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哲学 Φιλοσοφιαコミュの本の読み方

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コミュ内全体

人が普通に哲学を表象するとしたら、やはり大哲学者たちとその著作を思い浮かべるに違いない。総じてそれらは「難解」であるということになっている。
このコミュのメンバーになるような人は、哲学書をものにしてやろうと一度は思ったであろうし、実際挑戦した人もいるだろう。
しかし、哲学といえども独特の考え方や語義を抑えていけばさほど難解なものでもない。それが身に付くためには、読書一般は必須のことになる。

当コミュは「哲学を解る」ことを目的の一つとしているので、本に取り組む方法論は必要になるだろう。

メンバー各位の読書体験や方法論を交換しましょう。

コメント(61)

例えばキルケゴールという人が西洋史のその辻にいるということを見るのは、キルケゴールの哲学の意味を把握することと同義だと思われます。哲学者という者は何かに対して自分の思想を対置するわけだから。何かというのは先行の哲学者や歴史上の出来事であるわけです。

キルケゴールの場合はヘーゲル哲学の客観的真理に対して己の個別性と主体性を対置したわけです。実は同時代のマルクスも同じことを違うやり方でやっているのですが。

それはともかく、そういう歴史を物語として言葉にするのは、ある個性のもとにある哲学の意味を明らかにすること・理解することの一部であるわけです。
>>[22]

それはまたゴータマ・ブッダの言説や実践、新約聖書におけるイエスの造形、マホメットの思想などについても、あたかもいきなりポーンと出てきたかのように思い込まないで、いかなる土壌、下地、先駆があって生まれてきたものかという視点が大事ですね。
>>[22]

すみません。「実は同時代のマルクスも、同じことを違うやり方でやっているのですが」というのは、キルケゴールと、どのように違うやり方でやっているのでしょうか?
方法の大きな違いについて、教えてください。
>>[24]

キルケゴールがヘーゲルの客観主義をひっくり返して主観主義を打ち出したのに対して、
マルクスはヘーゲルの唯心論をひっくり返して唯物論を打ち出した、
という感じでしょうか。
>>[24]

実存哲学系統の人たちは、今でいうところの「科学的」なものの見方に反発するのです。
「科学的」というのは、事物を一般的に見て普遍の法則を見出すのが哲学だ、という考えでギリシャ以来ありますね。これは客観的な対象の学で、自分というものはそこに入ってないわけです。

それに対して「この私」を重視する見方があるわけです。これは社会や自然から自立した個人で、自律的な意志の主体です。これはキリスト教に由来していて、中世の神学が深めたものです。これが実存の哲学につながってゆくわけですが、キルケゴールはそのさきがけに見られていると思います。


マルクスの場合、そこで「実践」を考えに入れるわけです。働きかけたり働きかけられたり、つくったりつくられたりすることが実践です。そういう関係が社会。
有るものをフムフムと見ているだけでなくて働きかけることに自分がある、というのがマルクス的な考えです。
>>[25]
ありがとうございます♪
きっと、ひっくり返したというほどの、批判だったのでしょうね。
キルケゴールは、現実の自分に向き合って、主体的真理を求めた! そこが、いいなと思います。
>>[26]

ヘーゲル学派が、分裂していった流れ、その変遷を知ることができました。
ありがとうございます。
>>[27]

実存主義も、マルクス主義(というよりマルクス)も、どちらも熱い思想で、特にそれぞれを生み出す過程の思索は素晴らしい!
>>[28]

僕はキルケゴールに確かに惹かれ、その著書を読もう読もうと挑戦するのですが、なかなか読み通すことができない。
しかし、キルケゴールの短いその生の生き方って、どうも厄介で不思議な生き方だ。なぜそんなに自分を追い詰めるような考え方、選択をするのか・・・

それが人の持つ個性というものであり、もうそういうふうに生きてしまった以上、否応なくそれがその人の取り消しようのない生きざまとなるのでしょうね。
>>[27]
ありがとうございます。
私は、もともと、「この私」や、「自律的な意志の主体」を重視した考え方で、実存主義にもひかれました。
キルケゴールは、自分と神との関係の中で、個人としての主体を内省的に、真摯に求めていく激しさがあって心に響きます。

マルクスの「実践」、働きかけという哲学が、社会に与えた影響も、大きかったでしょうね。
マルクスの哲学や行動には、外に向かって働きかける 力強さを感じます。

>有るものをフムフムと見ているだけでなくて働きか
けることに自分がある、というのがマルクス的な考えです。
働きかけるという方法も、様々あると思いますけど、結果がどうであれ、働きかけるという行為のなかで、自分が生きているという実感があるというのは、わかります♪
方法の違いが、よくわかりました。ありがとうございます。

>>[31]

はい、そう思いました。
キルケゴールのお父さんが、自分の過ちに罰がくだると思い込み、子供達にも、強い絶望感を与えるような育てかたをしたようでしたね。

だけど、レギーネが、キルケゴールをずっと見守っていてくれたので、慰められました。
>>[35]
>キルケゴールのアイドル性は世界的に強くて墓石を削られたりして、新しく建て直されたことがあるそうです。
すごいですね。キルケゴールとレギーネの愛の物語も、キルケゴールのアイドル性に 関係しているように思われます。
信仰に対しても人生に対しても、真剣で、痛々しいほどだと感じたことがあります。
でも、これから どのように生きたらよいかを選んでいく存在であると認識する、キルケゴールの実存に、心をとらえられたことは 本当です。

教えてくださり、ありがとうございます。p(^^)q
僕にとって読書はとても大切な心理的かつ霊的な経験の一つです。
著者は、実際生活ではなかなか踏み込んで話のできないようなことまでお話ししてくれる貴重な友と言えるでしょう。プラトンだろうとブッダだろうと。

本を読む時には基本的に、書かれている文章の論理を丁寧に追って、とにかく著者が言おうとしていることから離れない、それをできるだけ正確に読み取るのだ、という気持ちで読んでいます。
しかしこれはあくまでも基本で、さらに豊かで面白い読み方として僕が大事にしているもう一つの読み方は、
文脈にあまり縛られず、一つの文章から啓示的あるいは直観的・霊的に僕の心に飛び込んできた意味合いを、逃さずに大切にする、という読み方です。
>>[34]

そういう哲学者同士のお互いの主張や評価は確かに「俺とあいつとは違うのだ」という違いがしばしば強調されるし、実際中身を細かく見れば違うものが見出されるのでしょう。
でもまた、深層心理学的なアプローチによって、「彼らは日常よく使われている心より一段深いところ、しかし完全に宗教心に定位してしまうよりは手前の所を深く探究している点は共通しているのだ」と言う人もいます。
>>[40]

「この世界は暴力によらずして変えることはできないのだ」という考えはマルクス主義の流れから、一部の人たちには間違いない真理のように思われたのかもしれませんが、
日本における過激派の活動内容やそれらがもたらした結果を見ていると、暴力革命という方法論はそれ自体が私たちを大きな不幸におとしいれるものに見えて仕方ありません。
マルクス主義文献の学習から、理念理屈の上ではどうしても暴力革命こそ!という結論が出てきたのかもしれませんが、高度成長期を生きる大衆の実質的感情からはどんどん遊離してしまった。
>>[42]

つい先日もテレビでオウム事件について時系列を追って、詳しく再現ドラマ化しておりましたが、
ひとりの特異な状況で育った若者(松本千津夫)が仏教という道具と劇的に出会い、そのヒンドゥー化した形態に最高の自己表現を見出し、
現代教育の中で本質的な自己が窒息状態にあった多くの若者を糾合しながら、
富と権力と犯罪隠蔽に突き動かされてゆくさまがそれなりによく描かれていました。
東浩紀さんの『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』はデリダ初心者にとって大変いい本です。
立ち読みしたことあります。内容は覚えてませんが、分かりやすいかもしれません。
あとはYouTubeで講演をきく。
フランスの学校に在学していてもなかなか機会がなかったし。今はすぐ聞けますね。
>>[41]
今晩は失礼します。
ようやく、夏に戻りましたが、午後から雷雨でかなり降りました。あとは、高原の感じ。

>「この世界は暴力によらずして変えることはできないのだ」という考えはマルクス主義の流れから、一部の人たちには間違いない真理のように思われた

私はこの点は第三の道派です。共産主義(特に無神論)でもなくなく、資本主義でもない。マルクスの解釈は柄谷流です(ポストモダン?)。

wiki 暴力革命より
「1848年、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』
最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。」
暴力的な転覆によってしかなし得ないとあります。

しかし、その後、マルクスとエンゲルスは議会政治的革命も認めてます。文も残っている訳です。

レーニンだけは暴力革命以外は修正主義で日和見だとして、暴力オンリー

本の紹介ページなので青空文庫を紹介します。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001138/files/47057_57486.html
** 
最後に、共産黨は到る處において、萬國の民主的諸
黨派の團結と一致とのために努力する。
共産黨は、その主義政見を隱蔽することを恥とする。彼らは公然として宣言する。彼らの目的は、一切從
來の社會組織を強力的に顛覆することによつてのみ
達せられる。・・
**
「 強力的に顛覆することによつて」
青空文庫の幸徳秋水訳は暴力革命でなく、強力的転覆になってます。

>>[46]

原典が公開されているので、検討します。

「共産党宣言」
K. Marx,Manifest
http://www.deutschestextarchiv.de/book/view/marx_manifestws_1848?p=3

Sie erklären es offen, daß ihre Zwecke nur erreicht
彼ら(共産主義者)は公に宣言する。 彼等の目的が
werden können durch den gewaltsamen Umsturz
よって 手荒い、強引な、転覆
達成れる 強引に転覆することにより
aller bisherigen Gesellschaftsordnung.
すべての既存の社会的秩序を

「彼ら(共産主義者)は、すべての既存の社会的秩序を強制的に転覆することにより、目的を達成でき
ると宣言する」
周りの語感もマイルドなので、少し強引、手荒ら?

歩きスマホで三回訂正し失礼しました。
標準訳に従い、読みやすく
私はフランス哲学だけでなくフランス文学もよく分からない。二十世紀を代表すると言われる「異邦人」を読んでも、どこが良いのかさっぱりわからなかった。

母の死に涙も流さず、翌日には、女と遊び、映画を見て笑い転げる。たとえ母を愛していたとしても、そのようなことは特別なことではなくあり得ることのように私には思える。少なくともこの私は、この程度のことでムルソーを「異邦人」とみなすことはない。

しかし裁判ではそのことが、主人公が冷酷で残忍な人間であることの傍証とされてしまう、その辺がどうもさっぱり理解できない。フランスの司法関係者はみんな単細胞なのだろうか?

一番問題なのは、主人公ムルソーに感情移入できないことだ。

≪乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。≫

匕首を振りかざしてくる相手に一発撃つのは理解できる、身動きできない体になお四たび撃ちこんだ、となると私の理解を超えてしまう。カミュはムルソーの生々しい心理の動きについては一切記述しない。そのためムルソーは極度に無感動な人物であり、「事件」は白昼夢の中の出来事であるかのようである。どうしても主人公の心理に整合性を感じ取ることができないのだ。それを「太陽のせい」にしてしまうなら、ムルソーは私にとって本当の意味で「異邦人」である。その時点でこの小説の「読書」は成立しなくなってしまった。

かつて、「異邦人論争」なるものが小説家の広津和郎と評論家の中村光夫との間にあったそうだ。広津はカミュのいわゆる「不条理」を、実生活から遊離した「心理実験室のお遊び」と批判し、中村は「年はとりたくないもの」とやり返したらしい。
実際のところ私も広津の言うように、ムルソーはカミュの空想の中ででっち上げた人物像というような印象を受けた。しかし、どうだろう世界中で多くの人々の共感をこの作品は得ていることから判断して、もしかしたら私は初めてカミュの作品を読むにはすでに年を取りすぎてしまったということなのかもしれない。

カミュ自身がこの作品を解説して次のように述べている。

≪『異邦人』の悲劇は、自分に正直であろうとする者の悲劇なのです。‥‥
 この作で私の言おうとしたことは、うそを言ってはいけない、自由人はまず自分に対して正直でなければならない、自由人はまず自分に対して正直でなければならない、しかし真実の奉仕は危険な奉仕であり、時には死を賭した奉仕でもあるということです。‥‥≫
 (三野博司 「異邦人を読む」P.186)

自分に正直であるには、「相手が刃物を振り上げてきたので、身を守るため発砲した」と言い訳することは許されないのか? カミュの言い草はとても奇妙なものに思える。もし事件が起きた時のムルソーの生々しい心理を描いていれば、そのように言うことはごく自然だったはずだと私は想像するのである。

アンドレ・マルローはこの作品の技術面について次のように語っている。

≪『異邦人』は明らかに重要な作品だ。最後には読者に作中人物の観点を受け入れさせることになる力強さと手法の簡潔さは、この本の価値が説得性を持つか持たないかにかかっているだけにいっそう傑出している。≫(三野博司 「異邦人を読む」P.288)

しかし私に言わせれば、作中人物の観点を受け入れさせるためのテクニックはかなり姑息なものに見える。法廷でのムルソーの内心とかけ離れたやり取りは、常識的な人々の愚かしさや偽善性をことさらに印象付け、殺害されたアラブ人については、その心理はおろか言葉や姿かたちもそして名前さえも記述されないゾンビ扱いである。つまり、ムルソー以外には、皮相的な思考しかしない常識人と顔を持たないアラブ人しかこの小説には登場しないのである。自然と読者はムルソーの観点を受け入れることになる。

もしここで、ムルソーが罪悪感を感じていたとしたら、彼の「正直さ」というものはそれほど聖性を帯びてこないだろう。彼に罪悪感を感じさせないためにはアラブ人はゾンビでなくてはならなかったのである。

それにしても、刃物で向かってきた男を殺して死刑になるという筋書きは少々強引すぎるのではないかと思う。ムルソーに死刑判決が出なければこの小説は成立しない。アラブ人が刃物で向かってきたという事実を勘案すれば、情状がいくら悪くても死刑判決は出ない。この話には無理がありすぎる。

「哲学が好き」の現在は削除されてしまったあるトピで、C氏とA氏がカミュの「異邦人」について語っていることが興味深かった。コメント内容からして、主人公ムルソーの、「社会性や大衆性を排除した個人的な正直さ」に対し、強い共感を感じているようだ。
二人ともMixi内で多くの人々に精力的に噛みついているが、常識的な人々の偽善性に対する憎しみが彼らの情熱を支えているということか。そうすると、標的となっている私などはとても通俗的で偽善的な人間に見えているということだな。ま、それは否定しないけど。
しかし、無造作に人を殺し、それを「太陽のせい」にしてしまう、無感動なムルソーと屁理屈を声高にこね回す両氏との落差は大きすぎるのだが、その辺をどのように認識しているのかを本人に問うてみたいような気がする。彼らに社会性や大衆性が欠如しているのは確かだが、「自分は正直」と安易にムルソーに重ね合わせることができる、その性格はちょっとうらやましいかもしれない。
>>[51]
難しいところから始めたからと思います。
シネマとか下記の「哲学について」当たりから始めれば、そんなりは?

お日柄も暑く、孫引用ですみません。

『哲学とは何か』ドゥルーズ 邦訳単行本84頁より

《Nous n’apprenons rien avec celui qui nous dit:
fais comme moi.
Nos seuls maîtres sont ceux qui nous disent
‘fais avec moi’ et qui, au lieu de nous proposer
des gestes à reproduire, surent émettre des signes
à développer dans l’hétérogène. 》
(Deleuze, Gilles 1968 Différence et répétition)

《わたしたちは、「私と同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。
わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」
と言う者であり、この教師は、わたしたちに、再生すべき所作を提示するかわりに、
異質なもののなかで展開するべきいくつかのしるし(signe)を発することのでき
る者なのである。》
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、単行本49頁、文庫上74-5頁より)≫
「私と共にやりなさい」→訳は正しいのですが、「私と一緒にしましょう(ね)」かと思います。
アベックで行こうね。
統制・管理でなく、共生する教師から学ぶことがある、というわけです。まあ、多くの公立中高の教師は「私のようにやれ」でしめせるのは、間違いだらけの知識、本人も良く分からない証明くらいで、ドゥルーズの対象のリセの教師はかなりまともと私は思います。

実現された出来事と純粋な出来事のには差異があることの指摘もよく聞きますね。

信仰のキリスト教会と、歴史上のナザレのイエスの神の国運動ないしメシア活動というように使えます?
まあ、友人たちのカフェゼミですが。
仕送りの少ない友人が多いので、川向かい(カルチェラタンより安い11区)のカフェでコーヒーを奢ると概論、バケットサンドを奢ると、原典ゼミになりました。まだ、当時は税金が多く二人以上の領収が沢山必要でした、交際費になるわけです。

ある友人は、「私のようにやれ」はドラグゥエルdraguer(ナンパ)を褒めて、カフェに誘い・・と理屈をいうことで、「私としましょう」は(実際に声かけた)「マドマワゼル、俺たちと」。
コツとしても、僕と一緒にしようよがよいとか

ともかく、「私と一緒に」ドゥルーズしてくれました(^^;。
>>[56]
et qui, au lieu de nous proposer
des gestes à reproduire, surent émettre des signes
à développer dans l’hétérogène.

そして、「私と一緒にする」(共生する)教師が異質な要素の混在した(言動の)しるしの再生の方法を知っている訳です。
まあ、いつもいきなり訳からするのは、大先生を批判すると何かと失礼かと思うからです。(^^;。
>>[51]

ほんとドゥルーズの書いたものって読み取りづらいですよね。何が言いたいのか、よくわからなくって面喰らっちゃう。
ここのコミュは何人かの哲学者を単独トピックで取り上げているけれども、ドゥルーズのトピックが立ったなら、ぜひ皆さんとともに学びたいです。
>>[58]

まあ、これは自説、意訳ですが、
「私のするようにしなさい」と言う者からは、何も学ぶことはない。
わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と一緒にしましょう」 と言う者で、この教師は、わたしたちにやるべきことを提示するのでなく、異質な要素の混在した身振り(「しるし」)で再生する方法を知っている訳です。
(超訳 異質な要素を混在しながら、共生する方法を知っている訳です)

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