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哲学 ΦιλοσοφιαコミュのJaques Derrida ジャック・デリダ

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「Jaques Derrida 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
(1930―2004)
ポスト構造主義を代表する現代フランスの哲学者。1930年、当時フランス植
民地であったアルジェリアの首都アルジェ近郊のエル・ビアールで、ユダヤ人
の両親から生まれた。周囲のアラブ人、ベルベル人の文化社会および言語
社会とは切り離されたフランス化された社会のなかで教育を受け、フランス語
を母語として育った。彼をパリへ駆り立てるきっかけとなったのは、同じくア
ジェリアからパリへ渡ったアルベール・カミュであった。彼のアイデンティティ
は「フランス・マグレブ・ユダヤ人」という三重の特異性から導かれている。19
56年パリのエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)卒業と同時
にハーバード大学での研究生活を始め、1957年ボストンでチェコ出身のマル
グリット・オクチュリエMarguerite Aucouturier(1932― )と結婚。その後2年
間アルジェリアで兵役に服する。1959年フランスに戻って、ル・マンのリセ・モ
ンテスキュー、翌1960年からはソルボンヌ大学(パリ大学)、1964年からはエ
コール・ノルマル・シュペリュールで哲学を教える。その後20年間エコール・ノ
ルマル・シュペリュールで教鞭(きょうべん)をとったのち、社会科学高等研究
院に移る。この間、1968年の五月革命以降はアメリカ各地の大学で講演、講
義を精力的にこなし、思想的影響力を強めた。1974年にはフランスの哲学教
育の抑圧に対抗するため、哲学教育グループ「Greph(グレフ):Groupe de rech
‐erches sur l'enseignement philosophique」を結成、1979年にはソルボンヌで
公開討論会「哲学の三部会」(参加者1200名)を開催、1983年にはミッテラン政
権下での哲学教育拡大方針に沿って設けられた国際哲学カレッジの初代議長
に就任した。1980年代には政治的な行動が注目され、チェコの反体制知識人
を擁護するための「ヤン・フス協会」を創設し副議長となる。しかし1981年プラ
ハ空港で「麻薬不法取引」で逮捕、拘留された。南アフリカにおけるアパルトヘ
イトに激しく反発し、ネルソン・マンデラを支援、援護した。1993年に創設された
「国際作家会議」の主要メンバーとして世界中の迫害、暴力にさらされている
知識人らの連帯を訴えた。同時に「アルジェリア知識人支援国際委員会」のメ
ンバーでもあった。日本にも3回訪れた。
 「脱構築」dconstructionをキーワードとした哲学理論によって世界的な影響
を与えている彼の著書は、『幾何学の起源 序説』(1962)を発表して以来ほぼ
50冊に達している。」
「wiki脱構築
あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす
別のパラドキシカルな内容がテキスト中に含まれているとする。
マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』において西洋の形而上学伝統が論じ
られる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として採用されたもの。デリダは、
直訳の「解体 Destruction」がもつ破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築
Deconstruc-tion」(de-「分離、除去」 / construction「構築、建設」)を造語した。
その意味で、彼の脱構築はハイデッガーの試みを継承するものと言える。

脱構築は、言葉の内側から階層的な二項対立を崩していく手法である、といえ
る。それはすべてを併置し「と」という接続詞を重視するドゥルーズの思想と呼
応する。デリダは、プラトン以降の哲学が、王探し、「ロゴス中心主義」(en:Logo‐
centrism)に陥っているとし、また、エクリチュール(書き言葉、デリダにおいては
二項対立で劣位に位置する概念全てに当てはまる)に対するパロール(話し言
葉、王の言葉。エクリチュールとは逆に、二項対立の優位に位置する概念)の
優越(en:Phonocentrism、「音声中心主義」)を批判した。とはいえ、この批判は、
エクリチュールのパロールに対する優越を意味するのではない。それでは単な
る階層的な二項対立の優劣逆転に過ぎない。」

少し、NTTデータ通信系の本の話の受け売りになるけど、現在においてはエク
リチュールとパロールの間に、ネットコミュニケーションがありエクリチュールだが、
話し言葉に近くかつ王の言葉でなくなく庶民の言葉である。これはエクリチュール
とパロールの二項対立を解体して建てられた云わば「第3」ものではないかと思
います。「ネットことば」ともいわれる。

https://dentsu-ho.com/articles/1503
《「ネットことば」がもたらす、500年に一度のことばの大転換〜小説家・藤原智美氏
《芥川賞作家の藤原智美氏は、今年1月刊行の著書「ネットで『つながる』ことの耐
えられない軽さ」の中で、「書きことば」に代わる「ネットことば」が人間の思考の根
本を変えつつある》と指摘しつつ、否定的であるが、私は第3の方法として肯定的
である。
ジャックデリダの公開されているテキストは下記一本である。
http://hydra.humanities.uci.edu/derrida/sign-play.htm
英語だが哲学系テキスト
lhttp://www.openculture.com/free-philosophy-ebooks



http://hydra.humanities.uci.edu/derrida/sign-play.html

コメント(20)

「「死を与える」(林・広瀬訳、筑摩書房2004年、140−144、172
−178、194−197頁)《引用は更に絞ります》《》は私の付加、訂正

道徳性の道徳性について、お説教臭い道徳家と潔癖な良心の持ち主たちが忘れ
がちなことをここで強調しておこう。彼らは新聞やラジオやテレビで、毎日の
ように、そして毎週のように、倫理的あるいは政治的責任の意味について、自
信ありげに語り聞かせる。倫理学の本を書かない哲学者は義務を果たしてない
という声もよく聞かれる。哲学者の第一の義務は、倫理について考え、著者に
必ず倫理についての一章を加えることであり、そしてそのためにはなるべく多
くの機会をとらえてカントに回帰すべきだというわけだ。潔癖な騎士が見逃し
ていること、それは「イサク奉献」が、責任のもっとも日常的でもっともある
ふれた経験を(このように夜の闇に満ちた秘儀(ミステール)について以下の
言葉をあえて使ってみるならば)照らし出しているということである。たしか
にこの話は恐ろしく、前代未聞のものであり、ほとんど思考することができな
いようなものだ。父は愛する息子に、かけがえのない愛する息子に死を与えよ
うとする。それは<他者>が、大いなる<他者>が、まったく理由も示さずに
要求して命じたからである。子殺しの父は自分のしようとしていることを息子
にも近親者にも隠す。なぜなのかもわからないし、愛や人類や家族や道徳に対
していったいどのようなおそるべき(tredendeum)秘儀をなさそうとしている
かわからないのだ。
しかしこれはごくあるふれたことでもあるまいか。責任の概念を少しでも吟味
してみればかならず確認されるようなことなのではないか。義務や責任は私を
他者に、他社としての他者に束縛する。他者としての他者に対して、絶対的な
単独者にとしての私を束縛するのだ。神とは他者としての、そして唯一のもの
としての絶対他者の名である。(一にして唯一のアブラハムの神)。絶対他者
との関係に入るや否や、わたしの単独性は責任や義務という様態で神の単独者
としての関係に入る。私は他者としての他者の前で責任があり、他者としての
他者に対して、そして他者としての他者の前で応答する。しかし当然のことな
がら、単独者としての私を他者の絶対的な単独性に対して束縛するものが、す
ぐさま絶対的犠牲の空間や絶対的犠牲危険へと私を投げ入れる。・・・・・・
他者との関係、他者の視線や要求や愛や命令や求めの関係に入ってしまうと、

私は次のことを知る。倫理を犠牲にすることをなく、すなわちすべての他者た
ちにたいしても同じやり方で、同じ瞬間に答えるという責務が与えるものを
犠牲にすることなく、それらに応えることができないことを。《?元はフラン
ス語独特の構文で難しい》

[その時]私は死を与え、誓い《戒律》に背く。そのため私はモリヤ山頂で息子
に刀を振り上げる必要はない。
夜も昼も、あらゆる瞬間に、世界のすべてのモリヤ山で、私はそうしつつある
一人の他者に対して、私は刀を振り上げつつあるのだ。
《死を与えつつある》
「アブラハムのイサク献共物語」(関根編、日本基督団出版局、2012年、
264ページ以下より引用))。



>>[1]
対象テキスト 旧約聖書 創世記 口語訳1955

22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハム
よ」。彼は言った、「ここにおります」。
22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモ
リヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

22:3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その
子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけ
た。

22:4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

22:5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にこ
こにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがた
の所に帰ってきます」。

22:6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃
物とを執って、ふたり一緒に行った。

22:7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、
わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭
の小羊はどこにありますか」。

22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるで
あろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、た
きぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした
時、
22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼
は答えた、「はい、ここにおります」。

22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはな
らない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、
あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている
一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわり
に燔祭としてささげた。

22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、
人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

22:15 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、

22:16 言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事
をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、

22:17 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星
のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、

22:18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あな
たがわたしの言葉に従ったからである』」。

22:19 アブラハムは若者たちの所に帰り、みな立って、共にベエルシバへ行った。
そしてアブラハムはベエルシバに住んだ。

>>[2]

当時(大昔)はわが子を生け贄にするということはユダヤ社会では広く行われていたことだったのでしょうか。
それとも、アブラハムにだけ特別求められたことだったのでしょうか。
>エクリチュール(書き言葉、デリダにおいては二項対立で劣位に位置する概念全てに当てはまる)に対するパロール(話し言葉、王の言葉。エクリチュールとは逆に、二項対立の優位に位置する概念)の 優越(en:Phonocentrism、「音声中心主義」)を批判した。


デリダ以前には書き言葉より話し言葉が優位にあると一般に考えられていたのでしょうか。
>>[4]
おはようございます。

ロラン・バルトはパロールに対するエクリチュールの
優位を描いていますね。
否定的命題(題)はゲーデルのように社会科学で人文科学を論証しなければなりません。

私は活版印刷の発明、識字率の歴史からすると、近世
まではパロールがエクリチュールに対して優位にあっ
たというのはデリダのいう通りだと思います。
しかし、近代において、多数の人々への教育が始まる
とロラン・バルトのいうように、バロールに対して、
エクリチュールの優位が始まったと云えると思います。
これも段々とでどの時点かは難しいですが、ルターの
95箇条とかドイツ語聖書などが始まりかと思います。
ロラン・バルトの良くできた要約が下記にあります。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
>>[3]
>当時(大昔)はわが子を生け贄にするということはユダヤ社会では広く行われていたことだったのでしょうか

これは学問的には人身供犠の問題です。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E4%BE%9B%E7%8A%A0-82000
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
人身供犠
じんしんくぎ
human sacrifice

人身御供ともいう。祭祀における犠牲の一形式で,人間の命を神に捧げること。世界中にみられる儀式であるが,方法,目的はさまざまである。秘儀的に定められた王 (農作物の神の受肉化とみなされていた) が,その活動力の減退により,大地の繁殖力に対する影響力を失ったと考えられたとき,王自身を犠牲とすることが多い。また,ときには,その代理人が一定期間,神聖な地位についたあとに殺されることもある。アフリカでは豊作の祈願と葬儀において広く行われていたし,メキシコでは太陽神に対して人間が犠牲とされた。また,ペルーやインカ,エジプト,メソポタミア,パレスチナ,イラン,インド,中国,ギリシア,ローマなど古代文明の発祥地ではたいてい行われていたことが知られている。日本でも人柱の伝説があり,現在も各地の神社に人身供犠が行われていたことを示す祭式が残っている。

>>[6]
その後は動物犠牲になり、やがて献金になりましたが、どこの社会でも長男を聖職者にするという形
で継承されていた見たいです。何かキリスト教会でも
奉献というリタジー、儀式の項目があります。

「イサクの献供」の話は人身供儀が動物供儀に変わる
その瞬間だったかもしれません。

旧約聖書にも紀元前の時代まで時々あったことが書い
てありますが、哲学のスレを越えますので。
もっとも、キリスト教の聖書で大きなトピックはキリストであるイエスの出来事ですね。(^^;。
>>[3]78910さん
パレスチナのカナン人のモロク、モレクの儀式は下記にあります。勿論、専門書でもみたことがありますけど。
http://kowabana.jp/demons/65
イスラエルというのはパレスチナの民族の連合です
ので、そのなかでの優位の歴史における変化とも云えるわけです。キリスト教のいう唯一の神解釈は紀元前500年代くらいで、それ以前はモレク解釈だった可能性もあります。
>>[3]

スレ外ですが、念のため書いておきますが、犠牲を求める神という概念の変化は人間の歴史、地域文化の解釈の違いとされてます。
アリストテレス流に云えば、神の本質が変わっている訳てないです。
私は神は愛であると解釈しているし、感覚で実感してます。
キリスト教の質問のスレ参考
>>[5]

>私は活版印刷の発明、識字率の歴史からすると、近世まではパロールがエクリチュールに対して優位にあったというのはデリダのいう通りだと思います。
しかし、近代において、多数の人々への教育が始まるとロラン・バルトのいうように、バロールに対して、エクリチュールの優位が始まったと云えると思います。

このように言ってしまうと、社会的影響力の大きさにおいてどちらが「優位」であるかということを問題にしているような印象を受けます。

私はフランス哲学はまったく苦手で、デリダの言わんとするところもよく分からないので、できれば、もう少し詳しい解説をお願います。
アリアさん、どうもありがとうございます。
結果的にデリダの話からだいぶ離れてしまって申し訳ありません。
なるべく話をデリダに引き戻しつつ、考察を重ねたいと思います。
パロールのほうがエクリチュールよりも優位だったというのは、発話者の意識内容がより直接的にに表現できるとかいう話だったような気がします。デリダは私にはよく理解できませんが、パロールとエクリチュールはそもそも機能的に全く違うんだ、というようなことを言っていたような気がします。
私にもよくわかりませんが、とにかく、コメント>>[5] はそのままスルーはできないと思いチェックさせていただきました。どなたか詳しい方に解説していただけるとありがたいです。
私の場合、否定的命題は、哲学、神学等の同じ公理系でなく、社会科学、自然科学で検討するので不十分かと思います。
デリダの哲学的パロールにエクリチュールについては、下記のサイトにあります。まずまずのまとめと思います。
http://s.webry.info/sp/charm.at.webry.info/200606/article_2.html
パロール(声)は常に、今ここにいる主体と結び付いており、その主体に統御されている。
これに対して、エクリチュール(文字)は、主体が今ここにいなくても、あるいはすでに死んでいても、さまざまに引用されたり解釈されたりする。
パロールの含む多義性に対して、エクリチュールの含む飽和しえない多様性を散種と、70年代のデリダは名付けた。
>脱構築 ・・・あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす別のパラドキシカルな内容がテキスト中に含まれているとする。マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』において西洋の形而上学伝統が論じられる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として採用されたもの。デリダは、直訳の「解体 Destruction」がもつ破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築Deconstruc-tion」(de-「分離、除去」 / construction「構築、建設」)を造語した。その意味で、彼の脱構築はハイデッガーの試みを継承するものと言える。


エクリチュールは絶えず一つの文脈から切断されて漂流し、他の文脈に接ぎ木される。その結果、あらゆる記号は散種を含み持ち、一つの言明が何事かを主張しながら同時にそれを裏切るという二律背反(ダブル・バインド)に陥る。脱構築とはこのダブル・バインドに立ち会うことであり、エクリチュールとパロールの間に立ち会うこと。
パロールとエクリチュールの対比は実はあくまでも隠喩であって、あらゆる記号がパロールとして見られると多義性でとらえられ、エクリチュールとして見られると散種を見出されて、この二つの間の空間に立とうとするのが脱構築であり、散種を多義性に還元してしまうような形而上学的転倒を脱構築は告発する。
>>[15]
おはようございます。
私はアリストテレスの読書会をやっていたデリダの弟子?に習っただけですが引用サイトはほぼ同じと思います。シネマでなく、ムービー好きでしたぬ。
>一つの言明が何事かを主張しながら同時にそれを裏切るという二律背反(ダブル・バインド)に陥る。脱構築とはこのダブル・バインドに立ち会うことであり

「イサクの献供(「死を与える」)は通常、キリスト教のパラダイムでは、アブラハムの信仰と読まれる訳ですが、同時に律、道徳「殺すなかれ」を破ることだという指摘と思います。
>>[16]

他にも、代表的なものにイエスキリストの十字架があります。キリスト教のパラダイムでは濡れ衣をきされ?人類の罪のための購いのシンボルなのですが、ローマからみると、人類解放の行為を示す十字架刑シンボルです。云わば、反乱ですね。
言い方が違うだけかもしれませんが、私はロラン・バルトの解釈が気に入りました。

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