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哲学 Φιλοσοφιαコミュの「意識」とは何か――諸学説・学説史の検討

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コミュ内全体

哲学諸家の意識論を収集して検討します。
コギト・センスデータ・クオリアなども。

コメント(206)

>>[163]

直角三角形が私の「[140] つい」の視野版であるとも推測できます。

直角三角形も光の色として感知する考えると前項の答えましたことと
同様に扱う事ができると私は思います。
>>[167]

>青色LEDの光もこの世には存在しませんでした。

「しませんでした」と言う事は今はあるのでしょうか?
>>[170]

時間があれば聞いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=cObQuLXAWqs
受動意識仮説、
つまり、「私」とは、観察者に過ぎない、つー主張は、
皆さん的にはどう思いますか?
>>[179]

極限の私は、外界のさまざまなものを対象としてとらえたり、心内のさまざまなものを観察したりといった一つの観察する眼(肉の眼ではなく心の眼)だろうと思います。
その眼さえも後ろに回り込んで観察しようとする深い黙想をさらに進めたなら、私は私さえも脱したものと一致することを知る。
>>[180]

ミケランジェロがダビデ像を造るとき、
「こういうダビデ像を造るんだ」と意図したのではなく、
石柱にあるダビデの姿を現して上げた、そうな。

仏像も似たような話を聞きますな。
意識か、無意識の産物か。
犯罪に関しても、
脳の器質的な問題はおろか、
神経細胞膜の表面電位の量子的な揺らぎによって、
行為が創発される場合、
それは意識と言えるのか。

たとえば、日本の犯罪報道でテンプレになっている、
「血を見て逆上した」は意識の産物か、それとも否か。
>>[184]

本人が意識してなければ受動意識でしかない。

〉愛

利他行動を行うと、人間の脳は快感を得る。
つまり自分の神経伝達物質に支配されてるわけね。
人間などという出来損ないの生物の行為に、価値はない。
>>[186]

その時への、お見舞いです。
宗教的なものではありません。
自分の表面意識は一所懸命、自分という人間の物語を自分の記憶から紡ぎ出し、自己像を一所懸命作り出す。
しかし、自分が見たくない、覚えていたくない、自分の姿の一部だと認めたくない抑圧された影の部分が、意識下へ、無意識の中へと葬ったつもりが、思わぬ形で自己を急襲することがある。
隠したものは暴かれ、まるで他人事だったかのように忘れようとしていたことが白日の下にさらされる!
>>[188]

お見舞いに影を描いた絵は出せません!
>>[188]

余程、この絵、気にさわったようですね!
勘違いでは、題材は私ではありませんよ(タイトルも何もありません)。
想像で人と社会に似せて書いた絵です。
>>[190]

えっ?
ついさんの絵のこと、スマホからでは字が細かいからよく見ていないし、ついさんに向けて何か書いたわけでもありませんよ。
価値というのは対立がないと成り立たない。意味もまた同じ。
言語学のソシュールはワルラスの経済学から発想を得ている。
商品の価値は他の商品で尺度される他ない。

意味というのは、例えば「赤」そのものに意味があるわけではなくて、交通信号のようなシステムの上で「赤」は「青」でも「黄」でもない、ということが意味なわけ。

言語学には「能記/所記」というのがあるけど、意識にも「意識するもの/意識されるもの」があると思うようになった。何かを視点にして何かに対することが意識なわけだ。
意識するというのは、コギトみたいな主宰者があるのではなくて、意味のネットワークに捉えることだと思う。

目標とか金言とかを、紙に書いて壁に貼ったりするのは、意志を対象化することだ。これは自分の内なるものを自分に対するものにすること。自己規範だ。これは意識を変えることだ。
>>[193]

「意識できないことがある」位、後は私が何かを書くとそれは愚ですね。
何かを他と区別してとらえる、焦点を合わせるのが生き物における意識であり、生き物によって何をあえて他と区別してとらえるか、焦点を合わせるかは異なってくる。
ある生き物にとっては確かに区別してとらえるべきもの、焦点を合わせるべきものであっても、他の生き物にとってはそんな必要など全然感じられる対象として浮かび上がってこないということがある。

人間にとっては自分の意識さえもがあえて対象としてとらえるべきもの、焦点を合わせるべきものの一つとされている。これにより人間は覚え、記憶し、なおかつ反省したり考えを組み合わせたり推測したりすることにおいて他の生き物より格段に優れている。
>>[194]

このトピックの趣旨は、表記のとおり「学説の検討」なので、解りやすさを犠牲にして既存の専門用語・概念をぶっこんでます。
「意識」といいことで普通の議論なら、こちらのトピックが適切でしょう→「意識とは」http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6249752&id=84521611


ところで、↓このフレーズを見て何だと思いますか?

【に上も三の石年】
>>[196]

>【に上も三の石年】

何も知らない人は、【に上も三の石年】って何だろう?
「石の上にも三年」を知っている人はこれを入れ替えたと思うのでは
ないでしょうか。
>「意識」といいことで普通の議論なら、こちらのトピックが適切でしょう→「意識とは」

了解いたしました。
>>[197]

そうです。意味のストックがあるので、それとの連関で「石の上にも三年」が意識できるわけです。上で述べたのはそういうことです。
下等生物の走性ように個別の対象に反応しているだけではない。意味のネットワークがあらかじめあって、そこから俯瞰することが「意識」なのではないか、という考えです。
>>[199]

[130] つい で 述べました。
・哲学とは
人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。

私は8割方「経験からつくりあげた人生観。」でこのコミュニティーに
参加させていただいております。

意識の入出力そして睡眠時の「なし」の状態。そしてカメラのフォーカスを当てえた状態と絞りを調整した状態とで意識の末端を捉えております。
それぞれぞれがネットワークされたとき始めて意識の存在が確立される。
と芹沢大助さん の文章をみて感じました。

蛇足ですが宇宙も全体を知らなけっればハッブル宇宙望遠鏡の写真のようにしか、とらえることしか出来ないのでしょうね。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%96%E3%83%AB%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1&rlz=1C1ZMDB_enJP504JP507&espv=2&biw=1366&bih=643&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=q_GUVcLkD9D-8QW6paqgDA&ved=0CAYQ_AUoAQ&dpr=1

返信ありがとうございました。
今朝、妻が唐突に「クォリアって何?」と訊ねてきた。私は、「今、君が見ているもの感じているもの、例えば、そこにある赤い包装紙のそのありありとした赤さを実際に観ているでしょ。その赤そのものがクォリアだよ。」と答えた。
すると妻は、「うーん、ちょっとわからないわ。それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの、わざわざクォリアなどという必要はないのじゃないの?」
それで私は、「私達の見ている空の青さは、物理学では説明できない」(*注)式の説明をしたのだが、妻は「分かったような気もするけれど、やっぱりわからないわ。」と言う。

クォリアが分かりにくいのはあまりにも身近過ぎるからだと今まで思っていた。だからあえて、「この赤」というふうに、その身近さを気付かせようと「この」をつけて表現することが多い。
しかし、「それなら、ただ『赤』と言えばいいだけじゃないの?」という妻の言葉がここで、ちょっと引っかかってきたのである。よくよく考えてみれば、われわれが経験について述べている場合、すべては「クォリア」について言及しているのである。そもそもクォリアの「身近さ」を気付かせる必要などあるだろうか?

わざわざ「クォリア」と言うのは、私の意識の中にあるものは私秘的なものである、ということを改めて提示したいからであろう。つまり、私達は無意識のうちに自分の意識も他人の意識も同じようなものだと考えているが、実は私は他人の意識の内には入れないし、他人は私の意識の内には入って来れない。そういうことから、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である」というようなことがあり得るのではないかという想定が可能になる。だとしたら、私の今見ている「赤」は単に公共の言葉である「赤」で表現するだけでは不十分で、やはり「この赤」とか「赤のクォリア」というふうに表現したくなるのである。

しかし、ウィトゲンシュタインは「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」ということを言う人はその言葉の意味を理解していない、というややこしいことを言い出した。一般に有意味な命題というものは真かまたは偽のどちらかでなくてはならない。そして、その命題の意味を理解しているということは、どういう場合に真であるか、どういう場合に偽であるかということを知っているということでなくてはならない。例えば、「雪は白い」という命題が真であるとは、雪が白い場合であることをしっていれば、「雪は白い」という命題を理解していることになる。

ところが、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』である。」という言葉の問題点は、私が「他人の見ている『青』」にアクセスできないというところにある。私には、「他人の見ている『青』」という言葉がなにを指しているのかということが根本的に理解できない。「他人の見ている『青』」と言いながら実は「自分の見ている『青』」に置き換えながら想像してしまうのである。つまり、「私が見ている『赤』は、他人の見ている『青』かもしれない」というような想定が一見成立するような気はするが、その言葉がどのような事態を意味しているかは誰も知りえないのである。

恋人たちが海辺で夕日を眺めているとする。彼氏が「夕日が赤いね。」と言う。そして彼女が「そうね、本当に赤いわね。」と答える。この時二人は、同じ世界にいて、同じものを見つめていることを確信しあっている。そして、言葉を通じて、夕日が赤いことの客観性をも確認しあっているのである。この時一方の「赤」が他方の「青」であるというようなことはあり得ない。二人とも間違いなく「赤い」夕日を眺めているのである。公共言語における「赤」の意味はそれ以上でもそれ以下でもありえない。

以上のように考えていると、「クォリア」という言葉の存在論的価値というものがかなりあやしいものと言わざるを得ないような気がする。

(*注)「空はなぜ青いのか?」
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/6f1a3a9113350fbf84976db932d03fdb
>>[202]

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
サイトで唯一学問的に信頼できる「脳科学辞典」では以下のようにかかれてますね。


「クオリアは、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである」
「哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている。」
クオリアは哲学から提議されたが、哲学的な考察としても、まだまだ未開拓で考察を進める必要がありそうです。

「 クオリア問題は哲学者だけが相手にする種の問題だと見なされてきたが、今後は、具体的に脳科学者が研究する対象となっていくことだろう」
>>[204]

クオリアの問題は脳科学によって、実証されつつあるようです。
>>[204]
「クオリア問題が脳科学者が研究する対象」といまさらのように表現することに少し違和感があります。というのは、われわれ人間がどういう条件の時に、なにを見、なにを感じるか、というようなことは昔から一貫して科学の課題であったと思うからです。どうしても「クォリア」という言葉を使わなければならない、という事情は科学の側にはないと私は考えます。(もちろん、その言葉が便利であるということなら、それを使うことには何の問題もありません。)

哲学者がクォリアを問題にするのは、意識現象と物理現象を直接つなぐチャンネルというものを見出せないからだと私は考えます。いわゆる意識のハードプロブレムというものですね。


「何でも理屈で説明できるというのは間違いであるということを、理屈で説明する。」
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/e1c8f8ee15e8c7177744d3543bfd9f6e

「意識のハードプロブレム」
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/e3a40c842d35936c80dbd1ebcfe2c794

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