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西岡の雑誌図書館コミュの西岡昌紀「歴史発掘/スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」(月刊WiLL/2013年6月号105〜107ページ) (その6)

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 ロシア(ソ連)の作家ソルジェニーツィン(1918ー2008)は、人生の一時期を収容所(ラーゲリ)で送った人物である。彼の作品において、その収容所生活が持つ意味は極めて大きいが、彼が収容所に送られることとなったきっかけは、第2次世界大戦末期の1945年1月、ソ連軍大尉だった彼が友人に充てた私信のなかで、スターリンを批判したことであった。
 彼がスターリンの批判を書いた友人宛てのその手紙は、ソ連軍の検閲によって内容を知られ、彼は、軍人として滞在していた東プロシアのケーニヒスベルクで逮捕されることとなる。その時のことを、ソルジェニーツィンはこう回想している。
「わたしは子供らしい考えのため投獄されたのです。前線から出す手紙では軍の機密を漏らしてはいけないことを知っていたのですが、意見は述べていいと思ったのです。
 わたしはわる友人にずっと手紙を書き送っていました。そのなかで名こそあげませんでしたが、スターリンに対する意見もはっきり述べたのです。もうずっと前からわたしはスターリンに批判的で、彼はレーニン主義から逸脱しており、戦争の前半の失敗に責任があり、理論的に弱く、非文化的な言葉を話す、と思っていました。
 青年の軽率さから、わたしはこういうことを手紙に書いたのです。
 わたしはモスクワのルビャンカ刑務所にいれられました。尋問ののちわたしは特別の決定に基づいて、裁判なしに8年の刑に処せられたのです。
 無実なのに有罪になった、と思ったことは一度もありません。何しろ当時としては許されない意見を口に出して言ったのですからね」(1967年3月にモスクワで行われたパヴェル・リチコによるソルジェニーツィンへのインタビュー<訳・栗栖継>より<江川卓・井上光晴編集『新しいソビエトの文学6・ソルジェニツィン集』勁草書房・1968年>336〜337ページより)

 ソルジェニーツィンのこの回想のなかで二つ、注目して欲しいことがある。一つは、1945年ソ連軍の大尉だったソルジェニーツィンがスターリンについて、「戦争の前半の失敗に責任があり」と考えていたことである。
 そしてもう一つは、ソルジェニーツィンは「子供らしい考えのため」と言ってはいるが、この程度のスターリン批判を親しい友人への私信のなかであれば、書いても大丈夫だと思っていたことである。
 つまり、これは軍人を含めた大戦中のソ連市民の間に、独ソ戦前半におけるソ連の敗退は、スターリンの責任だったという感覚が広く存在したことを反映していると、私は考える。
 だからこそ青年だったソルジェニーツィンは、現場の軍人としての感覚として、戦争前半におけるソ連軍の敗退はスターリンに責任があったと、手紙に書くくらいは(それは皆が共有している認識なので)大丈夫だろうと思ったのに違いない。
 つまりこれは、ソルジェニーツィンだけの感覚ではなく、大戦中のソ連市民全体の感覚だったのだろうと、私は思うのである。
 実際、独ソ開戦後、少なくとも半年くらいの間はドイツは破竹の勢いでソ連領内を進撃し、一時はモスクワやレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)が陥落寸前になるまでソ連が追い込まれたのは、誰もが知るとおりである。

 では、ソ連軍はなぜ、独ソ戦の最初の段階であれほど敗退し、ドイツの進撃を許したのだろうか?スヴォロフ氏の著作は、この疑問に見事にこたえている。
 即ち、すでに述べてきたとおりスヴォロフ氏は、同署のなかで、多くの記録と証言を証拠として、ソ連軍が独ソ開戦直前の1941年前半に、ポーランドやルーマニアにいるドイツ軍に対峙するソ連の西部国境付近に集結させられていたことを証明している。
 そして、それらの西部国境に集結させられたソ連軍が、装備の点でも部隊編成の点でも訓練の内容という点でも、ドイツ軍の侵攻に備えての防衛的な任務を担おうとしていたとは考えられないことを精緻(せいち)に証明している。
 そして、スヴォロフ氏は、西武国境に集結していたソ連軍の軍服が冬ではなく夏の軍服であったこと、終結したソ連軍が国境防衛を任務にしていたのであれば当然行ったであろう塹壕堀りや防空壕の建設もしておらず、それどころか防衛のための物である鉄条網を撤去したり、地雷原を撤去したりもしていたことを指摘する。
 こうしたことは軍事常識から判断して、ドイツ軍の侵入に対する防備とは考えられない。そして、開戦直前にソ連軍が行っていたこうした任務や訓練は、ソ連軍が国境の西側への電撃作戦の準備であったとしか考えられない、と氏は述べる。
 ここで思い出して欲しいことがある。それは、スヴォロフ氏が、ソ連軍の情報機関GRU(参謀本部情報総局)の将校だったことである。

(西岡昌紀「歴史発掘/スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」(月刊WiLL/2013年6月号105〜107ページ))
https://www.amazon.co.jp/WiLL-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB-2013%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00CBKHNMK/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=WiLL+2013+6&qid=1592825042&sr=8-1

にしおかまさのり:1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。神経内科医。近著は「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)。カラオケの愛唱歌は「ガッチャマン」とする未確認情報が有る。

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 ロシア(ソ連)の作家ソルジェニーツィン(1918ー2008)は、人生の一時期を収容所(ラーゲリ)で送った人物である。彼の作品において、その収容所生活が持つ意味は極めて大きいが、彼が収容所に送られることとなったきっかけは、第2次世界大戦末期の1945年1月、ソ連軍大尉だった彼が友人に充てた私信のなかで、スターリンを批判したことであった。
 彼がスターリンの批判を書いた友人宛てのその手紙は、ソ連軍の検閲によって内容を知られ、彼は、軍人として滞在していた東プロシアのケーニヒスベルクで逮捕されることとなる。その時のことを、ソルジェニーツィンはこう回想している。
「わたしは子供らしい考えのため投獄されたのです。前線から出す手紙では軍の機密を漏らしてはいけないことを知っていたのですが、意見は述べていいと思ったのです。
 わたしはわる友人にずっと手紙を書き送っていました。そのなかで名こそあげませんでしたが、スターリンに対する意見もはっきり述べたのです。もうずっと前からわたしはスターリンに批判的で、彼はレーニン主義から逸脱しており、戦争の前半の失敗に責任があり、理論的に弱く、非文化的な言葉を話す、と思っていました。
 青年の軽率さから、わたしはこういうことを手紙に書いたのです。
 わたしはモスクワのルビャンカ刑務所にいれられました。尋問ののちわたしは特別の決定に基づいて、裁判なしに8年の刑に処せられたのです。
 無実なのに有罪になった、と思ったことは一度もありません。何しろ当時としては許されない意見を口に出して言ったのですからね」(1967年3月にモスクワで行われたパヴェル・リチコによるソルジェニーツィンへのインタビュー<訳・栗栖継>より<江川卓・井上光晴編集『新しいソビエトの文学6・ソルジェニツィン集』勁草書房・1968年>336〜337ページより)

 ソルジェニーツィンのこの回想のなかで二つ、注目して欲しいことがある。一つは、1945年ソ連軍の大尉だったソルジェニーツィンがスターリンについて、「戦争の前半の失敗に責任があり」と考えていたことである。
 そしてもう一つは、ソルジェニーツィンは「子供らしい考えのため」と言ってはいるが、この程度のスターリン批判を親しい友人への私信のなかであれば、書いても大丈夫だと思っていたことである。
 つまり、これは軍人を含めた大戦中のソ連市民の間に、独ソ戦前半におけるソ連の敗退は、スターリンの責任だったという感覚が広く存在したことを反映していると、私は考える。
 だからこそ青年だったソルジェニーツィンは、現場の軍人としての感覚として、戦争前半におけるソ連軍の敗退はスターリンに責任があったと、手紙に書くくらいは(それは皆が共有している認識なので)大丈夫だろうと思ったのに違いない。
 つまりこれは、ソルジェニーツィンだけの感覚ではなく、大戦中のソ連市民全体の感覚だったのだろうと、私は思うのである。
 実際、独ソ開戦後、少なくとも半年くらいの間はドイツは破竹の勢いでソ連領内を進撃し、一時はモスクワやレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)が陥落寸前になるまでソ連が追い込まれたのは、誰もが知るとおりである。

 では、ソ連軍はなぜ、独ソ戦の最初の段階であれほど敗退し、ドイツの進撃を許したのだろうか?スヴォロフ氏の著作は、この疑問に見事にこたえている。
 即ち、すでに述べてきたとおりスヴォロフ氏は、同署のなかで、多くの記録と証言を証拠として、ソ連軍が独ソ開戦直前の1941年前半に、ポーランドやルーマニアにいるドイツ軍に対峙するソ連の西部国境付近に集結させられていたことを証明している。
 そして、それらの西部国境に集結させられたソ連軍が、装備の点でも部隊編成の点でも訓練の内容という点でも、ドイツ軍の侵攻に備えての防衛的な任務を担おうとしていたとは考えられないことを精緻(せいち)に証明している。
 そして、スヴォロフ氏は、西武国境に集結していたソ連軍の軍服が冬ではなく夏の軍服であったこと、終結したソ連軍が国境防衛を任務にしていたのであれば当然行ったであろう塹壕堀りや防空壕の建設もしておらず、それどころか防衛のための物である鉄条網を撤去したり、地雷原を撤去したりもしていたことを指摘する。
 こうしたことは軍事常識から判断して、ドイツ軍の侵入に対する防備とは考えられない。そして、開戦直前にソ連軍が行っていたこうした任務や訓練は、ソ連軍が国境の西側への電撃作戦の準備であったとしか考えられない、と氏は述べる。
 ここで思い出して欲しいことがある。それは、スヴォロフ氏が、ソ連軍の情報機関GRU(参謀本部情報総局)の将校だったことである。 その意味を理解するために、次の文章を読んで欲しい。
 これは、日本の優れたジャーナリストが書いたCIAについての本の一節である。
<<CIAというと、各国が隠し持っている秘密情報だけをスパイを使って盗み出す所だと思われているフシがあるが、そのようなスリルに満ちた情報活動は、ほんの一部にすぎず、大半は、各国が発行する刊行物、新聞、雑誌、テレビ放送などの分析に頼っている。
 CIAのある友人の話によると、ニュースだけではなく、その国ではやっている小説、漫画、テレビ・ドラマなども、国情を知る上で重要な手がかりになる。(中略)
 これと対照的に、日本政府が将来、宇宙防衛兵器に手を出すかどうかについて、CIA日本本部がどんなに動き回ったところで、自民党や防衛庁のどこにも、ヒントになるような極秘資料は存在しない。公開資料の方がよほど参考になるのである。>>(斎藤彰『CIA』講談社現代新書・1985年、19〜20ページ)
 スヴォロフ氏の本を読みながら、私は斎藤氏のこの本のこの一節を想起させられた。
 これは、CIAについての記述だが、CIAに限らず世界中の情報機関はこのような手法で国際情勢を分析している。スヴォロフ氏がかつて所属していたソ連の情報機関GRUも、例外ではないじゃずである。当然、スヴォロフ氏も、GRU時代にこうした情報の分析を叩きこまれたであろうことが想像される。
 
 スヴォロフ氏が、ソ連国内で出版された、一見些細(ささい)な内容に思われる新聞や雑誌の記事、ラジオ放送の内容から、退役軍人の回想や発言、軍事雑誌の小さな記事、写真、地図などから、ジグゾー・パズルを解くようにして、スターリンの秘められた戦争計画の存在を論証しようとする姿勢は、氏がこのような情報機関の将校であったことと無関係ではないように思われる。
 スヴォロフ氏の分析の手法は、普通の歴史学者が公文書を読む読み方とは違っている。歴史学者ならば気がつかないような些細な新聞記事や軍人の回想に注目して、それらの背景にある当時の軍事情勢を解析していく。これは、スヴォロフ氏がGRUの情報将校だったからこそできた手法であったに違いない。

(西岡昌紀「歴史発掘/スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」(月刊WiLL/2013年6月号105〜109ページ))
https://www.amazon.co.jp/WiLL-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB-2013%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00CBKHNMK/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=WiLL+2013+6&qid=1592825042&sr=8-1

にしおかまさのり:1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。神経内科医。近著は「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)。カラオケの愛唱歌は「ガッチャマン」とする未確認情報が有る。

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 書くのが辛い話をしよう。次に引用する、『ニューズウィーク日本版』の記事の一節を読んでいただきたい。これは第二次世界大戦末期に、ソ連軍占領下の東プロシアで、ドイツ人綾子に起きた出来事である。
 
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 あれから半世紀がたったいまでも、ヒルデガルド・ブーブリツは恐怖の記憶におののいている。家族とともに東プロシアを逃げ出したときの体験だ。
 ある晩のこと、ブーブリツは家族や仲間と民家の地下室に隠れているところをソ連兵に見つかった。ソ連兵たちはまず腕時計を巻き上げた。次に欲しがったのは女だった。
「私たちのなかに女性教師がいた。45歳で男性経験のない人だった」と、ブーブリツは語る。
「彼女は、10人のソ連兵にレイプされた。地に染まった下着姿で戻ってくると、大声で泣き叫んだ」
 この教師の母親は、娘を抱きかかえてこう言ったという。−−「私がカミソリの刃を持っているから」。
 そして、親子は外に出ていった。
「二人は森のなかで死んでいた」とブーブリツは言う(アンドルー・ナゴースキー「終戦後の『民族大虐殺』『ニューズウィーク日本版』1995年5月17日号42ページより)。

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 また、次に引用する半藤一利氏の著作の一節を読んでいただきたい。

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 ドイツでは、老女から4歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行されずに残ったものはほとんどいない、といわれている。あるロシア人将校は、1週間のうちに少なくとも250に暴行されたドイツ人少女に出会い、さすがに慄然とした、という記録が残されている。

(半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文藝春秋社・1999年、274ページより)

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 これが、スターリンの軍隊の所業である。ソ連は、これをヨーロッパの「ファシズムからの解放」と呼んできた。「解放」かどうかは読者の価値観に委(ゆだ)ねるが、満州でも樺太でも、スターリンのソ連軍が同様の行為を繰り返したことは、周知のとおりである。

(西岡昌紀「歴史発掘/スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」(月刊WiLL/2013年6月号109〜110ページ))
https://www.amazon.co.jp/WiLL-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB-2013%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00CBKHNMK/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=WiLL+2013+6&qid=1592825042&sr=8-1

にしおかまさのり:1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。神経内科医。近著は「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)。カラオケの愛唱歌は「ガッチャマン」とする未確認情報が有る。

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 書くのが辛い話をしよう。次に引用する、『ニューズウィーク日本版』の記事の一節を読んでいただきたい。これは第二次世界大戦末期に、ソ連軍占領下の東プロシアで、ドイツ人綾子に起きた出来事である。
 
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 あれから半世紀がたったいまでも、ヒルデガルド・ブーブリツは恐怖の記憶におののいている。家族とともに東プロシアを逃げ出したときの体験だ。
 ある晩のこと、ブーブリツは家族や仲間と民家の地下室に隠れているところをソ連兵に見つかった。ソ連兵たちはまず腕時計を巻き上げた。次に欲しがったのは女だった。
「私たちのなかに女性教師がいた。45歳で男性経験のない人だった」と、ブーブリツは語る。
「彼女は、10人のソ連兵にレイプされた。地に染まった下着姿で戻ってくると、大声で泣き叫んだ」
 この教師の母親は、娘を抱きかかえてこう言ったという。−−「私がカミソリの刃を持っているから」。
 そして、親子は外に出ていった。
「二人は森のなかで死んでいた」とブーブリツは言う(アンドルー・ナゴースキー「終戦後の『民族大虐殺』『ニューズウィーク日本版』1995年5月17日号42ページより)。

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 また、次に引用する半藤一利氏の著作の一節を読んでいただきたい。

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 ドイツでは、老女から4歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行されずに残ったものはほとんどいない、といわれている。あるロシア人将校は、1週間のうちに少なくとも250に暴行されたドイツ人少女に出会い、さすがに慄然とした、という記録が残されている。

(半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文藝春秋社・1999年、274ページより)

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 これが、スターリンの軍隊の所業である。ソ連は、これをヨーロッパの「ファシズムからの解放」と呼んできた。「解放」かどうかは読者の価値観に委(ゆだ)ねるが、満州でも樺太でも、スターリンのソ連軍が同様の行為を繰り返したことは、周知のとおりである。

 ヨーロッパでのソ連軍のこうした所業については、ソ連が囚人兵を戦線に投入したことが、その背景の一つとして語られてきた。

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(西岡昌紀「歴史発掘/スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」(月刊WiLL/2013年6月号109〜110ページ))
https://www.amazon.co.jp/WiLL-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB-2013%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00CBKHNMK/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=WiLL+2013+6&qid=1592825042&sr=8-1

にしおかまさのり:1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。神経内科医。近著は「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)。カラオケの愛唱歌は「ガッチャマン」とする未確認情報が有る。

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