだけです。

私たちの線引き行為は、それぞれの個人の経験則によって、ほとんど自動的に起こっているので、なかなか止めようがありませんが、
座禅や瞑想などを続けていると、体験的に理解できる瞬間があります。
これが分かると、最初の悟りと言って良いと思います。

これは座禅なり瞑想なりを日常的に行うことで、経験的に理解する以外ないと思います。
ただ、タイミングが合えば、言葉をきっかけにストンと直感できる可能性はあるので、
もしかすると、いつか、誰か、この文章を読んで悟る人もいるかもしれません。

しかし、永遠や無限の宇宙が分かったからと言って「俺は分かった」などと誇っても、特に良いことはありません。
空間的・時間的にひとつながりで分けようがない無限永遠宇宙を理解したら、
人間はなぜ、その分けようもない無限永遠宇宙に線引き行為を行っているのか、
その線引き行為は何によって起こっているのかを理解していくのが、次の悟りとなると思います。

原始仏教では、この最初の悟りを心解脱、次の悟りを慧解脱などと表現しているようです。
この両方をよく理解すると、自分が自分世界において何をしているのかを理解する能力が得られます。
他者が、他者世界において何をしているのかを理解する能力が得られます。
そして、自分を幸せにすることで他者も幸せにする、幸せな道を歩く能力が得られます。
原始仏教では、これを三明と言っているように思います。
訂正

そして、自分を幸せにすることで他者も幸せにする、幸せな道を歩く能力が得られます。

そして、自分を幸せにすることで他者も幸せにする、幸せな道に一歩踏み出すことができます。


能力は、菩薩の修行重ねないと得られませんね。
訂正します。
自分が自分の都合で線引きしておいて、その自分が線引きしたものによって苦しむというアホらしいことを繰り返しているスターさんを毎度毎度助けてあげていると、いつの間にか周りの近しい方々がスターさんの笑顔や頑張りを信じるようになって、自然と励まされて、幸せが広がっていくということがあります。


世の中はよくできているもんだと思います。
不一にして不異。
これ、大乗ではいっぺんに扱ってるような気がするな。
不異って体験がないと、次に行けないのは、そうかもだけど、
不異かつ不一ってのを最初から喧しく言ってるんだ経典では。

浄土では、不一亦不異なんてのは、まず言わないが、
言わなくても仏になるところを見ると、阿弥陀様に預けた状態では、どうしたって不一亦不異なんでしょうね。
生じるものであり、滅するものであり、
ってのは縁起のようだけど、
でもこれをくっつけると矛盾したりする、
変化せずに同じものであり続けたり
そういった面でのけろんなのか

生じるものであり(と同時に)滅するものであり
生じるものであり(と同時に)滅するものであり
なんかややこしくなったので、しない(あんまり寝てないので頭回ってない)

>>人間は愛したり信じたりするために、憎しみや不安を作ったのです
ワンセット、片方が生じると片方が生じます、
片方が滅すると片方が滅します。
観念ですか?
にゃーも突っ込めるけどしない、もうめんどくさい。
>片方が滅すると片方が滅します。

事実だし、観念でもありますね。
>>[185]


私への返信としてではないとのことですが、
非常に勉強になりましたので、いくつか感想を話させてください。

私はコメント163で、必ずしも聖霊体験が必要かどうか分からない、
と申し上げましたが、今、ナビさんのコメントを拝見して、
色々と気付かされるところがあり、ある意味では、
ナビさんのおっしゃる聖霊体験は必ず必要だと思い直しました。
ただ、必ず皆がナビさんと同じように体験する訳ではないと思います。
どうも、私は、ナビさんが5〜6日で通り抜けた聖霊体験を、
かれこれ5〜6年もの間、体験し続けているように思います。
私にとって、この5〜6年は本当に密度の濃い学びでしたが、
ナビさんがこのような学びをわずか5〜6日で駆け抜けたとしたら、
それはとんでもない体験であったろうと思います。

私は、仏教に出会い、仏教を学び始めた5〜6年前、自分の心に問いかけました。
「私に仏教の戒を守れた試しがあったろうか?私は正しい行いができただろうか?
私は正しい行いによって、善趣に赴く(正しい人間に生まれ変わる)ことができるだろうか?」
このような問いかけは、折々に絶え間なくありました。
このような問いかけがあったからこそ、私は自分の馬鹿さ加減を
少しずつですが理解していくことができましたし、
また、少しずつですが、戒をよく保持できるようになっていきました。

これは、今思えば、まさに
「お前の生前の善行は悪行より多かったか少なかったか」
と問いかける閻魔大王の声だったかもしれません。

そして、わずかながらですが、多少なりとも、自分なりにですが
「私はベストを尽くした」「私は誠実であった」
と思えるようになってからは、今度は、更に重い試練がありました。
嘘をついて堕落できるのであれば楽だと思ったことは何度でもあります。
しかし、私には釈尊から学んだ理想がありました。希望がありました。
この理想や希望こそ、ナビさんのおっしゃる
『時には悪魔のように、時には空飛ぶ大鳥のように、時には空中に浮かぶ人影のように、
人間には通れないような場所をスイスイと先導して進む、道案内をしてくれる聖霊衆』
だったかもしれません。
この理想や希望の導きなしには、私は道を進むことはできなかったでしょう。

もちろん、難所には何度も、何度も、何度もぶつかりました。
ナビさんがおっしゃるような、例えば「無心に成らなくては通れない関門」も通りました。
「時を止める神通力を発揮しなくては進路が塞がる難所」も通りました。
それは私にとっては、実際に直面する、人生の関門でした。
誠実に生きているつもりでも、苦しみはいくらでも降って来ます。
私の誠実は、荒れ狂う大海に浮かぶ木の葉のように、状況に翻弄されるように見えました。
また、私にはなまけ心もありました。他者のせいにしたくなる心もありました。
そのような心の難所において、私は、何度も何度も、ナビさんのおっしゃるような
「それまで夢にも思ったことのない切羽詰まった状況を打破する為に、
様々な知恵や勇気を絞り出さなくては、
道案内をしてくれる聖霊衆に付き従って進むことが出来ない有様」
に直面しました。
そうして、無心になったり、時を忘れたりしながら、
一つ一つの難所を、どうにかこうにか歩いて参りました。
そしてそのたびに、本当に貴重な、何ものにも代えがたい、
人生の宝となるような尊い経験を得させていただき、
ほかの人から見たら驚くような、くじけずへこたれない心という力をいただきました。

果たして、私はこのようにして、仏教を学び始め、5〜6年ほどもかけて、
ナビさんの言う「天国の門」にようやくたどり着いたような気がします。

このような途方もない道のりを、たった5〜6日でくぐるというのは、
まったく信じられないほど強烈で、死を実感するのに等しいような体験であったかと思います。
ナビさんのおっしゃるように、このような体験を通っていく道は、
宗教がなくても、天国という言葉の意味さえ考えたこともない状態でも、
人間に本来そなわっている直感によって、常に導かれている道だと私は思います。
ナビさんのように、この道が突然に開き、
わずか5〜6日で駆け抜けるというような体験は稀有でしょうが、
私のような亀の歩みであれば、5〜6年、あるいは20〜30年もかければ、
どうにかこうにか、聖霊の導きをだいぶ長い時間をかけてですが、
理解するに至ることもできるのではないかと思います。
私は、そのように、ナビさんと同じ道を、
まったく違う歩き方で歩いてきているような、そんな気がします。
普通は親しいって判断されてその後に行動が起きている、
危害を加える人と危害を加えない人の判断がないと猫は近づかないだろうし。

でも記憶化されていて条件反射みたいになってるんだと思う、
だから早い反応になっているんだと思う。

家がばたばたしてるからちょいとメンドクサイってことになったけど、
こっち都合でした、すみません。
mixiしなきゃいいんだろうけど気になるんだなぁ、、。

家がばたばた、余裕ない→めんどくさくなる→何もしない、
ちょっと解消、余裕が出来る→ちょっと悪かったかな→書き込んでいる。
>>[196]

>生じるものであり、滅するものであり、
>ってのは縁起のようだけど、
>でもこれをくっつけると矛盾したりする、

人間は生まれますし、死にます。
パソコンは工場でパソコンとして生まれて、
やがて粗大ゴミになって燃やされたり埋めたられたりして、滅します。
特に矛盾はないように思います。


>>>人間は愛したり信じたりするために、憎しみや不安を作ったのです
>ワンセット、片方が生じると片方が生じます、
>片方が滅すると片方が滅します。
>観念ですか?

はい。
観念ですね。
生きることも、救われることも、観念です。
死ぬことも、苦しむことも観念です。
ワンセットです。

このようなワンセットの観念は真実の涅槃にはありませんが、この世に必ずあります。
人間は、このワンセットの観念の世界を、自分の都合のために自分で線引きして作りました。
しかし、自分で線引きしておいて、自分で苦しむのです。
あっちが幸せで、こっちは幸せではない、という観念の地図の座標と実際の現実をごっちゃにして考えます。

『人間は愛したり信じたりするために、憎しみや不安を作ったのです 』
というのは、
人間は幸せになりたいという直接的・直感的な衝動に基づいて、
「あっちが幸せで、こっちは幸せではない、という観念の地図」を作った、
というような意味です。


「人間は幸せになりたいという直接的・直感的な衝動で云々」
と言うならば、そもそも「幸せになりたい」という観念的な衝動があるじゃないか、
というような矛盾を感じるかもしれませんが、そのように感じるのは全く正しいと思います。
「直接的・直感的な出来事」というのは、空そのものの体験・行為ですから、
本当は、それを「親しい」とか「幸せになりたい」とかいった言語で表現することは出来ません。
ですので、私が言葉で表現しようとする限り、TRAVANさんはその言葉に、どこまでも矛盾を感じると思います。

しかし、実際に空を感得し、直接直感の涅槃を知ったならば、
私の言葉が矛盾したものではないことが分かると思います。
龍樹の言説は、普通に読めば矛盾だらけですが、
涅槃を知る人にとっては、ごくまっとうなことが書かれています。
それに近いかもしれません。





いずれにせよ、このように、TRAVANさんのコメントに返信させていただくことで、私自身、非常に勉強になります。
ありがとうございます。

また、おそらく、他にも勉強になっている方がいらっしゃると思います。
TRAVANさんは、とても良いことをしていると思います。

もしかすると、TRAVANさんご自身は面倒で楽しくないかもしれませんが、
ならばこそ、余計に感謝します。
ありがとうございます。
>>[200]

>普通は親しいって判断されてその後に行動が起きている、
>危害を加える人と危害を加えない人の判断がないと猫は近づかないだろうし。
>
>でも記憶化されていて条件反射みたいになってるんだと思う、
>だから早い反応になっているんだと思う。


そうそう。
そうです。
ある意味で、言語とか観念とかじゃなくて、もっと直接的に、
「記憶化されていて条件反射みたいになってる」んです。

だから、
「普通は親しいって判断されてその後に行動が起きている」
のではなくて、
「記憶化されていて条件反射で行動する→親しいと判断(人間には<判断している>ように見える)」
というのが実際の順番かと思います。
(実際には、たぶん、猫は判断していません)

人間はさらにややこしいです。
「記憶化されていて条件反射で行動する→親しいと判断→親しいと判断したことを条件として条件反射で更なる行動&行動しながら環境(相手の表情とか言葉とか)を確認→そこで受け取った情報をもとに記憶化された条件反射が発動→延々とループ」
みたいになっていると思います。

自分の行為や思考や感情が
「記憶化されている条件反射である」
と体験的に分かるためには、空を知る必要があると思います。
もしかすると、空を知らなくても分かる可能性もありますが、仏教の修行の順番だと、普通は空を知るのが先と理解しています。
mixiに来ているから、嫌って訳じゃないと思う、

幸せになりたいからそれらをするのか、
それらをすることによって幸せになっていくのか、

実は変化するままに不生不滅なんですよってのはわかりました、
たぶんあってると思う、何かが何かによってある場合はこうなる、
1+2=3 でああそうなのかなって思ったりしたので、

たぶん構造はすべて同じですよ、動物だろうと人間だろうと同じ、
その人の情報、親しい、声、姿とかが記憶化されます、次回に判断の材料となります
(親しいってのがいつごろ決定されるのかは不明)
それともtravanが単純って事だろうか、、。
(または観察できていないか、単純化しているからなのか)
関係無い話だけど、蝶は幼虫からサナギになった時にサナギの中で一旦、全てドロドロに溶けて蝶に再生されるらしい。
えげつない(^^;
私の時にも門があった。
私は全て放り出して、死に向かう覚悟で歩き出した。
そしてその門の前で立ち尽くした。
その中にある泉を目指していた。

でもしばらくしたら(時系列がわからない)門は消えた
正確に言うと門が消えたことには気付いてなかった
大きな気付きを得て、門はなくなってしまった。

結局 門を作ってたのは自分だった。
そこを超えさえしたら幸せになれると思ってた。
苦しみのない所へ行けると信じていた。
だから必死に超えようとして。

超えたら一面に広がるお花畑の中に泉があって。
泉にたどり着いたら はい、ゴール。
みたいな、いかにもよくありそうな画。

でも何処まで行っても地面は足元とずっと一続きでしかない。
ここからが天の国で、ここからが地上なんて、そんなことはない。
こっちとそっち、何でこんなことになってるの…


途方に暮れて、ハッとした。
向こうに行ったから天国なんじゃない。
誰かの作ったどこかの天国を期待するんじゃここと何も変わらない。今ここで自分が天国を作り出すことでしか、理想郷には辿り着かないんだ。

そう気付いた時に もう門はなかった。
そこには不安のない世界が広がっていた。
私はこんな風に結果的に門を打ち破った。

前後に色んな人を巻き込んだから、彼らが聖霊と呼べなくもないんだろうけど、私の場合は本線とあまり関係ないことなので、省略。

こんなパターン?も、あると言えばある。
俺は、何かの門を破ったと思ったら、異界だった
全く別の法則に支配される世界に遷移した
実際に壊れたのは自分だったのだけれど

そこからなんとか自分を再構成しかけたりまた壊れたりを繰り返している
>>[204]

私がコメント192で言った以下の文章が、条件反射に近い話です。

『私たちはモノゴトを線引きして考えて、あたかも世界がもとから線引きされたものとしてあるように考えています。
しかし、実際には、世界は世界ですらありません。
今この瞬間に、私たちそれぞれが、感覚から入ってきた情報を、それぞれの経験則で大雑把に線引きしているだけです。

私たちの線引き行為は、それぞれの個人の経験則によって、ほとんど自動的に起こっているので、なかなか止めようがありませんが、
座禅や瞑想などを続けていると、体験的に理解できる瞬間があります。
これが分かると、最初の悟りと言って良いと思います。』

上記が、TRAVANさんの言う「条件反射」に相当していると思います。
ただ、TRAVANさんは
「その人の情報、親しい、声、姿とかが記憶化されます、次回に判断の材料となります 」
とおっしゃいますが、それを情報と思い、声とか姿と思うことが、すでに条件反射なのだと私は思います。
声は声としてあるわけではなく、姿も姿としてあるわけではありません。
人間は声を声として受け取るような条件反射を作り、姿を姿として受け取るような条件反射を作って、そのことによって、「ものごとを把握する」という脳内経験を積み重ね、その脳内経験に付随した条件反射を、さらにいくつもいくつも作っています。
今生きている間中、常に作っています。
これが戯論ですね。

座禅や瞑想の上手な人は、いったん、このような条件反射(戯論)を、脇に置くことができます。
脇に置いたら、空を体験できます。
私は座禅も瞑想もヘタクソなのに、運よく、このようなことを理解する経験を得たのですが、こういうケースはレアで、ちゃんと座禅や瞑想する方が確実で一番近道と思います。
矛盾って言うのは、これ。
生じるものであり、滅するものであり、
変化せずに同じものであり続けたり ←スターさんのにはこっちがない。
パソコンはやがてゴミになる、
パソコンはパソコンのままずっとあり続ける、
矛盾しています。ってことです。

常だとだめなんですよ、無常です。変化していくものです。
ただし、できるだけ八正道むりなところはごめんなさいを維持することによって
心の状態かな?を変化しないようにすることは出来るんです。
そういうのを常とか常住って言ってんだと思いますよ。

でもちょい般若心経に引っかかる記述がありますね、
四諦がないとかいうところ。
そういうのに囚われていないから、八正道が出来るってことかしら、、。
線引きして、認識しないと何にも出来ないように思いますよ。
白地に白文字読めますか?

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