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哲学 Φιλοσοφιαコミュのコギト・エルゴ・スム

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コミュ内全体

ここにいる方は哲学にかなり詳しい方達が多いので、質問するのも恐縮なんですが、、、

僕が二十歳の時に何故、自分が存在してると言えるだろうと、ぼんやり思って過ごしていた時に、たまたまデカルトのコギトエルゴスムを知り衝撃と納得感を得ました。

コギトエルゴスムが間違っている?と唱える哲学者もいると聞いた事があるので、皆さんはコギトエルゴスムについてはどう思いますか?

コメント(39)

本当に確かなことって何だろう。それを知るために多少でも疑えることは先入観で信じないようにしようって疑い尽くした果てに、
こんなふうにいろいろ考えている自分がいるってゆうのは確かだってゆうデカルトの道順も偉いだろうけど、
いつだって今ここで、意識や表象の起点になっている私という或るものと、デカルトのとらえた我は果たして同じなのでしょうか。
それともズレがあるのでしょうか。
>>[001]

僕は同じ物だと考えると言うより、同じ物だと感覚で感じます。
感覚の事なのでなんの根拠にもなりませんが、時には思考より自分の感覚を信じるって事も大切な事の様に思います。
>>[2]

いろいろ考える私と、いろんなことを別に考えもしないそれ以前の単なる意識の起点。
ああだこうだ考えるデカルトの我と、ただ世界にカッと眼を見開いている点それ自体。

いろいろ思考しないことには我とは言えないのか。
思考を始める前の、ただ一切と向き合っているこっち側の一点。
>>[003]

自分は知識が少ないので78910さんの書いてある事が理解出来ない所がありますが、用はどうあれば自分と呼べるか?自分の定義みたいなものでしょうか?
>>[4]

デカルトはどうしても疑いえない突き当たりは主体が存在してるんだということであって、主体はあるということから一切は始まるとしたけれど、
「主体というものが実は何らかの仕方で構成されたものではないのか」という問いへと突き出ることも可能ではないでしょうか。
いかにして主体は構成されるのかと問うことを可能にする地平へと突き出して、「主体とは在るものであり、それ以上疑いえない突き当たり・袋小路である」という一つの体系的限界を突破すること。
私というものは在る。もうそれ以上疑いえない突き当たりとして在るから在るんだ、と言うデカルト。

本当にそうか。私とは在るから在るんだとしか言いようのない絶対的前提なのか。
私が与えられる過程、私が構成されてくる過程というものは考えようのない領域なのか。
実はアウグスティヌスが同じことを古代に言ってるのだが、
日本人って、アウグスティヌスやトマス・アクィナスを哲学者とはみないよね。
今日は失礼します。
Cogito ergo sumというと、昔の「ブレードランナー」でレプリカントが話していたことを
思い出します。

Cogito ergo sum.
コーギトー エルゴ スム」
cogito「考える」第1変化動詞の直説法・能動態・現在、1人称単数
ergoは「それゆえ」接続詞。
sumは「 ある、いる」不規則動詞の直説法・現在、1人称単数。

I think therefore I am.

Je pense, donc je suis.
「方法論序説」は最初はフランス語で書かれ、後に神学者によってラテン語訳
され、そのラテン訳というのはあまり知られてない。

そのあとの「哲学原理」(Principia philosophiae)ではとEgo cogito, ergo sum, sive
existo ラテン語で書かれている。「我が思うに、それゆえ我ないし、我あり」
しかし、後にデカルト自身もergo は要らないとしたらしい。

http://la-philosophie.com/descartes-je-pense-donc-je-suis

(http://la-philosophie.com/philosophie/philosophes)

我思う(考える)、ゆえに我あり: 認識

意識についてのこの引用元は、デカルトは人生と新たな形而上学を発見するため
にその存在が確実に依存することができる方法を詳述した「(哲学)方法論序説論]
にある。

デカルトは、認識を構築するための基礎、つまり真理への知識とアクセスを構築す
る固定点を探求した。

これを行うには、これを達成するために 2 つの方法を提供している。

-懐疑すること 
-悪の天才の1人となること


どちらの方法でも、主観性の存在の確実性という、同じ結果に到達する。

1方法:能動的方法


デカルトは、すべての知識や考えに疑問を自発的に投げかけた。この世界をスイ
ッチオフしたとき、その対象がどのように残るか。その懐疑はどのようなものか。

しかし、疑って、考えなければならない。だから「私は懐疑する、私は思う」と私が
考える場合、私は思う。

2悪の天才: 受動的方法

デカルトは真の虚偽の表現として自分を闇の力に渡して騙し、問うことを仮説す
る。しかし、再度私の感覚が幻想の源をたどることができる場合は、つまり自分
ををだますことができる場合、自分の判断を一時中断する力がある。
この中断は、私の存在を証明反駁する思考行動である。

youtube にありましたね。


映画「ブレードランナー2049」も楽しみです。


ブレードランナーは「死」問題も扱ってましたね。
Time to die.

映画「ブレードランナー」を観てからディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んで失望した思い出があります。
原作では、アンドロイドと人間の違いは、たんに他の生き物への共感能力の程度の差でしかなかった。
私はてっきり、「アンドロイドには心があるのか」という問題を扱っているのだと期待していたのでした。
>>[10]
原作は何か余り良くなかったですね。
普通は、映画より原作がいいんですが、ブレードランナーに関しては2倍位良いですね。
ブレードランナーについては本質を探る哲学書もありますね。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480873156/
「 『ブレードランナー』論序説─映画学特別講義」加藤 幹郎、筑摩書房。
>>[10]
映画「ブレードランナー2049」ではかなり、レプリカントの「主体」や「存在」についつも問われる見たいです。
>>[0]

>コギトエルゴスムが間違っている?と唱える哲学者もいる

「コギト」すなわち「我思う」と念じた瞬間に、「我」が文法的に忍び込んでいる。このことについて反省せねばならない、ということではないかと思います。
>>[13]

実は、「思っているのは誰か」という問いと内省が挿入されていたのだという事実が現前化していないまま、その答えがまるで当たり前のことかのように前提に引き入れられていますね。
すなわち、我がどういうわけか構成されていることについて、ちゃんと問題化することがスルーされている。
>我がどういうわけか構成されている

主体の本質がスルーされているとことでしょうか。

私は哲学するというより、哲学を分析して論じるタイプで哲学するは苦手ですが。
>>[15]

つまり、哲学評論家です。
自分でするのは、絵を描く、音楽する、多少神学する程度です。(^^;。
>>[15]

>主体の本質がスルーされているとことでしょうか。

主体の本質たるものが果たして実在するのか? ということではないかと思います。所与のものをそのまま「私」としてしまってよいかということです。

ちなみに仏教では、それは「無」と表現することになっています。
>>[17]

今晩は失礼します。

>主体の本質たるものが果たして実在するのか?

レスをありがとうございます。

>仏教では、それは「無」と表現する

「無」というのもまた、深い思想ですね。
「わたし」を構成するものは、先ず名前、身体・職業・家族・住所・財産・友人・・・その他もろもろということになります。こういう「わたし」を「生態学的自己」と言います。つまり世界に広がった事物同士の関係における結節点だということです。

しかし、こういう「わたし」の定義は欺瞞だという考えもあるわけです。「見る」ことを例にとって考えると、見ることには対象と主体があるはずだと。見られるものは決して見るものではない。
そうすると、名前とか身体とかは対象物であるから、それらはどれも「わたし」ではないことになる。「見る」ことで言えることは「考える」にも応用できるので、「それはわたしではない」を極端に推し進めれば、「わたし」は一切の性質を持たず世界に属していない「世界外存在」で、眼の穴から世界を覗き見る得体の知れない何か、だということになる。純粋形而上学ですね。
では「性質なき自己」において「見る」や「思う」が成り立つかが問題ですけど、それは当然成り立たない道理です。見るも思うも、具体的な場において具体的なもの同士が出会うこと、つまり対象が頭の中の観念に結び付くことあるいは観念と観念が結びつくことだから。
>>[20]
自分の言葉で表すと自己は関係性の中に存在するということだと思います。
余り、入り込むと疑似科学になりますが、量子の存在と同じで他人、世界といった対象との関係からだけ自己を認識できる気もします。なぜなら、自己は世界の一部だからです。
他の存在との関係性に趣をおくのが哲学で、超越的な存在に趣をおくのが神学かもしれません。
>>[21]

関係規定。あるいは関係の第一次性というのがそれですね。
マルクス、ソシュール、ヒルベルト、カッシーラーなどをあるていど知ってる人にはそれは自明なんですが。もっと言えば大乗仏教から言えばそっちのほうがわかりやすい。しかしそれには注意が必要です。

われわれ東洋人というのは人間を自然に、自我を集団に溶解させるのが普通の在り方です。しかしそれは、集団を実体化して個人をその分肢と考える、もう一方の極端に引き寄せられやすいわけです。これは全体主義です。

個の魂の神聖、個人の尊厳はキリスト教の専有物ではもはやないでしょう。立憲主義でも民主主義でもそれなしにはありえないわけですから。

ですから、デカルトのような考えは素通りはできない。
 「コギトエルゴスムが間違っている?」

 小生はそうは思いません。「そうは思わない」と云っても、コギトエルゴスムが言葉として正しいとは思いませんが、[8]のアリアさんの文中に「後にデカルト自身もergo は要らないとしたらしい」とあったので、多分小生の認識と余り違わない意味で語っていたのだと想像しています。つまり「想像」で語っているのですが、何故なら小生はデカルトの著書を殆ど読んでいないので、著書の中からそれを確認したものではないからです。

 「ergo は要らない」なら「我思う、我有り」になり、言い換えると「思っているのは我である」ということですね。

 そうすると[13] の御坊哲さんが指摘する『「コギト」すなわち「我思う」と念じた瞬間に、「我」が文法的に忍び込んでいる。このことについて反省せねばならない』という疑念に答えなくてはならないかも知れません。

 では、デカルトはこの「我思う」の「我」をどのように捉えていたのかという小生の想像(推理)を述べてみます。

 デカルトは「疑えるものはすべて疑っている自分に気付いた」のでしたね。ではこの「自分」は何処に居るのでしょうか。もし自分の身体と心が無かったとすれば、果たして「思う」という行為が何処かから生じるでしょうか。生じないことは自明ではないですか。ということは、デカルトが言う「我」は「デカルトの身体と心の総体」のことだったのではないかと想像することも出来そうですね。

 ニーチェの著書のどこかで「デカルトは誠実だ」と語っていた記憶がありますが、そのニーチェの「ツァラトゥストラ」で「目覚めた者、識者は云う。私はどこまでも身体であり、それ以外の何物でもない」と語っている。ニーチェもまたデカルトの「我」に、箇々の人間に一体ずつ具わっている「身心」を読み取っていたのではないかと思うのです。
心身の存在が自明なら、神にお出まし願って物的世界の存在を証明する必要もなく物質は存在してることになりますね。後に“心身合一”は説明不能な原始的概念と言っているので直観的には身体の存在も疑ってはいないしその説明のためには神もあらねばなりませんが、理性のフィルターをかけたコギトにおいては脳の存在を自明としない思惟する精神のみに純化されてると思います。
 「思惟する精神のみに純化されてる」とのご見解も、深く考えられたが故の意義有るコメントと読ませて頂きました。

 小生の浅見ではありますが、述べられている「思惟する精神」とは人間が先天的に宿している「神性」とか「絶対精神」というようなもののことでしょうか。そうすると「此の世を超えた或るもの」つまり「在りて在るもの」としての精神が色々と考えて悩み(迷い)の種を作り出していたというように見えては来ないでしょうか。では、その精神は何処に在るのでしょうか。

 現実に有る身心は勿論生死しますから、自己存在の根拠にすることが出来るか否かも疑わなければなりません。そこで一旦「もし身心が無かったら、思うという行為は生じるだろうか」と問い掛けるのですね。すると「身心が無かったら思いは生じない」ことが自明になります。しかし現実にはまだ生きた身心が生き生きと存在している。なので「思っている(生きて活動している)のは我(身心)だ」と確信したのではないかと想像したのですが、デカルト自身がそれに反するような見解の述べているということでしょうか。
>>[25]

 >「思惟する精神」とは
  デカルトの言葉では「私の本質」 

 デカルトも心身の存在を内心は疑ってなかったと思いますが、当時の神学や哲学を学んでそれが徹底したものでないと感じて、疑いうるものはいったんは疑う、という方針に決めました。

 そこで「私の本質」は「ただ考えるもの以外の何物でもない」と結論します。アリストテレスの魂論では身体の機能も魂に入っていたのですが、デカルトは身体的なものをそぎ落としました。何もなければ思考もできないといっても、言に思考している何かはあるのは確か、しかし我々が身体と思っている(頭があり胴体があり...)は幻覚かもしれない、と考えることはできるから、そこまで一旦は進んだ、ということになります。

 そして、そこから反転して最終的には身体は無論、物的世界も存在するという結論になります。

 ナビさんは身心は不可分とお考えのようです。「生きられた身体(メルロポンティ)」という言葉もあります。しかしデカルトはそこを言ったん分離した。分離してしまうと今度は身心合一の説明に困ってしまいましたし、以後は機械論的な世界観が幅を利かせることになってしまいました。

 

 
>>[11]
こっちのトピはうっかり見落としてました
原作者は「記憶」というものに特別なこだわりがあったようで
同じテーマでの小説は他にもあります
心・魂・精神という諸概念と「記憶」との関係を考えると
仮に人造人間(アンドロイド)がいるとして
それと人類との間でいったいどれほどの差があるのか?
そんなことを考えずにはいられなくなりますね
記憶というと、ベルクソン連想しますね。
>>[26]

>ナビさんは身心は不可分とお考えのようです。

 いいえ、不可分とは云っていません。身体は物体ですが心には形象が無いでしょう。しかし、心は何処に有るでしょうか。もし身体が死去するなどして無くなったとすれば、心の働きも無くなるのではありませんか。その意味で「身体と心が無かったなら、思うという行為は生じない。つまり心は身体の用体」ですね。そうであればこそ「思っている(生きて活動している)のは我(身心)だ」という認識は、「疑う余地の無いこと」としてデカルトは哲学の起点にすることが出来たのではないかと思ったのです。

 つまりデカルトは、いろいろと疑えるもの(神の存在とか真理の有無とか、いろいろと疑っている心の有無とか、心に捉えられるものは一切疑ったことでしょう)は疑い尽くし、最後に「疑っている自分が居るのではないか?」と疑ったのでしょう。その「疑っている自分は何処に居るのだろうか?」と、そこで「もし身体が無かったなら、この疑っている心も無くなるではないか。と云うことは身体が無くなって心も無くなったら、思うという行為も無くなるのだから、心が無くなったら思うという行為も無くなる。しかし身体が有る(生きている)以上、心も生きて活動する。なので「思っている(生きて活動している)のは我(身心)だ」と云うのが適切かと思うのです。
>>[26]

 [29]で書き漏らした件がありますので、補足します。

>そこで「私の本質」は「ただ考えるもの以外の何物でもない」と結論します。

 なるほど、デカルトはそのように語っているのですね。その言葉も尤もな表現形式だと思います。「考え」は外縁を取り込んで生じるもの。身心の有との因果関係は、「身心の存在」を水に例えれば、「考え(思うこと)」は水上に生じた波ですね。波は水が風などの外縁を受けて生じているものです。ですから波は外縁が消えると共に消え去ります。後に残るのは「身心の存在」。つまり「身心の存在」こそが「私の本質」であり、また同時に「ただ考えるもの以外の何物でもない」ということになりますね。
>>[29]


>>[26] あかふくさん

>もし身体が死去するなどして無くなったとすれば、心の働きも無くなるのでは

ないかと私も考えますが、一般にデカルトは心身二元論と言われるので、魂なるものを考えていたと思います。

ナビさんの考えはもっともですが、デカルトがナビさんと同じ考えだったと解釈するのはかなりキツいと思います。

>>[31]

>一般にデカルトは心身二元論と言われるので、魂なるものを考えていたと思います。

 例えばこの「心身二元論」を大乗仏教の菩薩乗の理に例えると、身体などの現象界(衆生世界)と、其の本有の体(カントなどが云う存在それ自体)としての理法体(=理仏の世界)を心の本性として認識すれば、「身体から見れば心は無であり、心から見れば身体が無である」という理が現れます。或いはデカルトはこういう状態の二律背反から出られなくなったのかも知れませんね。尤も小生はデカルトを読んでの批評ではないので、確かなこととは云えませんから、正解はあかふくさんたち直に著書からデカルトを認識されている方々にこそ得られるものだと考えております。

>デカルトがナビさんと同じ考えだったと解釈するのはかなりキツいと思います。

 そうですね。小生もそう思っています。[23]でニーチェの言葉も借りて語りましたが、デカルトとニーチェにも大きな差異が有ると考えます。しかしデカルトが「我思う、故に我有り」という「疑い得ない哲学の基点」を見出した時点では、やはり小生が指摘した理由と同じような考察が有ったものと思っています。

 しかし哲学を進める中に、無神論に成ってしまうことが起こす当時の社会問題に気付いたデカルトは、取って付けたようだと評されるような神の存在論を書き加えなくてはならなくなったのかなとも考えています。
哲学の分野で唯物論や無神論は古代からあって、科学の進歩に伴って宗教が衰退して現れたものではありません。デカルトの場合、神なしではコギトのままで物的世界はないことになってしまうので、心情的な信仰の程はわかりませんが、その哲学に神を必要とした、中世から完全に抜け出してはいなかったと思われます。

我ある、故に我思う、が科学的に証明されるかもしれません。まだ、量子論の仮説ですが。
http://www.epochtimes.jp/2017/02/26796.html

誰にも小さいときから何か存在しているという意識はあったと思います。私が聞いた限り、皆同じです。
しかし、色々な経験、記憶によって自己が出来ていく訳です。

ランザ博士の説は量子論の二重のスリットの実験の先にあるとされますが、二重のスリットは以下にあります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/二重スリット実験

このスレヘの説明は以下ですが。
まだ、難があるようなないような?
http://tocana.jp/i/2017/01/post_12042_entry.html
>>[35]アリアさん
少し補足します。
>我ある、故に我思う、が科学的に証明されるかもしれません。まだ、量子論の仮説ですが。
我があるというのは、勿論、脳や身体、肉体が先にあるという唯物論でありません。
科学哲学で少し触れたように、先に意識があり、事実が、事物がある、少なくても認識されるという唯心論です。
wikiに「哲学の原理」のなかなかのまとめがあります。
「哲学原理」
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b270788.html
https://archive.org/details/uvresdedescartes08desc
※※
機械論的世界観
デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。

更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、

宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した
という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。
※※
岩波文庫の「哲学原理」のなかなかの要約がありました。
http://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou208.html
本来は原典と完全版のちくま学芸文庫を読んで論議すべきかもしれませんが、皆さんも社会人と思われるし、岩波文庫のそのまた、要約位が精一杯と思います。
若きデカルトが、疑えるものは疑って疑って、片っ端から疑って、その存在が疑えないようなものなど何も無いかのような所まで来た時に、
「こうして疑っている自分、物を考えている自分はいるじゃないか!」
と思い至った。

しかしこれは肉体付きの自分を言っているわけではなく、あくまでも考える自分、精神としての自分はいるのは間違いないという気づきですね。

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