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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第三十二回作品 匿名A 『雪の街』

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コミュ内全体

小さな私鉄の駅の改札を抜けると、雪が舞っていた。
駅の横の踏切の警報音を聞きながら、夜の商店街の冷たい空気を吸い込むと、僅かに焼き鳥の煙の匂いがした。この寒い道を1,2時間後にふたたび帰るのかと思うと、1週間ぶりの恋人の部屋の訪問が急に億劫になった。
俺は一体何をしているのだろうか。
こんなごみごみした小さな街をうろついていないで、都心のマンションの部屋に帰れば、妻は、俺と一緒にいられることの喜びを隠そうともせずに、満面の笑みを溢れさせるだろう。俺は床暖房の効いた部屋の大画面のモニターで映画を見ながらワインとチーズをちびちびとやるだろう。
しかし俺はこのやきとりの匂いのするレンタルビデオ屋とパチンコ屋のネオンだけがいやに明るいこの小さな商店街を、コートのポケットに両手を突っ込んで足のつま先を冷たくして歩いている。

今頃、俺の恋人のマリはこの街のあのアパートの小さな台所で、玉ねぎの皮なんかを剥いているに違いない。
マリ。可愛いと言えなくもないという程度の容姿の女。同棲経験も、結婚経験もないまま、中小企業のOLを続け、来年は40歳になろうとしている女。
俺という闖(ちん)入者、彼女の人生への闖入者に、明確な意味づけも出来ないまま、とりあえず、月に数回訪ねてくる俺のために、肉じゃがなんぞを作り、一緒に風呂に入って埒もない話や会社の人間関係の愚痴を言い、ベッドでは信じられないほどの貪欲さを隠さない女。

商店街のはずれのいつもなぜか水族館のポスターの貼ってある古びた酒屋に立ち寄り、土産の赤ワインのボトルを買う。応対に出た老婆は、すでに俺の顔を覚えており、旦那さんという言いかたで俺を呼ぶ。俺は何回か日曜の昼間にマリと一緒に、この酒屋を訪れていた。そのとき俺と一緒のマリはこの老婆から「奥さん」と呼ばれなかったのは、俺たちの会話が、夫婦の会話には程遠いものだったからだろうか。

3年前、俺という存在、どう対処していいか分からない存在がマリの生活の中に定着したころ、マリは実家から出る決心をした。もとより、変化のない生活に倦んでいたのだろう。そして、軽量鉄骨2階建ての1LDKの家賃7万のアパートを見つけて、引っ越しの日に俺にはじめてそのことを報告した。「親には住所教えていないんだ」と言いながら真新しく光るアパートの鍵を俺の手に押し付けた。そのとき、たしかに俺は思った。どんなに人生がつまらなく感じようと、この女がいればそれでいいと。あのとき、突き抜けるような充足感の中で、たしかにそう思ったはずだったのに。繰り返し、繰り返し、この道を通い、あのアパートの部屋をたずねることで、俺の中の何かがすり減ったのか。もう、潮時なのかも知れない。このまま続けていても何も生まない関係なのはお互いに判っている。別れられるならば、別れたほうがいいのだ。主に彼女のために。勇気をもって別れ話を今日切り出そうか。

商店街は2,3分も歩くと商店がまばらになり、学習塾だの、歯医者などの建物と普通の住宅が混在してくる。そんな家並みをしばらく歩き、キンモクセイの植え込みのある家の角を曲がると、マリのアパートの面する道になる。角をまがったとたんに、あたりの色が、水銀灯の白から、住宅街のオレンジ色に変わる。小さな2階家とアパートしかない街区は車もまばらで音もない。雪はすでにアスファルトにうっすらと積もりだしていた。
そのとき、かずかに、子猫の鳴き声が聞こえてきた。くぐもったような、しかし、間違いなく子猫の鳴き声だ。周囲を見回すと、コインパーキングの端に段ボール箱が置いてあり、どうやら鳴き声はそこから聞こえてきている。
俺は近寄って段ボールの中を覗いた。はたして中には握りこぶしほどの大きさしかない真っ白な子猫がうずくまって震えていた。逃げる様子もない。と言うより逃げる力もない様子だった。段ボール箱の中には「あげます」と、ノートの切れ端に筆で書かれたメッセージが入っていた。誰かがこの子猫を捨てたのだ。
俺は首に巻いていたマフラーで子猫を包み両手で胸に抱き寄せた。子猫は震えながらミューと声を出した。

「わー。可愛い。どうしたの?」
アパートの玄関の扉を開けるなりマリの嬌声が飛んできた。
子猫はただ鳴くばかり。俺はマリに皿と牛乳を用意させて部屋の片隅に置いてみた。子猫は匂いを嗅いで牛乳の皿に近づくが上手く飲むことができずに、一層大きな声で訴えるように鳴き続けた。この子猫は母猫の乳房からしか乳を飲んだことがないのだろう。哺乳瓶のようなものがあればいいのだろうがそんなものはもちろんない。しかも、マリも俺も子供を持ったことがないので、ミルクを飲ませること自体経験がない。マリはスマホを検索して、俺に言う。
「ねえ、牛乳と子猫用のミルクは成分が違うのよ。どうしよう。この子死んじゃうよ」
俺は温めた牛乳をタオルに浸し、片手で子猫をもって、口元に充ててみた。子猫はすぐにタオルに吸い付き必死で牛乳を吸った。
「マリ、この近くの24時間やっているペットショップを検索してくれないか。とりあえず、猫用の哺乳瓶とか必要なものを買ってくるよ」
俺たちはこの降って湧いた椿事で興奮していた。子猫は文句なしに可愛い。俺たちがいなければこの小さな命が消えてしまうという事実は俺たちを幸福にした。
タオルに牛乳を浸して子猫に与えるという作業をマリにやらせて、俺はタクシーで深夜のペットショップに行きミルクだの離乳食だの猫のケージだの猫砂だのトイレだのおもちゃまでも店員に聞いて一式を買い求めた。
マリのアパートに戻るとマリは子猫を膝の上にのせて愛おしそうに撫でていた。
「この子飼っていいでしょ。私のことお母さんて思っているんだよ。さっきまで私の膝の上で寝っちゃってたんだよ」
マリは自慢げにそう言いながら俺の持ち込んだ猫のための荷物を嬉しそうに部屋の片隅に並べ始めた。
「マリが飼いたいと思うならもちろん飼うがいいさ」
「わーい」
このアパートはペット禁止だろう。しかしそんなことはどうでもいいような気がした。マリにとって、今や、この部屋よりもこの子猫のほうが大事だろう。出て行けと言われるなら、ペットの飼える部屋を探せばいい。引っ越しの費用とかは俺がだしてもいい。
テレビをつけると東京の大雪のニュースをやっていた。アナウンサーは交通機関への影響がでていることを伝え、早めの帰宅を勧めていた。子猫に哺乳瓶でペットミルクを与えながら、マリは歌う。
「雪、雪、降れ、降れ、もっと降れ。私のいい人閉じ込めろ」

俺は嘘の連絡を妻にして泊まろうか、どうしようかと考えているところだった。今日は地方に行っていて車を置いて帰れないからホテルに泊まると。俺の車にはチェーンは積んでないので、この雪で帰るのは危険だから泊まるという話は信用性があるような気がした。そもそも信用性がなくても妻は俺の怪しい話を確かめて夫の不貞を明らかにしてしまうような愚を犯すほど馬鹿ではない。
都心の自宅に帰って妻といつものように静かに過ごすよりも、このアパートでマリと子猫と過ごすほうが、俺としても、愉しい。だがそれでは何も変わらないのだ。

「電車の動いているうちに帰る」
キッチンの肉じゃがを急いでつまみ、俺は、コートを羽織った。
「嘘。この子、どうするの。私ひとりじゃ、どうしていいか、わからないよ」
「俺には何もできないよ。君が育てたいなら、何とかしろ」
「なにそれ。あなたが拾ってきたんでしょ」
「じゃ、俺によこせよ。元の場所に置いてくるから」
「信じられない。そんなことしたら死んじゃうじゃない。もういい。帰って」
マリは初めて見せる憎しみの籠った目で俺を睨んだ。

さすがに、アパートの鍵を置いてくることまではできなかった。
俺はマリに徐々に嫌われるように仕向けるべきなのだが、彼女の悲しみを思うとなかなか勇気がでない。
ああ、俺はなにをしているのだろう。

外はほとんど吹雪だった。積雪は早くもこの街を真っ白に覆っていた。
俺はすでにシャッターが下ろされた商店街を歩きながら、妻に、今日は帰らないとのメールを打った。
こんな日に家に帰る気になれなかった。
マリにあんな目で睨まれた夜に帰る気になれなかった。
こんな夜は裏町のバーでウイスキーを飲みたい。
朝までひとりでひたすら飲み続けたい。



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