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仏教を学ぶコミュの『維摩経』に学ぶ

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『維摩経』を読む皆さんから、たくさんのお導きを得られたら嬉しいです。

コメント(13)

『維摩経』はとても不思議な構造を持った大乗仏典の一つですね。
第12章においてブッダはシャーリプトラに言う。この維摩は、無動ブッダの〈妙なる喜び〉という国土からゴータマ・ブッダのこの国土に転生してきたのだ、と。
シャーリプトラは驚く。
「それほど清らかな国土を捨てて、わさわざこのような怒りや害の多い世界に願って転生するなんて、とても珍しいことですね!」

維摩はシャーリプトラに聞く。
「あなたはどう思うか。日が昇る時、日の光は闇と一つになるだろうか」

「いいえ、闇はただちに消えてしまいます」
維摩は言う。
「そもそも太陽は、なぜ大地に姿を現すのか」
シャーリプトラは答える。
「大地を明るく照らすことによって闇を払うためです」
維摩は言う。

「菩薩も同じなのだ。不浄なる国土に生まれてくるが、それは生きとし生けるものたちを導くためであって、決して愚かな迷いの闇と同化するためではない。
ただ、生けるものたちの煩悩の闇を払うためにこそ生まれて来たのだ」
Eテレ「100分de名著」が維摩経を読んでますね。
>>[2]

夜、1回分だけ視ました。あらためて『維摩経』を読んでみたら、とても素晴らしい内容だとつくづく感じさせられました。
『維摩経』のような大乗仏典を読むと、このような経典を作成された複数の僧たちは、原始仏典の咀嚼と、部派仏教時代の教義分析と、般若経典群の大乗思想の開化を自分のものとされた上で、
こうした経典を生み出されたのだなあと感じさせられずにおれません。
大変素晴らしいことです。
第1章から

菩薩の大いなる智は、それを得る元となる行いがあるのだということ。
そして菩薩はそれらの行いをことごとく成就しているのだということが記されている。

そして菩薩たちは人々から請われなくとも、すすんで友となって人々を安らかにするのだということ。

皆ことごとくすでに清らかで、煩悩の束縛から離れているんだという。
こういう一文を読むと、まだまだだなあ自分はと、励まされます。
長者の子、宝積は菩薩が浄土を得るための行についてブッダに質問する。
素晴らしいぞ、宝積よ、諸々の菩薩たちのために大いなる益となるこのような質問をそなたはしてくれたとブッダは宝積を褒め、さまざまな機根を持つ衆生のうち、どのような機根の者を救うかによってそれぞれに行があるとブッダは教える。

ひととおりさまざまな菩薩の行を説いた後、ブッダは言う。
「菩薩が浄土を得ようと願うなら、自らの心を浄くすべきである。その心が浄くなるなら、それによって彼が仏と成った時のその国土は浄らかなものになるのである。」

これを聞いたシャーリプトラは心の中でこう考えた。
「菩薩の心が浄ければ、彼の仏国土も浄くなるのだというならば、われらが世尊の仏国土がこのように不浄であるのは、世尊がかつて菩薩であった時に心が不浄であったからということなのか?」

このシャーリプトラに託された疑問はまさに『維摩経』を作成した修行僧たちが直面した疑問でもあったのだろうと思います。
この疑問に修行僧たちは『維摩経』で答えを出した。
ブッダはシャーリプトラの心を読んでこの疑問にお答えになる。
そして螺髻梵王もシャーリプトラに言う。

「そなたの心は高い低いを見て仏の智慧によらないから、この仏国土を見て不浄だと思われるのだ。
菩薩は一切衆生を見るのにまったく平ら平等であって、その深い心根が浄らかである。そのように仏の智慧によるならば、この仏国土は浄らかであると見ることができるでしょう」

(文脈、論理がわかりづらい所を自分で補っております。)
私たちは時に、この世界を嫌だなあ、汚いなあ、自分も含めてこの世界は何て嫌なものだろうって考えてしまう時がある。
しかし『維摩経』のここの所では、そうじゃないんだよ。自分の心がそう見せているだけなんだよ。この世界は実はずっと浄らかなんだよ、と教えられており、ブッダは大地を足でさすってやり、シャーリプトラたちにこの世界が美しく飾られた様を見せてやる。

そしてブッダは言う。
この世界が悪に満ちているように見えるのは、機根の未熟な者たちを救い導くために、そのように見せているだけなんだよ。

私たちは悩み苦しむことを通じて、教えを求め、正法に出会い、この世は醜く穢らわしいという思いを脱してゆく。

浄いとか不浄とかじゃないんだ。浄不浄の分別・言語を絶した所こそ仏の智慧だと、仏教コミュでひらさんから素晴らしいコメントをいただきました。
『維摩経』の第1章のここの所ではまだまだシャーリプトラたちに合わせて、日月のように浄らかな所、あるいは、たくさんの宝物で飾られた浄らかな所という譬喩が使われ導かれていますね。
「Aさんは尊敬できる素晴らしい人。
Bさんは卑しくて見ているだけで腹が立つ最低な人。」

などと分別して、好きだの嫌いだの思って、私たちは生きています。
これが、この世かと思います。

「この世」とは、分別したものを「取って」いるときにあります。
「取って」いるとき、「私」がいます。
取らなければ、「私」はいません。

「腹が立つ」を取るとき、腹が立つ「私」がいます。
「腹が立つ」を取らないとき、腹が立つ「私」はいません。
目をつむると物が消え、目を開ければ物が現れるように。
前を向けば前が見え、後ろを向けば前が見えず後ろが見えるように。
「腹が立つ」を取るとき腹が立つ「私」がいて、「腹が立つ」を取らないとき腹が立つ「私」はいません。
例えば、これが「腹が立つ」からの解脱です。

ただ、仏教が教えるのは、解脱したら終わりではありません。
「この世」から解脱したとき、解脱した喜びが生まれると教えます。
この喜びに生まれた心を兜率天と言うようです。
仏は、この兜率天から母胎に入り、その母胎から「この世」に生まれると教えられます。
つまり、無分別の仏界から、喜びの兜率天へと降下し、喜びの兜率天から母胎に入り、その母胎から「この世」に生まれるというわけです。
生まれる「この世」は、王族の集い、バラモンの集い、資産者の集い、修行者の集い、四天王衆の集い、三十三天の神々の集い、悪魔の集い、梵天衆の集いなど、8つあると教えられます。
生まれたところにおいて、仏は「如去・如来」となって、そこで説法をして、教え、諭し、励まし、喜ばせると教えられています。
そして教え、諭し、励まし、喜ばせた後には、すぐに姿を隠し、また仏の世界に還ると教えられています。

岩波文庫の「ブッダ最後の旅」だと第三章の77pあたりからこのようなことが書かれています。
岩波文庫の「ブッダ最後の旅」だと解脱は8種類あります。
ひとつは、『内心に「色」(物質)を想起して、外識の「色」(物質)を見る解脱』です。
これは『世界にはこの「腹が立つ人」よりも、もっと腹が立つ人がいるのだから、この人はましだ』などと思うような解脱かと思われます。

2つ目は『内心に「無色」(非物質)を想起して、外識の「色」(物質)を見る解脱』です。
これは『私には「腹が立つ人」がいるように感じられるが、これは現象であって、「腹が立つ」という本質的な特質がこの人にあるわけではない』などと思うような解脱かと思われます。

3つ目は『全てを清浄と認める解脱』です。
これは『腹を立てる人は良かれと思って腹を立てている、素晴らしい先生である』などと思うような解脱かと思われます。

4つ目は『空無辺処への解脱』です。
これは自らの「腹立ち」に全く付き合わず、他者という人間があることにも全く付き合わず、心を空っぽにする解脱かと思われます。

5つ目は『識無辺処への解脱』です。
これは、「この世」と思われた一切、何もかも全てが心にもとづき、心を主として心によって作り出されていると知る解脱かと思われます。

6つ目は『無所有処への解脱』です。
これは、いわゆる「ワンネス」の悟りかと思われます。「私」などは存在しない。全てはひとつであったと知る解脱かと思われます。

7つ目は『非想非非想処への解脱』です。
これは、時空などが存在しないことを体感するような悟りかと思われます。時間も空間も物質も、此縁性によって有るように見えているだけであると知る解脱かと思われます。

8つ目の悟りは『想受滅という解脱』です。
これは思考も感覚もない、一種の睡眠に近いような瞑想状態かと思われます。

以上のような解脱が起こると、喜びが起こります。
この喜びに住むと兜率天という天人となるようです。
釈尊は、そのような喜びからも解脱するように教えました。

腹が立っている人には、『世界にはこの「腹が立つ人」よりも、もっと腹が立つ人がいるのだから、この人はましだ』と言って喜ぶことを教え、自らはその境地には住まず、去っていきました。
『世界にはこの「腹が立つ人」よりも、もっと腹が立つ人がいるのだから、この人はましだ』と言って喜んでいる人には、その喜びには限りがあることを教え、実は本質的な特質などというものが存在しないことを教え、そのことによって更に本質的に心が安らぐことを教え、去っていきました。
このように、釈尊は兜率天から母胎に入り、その母胎から「この世」に生まれ、「如去・如来」となって、8つの世界に住む、王族や、バラモンや、資産者や、修行者や、四天王衆や、三十三天の神々や、悪魔や、梵天衆に教え、諭し、励まし、喜ばせ、去っていきました。
兜率天にも、その喜びからすら解脱するように教えたようです。

原始仏教で教えられた、このようなことが、大乗経典では更に分かりやすく説かれていますね。

何度でも何度でも「如去・如来」となって、人々のために教えたり諭したり励ましたりして、言葉だけでなく行動でも教え諭し励まし、そのことによって喜ばせ、また真如に戻っていく。
そのようなことをひたすら続けた生前の釈尊の在り方が、まさに菩薩道であったと見て、般涅槃して実際の肉体から離れて真実の涅槃に入って今も私たちを導いている方の釈尊を「真の仏陀」として尊敬する、それが大乗仏教なのかなと思います。

『維摩経』において教えられているように、8つの世界の住人に、8つの解脱を得させ喜ばせるとき、そのそれぞれの感動の中に仏国土が開かれますね。

『維摩経』の中で描かれているシャーリプトラなどの声聞の弟子たちは、この世には悟りとは程遠い愚か者がいると思っている。
世界には愚か者がたくさんいて、この世界は汚れていると思っている。

しかし、釈尊はそんなことは一切思っていなかった。
釈尊は、悪魔にもやさしく説き、教え、諭し、励まして、解脱させ、喜ばせた。
そんな人生を何十年も続けた。
そして「世界は美しい」と言って、喜んで毒キノコ料理を食べて、満足して、笑顔で、般涅槃して実際の肉体から離れて真実の涅槃に入って死んでいった。
そんな般涅槃する前の生前の人間釈尊を菩薩と見るとき、そんな釈尊の教えを聞いて修行に励む私たちは、まさに釈尊の築いた、なんとも美しくて尊い仏国土に暮らしている。



今の私には、世界には、まだまだ愚か者がいるように見えますし、許せないようなこともたくさんあります。
ならば私こそ菩薩道を歩み、成仏道を歩くべきだ。
釈尊を尊敬し、釈尊と同じように、菩薩道を歩き、他者のプレゼントを喜んで受け取って「ありがとう」と言って喜ばせ、世界を美しいと見て、満足して、笑顔で、般涅槃して実際の肉体から離れて真実の涅槃に入って死んでいく。
そんな道を歩くべきだ。

戒律を守らぬ凡夫は、劣っているのではない。
戒律を守れず戒律によって自分も守れない凡夫がいるから、仏は8つの世界に降臨して凡夫をこそ解脱させ凡夫と共に喜ぶのだ。

釈尊の作った仏国土で私も釈尊と同じような菩薩道を歩み、いつか私も私の仏国土を作り、笑って死んでいくのだ。
だからこそ、釈尊の作った仏国土は、このように清浄なのだ。

維摩が伝えようとしているのは、そのようなことなのかもしれませんね。
第3章でブッダがシャーリプトラに、病床にある維摩を見舞うよう促したところ、以前、林の中で安坐していた際に、シャーリプトラが維摩に言われたという言葉をブッダに語って見舞いを辞退するところも教えられますね。
維摩の言葉―――

「必ずしも坐ることが安坐なのではない。
安坐とはそもそも、三界のうちに身も心も取りはしないことだ。
一切の心の働きを滅し尽くした禅定から立ち上がることなく、しかも諸々の行いをなすこと、それが安坐である。
道の法を捨てることなく、しかも凡夫のことを行うこと、それが安坐である。
心が内にもなく外にもない。それが安坐である。
諸々の見解に触れても動揺することなく悟りのための三十七の手段を修行すること。それが安坐である。
煩悩を断じずとも涅槃に入る。それが安坐である。
もしもこのように坐る者ならば、仏の印可するところであろう。」
>>[12]

親鸞さんの正信念仏偈にも「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という言葉が出てきますね。
これの元ネタは曇鸞さんの「浄土論註」の「不断煩悩得涅槃分」で、その元ネタが「維摩経」の「不斷煩惱而入涅槃」、つまり78910さんが引用した「煩悩を断じずとも涅槃に入る、それが安坐である」の部分のようです。

凡夫が仏となっていく道とは、煩悩が涅槃となっていく道とも言えるかもしれません。
人間の心を苦しめる煩悩を嫌い断絶するのではなく、煩悩を慈悲によってそのまま涅槃へと導く、そんな道が大乗の道なのでしょうね。

阿弥陀如来は悪人をこそ救う。
悪人こそを救いたいと願って修行する菩薩に出会うとき、悪人は「ありがとう」と感謝して、不退転の聖者となる。
菩薩は不退転に入った元悪人の聖者を見て「本当に良かった」と満足して成仏する。
煩悩は断たれ捨てられるのではなく、救われ、涅槃に入っていく。
そんなふうに思いました。

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