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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八十五回 かとう作「海へ(仮)1」(テーマ選択「海」)

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「先生、それ自分でおかしなこと言ってるの、わかりません?」
 診療室に、中村あさひの声が響いた。本人が思った以上によく響いて、隣の内診室にいる樹に聞こえてしまったかと心配になる。言った途端に鼓動が速くなるのがあさひ本人にもわかった。
「あ?」
 先生と呼ばれた浅野泰介はあさひを睨んだ。
「なんだって?」
 浅野は、あさひが勤めるあさの産婦人科院長の二代目だ。昨年父から病院を引き継いでいて、まだ三十代半ばを過ぎたばかりである。あさひより十歳近く年上だが、彼女は浅野を上司とは思っていなかった。助産師であるあさひにとっての上司は助産師師長や主任だし、あさひにも助産師としての矜持がある。普段から院長相手に臆さずものを言うことができた。
「だから、先生は患者さんに言ってることと、自分でやってることが矛盾してます」
「おい、静かにしてくれ」
 浅野は、普段から助産師や看護師相手に口調がぞんざいだったが、別にそれは彼女たちを軽視しているわけではない。普段から誰にでも、よく言えばフランク、悪く言えば雑なのだ。しかし決して人間として悪いほうではない。むしろ性格は温厚で、仕事には真面目だ。
 あさひは彼をそう評価していたが、今彼女に向けられる目は、鋭いものだった。浅野が今一番言われたくないであろう言葉を口にした自覚が、あさひにはあった。
「樹に聞こえるだろ」
 樹は院長である浅野の妻であり、あさひの元先輩だ。つまり浅野と結婚して妊娠する前までは、この病院で働いていた。妻の名を口にした途端、浅野が一瞬涙目になったのを、あさひは見逃さなかった。あさひから目線を外し、診察室のデスクに肘をつき顔を覆う。そしてわざとらしくため息をついた。眼鏡を外し目頭を抑えて、最近はここ数日間分娩が続き疲れているせいだと自分にまで言い聞かせているようにも見えた。
 二人の間に沈黙が流れた。診察室と内診室は壁一枚で区切られている。その壁の前後にそれぞれ出入り口があり、手前は患者が出入するためのドア、奥はスタッフが出入りするためのカーテンがある。それぞれの部屋の会話や物音は筒抜けだ。
 内診室からの声が聞こえた。
「ちょっと、あさひ、いるの? 泰ちゃん?」
 二人は返事をしなかった。
「ねえ、誰かいる? あ、染谷さん、降ろしてくれない?」
 樹は先ほどまで妊婦健診を受けていた。今週で妊娠十二週になる。子宮内のエコーをとるときは、妊婦は内診台に乗せられる。樹は未だ内診台のリクライニングで横になっており、自力では動けない。近くにいた助産師に助けを求めたようだった。
 染谷と呼ばれた助産師が返事をし、内診台の操作する音が聞こえてくる。
「この状態で放置ですよ。ひどくない?」
「先生呼んでこようか? 診察室にいるはずなんだけど」
 その声を聞いて、浅野が慌ててあさひに耳打ちした。
「まだ樹には言うなよ」
 あさひは何も言わずに浅野の目を見返した。彼の行為は助産師として看過できることではなかったが、それでも立場上従うしかない。
 は目を逸らし、また小さくため息をついた。
「お腹の子はダウン症かもしれない。そうだったら産ませるわけにいかない。樹には時期を見て話すから」
 それだけ言い残し、浅野は妻のもとへ向かった。

 出生前遺伝学的検査(NIPT)は、妊婦の血液によって胎児の染色体異常がわかる検査だ。妊婦の腹に針を刺して行う羊水検査に比べれば安全かつ簡単に行える。そして比較的確度も高い。NIPTは欧米では簡単に受けられる検査ではあるが、日本では導入している病院は少なかった。命の選別に繋がるという理由で、日本産婦人科学会は、NIPTにかなり慎重な立場をとっている。検査を受けるためには、高額な費用が必要な上に、いくつかの審査をクリアしなければいけない。
   
 あさの産婦人科でもNIPTは導入していない。理由は産婦人科学会と同じ立場で、「産まれてくる命を選別しない」「どんな命も受け入れよう」ということだった。
 そううたっているあさの産婦人科の院長である浅野泰介は、妻の採血の際、スタッフに言って採血管一本分余分に血液をとらせた。そしてその検体を検査機関に送り、NIPT検査を依頼した。その結果胎児は八十パーセントの確率でダウン症だった。診断を確定するには、羊水検査を行わなければならない。
 院長として患者に「命の選別をすべきでない」と説いている以上、妻のNIPT検査について公にするわけにはいかなかった。しかし、なぜか検査結果は医院あてに郵送されてきた。それを最初に受け取り目にしたのがあさひだった。もちろん封書を勝手に開けるような真似はしなかったが、封筒に書かれたNIPTの文字で、中身はなにか想像がついてしまう。しかしこれは、誰の検査結果なのか。
 その足で院長のもとに向かい、なぜこんな検査を、一体誰にしたのか問い詰めて以来、あさひと院長の不毛かつ秘密裏の議論は続いていた。
 あさひは自分が知っている事実を、同僚にはもちろん樹にも伝えていない。彼女の様子では、お腹の子どもの異常のこともNIPT検査のことも何も知らないようである。
「私、転職するかもしれません」
 重大な秘密を知ってしまった心の重さは、退勤後にスタッフルームでため息とともに漏れ出た。
「え、嘘。なんで?」
 隣で一緒に着替えていた染谷が、シャツの襟から首を出しながら、あさひの顔を見た。あさひは染谷の顔を見返す。先代の頃から助産師としてあさの産婦人科に勤めている染谷は、このクリニックで一番の古株であり、助産師師長という役職にもついている。年齢はあさひの母親に近い。それだけでなく、染谷は仕事ができる上に器が大きく、患者や新生児だけではなく同僚にも愛情に近いものを持って接してくれる。あさひにとっては、助産師の先輩として憧れているだけではなく、彼女の胸に飛び込んで人生の悩みなどなにもかも打ち明けてもいいと思える人物であった。
 しかし、たとえ染谷相手であっても、浅野と樹のことを言うわけにはいかない。少なくとも、今の段階では。あさひは何を言おうか言葉に困り、染谷の目尻の笑い皺を見つめた。
「どうした? ごはん一緒にいく?」
「でも、お子さんは?」
「いいよ、もう上は高校生だもん。自分たちでなんとかするよ。私は中村さんのほうが気になるよ」
 染谷には高校生の娘と中学生の息子がいる。確かになんとかなるかもしれないが、下の子は受験生だったはずだ。家庭のある人を突然借りるのは、気がひけることであった。
 それに、今染谷の好意に甘えてしまったら、言ってはいけない秘密をついつい打ち明けてしまいそうだった。あさひは気遣いへの感謝を伝えるとともに、丁重に断りを入れた。
 染谷はいつもと変わらない笑顔で、なにかあったらいつでも連絡するようにと念押しし、帰っていった。
「どうすっかなぁ」
 スタッフルームに一人取り残されたあさひは、そう言ってロッカーに軽く頭を打ちつけた音が思いのほか大きく響き、内心ぎょっとした自分を笑うしかなかった。

 秘密を抱えておかねばならない時期は、思ったよりも短かった。
 樹が妊娠十六週に入ってすぐに、彼女はあさの産婦人科を訪れた。時計は一八時をまわり、診療の受付は終了していた。あさひは浅野に呼ばれ診察室に入ると、樹が診察台の上に横になっていた。シャツの裾を捲り上げて、お腹を露出させている。もうだいぶお腹の膨らみが目立つ。
 浅野はそのわきで、検査器具を載せたワゴンに向き合っていた。待合室側のドアから入ってきたあさひには、浅野の背中だけが見えた。樹の顔を見ると、目が赤く、腫れているように見えた。
 泣いていたのだろうか。
 あさひが樹の様子を伺っていると、浅野がデスクチェアをくるりと回してこちらに顔を向けた。
「羊水検査だ。手伝ってくれ」
 浅野は長さ二十センチほどの針先を見つめながら言った。
 あさひは、自分の心臓がきゅっと縮む心地に襲われた。
 あさひは今年で勤続五年目になる。新卒からあさの産婦人科に勤めている。羊水検査の経験はなかった。
 樹は今のところ経過に問題はないという。その膨らんだお腹に、その長い針を刺す? 中に胎児がいるのに? そして胎児のまわりを満たしている、羊水を抜き出す?
 羊水検査の有用性は大学で学んだはずだった。それでも、いざその針と、樹の膨らんだ白い腹を目の前にすると、足がすくむのがわかった。
 あさひは揺れた心を引き戻して、なんとか冷静さをかき集める。浅野とは今まで何度か勤務時間の隙間を縫って話をしたが、結局考えを変えずに、胎児がダウン症なら堕胎をする方向へ突き進もうとしている。そして、樹の様子を見ると、夫の考えにショックを受けながらも、結局検査をすることを了承したようだ。
 あさひは浅野ではなくて、樹のわきにしゃがみ込んだ。
「樹さん、いいんですか?」
 樹はベッドに寝たまま、壁のほうを睨んであさひの目を見なかった。やはり、目が赤い。あさひはそっとお腹に触れる。
「樹さんならもちろん知ってますよね? 羊水検査には、流産のリスクがあるんですよ?」
 後ろで、かちゃんと、金属と金属がぶつかり合うような音がした。浅野がワゴンに針を置いたのだろう。
 浅野があさひの肩を掴んだ。
「おい」
「ねえ、樹さん、経過は順調なんですよ? それなのに、羊水検査で流産のリスクを高める必要なんてありますか? もし結果が陽性だったらどうする気なんですか?」
「中村、やめろ」
 樹は相変わらず壁を睨んだままだった。きゅっと閉じた口に、もう何も言うまいという意志が見える。あさひはどこか焦燥のようなものを感じながら、勢いにまかせてしゃべる自分を止めることができなかった。
「樹さんはそれでいいんですか? 堕胎に納得できるんですか? それに陰性だったとしても、羊水検査のせいで流産するかもしれないんですよ」
「中村!」
 浅野の怒鳴り声が後頭部に突き刺さったと思ったら、今度は首が閉まる心地がして、急激に後ろに引っ張られた。あさひはよろけながらも立ち上がる。振り向いてやっと、浅野に襟首を掴まれたのだと把握した。
 あさひは浅野を睨みつける。浅野も、正面からあさひを見つめた。
「中村、お前助産師だろ? 自分が言ってることわかってんのか?」
「じゃあ、先生は自分がこの子の父親だって、わかってますか?」
 売り言葉に買い言葉だった。浅野は言うべき言葉を失ったように、口をあんぐりと開けてあさひの顔を見つめた。その顔が少しずつ紅潮していく。そして怒りがせきを切ったように叫ぶ。
「お前はクビだ! 今すぐおれの病院から出ていけ」
 おれの? まだ先代の持ちもののくせに?
 つい鼻で笑ってしまったあさひの肩を、浅野はさらに押した。
「泰ちゃん、やめて」
 やっと樹が起き上がって、ベッドから手を伸ばして夫の体に触れようとする。
「どうしたの?」
 診察室に、助産師長の染谷が入ってきた。怒鳴り声を聞いて走ってきたらしい。浅野が染谷に気づいて言う。
「染谷さん、中村は辞めさせます。自主退職ってことにしてください」
「ええ?」
 浅野の興奮に対して、染谷は案外呑気な声を出した。この場の三人の様子に、敢えてそうふるまったように、あさひの目にはうつった。
 染谷は三人の顔を見渡してから言った。
「先生、そういうことはできないんですよ。本人が辞めたいとか言わない限り。パワハラになっちゃいますよ」
 染谷は以前あさひが転職をしたいと言ったことには触れずに、静かな口調で言った。
「でも」
 浅野がうつむく。
「そうだよ、あさひをクビになんてしないで」
 樹がやっと夫の体に触れて言ったが、すぐに腹を押さえ始めた。
「いたたた」
 染谷が樹のそばに座り、腹に触れる。
「大丈夫? 張っちゃった?」
「すみません。このごろよく張るんです」
 あさひは染谷が樹の腹をさする様子を見て、初めて自分が樹に言ったことを顧みた。
「申し訳ありませんでした。退職させていただきます」
「ちょっと待って」
 染谷が樹の腹から目を離さずに言った。
「有休消化ということにしましょう。中村さんはしばらく休んで。先生も中村さんも、お互い頭冷やしてから考えたらどうですか? 樹さんのお腹にも触りますしね」
 鶴の一声に反論できる者は、その場には誰一人いなかった。
 
 故郷へは、いつも特急踊り子号を使って帰る。とは言っても、ここ最近は仕事が忙しくてあまり帰る暇がなかった。そして久しぶりに帰ってきたところで、あさひの母は不在だった。まだ会社にいるはずの父に電話すると、今日は夜勤だという。あさひの母もまた、現役の助産師として働いていた。
 電話口で、父は「ずいぶん急に帰ってくるんだな」と言ったが、それ以上はなにも聞いてこなかった。あさひは院長に出ていけと怒鳴られてからまっすぐ自宅に帰り、荷物をまとめ、すぐに最寄駅から横浜駅に向かう電車に乗り、そこから踊り子号に乗った。
 特急の座席に身を預けて故郷へ向かう車窓の景色を見たとき初めて、涙が落ちた。目頭をそっと押さえながら思い出す。初めて男に胸ぐらを掴まれたこと、しかも職場でああいう扱いを受けたこと、自分が浅野や樹に言ってしまったこと。
 しかしぐずぐずと泣くことは自分に許したくなかった。もうやってしまったことなのだ。いつまでも後悔していても仕方がない。今後はどうなるかわからないが、もしクビになっても職に困ることはない。特に産婦人科は、どこだって人手不足だ。
 自宅に帰ると既に父が帰宅していて、パジャマ姿で出迎えてくれた。居間でビールを飲みながらテレビを観ていたらしい。風呂に入るよう勧められたが、あさひはそれも断り、もう寝たいと告げた。父はあさひの部屋の布団が用意できていないと慌て、居間の奥に位置する和室に慌てて客用の布団を敷いてくれた。
 あさひは、父がテレビでナイター観戦をする音を聞きながら眠りについた。

 あさひは早朝、波の音で目が覚めた。夜父親が換気のために開けた窓が、そのまま施錠されないままだった。田舎はこういうところが無防備だと思いつつ、布団から這い出て窓のところまでにじりよった。潮の匂いがする。昨日はそんなことにさえ気がつかなかった。あさひはやっと、故郷に帰ってきたことを実感した。
 網戸越しに外の様子を伺うと、隣家の庭が見える。もう既に空がほんのりと明るい。母親はまだ帰ってきておらず、父親も起きていないらしい。
 あさひはシャワーを浴びてから、海まで歩いてみることにした。
 小さな住宅地を抜け海沿いを走る道を横切り、大きなリゾートホテルの道のわきを抜ければもう浜辺だ。あさひはスニーカーで白い砂浜を踏みしめながら歩いた。春の早朝の海は本当に静かだ。歩いているのは早起きな犬を連れた老人だけだった。あさひは適当な流木を見つけてそこに座り、海を眺めた。
 水平線には雲がかかっているが、その向こうから太陽が空をオレンジ色に染めている。その少し上空の、未だに夜の気配がする空を、今にも侵食しようとしている。そしてその光をまるごと受け止める海の群青。
 やっぱりこの海が一番好き。
 あさひは帰省のたびにそう結論づける。
 しばらくぼんやりと水平線を眺めていた。陽は次第に高くなり、雲の切れ間から陽光がのぞくと、目が開けていられなくなる。
 そういえばスマホを忘れてきてしまった。そろそろ父親が起きてきて娘の不在に気づくだろうか。
 目を閉じたままあさひが考えていると、誰かが砂浜をこちらに向かって歩いてくるのがわかった。裸足で砂浜をふみしめる、ざっざっという音。サーファーが海から上がってきたのかもしれないとあさひは一度足音から意識を離した。
 が、なにか砂浜に落ちたような音のあと(空洞の板状のものが落ちてその衝撃を砂が吸収したような、ぼーんという音で、サーフボードか何かを投げ出したのだろうと推測できた)、足音は唐突に速くなった。誰かがこちらに向かって走ってきている。鼓動の高まりとともに目を開けた途端、あさひはもう抱きすくめられていた。
 今度は心臓が口から飛び出すような心地がした。
 どうしよう、変質者だ、と思って浮かんだのはまず、父の顔だった。久しぶりに帰省した娘が朝起きたらいなくなっていて、その上浜辺で男に襲われたと知れば、父はどんなに動揺するだろう。
「あさひちゃん」
 しかし、その声を聞いた瞬間にすぐに誰だかわかった。
 顎に当たるウエットスーツの冷たさに少したじろいだ。
「さ、暁?」
 名前を呼びかけても、解放してくれる様子はなかった。あさひの髪に鼻を押しつけ、ぎゅうぎゅうと腕で締めつけてくる。その痛いほどの強さで、あさひはどれほど相手に乞われていたかわかってしまう気がした。
「冷たい」
 あさひはなんとか相手を押し返す。
「あ、ごめんね」
 抱擁のあとで、やっと顔を見た。七年近く会っていないはずだ。それでもなぜだか久しぶりという感じはしなかった。あさひはその顔をじっと観察する。
 最後に会ったときは、まだ十七歳だったはずだ。あさひはまだ大学四年生だった。二十三歳になったはずの暁を見ながら、十七歳の彼の面影を追おうとした。うまくいかない。それまであんなにくっきりしていたはずの、記憶の中の暁の輪郭は、あっという間に目の前の暁のものに更新されてしまう。
 少し太めの眉毛はわずかながら下がり気味で、その下の目からあさひに放たれる光は、まっすぐで強い。
 暁はいつも、人のことを強く見すぎる。
 子どもの頃からあさひは幼い暁にそういう印象を持っていたが、成長するにつれ、そのように暁が見つめるのは自分だけだと気がついてしまった。その目が、全然変わっていなかった。今は再会の喜びを目だけでなく、顔全体で圧力のように表現してくる。
 無精髭は記憶の中にはないもので、頬のあたりは十代のころの独特の膨らみを、若干失っただろうか。
「大きくなったね?」
 結局、その言葉しか出てこなくて、暁はさらに顔をくしゃくしゃにして笑った。「なんだそれ」と呟き、さらに体を捩って笑う。
「あさひちゃんは、綺麗になったね」
「そう? そんなことないと思うけど」
「いや、めちゃくちゃ綺麗な大人の女になったよ」
 暁は相変わらずだった。従順な犬なみのまっすぐさで、好意をあさひにぶつけてくる。物心ついたころから、いや、物心つく前から、暁はあさひによく懐いていた。
 暁とその母親は、あさひの家の向かいのアパートに住んでいた。父親は、暁が産まれる前からいなかった。母親は、茜という名前だった。あさひの母親は、茜が大きなお腹でアパートの外階段を登っていくのをよく見かけていた。このあたりは田舎でコミュニティも狭い。産院の選択肢もほぼない。
 その産院で助産師として働いているあさひの母親は、彼女が未受診妊婦なのではないかと疑っていた。ある日いつものように外階段を登っている茜に、声をかけたのが付き合いの始まりだった。
「あさひちゃんが帰ってきてたなんて」
 暁はあさひの手を握った。
「会えて嬉しい。ずっと会いたかったんだ」
 あさひは暁の目に溢れるものを見てしまった気がして、慌てて目を逸らした。気がつかないふりをする。
 そして考えた。暁は、気まずくないのだろうか? 最後に会ったあの日以来、あさひは暁に連絡をとっていなかった。暁からも連絡してくることはなかった。
 暁はあさひにとっては弟のようなものだった。暁という名前は、あさひの父親がつけた。茜が、名前をどうしたらいいかわからないと言ったからだ。彼女は命名どころか、出産自体に戸惑っているようだったと、あさひの母親はのちに語っていた。
 暁の母親は茜を自分の勤める病院に連れて行き、分娩介助までした上に、その後もなにかと茜の世話をしていた。茜には身寄りがないようだった。あさひの母親と茜が仕事で不在のときには、あさひの祖母が暁の面倒を見ることが多かった。幼い暁は半分あさひの家で育ったようなものだった。
「仕事は? 助産師になったんだよね? お休みなの? いつまでいるの?」
 矢継ぎ早に聞いてくる暁を制して、あさひはとりあえず帰って着替えようと促した。暁はやはり走ってくる途中にそのへんに投げだサーフボードを拾ってから、あさひと並んで歩き出した。
「暁もサーフィンするようになったんだね」
「うん」
 暁の母親は、境遇はどうであれ、割と明るい人だったと、あさひは記憶している。美しくてスタイルがよくて、サーフィンが好きで酒をよく飲んだ。暁にはあまり似ていなかった。
 二人で並んで砂浜を歩いていると、暁は不思議と無口になった。昔からだ。歩いているときはあまり暁はしゃべらない。暁の顔を盗み見ると、その顔は小さな、だけど満ち足りた笑みを浮かべていた。あさひはその様子を見て安堵した。
 また、ただの姉と弟のような関係にもどれる。
 そんな予感がした。
 ビーチの入り口のところにあるシャワールームのところで立ち止まり、今日の昼食を一緒にとろうと約束した。
 じゃあまたあとでね、
 その言葉を交わしたあとだった。
「あの日はごめんね」
 なかったことになってない。
 飼い主に叱られたような犬のようなしょんぼりとした、だけど本人にも無自覚であろうあざとさを感じさせる目を見て、あさひは途端に暁との昼食が気詰まりになってしまった。

コメント(9)

みなさま覚えてらっしゃるかわからないのですが、一月に投稿した作品をもとに、作り直しています。
人物や舞台なども変更し、一部のキャラをさよならしました顔(嬉し涙)
読み返してたら誤字発見!すみませんあせあせ(飛び散る汗)たぶん完結できたらまた最初から書き直すと思うので、今回もざっくり、こんな雰囲気の作品にしたいんだな、程度で掲載させていただきます
>>[3]
早速読んでくださり、ありがとうございます!しかも前の作品も読み返してくださったんですね。
一月も今回も、生と死をテーマにして書きたい(と、大風呂敷広げてしまうのは不安なのですがあせあせ(飛び散る汗))というのは共通してます。が、一月の作品は、創作教室の先生に不評で、「この流れで沖縄行かないでしょう。仕事に悩んで南の島に行くとかありがちだし」と言われ、それもそうだなぁと思いました。

ちなみに、一月の時点では、沖縄に移住して空き瓶をコレクションしまくる危ういやつとして暁を登場させたかったんですが、それもなくなりました。もうこの作品は沖縄登場しませんあせあせ
空き瓶というキーワードから、入れもの、ものが出たり入ったりする……そして瓶でなくて空き瓶というのは、なんだか悲しいものだ……みたいに思い、そこから妊婦の話にしたいと思ったのでした。

続きがまだ書けてないので、完成できるか不安ですあせあせ結構調べものもしないとです。

冒頭のシーン、わかりづらいですね!ちょっとセリフから始まって全体的によくわからない感じなので、これもあとから直そうと思います。
はっとする感じもありつつ、もう少しスムーズに読者をお話の世界に連れていけるとよいですね。

いつもみけねこさんの感想からインスピレーションをいただいております。読んでくださりありがとうございました顔(笑)
主人公のあさひは、曲がったことが大嫌い!みたいなキャラにしたいんですが、やはり魅力的にも書きたいので難しいところです。
「そりゃ言っちゃダメでしょう」ってことを意図的に言わせてるんですが、でも嫌われキャラで終わったら作品が成立しない気もするので、もっと人となりのわかるエピソードを入れていかないとですね。
でも説明的になりすぎてもダメだし。
小説難しいけど楽しいですね顔(嬉し涙)
主人公のあさひの直情径行的な性格は、現実に自分の周りにいたら瞬殺で避けると思いますが、小説の中では、興味深くどうなるんだろうと読むことができます。それに、比して、浅野先生は、(ぼくの周りにも患者には薬をいっぱい出すのに、自分の家族には風邪ぐらいでは絶対に薬を処方しない医師や、自分の家族のトラブルは法律手続きに頼らずにコネや金で解決する弁護士を知っているので)、普通のオトナの常識人と映りました。登場人物の背景がしっかり定まっているので、こうしたリアリティのある登場人物の活躍する作品になるのでしょうね。自分のことしか書けないぼくには、かとうさんの造る登場人物が楽しみです。
女性の視点でしか書けない内容ってありますよね…男女同権・ジェンダーレスと言われても性差を埋めることは難しい。
シチュエーション含め、男性目線で読んでしまうと少し入り難く思うのは、逆に描写に長けていらっしゃるのだなぁ〜と感嘆します。

病院での検査手段を介しての客観的な無機質さ、実家での皮膚感溢れる緊張の解けた叙情的な主観、状況は変わりつつも主人公あさひの不器用さには変化が無く、今後に海がどう作用するのかと想像は膨らみました。

主人公のキャラクター性もありますが、ザックリ切り付けたあとに腫れ物に触るかの気まずさで引けてから、どう話が展開していくのか予想が出来ないので続きは楽しみです。
>>[6]
感想ありがとうございます!
そうですよね、避けたい人間なんですが、そこからどう魅力的に描いていくかに大きな課題を抱えております……
JONYさんのまわりの、浅野先生的常識人のお話、参考になります。
>>[7]
ありがとうございます!
ご感想拝読して、物語を作るのは難しいけど、おもしろいなぁとしみじみ感じました。
描写に長けているなんてとんでもないです。「これは共感できない!」というところから、「自分にはわからないけれど、でもそうなんだね」と納得してしまうような、そういう説得力を作品に持たせたいものですが、今の筆力では自信がなかったりします汗
とりあえず書いて、精進いたします

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