ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > テレビ番組 > 2016年NHK大河ドラマ「真田丸」 > トピック一覧 > 歴史トピ(※ネタバレ有) Pa...

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」コミュの歴史トピ(※ネタバレ有) Part-3

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

歴史トピです。
史実関連の投稿をお願いします。

※ネタバレ情報を含みますので、ご注意ください。

コメント(385)

そういや、且元さんのナレ死からの復活も話題のようですが、彼の死は夏の陣の終結を見てから、20日ほど後。

寧と会ってる暇はなく、あの日は岡山口(秀忠麾下)に布陣してたはずですね。

タイムライン上は矛盾はしておらず、「茶なんかしばいとる場合か?」というツッコミ正解ですねw
それどころか秀頼らの隠れ場所に気づいて通報したのが且元。大坂の陣では迷わず徳川方。
秀頼らが死んでから後悔し命を縮めたかもしれないが。
秀頼が鹿児島に落ち延びたっていう説ですが、島津と豊臣家はそう深い繋がりはないと思うのですが。
なぜに鹿児島という説があるんでしょう?

この頃すでに清正は死んでいたとはいえ 肥後、或いは山内一豊もすでに死んでいますが土佐の方がまだありえそうな…
>>[348]さん
 遠因は島津義弘による関ヶ原の敵中突破ではないでしょうか。
 関ヶ原の戦後処理で、取りつぶされた大名も多く、毛利や上杉も大減封されたのに、あの敵中突破と僻遠の地であることが効いたのか、島津は無事に国を保てたわけで。
 それで、薩摩ならば匿って貰えそうな感じがするのではないでしょうか。
 土佐は家康に付いた山内家ですし、長曽我部の残党はいても力はなく、頼れないと思います。
>>[348]さん

九州征伐の際に、日向、大隅、薩摩の領土安堵して貰ってますよ。
こういうこともあろうかという秀吉の深謀遠慮かな!
薩摩に対しては西南戦争で恨み晴らせたからね!長州に対しては、そういう機会がない
>>[331]
ダメだ十勇士は

WE LOVE SANADA!
スペシャルムービー「ダメ田十勇士」

これは大河ドラマではない。「真田丸」には登場しない、8人の物語。
歴史に名を残す戦国武将ではないけれど、
真田様が大好きだから。真田を愛する仲間だから。

一緒に「真田丸」を見よう。そして、あなたも9人目に。

確か応援で本編とは別の世界観でドラマを
と依頼してつくったらしい。

私は誕生日プレゼントで一人故郷に返して
生きる人と死に向かっていく人が分かれていくのが
ドラマチックで好きです。
>>[336]
東京都民なんて江戸時代から住んでる人ばかりじゃないし、何県民が嫌いとか言ってたら会社に近所になんとか県民がいるからやってけない。

ようするにグローバルな地域で
もっとも東京を嫌ってるのは都民とまで言われてるほど。

私個人で見ても母方の祖父は江戸ッ子だったけど
祖母は群馬、父方は米沢、近所に住んでるのも
みんなそんなのばかりだからナショナリズム的な
東京愛を育む環境じゃないです。

だから、仲良くしてると思ってた大阪の人に
いきなり東京の悪口とか言われると途惑う。

張り合おうとかも全然思わないし
関東で巨大災害が起きる事を想定するなら
東京一極集中なんて全然良いと思わないから。
>>[351]

薩摩の西南戦争を出されるなら、長州も、前原一誠の萩の乱がありましたね。
そして、西南戦争も萩の乱も、明治政府に付いていけなかった一部の旧藩士が起こした反乱で、当主の島津家・毛利家はともにまったく反乱に関わっていません。
島津家も毛利家も、廃藩置県以後も高い身分とたくさんの財産を保証されて、静かに過ごしていました。
その意味では、佐賀藩も土佐藩も同じですが。
>>[354]

前原200
西南戦争三万

規模が全然違いますが・・
ちなみに旧幕府側の人間が参戦した警視庁抜刀隊も萩の乱では組織されてませんね。

あと佐賀藩は幕府の期間中ずっと二重鎖国でしたよ!参戦したのも上野戦争からでした。

毛利家は、鳥羽伏見直前まで朝敵扱いですからね、島津家は幕府に圧力かけたり常に上手く立ち回ってましたよ!藩主でもない人間が
>>[352]
ダメ田十勇士、
最終回で登場して幸村と対話したシーン、
もしかして、見逃してる?

あのサプライズにて、
「ダメ田十勇士は、
実はあらかじめ作られたスピンオフだった」
という顛末となり、
粋な計らい、
マジびっくりでした
>>[352]

ただでさえ大坂の陣の豊臣方は悲しいんだからますます悲しくせんでもええやんて思ったあせあせ
>>[357]
見逃してないですよ。

全くの別ものと言ってたのに出てるじゃん
と思いました。
>>[359]
あれぐらいの兵ならどっちについてても危険でしょう。

命を賭けても、たとえ死んでも悔いはない
それぐらい真田幸村が好きだ
ってとこで終わってたのでただの悲しい話とは
私は感じなかったな。
>>[359]
彼らに生きろろ説いてるから、切腹するのか?の場面でフェードアウトして終わっても、直後に「朝令暮改はバカなこと」と脇差を投げ捨てるに違いない…という希望も持てるんですぜw
それにしても、幕末になったら真田も伊達も上杉もヘタレだらけでしょーもない!
>>[363]
上杉は、明治になって沖縄県知事になった当主が、沖縄で“名君”だったようですね。
>>[364]

そんなことより!西南戦争と萩の乱に関してはどう思っているのか聞かせてくださいよ?

あれを同じ規模の戦いと見ているんですか?
>>[365]

規模はまったく違いますね。
西南戦争は、新政府の軍隊が負けた可能性もあり、もし負けたら対外的にも日本政府のダメージは大変なことになったとは認識しています。

ただ、きっかけは、佐賀の乱も同じですが、新政府について行けなかった旧武士が新政府の役職を辞めて地元に引きこもり、武装蜂起した点で一致していますね。
叔父上が新年の挨拶にアップ写真あげてました。
密使として名前だけ知られていた信尹は、真田本家思いで調略の神様に変容しましたな。
あけおめです。

今年は酉年ということで、酉年生まれの武将、ネットで検索して見ました。

おぉ!信繁公も酉年!?
信繁と言っても、武田典厩信繁公ですけど(笑)

秀吉と稲姫も酉年なんですね。
(無論生まれは諸説あるでしょうけど)

https://matome.naver.jp/m/odai/2139029089410188501
>>[366]

そういう話じゃなかったでしょう!
あなたが言ったのは、萩の乱があったから会津の報復は果たされたと言いましたよね!

そうなんですか?
>>[370]

今わかりました。
西南戦争が、会津出身者が恨みを晴らした戦争だったと主張されていたと。

西南戦争も萩の乱も佐賀の乱も、不平士族の反乱で同じ構図なのに、と、主張された趣旨を勘違いいておりました。
勘違いしたこと、申し訳ありませんでした。

それならば、簡単に鎮圧された萩の乱と佐賀の乱は、会津出身者が恨みを晴らすには至らなかったでしょうね。
>>[371]

だからなんで佐賀が入ってくるのよ!
佐賀は関係ないでしょう!二重鎖国でまったく幕末の政界や政変に関与してないんだから
何をそんなに感情的になってるんですか?
>>[367]
写真の草刈さんと何故かイケボイスさんが嬉しいです
>>[371]
会津ばかりでもない。
立見尚文という人物を追いかけて見るとなかなか面白いです(ちなみに旧桑名藩士、日清・日露でアジア最高の用兵家とまで言われた人物)
 何か真田丸コミュなのに幕末とか天皇責任の有無とかすごいことになってます。やはり歴史系コミュは見解がぶつかりあうアカデミズム、ということでしょうか・・。と、言いつつ、私もかなりトピずれ発言をしてるので何とも言えないですが。

 馬上筒に関して色々私なりに疑義があって、確か徳川に残っている資料によると、真田の手から滑り落ちた、と書いてあったようです。勝者たる徳川が記載しているので、信ぴょう性がというご意見もありましょうが、当然実戦において想定できる状況です。そこで、肝心なのはどうやって撃ったか、だと思っています。NHKのその時歴史によるとそれこそ馬を走らせながら撃ったかのような描写がされています。


 実際葵徳川三代の合戦シーンでは馬上筒どころか火縄銃を騎馬武者が最高速で走りながらさも流鏑馬(やぶさめ)宜しく発砲している様子を表現していました。私は幼いながら、こんなことできるのかな・・と思っていましたが・・。

 イスパニアの兵器なので、当然馬を走らせながら撃つ、という撃ち方を想定していると思うのですが、今回の大河ドラマ本編では止まって撃っていましたので、おや?と思ったのですが。



 どうなんだ?源次郎。教えてくれ。あんたはどうやって実際撃ったんだ?
>>[379]
戦車だって走行中の主砲の射撃が有効な命中弾を生むようになったのは、コンピュータで制御する射撃管制装置ができてからです。

イスパニアの兵器だろうが何だろうが、この当時のカービン銃は、単発のピストルでしかない。まずウマを走らせながらでは、命中弾が出てもマグレ当たりでしかありませんよ。
>>[380]

そうですね、どうやら止まって撃ったというのが、意見としてあるようです。しかも命中精度は馬上筒はネット情報によると悪かったらしいです。でも鉄砲の騎馬武者隊も止まって撃ってた、となると馬に乗る意味はあったのか?(白)という気がしますが。
>>[381]
欧州にも竜騎兵という兵種があり、迅速に騎馬で移動し、戦闘は降馬して、普通の騎兵を銃で支援することをもっぱらにしていました。

迅速な機動と鉄砲の火力の融合という一点でも、そういうまとまった集団があると便利なものなんでしょう。

まあ鉄砲自体が実は、当てられるようになるまで、熟練が必要で、数を揃えて、それなりの弾幕を張る……文字通りに下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるで、その効果を高めるために「引きつける」ということも必要になったのだろうと思っています。
よく西南戦争は、戊辰戦争の意趣返し的な説明をされています。私個人としては、それ自体は否定しませんが、もっと広い視野から考えて日本の歴史全体が、東西のベクトルによって構成されているとも考えられないでしょうか。

 神武東征は、神話なので、別として西国の平家(商業主義的)と東国の源氏(平家である北条家含む。農本主義)の抗争の結果、初期は西側が、その後、東側の勝利に終わり、その後、西側が後醍醐天皇を担ぎ、建武の新政(楠木正成に代表される商業主義的)、そして東側が足利(関東)による政権。

 戦国時代に入り、織豊(出身は尾張なので西側と言うには微妙ですが)による商業主義的政権に対し、徳川(東国:農本主義)。後は、周知のとおり戊辰戦争と西南戦争ですね。

 なお、最後の部分は、商業主義と農本主義は、あまり関係ありません。徳川幕府も薩長も開国路線には、変わりありませんでしたからね。事実、明治10年頃までの新政府のノンキャリ官僚の多くはは、旧幕臣により構成されていたとも言われていますから。

 むしろ、この部分だけは怨念でしょう。「もう100年たちましたから」に対して「まだ100年ですので」の話は有名ですね。猫
>>[381]

 伊達家の騎馬鉄砲がそれに近いかもしれません。ただ、本当に実戦で使用されたか否かは、諸説あり、定かではありませんが、多分、ソフトヒッター99 さんのおっしゃる竜騎兵的(現在で言うと機械化歩兵)な使用方法だったのかもしれません。そうか、馬上からの射撃と言う敵の意表をつく作戦だったのかな。猫
>>[384]
【弓矢に比べれば】当たるし、取り扱いも楽なのだけど、スムースボアのマスケット銃自体がなかなか当たらないものなんです。

で〜有効射程=人体にダメージが出せる距離が、せいぜい100mですから、できるだけ近づけというわけですね。

発火方式はフリントロックになっても、先込で、丸い鉛玉を飛ばすだけが続くので、フランス革命やナポレオン戦争時代の歩兵でさえ…

「横隊で前進! 相手の目玉がわかるまでうつなーー! そこまで隊列をくずすなーー! とまれ! 構え! 撃て!」

こんな風にやらないといけない。

で、必死こいて再装填(銃剣が普及するまでは、その間はパイク=長槍歩兵が、敵の接近を防ぐ)。銃剣が普及した18世紀は、攻める側は、これにまんま「突撃ーーーー!」が続くくらいで、南北戦争序盤すぎまで、こんな様相のわけです。

ライフル(銃身)とパーカッション(雷管)の発明って偉大ですw

ログインすると、残り347件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」 更新情報

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。