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古代史の旅人コミュの雑談コーナー

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・雑談ですのでジャンルは問いません。
・各トピック内で発生した話題がトピック主旨から外れてはいるが興味の湧く話題でもあり、しかし新たにトピック立てまで必要なさそうな場合もこちらでどうぞ。

・各トピック主様も、話題がトピック主旨から乖離しそうな場合は、こちらへの誘導を提案してくださいますようお願いします。

・雑談の中からトピックを立ててみようと思える題材が出てくれば嬉しく思います。

よろしくお願いをいたします。

コメント(1000)

>>[955]

こんばんは。
お正月は大変だったようですね。少し前のコメントで知りました。
どうぞお大事になさって下さい。

皆々様が今年一年、健やかにお過ごしなされますように。

蘇は一応、延喜式に習って作ってみたつもりです。およそ35分ほどで完成しましたが、30分過ぎからは焦げ付かせないようミルクパンに付きっきりでした。 湿気って固まったパルメザンチーズのような食感で、チーズケーキ?のような味でした。
また作ってみたいです(^_^)。

>>[954]

こんばんは。
神無月の対になっているのが神在月ですから、出雲に神が集うというのは後世の後付けではないでしょうか?。
私見では、刈稲が終わり神様が月へ帰るという意味=(生産・再生)と考えます。
>>[962] そうですね。後付けだと思います。
そのあと付でそういう話を作ったときに、それではなぜ集まる場所が出雲としたのかということを
新たに面白いなと思っています。ヤマトに集まるとしなかったのはなぜか。

そして高良大社、諏訪大社、能登の志呼神社は神無月に行かない神としていて、対馬のアマテル神社は行く神となっているわけですが、このあたりの後付けの話に連動して、新たにストーリーをかぶせているというか、神社伝承の起源とはなにかとか、いろいろ考えたくなります。
>>[963]

おはようございます。
日本神話、出雲国風土記が現在に残されています。いつの時代なのか?は分かりませんが、人々の間から、または神職によって大国主命(=大己貴)の総本家となり神在月に出雲に全国の神様が集う慣いが興ったのでは、と考えます。

古事記に記される神話には人間味があり、実在の人物を重ねて描かれているのではなかろうか?、というフシはあります。が、神の概念からは納得出来るものと考えます。
上に書きましたが、稲刈り(収穫)を終え、豊穣・豊漁の感謝祭が終わると各地の神様はその報告をし、神講がなされるということではないでしょうか。私はそのように考えます。
>>[961]

延喜式に沿った蘇の製造には、やはり手間と時間がかかるのですね。
原材料の量、調理方法、調理時間、その過程での製品の変化の状況を把握され、
何より、実際に製造してみるという、実証的な精神に貫かれた科学的視点は、すばらしいです!
ありがとうございます。

こうして古代史の旅を楽しめることを、私は誇りに思います。
ところで最近、ウタさんはどうされているのでしょうか?

以前、羅針盤で出したお題い、ご意見頂きたかったです。

神武東征は西暦何年頃か?

アンケートを作成しました。よかったらぜひお考えを一票に。
今宵のNHK総合TV「歴史秘話ヒストリア」は久々の感涙でした。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/304.html

榛名山が噴火し、火砕流発生前に住民を避難させ、最後にムラに残った王と妻と二人の子
この王の最後の瞬間の行動には諸説あるけど、
短甲を身に着け、火砕流に向かって膝まづくように倒れたその姿を見て、花を手向けたいと、
学芸員に申し出る人がいるということは、王の最後の思いが現代まで伝わったということであり、
住民が冷静に整然と避難した痕跡である足跡とともに、
古来から災害の多発するこの国で、為政者は人々は何をなすべきかを伝えているように感じました。
日曜日に筍を掘りました。
田んぼでは「虫殺し」といって、冬の眠りから覚めぬ間に田起こしをします。
そうして地下の虫を殺す為だと古老に習いましたが、凍った田は耕され湯気を湛えて居ました。

そうして未だ寒い日がありますが、再生の冬を地下で休まず過ごした竹林は今年も「春一番」に先駆けて、春の恵みを与えてくれました。


人間の感覚ではない自然の営み…そんなものを痛感してしまいました。



今年も春になりました。


>>[970]
山国の
剣本さん。
風物詩ですね。
>>[971]

海には魚の種類が季節を報せてくれるのでしょうか(*´∇`)

自然は何処も美しい…そして厳しく、雄大だと思い知らされますよね。
人間が勝手に色々考えても必ず同じ時期に同じように廻る季節…しかし、全く同じく時間は来ない。


正に螺旋の世界観ですね。


>>[972]
螺旋
については
どこかでかなりの
議論がありましたね

ある年に
毎年
実ったものが取れない
毎年回遊していた魚がこない
毎年起こっていた何かが
起こらない

そんなことが
時折起こりながら
螺旋は延びていく
>>[972]

田舎では、ちょっと前まで街の中の団地でも、猫の額ほどの小さな庭を耕して、ナスやトマトをつくっていました。

そうやって土に触れていると、自然の恵みを感謝したり、自分が自然の中の一部だと実感することができるのですよね。

でも、最近は家族全員が車を所有する時代になりました。どこのご家庭もコンクリ敷き詰めて、仕事に忙しく、畑などはつくる余裕がなくなりました。食べ物はスーパーマーケットで調達しなくてはなりません。

家にいて四季の恵みを感じられるのは幸せなことですよね。私もそのために雪深い山奥に引越しました。たぶん、四月はまだまだ雪がたっぷりです。

海もよかったのですが、山を選びました。

海では確かに、おさかなが季節を知らせてくれます。風や波が変わるので、海も四季を感じさせてくれます。でも生き物たちは水の中。釣り人は季節に応じたシカケや場を楽しみますが、主婦がさかなに四季を感じるのは、調理台の上です。

山の多様さが、やっぱり好きです。芽吹きの春はゾクゾクします。
私の幸福感はもう少し先です。

>>[974]

山菜のほろ苦い感じ…まぁ「苦いだけだ」と言う方も居ますが(^-^;)…あの感じが僕は好きで、新芽の時期は楽しみです。

やはり、山には山の…海には海の良さがありますね♪

僕は山育ちなので山の楽しみ方しか解らないのが残念です。



>>[975]

以前、恵那で泊まった時にいただいた恵那産コシヒカリが、すごくおいしかったのを覚えています。そちらで採れる山の幸は、きっとどれも美味しいのでしょうね。水がよさそうです。


対馬のアマテル神社は、なぜさらっとスルーされるのだろうか?
イト郡という地名が残るから
糸島がイト国とか
松浦がマツロ国とか
確定のように言われるが
だったら
沖の島に向こうの対馬に
アマテル神社が、あれば
ここが天照大神の
オリジナルと
なっていいんじゃないか?
>>[977]

スルーはされてませんよ♪それを根拠にアマテラス男神説を提唱する方も居ます。
確か本も出てたかと?タイトル失念しましたが(^-^;)


確定申告の作業も一段落し、あっという間に3月になってしまいました。
最寄りの市川真間駅に飾られている生け花が、蝋梅から紅梅に変わったのに季節を感じる今日此頃、
>>[968] で紹介した、火砕流に向かって膝まづくように倒れた王の姿に既視感を感じていたところ、3.11も近くなり思い出したのが、
両陛下の被災地訪問の御姿でした。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-20110427-1877.html

御履き物を脱ぎ、膝をついて、被災者と同じ目線で、御言葉をおかけになる両陛下の御姿は、被災者のみならず、全国民に勇気と感動をもたらしました。

未曽有の大災害にあっても、民のことを第一に思い、膝を屈してでも責務を果たす者こそが、この国の王たる者であるということ
それは、古墳時代から変わらないのだということに気が付きました。
>>[978]

中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』も、おすすめです。
http://mixi.jp/view_item.pl?id=128995

千田稔氏は、「アマテラス」を、「火明命」に関係があると考え、対馬の「天道信仰」と関係を論じています。
そして、鳥取県の角田遺跡から出土した弥生土器に描かれた絵との関係について考察し、その絵が弥生の太陽信仰を描いたもので、
中国古代、長江下流域で成立した「楚辞」の中にある「東君」の詩がアマテル信仰のルーツを示してるであろうとしています。
さらに、この神を奉斎する民として、海部氏と尾張氏をあげています。
>>[980]
古代丹波王国の物語。
国譲りとテンソンコウリン

そして、後から来た神武をてんそんにするため

降臨の場所が九州に。
芦原の中津国を譲ってもらったから
降臨するぞと日向にいくものか。
だから神武はテンソンデハナク
降臨の場所が創作。
熊その神武をてんそんにして
その子孫の天皇を
てんそんにするため

天武天皇が
尾張の力で
ジンシンノ乱を勝ち抜いたからではないか

俺がおおきみになったら
王はアマテルの子孫ということにするよと

そのためには
神武の出発地に
もう一人のテンソンゾクが
降臨したとすればよい

ニニギノ降臨は作り話
降臨後の話は
熊その神話

本当のテンソンコウリンは
丹波ですね。
そらは国譲りと連動する
シンプルな物語
>【小山田古墳は巨大方墳・動画】「舒明天皇初葬墓」か「蘇我蝦夷の大陵」か 研究者を二分する論争に 2017年03月01日 21:32 産経新聞
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4456957&media_id=3&from=category_news


これ、どっちなんでしょう?
是非ともミヤーンさんのご見解を聞いて見たいです。
>>[983]

ニュースの記事を素直に読み、既存の知識を合わせると、以下のような経緯が考えられ、
どちらも正解だと思います。

641年 舒明天皇崩御(百済宮で殯)皇極天皇即位

642年 蘇我蝦夷「今来の双墓」を造営
    「蝦夷の大陵」が後の小山田古墳、「入鹿の小陵」が後の菖蒲池古墳に相当
同年  舒明天皇の喪を発し、「滑谷岡」に葬る
    「滑谷岡」は「蝦夷の大陵」として造営された後の小山田古墳に相当

643年 舒明天皇を「押坂陵」に改葬
同年  上宮王家滅亡
     この前年、上宮王家の春米女王は、大規模な蘇我氏の今来の双墓の造営を非難していた。
「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ」

645年 乙巳の変により蘇我本宗家滅亡
     蘇我蝦夷・入鹿の遺体を「蝦夷の大陵」として造営された後の菖蒲池古墳に埋葬

つまり、小山田古墳は、皇極天皇の御世に、蘇我蝦夷の寿陵として造営されたところ、
聖徳太子の遺児である春米女王の厳しい非難を受けて、百済宮で殯にあった舒明天皇の遺体を仮葬。
翌年舒明天皇を「押坂陵」に改葬し、聖徳太子の遺族である上宮王家を滅亡に追い込む。
乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡し、小山田古墳は逆賊には巨大すぎるので、「入鹿の小陵」として造営された菖蒲池古墳に蘇我親子の遺体を埋葬したと考えます。
日本神話トピがお陰様をもちましてコメント満了となりました。

参加された皆さま、ありがとうございました。


日本神話という大き過ぎるテーマは1000コメントで決着するとは考えて居ませんでしたが、様々な考察から新しいトピの芽生えを感じる事ができました。


ありがとうございました。


>>[985]
完走お疲れ様でした。

魏書につきましては、読み解きの角度も多く出ている中で例えば夏音にしてもそうですが諸説ある中で不思議な表現もまだまだ残されていると思います。 例えば、魏書に於いて「倭人条」と題された理由や意味なんかも不思議のひとつです。何故、「倭国伝」または「倭国条」と記されなかったのか? 「倭国」として記されている記録と比べて、ではいつ頃から「倭を国」と認識をしたのか? なんかも、興味のあるところです。 また、アカホヤ遺跡に見られる鬼界カルデラの噴火に関しては、どこかにその記録が無いのか?など色々な疑問が尽きません。 発掘による考古学調査が進む過程で今後もセンセーショナルな発見があることを期待してしまいます。
>>[986]

なるほど、複雑なのですね。
僕は中国語ができないのですが、聞いた話しでは現代の中国語は意味を成す漢字と音を示す漢字に分けられるそうですね?
我々が古文と認識する様に中国語にも古文がありそうですから、そうした辺りから読み解けば魏書も違った感想を持てるのかもしれませんね。


>>[985]
>>[994] エーベルバッハ少佐さん への返信です。

それがおそらく「はっきり解っている事」の限界なのではないでしょうか。

歴史とは点(事件)でなく前後の流れというのが僕の持論です。
そうした流れを探る事でしか見えないモノがあると考えて居ます。その為だけに当コミュニティは存在すると言っても過言ではないかと思います。

→ぼくはあるとき歴史とは多重的に流れていると思いました。
歴史とは個人個人が感じる時代概念の総和であり
どんな時代だったのかというのを解釈するのは実に冒険だと思ったのです。


2000年1月1日に4人の人が集まって1950年から2000年までの50年を論じます。
すると
一般的には同時代の4人だから見解の相違はあっても同時代を生きていると普通は考えると思ってました。

4人はそのとき
1927年生まれの朝鮮半島で生まれ育って戦後引き上げた男性
1930年生まれの満州で生まれ育って戦後引き上げた女性
1960年代に生まれた男性と
1980年代に生まれた学生

さて朝鮮育ちの男性のその50年は朝鮮から帰ってきて大日本帝国がなくなったあとの
日本国だった半島がもとにもどったあとの時代です。
満州育ちの女性も地獄の引き上げを体験し故郷には永遠にいけないような立場。
この世界から故郷が消滅しています。そんな目でみる50年
60年代の男性は物心ついたときやっとテレビがあり電話があった程度。学校にあがったときの先生たちはみな戦争体験者。かれが4歳のとき20歳以上の人はみな戦争中に生まれ、30歳以上の人はみな明確な記憶をもっている。

1980年代の学生はは物心ついたときの大人たちは戦後生まれですし、日本の概念の中に千島列島は入っておらず、物心ついたときにはソ連すらありませんしベルリンの壁もありません。

kenbonさん
歴史とは流れであるという考えに賛成です。同時に同じ出来事やそのあとの流れそのものすら、その流れにどこで参加したかによって、まるで違うものとしてみるのですね。
隣同士の同じ時代の同じ場所にいる人の頭の中。
朝鮮や満州でうまれ植民地時代を知り、ソ連軍が侵攻してきた姿をしり、空襲を知り敗戦の混乱をしり、そんな目で2000年を眺める人にとっての2000年の出来事の感想と
ベルリンの壁も知らずソ連という国もなくなり生まれた時からパソコンがあり携帯がある世界でモノを見る人と

まるで違うものを見ているのだと思いますね。

だからたとえば白村江戦いの前から生きているひと、たとえば663年の敗戦だから640年生まれで記紀編さんの720年頃80歳だった人。少しはいたでしょう。
その人と700年生まれの壬申の乱さえ終わった時に生まれた人の
その720年における歴史認識は同じ時代にいながら違うものなだと思います。

まあ雑談ですから許してください。なが〜い文章でした。

白村江と壬申の乱の前と後では
おなし歴史的事実を違うものとして解釈したのではないでしょうか。聖徳太子が建国の書を編纂しなかったのはなぜでしょう?
あれだけのことをしてなぜ建国の書を書かなかったのか
>>[988]


こうした話しができるのも雑談の利点と解釈しましょう。

ご意見に同感です。
僕の父は戦前生まれ、母は戦後生まれです。この両者の天皇陛下に対する見解は大きく異なります。
僕の父も少し古代史をやっているので、たまに古代史の話しになりますが、やはり僕とは解釈の基本が違います。


先日、友人と移動時間の話しをしました。


僕の感覚では電車で名古屋まで1時間なんです。
父は機関車ですから3時間でした。
僕の子供はリニアができて10分になります。


たった三代で同じ距離の移動時間がこんなにも違うのです。


記紀編纂当時、歴史的な事件を隔て、違う常識で育った人間が同じ伝承を編集したとしたら?

それは仰有る通り、概念的な部分が異なる人間たちが「落とし所」を探したかもしれませんね。



>>[990] お話うかがってて思いましたが、記紀編さん者は何歳だったでしょう。
663年の白村江、672年の壬申の乱。
の後に生まれた人たちでも30歳〜40歳であり、まさにその人達が作ったでしょう。
つまり戦後生まれの日本人が明治を解釈するのと同じ現象になるのではないでしょうか。

白村江と壬申の乱のあとに生まれた列島民は日本人です。
それ以前の世界は倭であり、日本に変わりました。しかし記紀編さん者たちは生まれた時からあるいは物心ついたときから、日本人です。
この新しい意識が編纂した記紀というのは、それ以前の倭国時代の歴史などもしかしたら、日本のためにいかようにもアレンジすべきだと思ったかもしれません。もちろん柱は残さないといけないでしょうが、その範囲内では。
だから国譲りも天孫降臨も歴史ですがまた幾多のエピソードはみな歴史ですが、ただ時と場所は都合よくアレンジしたのではないかと思ったりします。
個人的には神功皇后の出来事は3世紀に起こったことを神功皇后にかぶせていると思えるのです。つまり卑弥呼とトヨの事績です。
>>[991]


Wikipediaによれば…古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である。その序によれば、712年(和銅5年)に(太安万侶とも表記)が編纂し、元明天皇に献上された。

とあり

太安万侶は生年不詳ですが慶雲元年正月7日(704年2月16日)に従五位下に叙される。
和銅4年4月7日(711年4月29日)に正五位上に叙される。同年9月18日(711年11月3日)、元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられる。
和銅5年正月28日(712年3月9日)、天皇に、編纂した『古事記』を献上する。
霊亀元年正月10日(715年2月18日)には従四位下に叙される。
霊亀2年9月23日(716年10月12日)に氏長となる。
養老7年7月7日(723年8月11日)、民部卿・従四位下で死去。

仮に60歳で死去とすると711年には48歳。この時に婢田阿礼は28歳ですから20歳の差。
阿礼は683年生まれ、太安万侶は663年生まれと予想できます。


663年の白村江、672年の壬申の乱。


…これは面白いかもしれませんね。


>>[992] 倭国史記を書いたのではなく日本書紀を書いたというのも面白い。
日本建国の正当性が重要で倭国の正しい歴史を書くのが目的ではないわけです
倭国から日本国。
>>[993]


そして太安万侶はかなり藤原贔屓だったみたいですからね…藤原の庇護を受けていたと考えても良いでしょうね。


>>[994] すると藤原氏にとっての良き歴史がアレンジされたということですね。

藤原氏、藤原氏の祖は中臣鎌足だから中臣氏。
古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。
>>[995]


それがどうも鎌足は中臣でも中臣じゃないみたいなんですよね…つまり中臣に伝わる秘伝を持たない中臣だから実力で地位を狙ったのではないか?と調べていますが…難しいです。

上記の推測が正しければクーデターの動機には充分ではないでしょうか?



>>[996] 中大兄皇子もソガシがいたら、自分は絶対に王になれない、平凡なたくさんいた皇子の一人だったとか。
>>[997]

僕はそう考えて居ます。

用明と推古は欽明と蘇我氏の子です。馬子の兄弟ですね。
崇峻も欽明と別の蘇我氏の子です。崇峻の妹と用明の子が厩戸…聖徳太子ですね。これと馬子の娘の間の子が山背大兄王。
山背の伯母と舒明の子が古人大兄王。


しかし、天智(中大兄皇子)は蘇我氏の娘を3人も妻としています。


ここで重要なのは藤原不比等が鎌足の子で、鎌足は乙巳の変以降は殆んど活躍していないのです。

つまり、鎌足が書かせたのでなく不比等が鎌足の正義を守る為に書かせたのではないか?という事ではないでしょうか。


>>[998] そうなると
神話のどこがアレンジされたかですね
>>[999]

厩戸皇子トピに移動して頂いて良いですか?


雑談トピを更新しますね。


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