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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八回 哲学カフェ タイアップ企画 無味無臭的『私小説 快楽』

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16センチくらいの液晶に多色染めの布地で纏われたひとびとが映っている。包み地から顔をだすのが筋肉質な体躯だというのを見つけて彼ら彼女らがアスリートだということを認識する。10種類ほどの違った柄のユニフォームと大きくとらえても6種類くらいはある人間の生態の違い、景色の一部としてそんな像が映しだされたあとにフォーカスが変わった。何の種目だろう、女性が腰を動かす、その姿の残像だけが尾をひいている。。。

北京は小雨の様子だ。白色や褐色やそのどちらでもない色の筋肉が濡れて様々に輝いている。鳥の巣の形をした最新型のスタジアムだとかそのコントラストとしてとり扱われる外の街の様子は決してそこが世界の中心のように見えてくることはない。ときのながれで茶色くなった旧市街の通りに水の球が浮いたり落ちたりしている中でひとつだけ外に放り出されたようにある小吃のテーブルで水が跳ねる。そこに出された食される直前の中華麺は液晶テレビ前のこちらのちゃぶ台の上に乗っているものととてもよく似ている。

食べているのか寝ているのか何かに想いを巡らせているのかはっきりしないまま視線だけをモニターに固定する。たしかに誰かが走っている。跳んでいる。投げている。耳にしたとおりだ。こんなことをしているひとびとはえもいわれぬ満足そうな顔をしている。喜怒哀楽のすべてがドラマチックに順序良くその表情の中に現れる。されど彼ら彼女らが根本的な満足の中にあることに間違いはない。その走る跳ぶ投げるをモニターは映しつづける。その向かいにはもちろんイメージのトランスファーを受け取る眼球と脳。モニター上の映像=眼球に映しだされる風景、というわけではないのだけれども。電子信号により色付けされたドット絵が何らかの認識として脳の中への信号として伝わる。そして走る跳ぶ投げるが何処かの場所でたちあらわれる。

身体の重心よりも少し低い何処かがムズムズしている。いまは走っているのを眺めているだけ。何かを想い浮かべているわけでもない。何処かの何かと何らかの接触があるわけでもない。褐色の筋肉が光っているそのイメージをモニターが映しだし眼球の上で認識しているのだ。筋肉の光沢が間接的に視神経を刺激する? 考えにくい話だ。それ以上の何かが存在していることはしかしながらさらに考えにくくなっている。ではこのムズムズは何処からきているのだろう? 少し冷静にそう思い返したとき、もうそのムズムズはそこになかった。

そのスピードにあこがれる。視界の中を右から左にすさまじい速さでとおりすぎていく。しかし、何故だろう - どうしてそんな速さを求めるのだろうか? そのジャンプにあこがれる。走って得ることのできるわずかな反動を利用して、遠くまで跳んだり、高くへと跳んだり、ときには棒までをも操る。何故そこまでして高く跳びたいのだろうか? 高く跳ぶことの魅力とは何だ? 身体を地面と平行にして想像上の障害物の上をとおり抜けるにように越えていく。とうふのようなこわれ物にかすってみても崩さないくらいに注意深く体を捌く。高く跳ぶためにいろいろな向きで、身体をどれだけうまく真横にできるか試行錯誤をしながら跳躍に望む – うつ伏せになったり仰向けになったりそのほかいろいろと。

棒のようなものを投げたり、平べったいものをぶん投げてみたり、とにかく重いものを投げ飛ばしてみたり、そんなことでいったい何がしたいのだろう? 何かを投げることをしたりして何処か遠くへと運ぶのか? ほかにもいろいろなものだって運ぶことができる、同じ投げ飛ばす方法で。来年くらいにはグリップを握って振り回しながらバケツでも投げるのではないだろうか? 後方45度に向かって伸ばした腕の延長に持ち上がるバケツの青はきっと美しいだろう。もしくは大切な人からもらった大事な時計だとか指輪だとか、投げ飛ばしてみれば何よりもスッキリするのかもしれない。

ここまで我を忘れておこなえることなどあるだろうか。すべての邪念や体裁を置きっぱなして核となる枢軸に忠実に動く。行動するというような形式ばったものではなく流れのようなものにまかせて動くといった表現が正しく感じられるけれども厳密には表現さえ必要ない。ふんわりとそこにいてうねりのようなものに身体をまかす。何処かに連れていかれる。目が覚めるように気がつく。何かに浮かれているような気分。心地のよい脱力感。ちょうどよく疲れたというような感じのこういうのをカタルシスと呼ぶことにする。

こんなに一生懸命やれることなら、それでみんなチャンピオンになれたり、金メダルが取れたりするわけだ。何も狙って取らなければいけないというわけではないだろ? 自然で取ることができるのならそれが一番いいんじゃないかと思わせる。無心でやるわけだよ。上から下まで身体を動かし、トレーニングのための実技で、実技のためのトレーニングでもある。身体はそのために作られていき、そのために身体はできているのさ。って、すでにもうそうなっている。

身体を地面と平行にして想像上のわたがしのようなものにぶつかったとしても形を崩さないくらいに柔らかく最後はかかとをスムーズにもちあげる。これなら仮に接触したとしてもそっと舐めるくらいですますことができる。美しく抜かれた足はバーから離れて宙に放たれる。次の瞬間にはもう身体は受け身をとっていて首を丸めて背中へと衝撃をながす。怪我をしないこと。身体が憶えているのだろうか反射的な動きを終え、跳躍が成功したことのカタルシスを感じる。それで世界一になっているのかもしれない。ふと目が覚めてそのことに気づいてみるように。それではジャンプしているときの快楽はいったいどこにあるのだろう。

足を立てて座った姿勢で足の裏に力を入れる。臀部を引き締めることによって大腿部がもち上がる。筋肉は軽く緊張するくらいがしなりを生むのでよいあんばいだ。硬直しすぎるのは好ましくないが筋の浮き出ているような固い肉とその淵で揺れているぜい肉が汗ばんで輝く光景は決してわるくない。そのシルエットが残像となり、消えかけている電球のように点滅をくりかえす。ときに足が吊りそうになる。そうなってギリギリなところで停止するだろう。月の満ち欠け、潮の満ち引き。作用があれば反作用がある。痙攣などが起きていなければスムーズに動作を再開する。リズムというものがあるとしたらそれはすでに自分に備わっているものだ。自分の動きたいこれがシックリくるというようなスピードとテンポを作り上げる。ここには自由がある。しっかりと存在する心棒のようなものに振り回されるもっとも不自由な自由が。

考えるだけでも血圧が上がる。匂いを嗅ぐとすぐに反応して。頭の中がそのことで占領される。枢軸を基にして行動するというよりも行動がすべてその為となる。想像上の到達点を目指す。自由であるにも関わらず常に満足することができる。歩いたり探したり時には走ったり。何かを追いかけて街をさまよう。他の人も大差ないとは思うのだけれど、通り過ぎたグラウンドでは中学生の男女が棒倒しに励んでいる。急いで煙草なんぞを吸ってみる。これは違うんだ。大人なんだぞと。

棒を地面と水平に抱えるように構え持ちその平行を保ちながら同じ平行の方向に向かって走る。横ブレが起きるギリギリのはやさまで加速していく。今度は棒を投げるわけではない。その棒をしっかり握ったまま目先の地面に突き刺す。加速による推進力に乗りながらも丁寧に角度を調整しながら一番しっかりと棒に真上の力がかかる位置を見つける。
そのポイントに力を集中させながら上半身の全てで地面に向けて力を注ぐのと同時に自分の身体全部が引き離される作用反作用の力に身をまかす。しなりを作った棒が正しい形状に戻りながらまっすぐに上を向く。おっ立った棒の真上に乗っかるように体躯のバランスを取る。さっきまでは視線の中にすら入っていなかった一の字に掛かったバーの位置を認識する。地面と水平の横たわるバーに空へ向かってつっ立った棒が一瞬のあいだ十字を作る。
身体だけを向こう側に放り投げるためにバランスを支えていた心棒をバーの手前側に押し戻すことで前後に向かい合う作用反作用の構図を作る。落下に則してコントロールされた四肢を放り出し頭だけがバーの上から覗いたそのときに頭とバーと自由な足の関係はさながら漢字の六となる。

落ちていく身体から視点を上方に向けてバーが元の位置に残っていることを確認する。明日は明日の風という気持ちよりバーの高さを越えた征服感に変わる。宙に浮いている感覚、跳び終えた感覚、宙に浮いている感覚を交互に行き来しながら、地面にしっかり落ち着いてはじめて跳び終えたという事実を理解できる。そのときになって訪れるカタルシス。どれだけのあいだ続くのだろう? しっかりと落ち着いたこの状態になって、快楽というのはどこにあるのだろうか? こういった状況のすべてを快楽に感じてもよい気もするのだけれど、そもそもいったい何をして快楽と呼ぶのだろう?

しめつけられる感覚にはいくつかの要素が含まれる。まずはその密着感。そこに何かがビタッとくっついている。離そうとしても離れないと思えばなおさらその付着の感覚が不快であることになって、それがそのまま一周回ってきて快楽へと変わる。
それに加えて触感も要素となる。皮であったり布であったり縄であったりプラスチックであったり鉄製のなにかであったりぬるい温度のジェル状であったりがそこに不必要にくっついているという状況が非日常であることに感じられ、これから入り込むであろう快楽の始まりであるようにテンションを上げる。そこには期待しかないだろう。わくわくと何かを待ち望む。それはすべて新しい感覚。
極めつけの要素はそこに掛かっている力。圧迫されているという状況は力を入れれば入れるほど跳ね返ってくる作用反作用の関係にある。だから無理に力をいれないようにするのだけれども、そこに敢えて力を入れることでその抑えつけられる力を作用させる。苦痛、不便、快楽。。。
そのあげくに密着と圧力によって自分が動けないことを実感していく。自分としてあることの要素の一つがなくなる。責任の大きな部分を身体から下ろしたようで、身体だけでなく心までもが楽になる。快感、快感、快感。。。 どこまで気持ちがよいものなのだろうか。その場で放尿が始まりそうになる。そのまま催すことが自然のようにも感じるけれどもそれは違うのかもしれないと普段のような我慢をしてやはりまた催すべきかそしてまた我慢するべきかそして催すべきかとを繰り返す。その保留されている状態がまた快感を生みだす。

眠い、眠い、眠りにおちそうだ。また眠るのか? このまままた寝てしまう。なんの準備もせずにとつぜん寝入ってしまう。そして何もなかったかのように起きる。自然に目覚めるのか。静かな朝を迎える。顔に光を降り注がれて目を覚まされる。澄んだ空気の明るい朝が来る。しかししかししかしどうなのかといえば眠い。まだ眠い。眠くて仕方がない。こんなふうにどれだけでも眠れるのか?

口から取り入れたら今度は取り出す番だ。すっきりという表現はここから出たものではないだろうか? 身体がポンプのように広がったり縮んだりする。大きく膨らめば膨らむほどよいというわけではないが、つまっていたものがスッと抜けて膨らみが縮まりに変化していくのは痛快だ。単純に気もちがよい。快楽と言える。膨らみからの反動が大きければ大きいほどその快楽は頂点へと近づく。内部で保たれていた力が重力に合わせてスーっと下向きに変わる。内部から外側へと向かう圧力がなくなると同時に外側からの圧力も感じ始めるようになる。作用反作用。外からの力と内からの力の新しいバランスを把握する。自ずが体内から作り出している圧力に対抗するのは既存の圧力で外気だとか引力だとか大気圏だとかから由来しているものだ。ヘクトパスカルの物語を聞いたことがある。重力と引力の違いについても。どっちがどの意味だったのかにグルグルと想いをめぐらす。

その跳躍選手が跳び越えてくる液晶モニターのこちら側にはあの北京の街にも出されていた中華麺の茶碗が置かれている。たっぷりと入っているスープの中で麺はまだ伸びていない。たとえ液晶モニターを上手く跳び越えてきたとしてもスープの中にぽっちゃりすることは避けられない。スープを飲み干してしまうべきなのか? 早く麺がスープを吸い取ってしまえばよいのだ。そんな場合には飛びこむ先の水気を含んだ麺がマットの役割をすることになる。

自分が枠を越えたときそこにあるのは何なのだろうか? 快楽なのかそれともただの自己満足か。自己満足が快楽になることだってあるけれど、そんな場合は率直な快楽のほうが潔くて好ましい気がする。まず枠を越えるとは何だろうかと考えてみる。枠を越えたそのあとにこそ越えたあとのその事実を確認するだろう。そうしてやっとその枠とは何だったのかと考える。跳び越えたそのあとで。跳び越えられたその枠の加減をいとおしく見つめながら。

気もちよさなどはそこにはあるのか。跳んだあとは気持ちよいのだろう。跳んでいるときにも気持ちよいと感じているのか。跳びながらも常に気持ちよいと感じている。バランスを保ちながら? むつかしい話だ。それでは跳んだあとだけで? それなら跳ぶ気持ちよさとは違う気もする。何だろう、でもなんでもいいような。終わったあとの満足感、それに達成感。金メダルとかはそこにぶら下がる?

木の枝の分かれ目。小さく開かれた足。つけ根から広がる角度の微妙な開き具合閉じ具合。大腿の間にフォーカスが向かう。白い肌の上に血管の微かなピンクが浮かび上がっている。ピンクというにしては薄すぎるのかもしれないそんなギリギリの色。血管の着想がさらに枝の分かれ目へのフォーカスを促す。そこには蜜やらヤニやらが溜まっている。その固体から流れ出る液状の質感には味覚の延長があるように思わせる。固体が溶けていることにより流れ出ているのだろうか。溶ける温度の関係かもしれないがそこに塩気などがある感じよりは甘くて匂いのあるものの雰囲気が漂う。甘く溶けたその液はその溶ける温度によって匂いなり何なり気化している部分もあるのだろうか空気にも溶け込み脳の後ろのほうにある神経を突き刺すように刺激する。

“アダムの肋骨からイブが生まれたように、ぼくの腿のあらぬところからひとりの女が生まれる。ぼくの快楽から生まれた女のはずなのに、ぼくは女から快楽を得ようとして、おたがいの体温が混じり合うくらいぴったり抱き合って、そして目覚める”(失われた時を求めて - 芳川・角田訳)

大腿部の温度感が上がったと同時に匂いだとか味だと液状化だとかが起きて絶頂に向かう。すべての高みがまるでそこにあるようにその周りの空気に変化が生まれる。風が吹き雲が生まれ空を暗くしたときそこには必ず何かが起こる。必ず何かが起こるその前の状況。ドバっと起きる洪水の前兆なのだろうか。人間の不安感はその洪水のあとのことにおよぶ。それまでの状況とあまりにもかけ離れているかのような。大気中の水分はとっくに飽和状態に達しているのでそこは間違いない。だんだんとその水分量が低下していくようには自然はできていない。それは一気に水分を放出する。まさにバケツをひっくり返す。そのあとにはひっくり返す前と同じ状況はない。つながりはないというのだ。人間のさががそうなっているのだろうか? 

さっと引いた潮のあとには砂浜が冷たく広がる。太ももが冷たい枕のようにそこに残る。顔を押しつけなくともその温度感は分かる。それを測定するための計器は人間自身なのか。ある温度をまたはその枠を境目に暖かいと冷たいが存在する。その境目を超えると暖かいは一気に冷たいになり、冷たいは一気に暖かいに変わる。人間の中に暖かいが冷たいになることは多くても、冷たいが暖かいに変わることは稀である。

ではその熱量はどこから現れてどこへと行ってしまうのだろう。そこには何らかの保存の自然法則があるに違いない。始まりの熱は常にただよっているものだろう。嘘でもいいのでそこには熱が必要なのだ。逆にそこに熱があるからこそ、そのあるという偶然で事が始まるのだろう。そのあとはまるでその熱を循環させるかのように。熱の意志はその発生よりも循環の方にフォーカスが向いている。充分に循環させること、それが熱の望むこと。そして人間たちはそれに従うことによって快楽を感じる。

さりとてそんな循環された熱量はどこかで放出されなくてはならなくなる。そんな放出が起こるとき、人間はカタルシスを感じる。快楽の終焉。快楽の認識の始まり。循環しているときには感じられない快楽というものを人間はカタルシスということで認識する。熱の放出によって。

“ひんやりした枕に頬を押しつける。マッチをすって時計を見る。もうすぐ十二時だ”(失われた時を求めて - 芳川・角田訳)

ここに書かれているのは北京の陸上競技場とそれを映しだす液晶モニターの前の空間 - 世界中に放送されている中で受信されたあるひとつの状況 - との構図に関してがすべてである。そこにはこの低い位置から湧き上がるムズムズした感触も含まれるだろう。眼球に映し出された走る跳ぶ投げる以外のイメージも想起されるだろうか。柔らかな大腿部に挟まれ、固体の液状化を嗅ぎ触れて味わいながら固体であること液体であることをお互いに尊重し合い最後には固体であることに固執することを諦めるに至る。

言葉ははたして効率的に機能しているのだろうか。走る跳ぶ投げるだけでなくてもどこまで伝わるのだろうか?人間ははたして言葉で話せるだろうか? 子どものころの夜明けの朝と大人になって迎える朝が同じであること。違うかもしれないこと。通じるかどうかの問題にはどんな言語であるかは関係ないだろう。それは言語でさえ有り得ないのかもしれない。音楽のようなものの可能性もある。彫刻のようなものとしてあるかもしれない。通り吹く紙ふぶきのようなものかもしれない。ただそれは簡単な言葉では表せられない。

説明があればすぐに何の為にと返ってくる。それは上手く伝わっていないからでないのか? 白色の肉体褐色の肉体そのどちらでもない肉体が汗によって輝く。あるときは走っていてあるときは跳んでいてあるとは投げている。正直誰が一番はやくで遠くで高くでもよい。そこでの喜怒哀楽が観る刺激にはなっている。そういったものは見終わったあとに訪れる。見るためのモチベーションは他のところにある気がする。もしかするとモチベーションなんかないのかもしれない。知らないうちに見ていてあとから見ていたことに気がつく。チャンピオンだとか金メダルとかを取ったとか。この自分がチャンピオンに金メダルに。信じられない。何処まで想いをはせるのだろうか。麺はもう充分に汁を吸いこんでいる。もうそこに落ちたとしてもおぼれることはないだろう。結局どんな選手もこちら側に来なかった。それどころか自分が液晶モニターのこちらの世界を守りきれなかったようだ。自分に付いた筋肉を確かめる。どちらにするべきか? 駅まで走っていくべきか。駐車場のフェンスを越えてみるべきか。不要なものを可燃物入れに投げ込むか。もしくはそのどれもを行うべきか。そんなことをして何になる。腹の下のムズムズはいまそこにあるのかどうか分からない。ただ頭の少し後方にかかってくる声は聞こえない。とても静かに感じる。そして走る跳ぶ投げるが行われる。

イメージのすき間を見ること。二重にイメージを見ること。そんなことがその意味なのかもしれない。ただでさえはっきりしない子どもの頃のイメージ。そんなイメージをさらに比べることをする。あるかないかのもの。過去にあったのかどうかも分からない。それは現在のわたしからの過去という空想だけなのかも分からない。そして現在見ていると思っている景色さえ空想であるかもしれないと気が付く。そもそもそんな二つのことなど比べられないのだ。二つともが空想であるかもしれないし。その中でもひとつだけを空想するのが人間の脳においてはやっとなのだ - コンピューターには出来ないそんな想起を人間はいたるところでやっている。だから辛うじてできるのはダブルバインドのイメージ。見ているそのひとつの景色の裏にもうひとつのものを見たことにする。その詳細の違いからもうひとつの空想を構築できる可能性を持たせる。

回収にきたものに麺の入っていたドンブリを渡す。手に取るやいなや無駄のない動きでオートバイの後ろに設置された食器入れに並べる。振り子の動きが応用されたその仕掛けはオートバイの傾きに対しても地面から垂直の角度を保つ。作用反作用が影響されない。その装置によってもかろうじて生み出される微かな揺れだけに注目しているとオートバイはさらに傾きを強めもっとも短いコースとりをしながら目先のコーナーを曲がっていった。オートバイのハンドルとドライバーの身体から浮かび上がる十字のシルエットに被さるように舵取りで小刻みに揺れるヘルメットとそれに合わせてバランスとりで揺れる両足それをしっかり固定しているかのようなエプロンの腰巻き帯から浮き上がった六の文字がダブルイメージになって脳裏だか何処かにたちあらわれそして消えていく。

コメント(2)

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