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哲学 Φιλοσοφιαコミュのベネディクトゥス・スピノザ著『エチカ』を読む

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名著だと人々が言うものは必ずや読んで得られるところがあるに違いない。いったい何を感じ、何を得るか。
みんなでスピノザ著『エチカ』を読みながら、感想や考えたことなどを語り合いましょう。

コメント(100)

>>[60]

自国を守る為の戦争は善です。極限の時には人権など言ってられないでしょう。中国人が攻めてきたらどうするんですか?みんなで協力して戦わなければならないでしょう。何が個人の尊重ですか。そんな甘っちょろいことを言っていれば国は滅びます。先の日本人達は他のアジア人のように白人の奴隷になりたくないと戦ったんです。

ですから人権も平和時には善しかし極限の時は人権を主張することは悪になる。そこのところを分からなければならない。善でも極限では悪に変わるのです。戦争時の人権主張は悪である。個人尊重も悪である。
>>[61]
そういった国家にとって都合のいい人間が増えれば、国家も安泰ですね(苦笑)。

アメリカなどは貧困層が軍隊に志願するように仕向けられて、自国にとって必然性の無い戦争で命を落としている。
>>[62]

だからこそ絶対善を私が見つけたんだよ。間違ったことばかりやっているから。
いいですか、あらゆる問題を「私欲を抑え公の為とみんな一人一人が責任感をもって考えれば正しい答えになる確率が高くなるのです。

消費税についても本当に善の定義でみんなで話し合えば官僚に騙されないでまともな判断ができるのだよ。そのような政治にしなければならないのさ。
そのためには国民が絶対善を知ることがまず大切なのだよ。
本当に消費税を上げることは公の為になるのか、みんなが私欲を抑え公の為と考えるなら正しい答えが導けるだろう。
>>[63]
「私欲を抑え公の為とみんな一人一人が責任感をもっ」ことは人間の特性として無理でしょう。

それを実現する為の具体的な方法は?

旧ソ連や中国で行われていた思想的洗脳でも導入すれば実現できるかもしれませんが(苦笑)

それに「公のためになる」と考えた答えが一つに収斂するとも限らない。

太平洋戦争開戦前、公のために反対した軍人や政治家も当然いた。

財務省の役人や政治家が消費税導入を推進するのは、彼らにとっての「公」に利することだから。
>>[56]

>>「相対の世界に生きている我々には、絶対の世界に生きている彼らヨーロっパ世界の本質は恐らくは理解出来ません。」という言い方は大雑把すぎて、なにについて述べているのかが分かりません。

>まず、言語の壁があります。
>我々は日本語で西洋の哲学を学びますが、それは仮に原書を読んでもそれほど変わりないと考えます。
>何故なら、日本語には主語がないからで、そこに無理やり存在しない主語を組み込んで読むわけですから、どこかで誤訳をしてしまいます。

上の議論のやり方はおかしいですね。あなたは最初は西洋哲学のわからなさを「絶対−相対」を理由にしていたので、私はそこのところを問うたのに、なぜ日本語の文法の問題になるのですか?


それと、
>そこは確かに醍醐味であり、ある意味で絶望を与えます。
>僕はそこが怖い。

私のレベルが低すぎてそこのところまで到達していないからかもしれませんが、私には何が絶望で何が怖いのかが分かりません。西洋哲学であれ何であれ高度になればなるほど難しいのは当然のことではないでしょうか。当たり前のことに絶望することも怖がる必要もないと思います。

>>[54] 辻褄が合ってないと思いますが
イジメは我々の文化である
↓↓↓↓
とは

>>つまり、西洋ではいじめは概ねただの暴力であり、卑怯であり、悪となります。

しかし日本では、いじめは外形的に悪ですが、内面的に正義となります。


・・・ですか?

アパルトヘイトってイジメじゃないんですか?
昆虫見たいに変態しちゃうんですか?
大人社会では差別、子供世界ではイジメとか

死んでもいいと思う意味でも、白人じゃなければ死んでもいいって肯定してません?

スピノザってこういった理論なんですか?
絶対的ていうのは自分達の行動原理は肯定するって事ですか?

>>[65]


>上の議論のやり方はおかしいですね。あなたは最初は西洋哲学のわからなさを「絶対−相対」を理由にしていたので、私はそこのところを問うたのに、なぜ日本語の文法の問題になるのですか?

文法ではありません、言語のことです。

我々は意識せずに日本語を操るように、西洋人もヨーロッパ語を基礎とする言語を操ります。

例えば、僕もうっかり使ってしまうカタカナ語もまた、日本語の一種になります。

実はこのカタカナ語は言語としては最強の部類であり、それを持つゆえに哲学なき哲学を受け入れてしまいます。

>それと、
>>そこは確かに醍醐味であり、ある意味で絶望を与えます。
>>僕はそこが怖い。
>私のレベルが低すぎてそこのところまで到達していないからかもしれませんが、私には何が絶望で何が怖いのかが分かりません。西洋哲学であれ何であれ高度になればなるほど難しいのは当然のことではないでしょうか。当たり前のことに絶望することも怖がる必要もないと思います。

いいえ、哲学書が難しいことと哲学の本質は別であり、ある時に怖くなることがあります。

ちなみに僕のレベルが高くて、御坊哲さんのレベルが到達していないのではなく、僕が不純で御坊哲さんが純粋に哲学に向き合っていることに、僕との違いがあると思われます。
>>[66]

>アパルトヘイトってイジメじゃないんですか?

いじめではありません。

差別です。

>昆虫見たいに変態しちゃうんですか?
>大人社会では差別、子供世界ではイジメとか

ちょっとよく分かりませんが?

>死んでもいいと思う意味でも、白人じゃなければ死んでもいいって肯定してません?

益々、理解出来ません。

もう少し、詳しくお願いします。

>スピノザってこういった理論なんですか?

御坊哲さんにも答えましたが、僕はエチカを読んでいませんので、別の方に聞いてください。

>絶対的ていうのは自分達の行動原理は肯定するって事ですか?

逆です。

自分達の行動原理を否定することから始まります。

相対の世界では、自分たちの行動原理を肯定どころか、当たり前の常識と考えます。
>>[68]
白人社会では自分達のコミュニティ以外の人命を軽視した歴史がありますけど
肯定しているという事ではないでしょうか?

イジメの本質は差別であり、差別をイジメという言葉に形容しているとは考えられませんか?

行動原理を否定することが絶対という事につながるのでしょうか
非常識が絶対とはならないと思いますが?
>>[69]


>白人社会では自分達のコミュニティ以外の人命を軽視した歴史がありますけど
>肯定しているという事ではないでしょうか?

当トピックのテーマである、エチカを著したスピノザの時代は、その白人の命も軽視されてきました。

異端の罪は異教の罪よりも重いと、異端のレッテルを貼られた人々に対して、想像を絶するような拷問や処刑が行われました。

断頭台は人道的見地から始まった処刑方法と言うぐらいですから、想像に難くないと思います。

>イジメの本質は差別であり、差別をイジメという言葉に形容しているとは考えられませんか?

いじめについて語ると長くなるので、ここまでにしてください。

>行動原理を否定することが絶対という事につながるのでしょうか

そうです、何故なら基準を外に置くからです。

>非常識が絶対とはならないと思いますが?

何で、ここで非常識が出ますか?
>>[73]


>いじめられてたからって、何十個ものコミュで管理人になりまくることもないでしょうに笑

それはつまり、何十ものコミュの管理者をやっている人は、すべていじめの被害者であるということでしょうか?

何か、根拠となるデータはありますか?
>>[70]

相対の世界での行動原理を否定することが絶対的世界の条件ですか?
であるなら、常識以外といえませんか?

また、行動原理の否定が当たり前の常識であるという事が
どうして東洋には無い西洋の絶対的世界なんですか?
>>[75]

>相対の世界での行動原理を否定することが絶対的世界の条件ですか?
>であるなら、常識以外といえませんか?

宗教は常識では図れませんよ。

だからスピノザは、エチカを著したのではありませんか?

>また、行動原理の否定が当たり前の常識であるという事が
>どうして東洋には無い西洋の絶対的世界なんですか?

当たり前の常識というよりは、血肉になっています。

それが文化であります。




山本七平は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュの容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという。
出典
ウィキペディア言霊

山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。
出典
ウィキペディア日本教
>>[76]
そうですか?
青信号が安全な国ってあまりないですよね
安心してわたるのも経験的信仰ですよ。

宗教は常識で計りつつ経験の外側を探求しているだけではありませんか?
物理学と変わりませんよ。
>>[76]
絶対的世界なんてあったら血肉どころか
命懸けですよ
>>[67]

>文法ではありません、言語のことです。
あなたは>>[56] で次のように述べています。だから「文法」と言いました。
『何故なら、日本語には主語がないからで、そこに無理やり存在しない主語を組み込んで読むわけですから、どこかで誤訳をしてしまいます。』


でも私が問題にしたいのはそういうことではありません。>>[45]であなたは次のように述べました。

『相対の世界に生きている我々には、絶対の世界に生きている彼らヨーロっパ世界の本質は恐らくは理解出来ません。』

率直に言ってしまいますが、私はこのような大雑把な物言いは大嫌いなのです。そのような言い方ができるためには、あなた自身が相対の世界と絶対の世界の双方を理解していなければならないと、私は考えます。
ところが、あなたは>>[56] で「う〜ん、エチカは読んでいないので、テレビのみとなります。」と述べています。

じゃあなぜ、わざわざこのトピックで、「西洋絶対、東洋相対云々」のコメントを投稿したのかという疑問がわくのは当然ではありませんか。ところが、>>[56] では、私の問いかけに対しあなたは正面から答えることなく、いつの間にか言語の問題にすり替わっています。議論する姿勢としては不誠実です。

私個人の意見を言わせていただくなら、スピノザの神は決して東洋人には理解不能というような概念ではないと思います。というか、国分功一郎氏による説明を聞いた限りでは、現代の日本人にとってはむしろキリスト教の神や仏教の仏の概念より受け入れやすいのではないかとさえ思えます。
>>[78]


>絶対的世界なんてあったら血肉どころか
>命懸けですよ

まさにその通りではありませんか?

スピノザの友人は、惨殺されたのですよ?
>>[79]


>率直に言ってしまいますが、私はこのような大雑把な物言いは大嫌いなのです。そのような言い方ができるためには、あなた自身が相対の世界と絶対の世界の双方を理解していなければならないと、私は考えます。
>ところが、あなたは>>[56] で「う〜ん、エチカは読んでいないので、テレビのみとなります。」と述べています。

理解ではなく、解釈しています。

>じゃあなぜ、わざわざこのトピックで、「西洋絶対、東洋相対云々」のコメントを投稿したのかという疑問がわくのは当然ではありませんか。ところが、>>[56] では、私の問いかけに対しあなたは正面から答えることなく、いつの間にか言語の問題にすり替わっています。議論する姿勢としては不誠実です。

う〜ん、ならスルーすればいいだけではありませんか?

>私個人の意見を言わせていただくなら、スピノザの神は決して東洋人には理解不能というような概念ではないと思います。というか、国分功一郎氏による説明を聞いた限りでは、現代の日本人にとってはむしろキリスト教の神や仏教の仏の概念より受け入れやすいのではないかとさえ思えます。

例えばイエスキリストはユダヤ教徒であって。キリスト教徒ではないように、スピノザが近代哲学の道を開いた一人としても、スピノザやデカルトは中世哲学者であって、近代哲学者ではありません。

我々はスピノザ以降を知っていますし、スピノザ評も知っています。

そしてスピノザのお陰で、あるいはそれ以降の哲学者のお陰で、我々日本人の価値観とか宗教観と、その本質の違いが分かります。

受け入れやすいと思うのは構いませんが、安易にならないようにしないといけません。

頭で理解することと、腹に落とし込むのとは、似ていて非なるモノだからです。
>>[76]

>日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。

「ユダヤ人と日本人」はなかなか面白い本でもあるけれど、共感が得やすそうなことがらについて、実証的な根拠を上げずに断定している箇所が実に多い本でもあります。浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」と細部を突き合せながら検討することが望ましいと思います。
>>[81]

>う〜ん、ならスルーすればいいだけではありませんか?

私の問いに対して、スルーしているのはあなたの方ではありませんか。

私はあなたの次のような発言を問題にしています。
>『相対の世界に生きている我々には、絶対の世界に生きている彼らヨーロっパ世界の本質は恐らくは理解出来ません。』

上記の言葉に対して、私の方から「だからどうだというのですか?」と問いかけているのです。
>>[80]
>>まさにその通りではありませんか?

スピノザの友人は、惨殺されたのですよ?

↓↓↓
僕は最初から、どういった概念ですかと聞いているワケですけどね

西洋の絶対的世界て奴や、イジメと差別の区別にしても、東洋と西洋の顕著な違いであるはずの絶対的世界との境界線のような事には言及しきれていないと思いますがね

あなたが説明していることはスピノザの理論というよりは、あなた自身の意見としてお持ちの持論は
人間とは東洋、西洋問わず相対的であり、かつ主観的事実に従って生きているって事をお考えなのは
分かりました。
上野修の「スピノザの世界」を読んでいるけれども、これによると「エチカ」は、主要タームの「定義」と、自明とみなされる「公理」から「定理」を演繹するという手続き(証明)によって構成されているとのこと。

*「公理」(英: axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。
公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。
公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された(形式的な)言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。

*「定理」(英: theorem)とは、数理論理学および数学において、証明された真なる命題をいう。


>>[82]


>「ユダヤ人と日本人」はなかなか面白い本でもあるけれど、共感が得やすそうなことがらについて、実証的な根拠を上げずに断定している箇所が実に多い本でもあります。浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」と細部を突き合せながら検討することが望ましいと思います。

それは、やりたい方がすればよいいと思いますよ。

>>[83]


>私の問いに対して、スルーしているのはあなたの方ではありませんか。

スルーしていませんが、なら別に気にしなければいいと思いますよ。

>私はあなたの次のような発言を問題にしています。
>>『相対の世界に生きている我々には、絶対の世界に生きている彼らヨーロっパ世界の本質は恐らくは理解出来ません。』
>上記の言葉に対して、私の方から「だからどうだというのですか?」と問いかけているのです。

だからどうなら、どうでもいいと思いませんか?

というか、そんなにマウントを取りたいのですか?

エチカを読んだら、そうなるのですか?
>>[88]
マウントなんか取りたいと思っておりません。
いいかげんなことを言うべきではないでしょう、と言いたいだけです。

>>[86]
こういった考え方がある。という流行り捨てれが常にあったんでしょうね。
ユークリッド原論が紀元前3世紀頃ですから、公理という設定自体存在していたわけです。
公理を仮定とするということ自体は問題ないですが公理は命題でもあるんです。
公理〜定義〜定理となるわけです。

1800年代からヒルベルトやガウスによって公理とは仮定であるといえるようになるわけです。
言い方がまずかったら、証明したです。
 この辺りを知らないと論理とは元来人間にプレインストールされているんではないかという
感動みたいなものを半減させてしまうようにも感じます。
実際ユークリッド自体が仮設から始まろうとも常に同じ値を導く定理であったわけです。

僕からすると近代哲学は精神世界の辻褄を無理矢理合わせようとしてギスギスしているように思います。


>>[90]


>マウントなんか取りたいと思っておりません。
>いいかげんなことを言うべきではないでしょう、と言いたいだけです。

いや、それをスピノザが批判した行為でしょう?

自分は正しいから間違った者を糾弾する、つるし上げる、惨殺すると?

だいたい、それをマウントと言わなくて、なんて言いますか?


>>[43]

僕も岩波文庫『エチカ〜倫理学〜』の下巻を購入しました。
上巻の出だしに比べて、ずっと読みやすいですね。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

第4部 序言の読解
人間は自分の感情を統御したり抑制することについては無能力である。このような状態を〈隷属〉という。
人間は感情に支配されており、したがって自分の力の下にあるものではなく、運命の力の下に翻弄されるものだ。
人間はより善きものを夢見ながらも実際は、運命の力のほうが増すせいで、より悪しきものに従うように強制されるのだ。
ここ第4部では、このことの原因を究明する。さらに人間の感情がいかなる善あるいは悪を有するのか解明する。
第4部 序言の読解 その2
その前に〈完全性〉とか〈不完全性〉とはどのようなものか、〈善〉とか〈悪〉とはどのようなものか、少し語ってみたいとスピノザは言う。
この後のスピノザの議論は、なかなか面白いものですね。
その中の10頁にまず着目してみます。
人間が屋内生活の快適だろうことを思い描いて家を建てようと思った時、「家に住もう」という衝動こそが〈目的原因〉とか〈第一原因〉と呼ばれるものである。
なぜ〈第一原因〉と呼ばれるかと言えば、人間はしばしば衝動自体は意識しているが、その衝動を生み出したところの原因までは知らないからである(!)。
>>[94]

あたかも人間は「家に住みたい!」という思いが彼に家を建てさせたのだから、「〇〇したい!」という思い(意志、衝動)こそが第一原因だと思い込んでいるが、
そんなのを第一と言うのはただ人間が、自分の思い(意志、衝動)を形成したところのさらなる原因にまで考えが及ばないだけだーー
とスピノザは言っているようですね。
>>[93]

スピノザも案外いい線言っているが善は定義できてはいない。

>人間はより善きものを夢見ながらも実際は、運命の力のほうが増すせいで、より悪しきものに従うように強制されるのだ。<

これは善は本能的なものだが本能より理性が強いので悪しきことをしてしまうと言うことです。悪は理性により生じるものです。


>さらに人間の感情がいかなる善あるいは悪を有するのか解明する。 <

これは私が善なる感情こそが善であると言う事と同じなのかな。でも本能には悪はないことを分かっていないね。本能は絶対善である、なぜなら本能が悪なら種族は保存できないから。種族保存は絶対善である、そのために本能は作られたのであるから本能に悪などはない。
>>[96]

>「人間はより善きものを夢見ながらも実際は、運命の力のほうが増すせいで、より悪しきものに従うように強制されるのだ」
これは善は本能的なものだが本能より理性が強いので悪しきことをしてしまうと言うことです。悪は理性により生じるものです。


スピノザは少なくともここでそういうふうに言っているとは僕には思えません。
shinwoodさんの受け取り方を検討させてもらうなら、果たして善が本能的なものだなんて言えるでしょうか。言いきれるでしょうか。shinwoodさんは本能と理性を対立させていますが、理性の根は本能にないと果たして言えるでしょうか。
私たちが善きものを夢見る時、果たして理性もまた十分に働かせながら夢見ていないでしょうか。
人間は本能にしたがいたいと思いながら理性を働かせてしまうせいで悪しきことをしてしまうのだなんて、shinwoodさんのように果たして言いきれるでしょうか。
>>[96]

>本能は絶対善である、なぜなら本能が悪なら種族は保存できないから。種族保存は絶対善である、そのために本能は作られたのであるから本能に悪などはない。


悪だ善だと言ったところで、それは人間による評価なのだから、別に本能自体に「これは善です」とか「これは悪です」とかのレッテルが貼ってあるわけじゃない。
ただshinwoodさんが本能は絶対善であると、自らの考えに基づいて言っている限りのことでしょう。そしてshinwoodさんはその理由として、本能は種族保存という、これまたshinwoodさんが断言するところの絶対善に奉仕するものだからとおっしゃるのですね。

しかし、善だ悪だの評価が人間の心が行うものだとしたら、shinwoodさんの文脈を離れて僕の考えを言えば、本能にしろ理性にしろ、人間が必然的に獲得してしまっているものは「悪だ!」なんて負の評価を下したって仕方ないのだから、
それらを認めた上で、より良い個人の生や社会の営みを形成できるか否かを考えたほうがいいだろうし、
まさにそこにこそ、「それは善いことだ」「それは悪いことだ」という判断が生まれてくるのだと思います。
>>[97]

>果たして善が本能的なものだなんて言えるでしょうか。言いきれるでしょうか。<

まだ理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると実証されています。善は本能であり、ゆえに絶対的なのです。下記のHPをご覧ください。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html (赤ちゃんでも善悪は分かっている?)

>shinwoodさんは本能と理性を対立させていますが、理性の根は本能にないと果たして言えるでしょうか。 <

別に対立はさせていません。勿論本能を基にして作られた理性は善い理性ですが人間は頭が良すぎるので悪い理性も作ってしまうのです。悪を行うのは悪い理性です。

>人間は本能にしたがいたいと思いながら理性を働かせてしまうせいで悪しきことをしてしまうのだなんて、shinwoodさんのように果たして言いきれるでしょうか。<

本来人間には本能という素晴らしいものがあるのですが理性が強いので理性が勝ってしまうのです。悪い理性は例えば勉強をすればいいのにカンニングをしてズルをしようとするのです。悪は理性が行います。本能は絶対善です。何故なら群れを守る為本能が出来たのですから。
>>[98]

>善だ悪だの評価が人間の心が行うものだとしたら、shinwoodさんの文脈を離れて僕の考えを言えば、本能にしろ理性にしろ、人間が必然的に獲得してしまっているものは「悪だ!」なんて負の評価を下したって仕方ないのだから、
それらを認めた上で、より良い個人の生や社会の営みを形成できるか否かを考えたほうがいいだろうし、 まさにそこにこそ、「それは善いことだ」「それは悪いことだ」という判断が生まれてくるのだと思います。<

善は本能であり理性で考えられた善は本当の善ではありません。理性で考えた善は相対善です。しかし本能から来る善は絶対善なのです。
善は本能ということをまず理解しなければなりません。赤ちゃんでも善悪は分かっているのですから。理性で考えた善は法や規範、ルールは絶対的ではなく極限では変わってしまう善です。相対善です、あやふやな善です。ですから自分には自分の善があり相手には相手の善がある、なんていうのです。そんな善は役に立ちません。だから世の中が乱れているのです。
そうではなく善は絶対善があるのです。それが本能的善です。私が見つけた善の定義こそ絶対善なのです。
絶対的に正しいことは群れの秩序を守ること、そして群れを守る為に最も正しい方法が「私より公を優先する行為」なのです。これが絶対善です。簡単に言えば「絶対善は公(みんな)の為」です。これですべてが調うのです。


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