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哲学 Φιλοσοφιαコミュのジル・ドゥルーズとは何者か

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ジル・ドゥルーズはいったい何を言ってきたのでしょうか。
何をしてきたのでしょうか。

コメント(12)

本質的でいい質問ですね。また、あとで。
差異がテーマからして、異質なものどおしの理解とか。
ドゥルーズの哲学の方法

ドゥルーズは一見、他の哲学者を論じてばかりいるようにも見える。しかし決して、他の哲学者の考えを繰り返しているのでも整理しているのでもない。
哲学者は自らが立てた問いとその探究を、決して自らが意識しているほど明晰に支配しているわけではなく、十分展開しきれていなかったり、実は自分が意識に拾い損ねている概念に頼って論述しながらその概念がまったく覆い隠されていたりする。
ドゥルーズは一人一人の哲学者が自ら気づきえなかった真の足場(無意識の足場)まで降りて、展開されないまま未着手となっている襞(ひだ)を十分に広げてやろうとする。
橘玲が、ドゥルーズ(・ガタリ)の「リゾーム」はこの世界の根本原理としてのフラクタルのことではないかと言っているが、面白い意見だと思う。
既読と思いますけど、読んでいて面白いドゥルーズの
論文を見つけました。

哲学的には概念を創造し続けた哲人ともいえますね。
http://noos-academeia.com/about.html
「「哲学とは概念を創造することである」とドゥルーズはつねに言い続けてきた。概念とは一般に事物が思考によって捉えられ、かつ表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容のことをいう。」
概念は他にも以下の説明がある。
http://www.weblio.jp/content/%E6%A6%82%E5%BF%B5
>>[4]
私はすぐ、聖書世界に当てはめする癖がありますが。

もっとも良く創られる概念として神概念があります。
通時的には雷、山→エンキドゥ、ラー、モロク、ヤーウェ→アラーであり、共時的には神、究極の関心と云えるかもしれません。
通時的には「神の歴史」(カレンアームストロング、柏書房)という本がかなり書いてますが。
それぞれの時代の哲学(思想)が、究極の関心を説明して来ました。その構造は統制・支配ですが、現代において構造は崩れ、再構築を求められている訳です(まあ、歴史的な新しい概念不要、そのままが良いという向きも多いかも知れないけど)。
話がそれました。
>>[4]

「こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである」(「哲学とは何か」ドゥルーズ、ガタリ、23ページ)。
そして、概念は、内在平面―概念的人物―哲学地理の三つに支えられていて、哲学―科学―芸術に関連を持つという訳です。
結果的に言えば、ある真理を見いだすのでなく、真理の見いだしかたが哲学であるという訳です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-G%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4309463754
**
前に「ドゥルーズする」と書きましたが、フランスの悪友?たちが教えてくれたように、ナンパ論を書くのでなく(打ち立てるのでなく)、ナンパを実際にする手順を共にすることが、哲学することな訳です。
いきなり、まともになりましたが、彼らの解説は相当だと思いますが?
恋愛とかセックスに当てはめても解りやすいと思います(実はかなり、文科省風に変えてます(^^;。)
ドゥルーズは「哲学を始める」とはどういうことか、という問題について、一切の前提をまず取っ払うことだと言う。そうしなければそれは開始ではなく単なる継続になってしまう。
だからデカルトがすべてを疑うことから始めようとしたのは哲学の正しい意気込みだが、果たしてデカルトはその意気込み通り一切の前提を取っ払いえたか。

「我思う、ゆえに我あり。」
実は我とは何か、思うとは何か、あるとは何かが当然わかりきったこととしてここでは前提されている。
したがってデカルトの名と結び付いたコギト(我思う)という概念は、「我は疑う」その果てで振り返ってみると「我は思っていた」、ということは「我はある」という三つの要素によって合成された我によるコギトだということがわかる。
実はデカルトは自分では十分把握していないが、このような内在平面、論理空間に立っている。
哲学者本人が意識していない内在空間にまで降りることによって、その哲学者が無意識のうちに前提していたものを暴き出すことができる。
>>[7]
>ドゥルーズは「哲学を始める」とはどういうことか、という問題について、一切の前提をまず取っ払うことだと言う。

その通りですね。
一切の前提、先入観を捨てて、疑う、懐疑することが大切なわけです。
「われ思う、ゆえにわれあり」も我という主体を疑うことを忘れているという訳です。
私はそもそも「我思う、故に我有り」がデカルトの言葉か、と疑ったわけです。デカルトも事後承認しましたがラテン語にわざわざ翻訳した神父の言葉でした。
「善は悪の欠如」もアウグスティヌスというよりトマスの「神学大全」での解釈の言葉になってます。
>>[9]

ドゥルーズは犬や猫が嫌いだったようですね。
>>[9]

紹介のサイト見させてもらいました。
見ていると、試訳中のものに「創造的行為について」が
ありました。試訳者の努力に敬意を払います(が仏文を
みて多少直してます)。


哲学における創造を映画における創作に当てはめてい
ました。
哲学に集中して抜き出すと、
「あなた方は何をしているのか」という問いから始めます。
アイデアが浮かぶというのは日常的なことでない。瞬時
のひらめきでアイデアは浮かぶが、それは突然のことで
はなくすでに潜在ているものである。
哲学は創造的で、発明的なものである。
(哲学)概念は創り出さなければならない。しかし、それ
は必要は発明の母といわれるように必要がなければなら
ない。
「私が哲学をするという時、それは(哲学)概念を創るとい
うことを意味してます」
>>[11]

>それは突然のことではなくすでに潜在ているものである。

潜在しているというのは、有名な映画監督、制作者の自伝には
青少年期において良く映画を見ていたとあるように、まず先人
の映画をたくさん見ているわけです。
すると、あるときあの映画はこうした方がいいな、あの場面は
私ならこうするな、と浮かぶわけです。
哲学もおなじように、先人のものを学ぶことから始めると思いま
す。
wikiのドゥルーズの項からもわかります。
「1944年、ソルボンヌ大学で哲学をカンギレムやイポリット、ガン
ディヤックらのもとで学ぶ。1948年、教授資格試験に合格、1957
年までリセの教師を務め、同年、ソルボンヌで哲学史講座の助
手となる。近世哲学史の読み直しをはかろうとする研究から、哲
学者としてのキャリアをスタート。ベルクソン、ニーチェ、スピノザ、
ヒューム、カントなどについて、彼独特の視点から論じた研究書
を次々に書きあげる。その過程で自身の哲学を練り上げていっ
た。」
( 教授資格試験はAgrégationフランスの1級教員資格の俗名。
日本も現代では単位認定で三段階に分かれる)

ドゥルーズも「近世哲学史の読み直しをはかろうとする研究から」
始めてます。もちろん、リセの段階で西洋の古典は日本の大学
院生よりも読んでます。これには同じアルファベット文化という
メリットもあります。良く云われるように、ヘブライ、アラム語、
サンスクリット、さらに漢字文化になると日本の学生の第2外国
語と変わりありません。ローマ字表記された対訳を一生懸命読
んでいました。

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