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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第三十二回 作品 匿名E 自由課題『無題』

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コミュ内全体

■旅行二日目

 グアム島の南沖に、ココス島という無人島がある。
 小さな島だが、ビーチやレストランが整備されていて、日中はここでダイビングやマリンスポーツを楽しむことができる。
 ガイドブックに載ったこの島に一目惚れした俺は、今回の旅のメインディッシュとして二日目にココス島ツアーを組んだ。
 島までは現地スタッフの方の送迎なので、今日はバスに乗り遅れる心配はないはずだ(てか、さすがに二日続けてあっては萎える)。
 果たして、今日は無事に帰ってこられるのだろうか……?
 
 午前十時ごろ、ホテルに来たワゴン車に乗り込み、タモンから南へ約一時間。グアム島最南端の船着き場に到着し、そこからさらにフェリーに乗り換えること十五分。
 絵の具を垂らしたように美しいエメラルドグリーンの海に囲まれて、その島はあった。
 ガイドブックに、歩いて十分ほどで一周できる島と書いてあったが、とてもそんな小さくは見えない。少なくとも、二、三十人ぐらいは住めそうな広さだ。
 現地に着くなり、浅黒い肌のガイドのお兄さんが施設の案内と帰りの集合場所、時間を説明してくれた。
 一緒に説明を聞いている人たちはおそらくほぼ全員が日本人で、なかには英語が得意なのか、「Yes !」と明快に返事されている方もいる。
 が、俺はさっぱり聞き取れた自信がない。
 焦って振り返ると、SとMは「十六時半にグアム行きの船が出るから、十五分ぐらい前までに桟橋に戻ってくればいいね」と教えてくれた。
 持つべきは、海外でも冷静さを失わない友である。
 
 時計がすでにお昼近くを指していたので、俺たちは先に昼ご飯を済ませ、水着に着替えて船着き場へと向かった。
 俺たちが今回の旅の目玉の一つにしていた、シーウォーカーを体験するためである。
 これは初心者向けのダイビングで、酸素を送るパイプをつけた専用ヘルメットを被り、海中に張られたロープを伝って海底を歩くというアクティビティである。空気圧の調整でヘルメットの中には海水が入らないようになっているため、メイクや髪形を崩さずに潜ることができるのだ。
 船着き場から潜るのかと思ったら、また船に乗ると言う。
 どこに連れて行かれるのだろうとやや疑心暗鬼になっていると、着いた先はココス島のすぐ沖合に浮かぶ筏だった。
 もちろん、ロビンソン・クルーソーが作りそうな粗末な物ではなく、十人以上乗っても丈夫そうな物である。先にダイビングスーツに着替えた観光客の方たちがいるのを見ると、これはどうやらダイビング専用の筏らしい。
 船から乗り移ると、すぐにガイドブックで見たシーウォーカーのヘルメットが目に入った。見た目は宇宙服のヘルメットのようで、重さもだいぶありそうである。
 ガイドの方の説明が終わり、ヘルメットを肩で支えるためだろう、まず救命胴衣のような物を着用。が、筏のはしごを下り、いよいよ海に入る段階になってもヘルメットは着けさせてもらえない。
 ノーヘルでシーウォーカーする日があるのかとバカな勘繰りをしていると、先に海水に下半身をつけたSの頭にヘルメットが下ろされた。
 なんと、海に入る直前に装着する(と言っても、ただ肩の上に置くだけ)らしい。
 海底に下りていったSに続き、俺も海に入る。太陽がさんさんと照りつけているというのに、海水は意外にも冷たかった。
 Mが面白がって、防水用ケースに入れたスマホで写真を撮る。
 さっき下りていったSの姿は、いつのまにか見えなくなっていた。
 下を覗き込んでいると、顔を上げるよう言われ、俺の頭にもヘルメットが被される。
 ヘルメットと言っても、バイクや宇宙服のそれよりも中はかなり余裕がある作りになっていて、ちょうど頭がすっぽり隠れる丸い箱を被っているような感じである。ただ波に流されないようにか、見た目と同じくやっぱり重い。
 ガイド氏が、俺の腕と頭に触れてはしごを下りるよう促す。
 水中カメラが潜水する瞬間を映しているように、たちまち視界はエメラルドグリーン一色になった。ボコボコという泡の音と一緒に、自分の息づかいがいつもより大きく聞こえる。
 海底までは一分とかからずに下りられた。
 水深は浅く、せいぜい四、五メートルほど。
 だが、今まで足の着かない場所で泳いだことのない自分にとっては、まるで未開の地に降り立った開拓者のような錯覚を覚えた。
 ガイド氏に指示され、海中に張られたロープに掴まりながら歩く。爛掘璽Εーク瓩垢襪世韻△辰董∧發心地は悪くない。
 が、首をギブスで固定されているようで視界が狭く、振り返るには体全体で向かなければならない。足で踏んづけた物を見ようとして屈んだら、ヘルメットの中に海水が入ってきてしまった。……うん、しょっぱい。
 少し歩いたところで立ち止まり、ガイド氏が筒から茶色い粒のような物を海中に撒き始めた。
と、どこからともなく魚が現れて、粒をついばむ。
 美しい魚だった。
 サイズは成人男性の手ぐらいだろうか。
 平べったい白の体に、黒い横縞が五本入り、背中はインクで染めたように黄色い。あとで調べたところ、オヤビッチャというスズメダイ科の魚だった。
 ここの魚たちは人馴れしているのか、どんどん餌に寄ってくる。
 そうこうしているうちに、いつのまにか俺は彼らの大群に取り囲まれてしまった。あまりに数が多く、魚のカーテンでSもMも見えない。
 水族館では決して味わえないだろう迫力に、俺はただ言葉を失う。手を伸ばせば触れられる。いや触れようとすると、俺の手をするりとかわして逃げていく。それでも油断したオヤビッチャ氏の尾びれに、ちょっとだけ触れることができた。
 まるで魚の王国に迷い込んだような気分である。
 Sの持ってきた水中カメラで写真を撮っていると、もう陸に上がる時間になってしまった。
 どれほど潜っていたかは定かではないが、体感時間でおよそ二十分。
 これではとても満足できない。俺たちは島に戻るなり、すぐまた海へ泳ぎ出した。

 海はもちろんだが、ココス島は浜辺も生き物たちの楽園である。
 砂浜を、何か小さなものが目にも止まらぬスピードで駆けていく。
 なんだろうとよくよく目を凝らすと、白いカニが猛スピードで横切っているのだ。行き先は浜に点々と空いた穴で、よく見れば浜辺はカニたちの団地だった。
 他にも、ヤドカリにはよく出くわした。
 こちらも白いカニ氏と同じく小さなサイズで、日本の田舎でダンゴムシを見かけるのと同じ頻度でヤドカリに会う。カニ氏はあまりにすばしっこくてまじまじと見ることすらできなかったが、こちらは動きが鈍重なので簡単に捕まえられた。
 ヤドカリ氏はいろんな形の貝を自分で探して住むというだけあって、彼らの家は人間のそれよりもずっと個性的で面白い。なかには体に合わず、鉛筆のように細長い貝に住んでいるモノがいて、彼(彼女?)は物件に恵まれなかったんだなと勝手に同情した。
 ヤドカリ氏を手のひらに乗せると、しばらくは警戒して貝に閉じこもっているが、やがて外へ出てモソモソと動き回る。
 なんとも愛嬌のある姿に、俺はカメラを向けるのも忘れて夢中で見入った。

 何かに熱中しているときほど、短く感じる時間はない。
 生き物たちと戯れているあいだに、もう船の出る時刻になってしまった。
 惜しみつつ、ココス島に別れを告げた俺たちは、タモンのビーチサイドにある屋外レストランで夕食をとった。
 ここではバンドとダンサーさんによるディナーショーがあり、ゆったり南国気分に浸れる歌と踊りを心ゆくまで堪能できるのである。
 特にショー後半のファイヤーダンスは圧巻で、見ているこちらがヤケドしそうなアクロバット・パフォーマンスの連続であった。それを五つ星ホテルのコンシェルジュのような笑顔でこなしてしまうのだから、恐れ入ってしまう。

 ショーのあと、俺たちはダンサーのお姉さんお兄さんと写真を撮らせてもらい、大満足でホテルへ戻った。
 部屋で明日の予定を話しながら、俺はふとあることに気づいた。
 SもMも、そしてたぶん俺も、自然と顔がほころんでいる。
 海外に来て二日目。
 やっと俺たちはトラブルなく、リゾートを満喫できるようになったのだ。
「グアム、いいとこじゃん」
 興味のなかった南国の島を、俺はだんだん好きになり始めていた。
 


■旅行三日目

 三泊四日の旅も、早くも折り返し地点。
 三日目は、グアムの史跡を訪れようという当初の予定を変更して、昼から夜まで泳ぎ三昧の一日とした。
 水着以外、泳ぐ物を持ってこなかったSと俺は、近くのスーパーでシュノーケリング用のゴーグルと防水スマホケースを購入。
 途中立ち寄ったバーガーキングで、日本語で接客してくれた店員のお兄さんの優しさに和んだあと、俺たちは昼過ぎにホテルのすぐ裏にあるビーチで泳ぎ始めた。
 もともと泳ぐのが苦手な俺だったが、これも慣れなのか、二日間海に浸っているとだんだん苦でなくなってくる。
 ココス島と比べると、ビーチとして整備されているタモンの海は生き物が少なかったが、それでも泳げば泳ぐほど、いろんな魚たちに出会えた。
 たとえ名前がわからなくても、彼らの仕草を見ているだけで楽しい。
 大人の手より少し大きい、黒と黄色の縞模様の魚が目に入った。
 あとを追いかけてみると、俺を横目に(横に目があるからそのままなのだが)、
「なに見てんだよぅ」
 と言いたげな顔をして、プイとあさっての方向に泳いでいく。面白がってついていくと、また海中でホバリングするように立ち止まってこちらをじっと睨む。
 みんな片側の目で物を見るのかと思いきや、そうでもない。
 イソギンチャクの林に住む黒っぽい魚は、両目でこちらを見る。
 俺がのっそり近づくと、あんぐり口を開けて、
「なになになにっ?!」
 と、驚いたように俺を見つめる。
 もちろん触れてしまいそうな距離まで近寄ると、サッときびす(はないから尾びれか)を返して岩の隙間に隠れてしまうのだが、好奇心が旺盛なのか、至近距離まで珍しそうに俺を眺めていた。
 昨日今日と、グアムの美しい海で出会った数々の生き物たち。
 彼らの愛らしい姿に俺はすっかり魅了され、そしていつのまにか泳ぐことも好きになっていた。
 
 ずっと波に揺られていたいという思いとは裏腹に、日は刻一刻と傾いていく。
 よく考えれば、今夜はグアムで過ごす最後の夜である。


 さて、ここでちょっと休題。
 突然だが、皆さんはこれまで『何不足ない、百パーセント完ぺきに満足できた旅行』をされたことがあるだろうか。
 答えはおそらくノーだろう。
 それだけ旅行には、多かれ少なかれ不満が付き物である。一緒に旅する人がいれば、なおさら多くなるかもしれない。
 ご飯に行こうとしたら、食べたい物がみんなバラバラ。買い物をしたい派と名所を見たい派で意見が分かれたり、トイレが長くて出発が遅れたり。
 そのうち誰かが不機嫌になって、気まずい空気が蔓延。とても満足するどころではない。
 実は、似たようなことが今回の旅行でも起きていた。
 話を戻そう。
 グアム旅行、最後の夜のことだ。

 ビーチから戻りホテルで夕食を取ったあと、俺たちは早々に夜の街に繰り出した。
 アダルトな店に行くのではない。
 S希望の、かき氷店に行くためである。
 前々から、Sはグアムでかき氷を食べるのが夢だった(らしい)。
 ご飯のついでだろうと思っていた俺は、二日目の夜にSからガイドブックを見せられて驚いた。
 Sが行きたがっていたのは、なんと地元夫婦が経営するかき氷専門店。
 日本の海の家で食べるような物ではなく、グアムならではのかき氷を求めていたらしい。
 だが今日も明日も予定はすでに埋まっている。行くなら今夜しかない。
 ……と、まぁこんな経緯で、俺たちはかき氷店へ向かうことになったのだ。

 ホテルから店までは、徒歩で往復四十分もかかる。
 遊び疲れているせいで、足取りは重い。
 が、それ以上に気が進まなかった。
「かき氷なんて、いつでも食えるだろ」という冷めた気持ちに加えて、行くタイミングも気にいらない。
 せっかくの最後の夜だ。南国らしく、トロピカルなカクテルでも傾けて大人っぽい夜を過ごしたい。見栄っ張りな俺には、わざわざ店に行ってまで食べるかき氷が、どうも子供っぽく思えてしょうがない。
 さらに、このときの俺は酔っぱらっていた。
 大してお酒に強くないくせに、調子に乗ってマティーニを二杯も飲んでしまったのである。泥酔までいかないが、酔いはしっかり回っているのでどうしても理性より感情のほうが勝る。
 もっと最後にふさわしい夜を……。
 不満を募らせた俺は、店から戻るとある行動に出た。
 初日に立てた単独行動禁止の誓いを破り、一人、ホテルを飛び出してしまったのである。
 時刻は、夜の十時をとうに過ぎていた。

 ちなみに、冒頭でグアムは治安が良いと書いたが、それはあくまで昼間の話である。夜になれば、当然事情は変わる。
 現に旅行会社の担当のお姉さんには、「夜は絶対出歩かないほうが良いです」と釘を刺されていたし、ガイドブックにも『夜の一人歩きは危険』との注意書きがある。
 牧歌的な日本と同じような感覚で夜外を出歩くのは、大きな間違いなのだ。
 俺が向かった先は、昼間泳いだホテル裏のビーチだった。
 夜のグアムの海を間近で見たかったのと、どうしても一人になれる場所が欲しかったのである。
 もちろんエントランスを出るときに、旅行会社のお姉さんの忠告は頭をよぎったものの、酔った俺は「夜は出歩くな」を「夜の通りに出るな」と拡大解釈して、
「じゃあ、ホテルの裏ならいいだろう」
 と、自分を納得させてしまった。
 たぶんこういう都合の良いモノの考え方をするところが、今の俺の最大の欠点だと思う。
 
 夜のビーチはほとんど真っ暗だった。
 海沿いに外灯はなく、ホテルの灯りでかろうじて海岸の輪郭がわかる程度である。
 エメラルドグリーンの海は墨をこぼしたように真っ黒で、波音がわずかに聞こえるばかり。浜辺は意外にも俺の独占貸し切り状態で、昼間の賑わいがまるで嘘のように静まり返っている。
 これ幸いとばかりに、ホテルの裏口に通じるらしい階段の一番下の段に腰を下ろすと、夜空をきらびやかに彩る星たちが目に飛び込んできた。
 ちょうど視線の先に、オリオン座が美しい砂時計を形作っていて、ちょっと手を伸ばせば届きそうなほど大きく迫って見える。こんな星空は、まず都会ではお目にかかれないだろう。
 本当に海かと思うほど、穏やかな波の音に耳を澄ませて俺は感慨にふけった。
 そういえば映画の『タイタニック』に、「池のように穏やかな海だな」なんてセリフがあったな。その直後に船が氷山と激突しちゃうんだった……と、どうでもいいことを考えていると、
 コツ、コツ、コツ。
 背後から人の足音が聞こえた。
 振り返ったが、なぜか人影は見えない。
 無視しようかと思ったものの、足音はどんどんこちらに近づいてくる。
 もう一度、振り返ろうとしたそのとき、
「Who are you ?」
 唐突に声をかけられた。
 それはこっちのセリフだとも思ったが、考えてみれば言われて当然である。
 人っ子一人いない夜の浜辺で、懐中電灯も持たず犬も彼女も連れずにいたら、さぞ不審極まりないことだろう。しかし、それは声をかけてきた相手にも言えることなのだが……。
 いつのまにか相手は階段を下りて、俺のすぐ真後ろに迫っていた。
 ホテルの灯りを背にしているために、逆光で相手の顔は全く分からない。恰幅がいい体型と、声から中年くらいの男性だろうと推理するのがやっとである。
 振り返るのと同時に俺は慌てて立ち上がり、拙い英語でこのホテルに泊まっている日本人の観光客であることを伝えた。不審に思われるだろうが、決して不審者でないことは一応主張しておかなければならない。
 男性は一段高い所から俺を見下ろし、何事かをささやいた。
 よく聞き取れなかったが、交えたジェスチャーを見ると、どうやら今は皆寝ている、静かにと言っているようだった。
 遠回しに「部屋に帰れ」と忠告しているのだろうと受け取った俺は、イタズラが見つかった悪ガキのような気分でホテルに引き返すことにした。
 自分本位な考え方はするくせに、咎められたらたちまち非を認めるのだ。こういう変わり身の早さも、ある意味盗人猛々しいと言っていい気がする。
 が。
 男性は、帰りかけた俺をなぜか引き留めるように声をかけてきた。
 よくよく耳を傾けると、
「酒は飲めるか」
 と俺に聞いているらしい。
「飲めますけど……」
 そう返すと、男性はさらに声を潜めて何かを言う。
 よくわからず、俺は耳を近づける。今思えば、初対面としてはあり得ないほどの近さだったと思う。
 そうして、やっと聞き取れたのが”ファース”という言葉だった。
 男性は、なぜかそれを繰り返し繰り返し口にしていた。
「ファース?」
 尋ねると、男性は「サケ、サケ」と返す。
 おそらく『酒』のことを言っているのだろうが、でもどこで? 今から飲むの?
 男性は海岸沿いに北の方角へ行こうとしているようだった。
 彼が言葉とジェスチャーで示すには、この浜辺を北へ行った先に『サケ』を飲む場所があるらしい。
 だが、ぼんやり見えるのは砂浜とうっそうと茂る竹やぶだけである。
 たしかに浜辺を少し北へ行けば、たき火でバーベキューをしているらしき人の姿は見える。
 しかし、わざわざあんな遠くまで行かなくても、通りに出ればバーぐらいあったはずだ。
「ファース、ファース」
 男性に連れられて、俺も数歩歩きだしていた。
 気がつけば、男性は俺の右の肩甲骨あたりに手を置いている。
「ファース、ファース、ファース」
 戸惑いながらも、酒ならぜひという気持ちが一瞬、顔を出す。だが――
 いや、ちょっと待てよ。
 俺ははたと立ち止まった。
 相手は俺の顔も、どういう立場の人間なのかも知っている。
 しかし、俺はこの目の前にいる男性の素性はおろか、顔も分からないのだ。「イエス、イエス」などと付いていって、本当に大丈夫なのか?
 遅まきながら、俺はようやく旅行会社のお姉さんの忠告が身に染みて理解できた。
 これはヤバいかもしれない。
 暑さ以外で感じる汗が、背中を冷たく伝っていく。
 何と言おうか、考えているヒマなどなかった。
「あ……あいむ、そーりー」
 とにかく頭を下げ、部屋に戻らなければならない、と言うしかない。
 言ったあとは、競歩に目覚めたかのように早足でその場から逃げた。
 途中、振り返ってみた。
 が、男性は追いかけてはこない。
 明るい光の差す正面エントランスまで一直線。
 自動ドアをくぐってロビーを走り、エレベーターに飛び乗る。
 そのあいだ、ずっと俺はうわ言のように「ファース? ファース……?」とつぶやいていた。

 目的の階に着き廊下を曲がると、ちょうど部屋から出てきたSとMに出くわした。
 どこかで見たような光景だな。そう思いながら俺は名前を呼んで抱きしめそうな勢いで走り、さっきあったことを口角泡を飛ばして喋りたてた。
 二人はあっけにとられた様子で、でも耳は傾けてくれている。
 やっと落ち着きを取り戻したところで、俺は二人が洗濯物を抱えているのに気づいた。ホテルのコインランドリーで洗うつもりらしい。
 よく見れば、俺の服もある。
 汗にまみれて汚れた服……。
 その途端、俺は自分が恥ずかしくなった。
 かき氷が気に入らない。ただそれだけの理由で、勝手に部屋を飛び出した俺。
 そんな自分と対照的に、親友二人は汚れた俺の服を親切にも洗おうとしてくれていたのだ。
 自分の自己中っぷりを、まざまざと思い知らされた気がした。
「手伝います」
 コインランドリーに向かう二人に、俺はおとなしく付き従う。
 それがそのときの自分にできる、せめてもの感謝と償いの行為であった。


 結局、ホテルの裏で会った男性の真意は、今でもよくわからない。
 おぼろげに、男性がホテルの職員の方の制服を着ていたように見えたことから、彼はおそらく従業員の方であり、偶然鉢合わせした怪しさ全開の俺をありがたくも飲みに誘っていただいたのだ、と推測している。
 もし本当にそうなら男性には謝りたいのだが、反面、その推測には何の根拠もないことも付け加えておかなければならない。そう考えると、全く情けないが今でも少しぞっとする。
 これまでも自分がやらかしてきた悪事の報いを受け、反省しておきながらまた同じことを繰り返すという進歩のない人生を送ってきたが、これほどわかりやすく身から出た錆を実感したのは初めてだった。
 この日の夜どこか生きた心地がせず、まるで自分がここにいないかのような奇妙な感覚に陥って眠れずにいたのも、当然の報いと言える。
 それにしても、男性が繰り返し口にしていた”ファース”とは、いったい何のことだったのだろう。
 帰国後、辞書やネットをひもといてはみたが、さっぱり意味がわからない。
 これだけは、いまだ謎のままである。

つづく

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