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反改憲!平和権力育成政治討論会コミュの日本人が常識として知っておくべき不条理な許しがたい「昭和天皇の憲法違反」、それと「無条件な日本の米軍基地提供」「安保条約」「内乱条項」の関係

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●【日本人が常識として知っておくべき不条理な許しがたい「昭和天皇の憲法違反」、それと「無条件な日本の米軍基地提供」「安保条約」「内乱条項」の関係】

天皇の白昼堂々の憲法破りの個人的命乞いが、日本を米国の奴隷国家にした。


岩波文庫 豊下楢彦著
「昭和天皇・マッカーサー会見」のP.172〜P.176
*−−−引用開始−−−*

吉田茂の全権固辞

 ところで、これらの「内奏」の他に、『調書』で初めて確認できたきわめて重要な問題は、吉田がサンフランシスコの講和会議に出席することを、最後の最後まで執拗に固辞していたことである。実は吉田は、五一年二月に日米の第一次交渉が終わって以降、当時病床にあった「わが外交界の長老」の幣原喜重郎元首相を、講和会議の日本側首席全権に強く推していたのである。ところが、その幣原が三月十日に他界すると、四月一八日のダレスとの会談で吉田は、内政への責任から東京を離れることができないとの理由で、今度は「佐藤尚武参議院議長にお願いするつもりでいる」と述べたのである。
 これには西村や条約局のスタッフも驚き、憲法に照らしても重要な条約の全権は立法府ではなく「内閣の一員」が担わなければならないとの「資料」を作成し、「総理〔吉田〕の出馬」を改めて求めるまでになったのである。しかし、吉田の固辞は執拗をきわめた。七月に入っても「全権の任務を人に託す」との立場を変えなかったため、遂にダレスは七月一六日に吉田に届けられた書簡で、講和会議には日本は「最有力な全権団」を派遣すること、吉田以外の代表団では「不十分」なこと、吉田が参加することが日米両政府の偉大な目標への「多大な貢献」になること、を強調したのである。
 それでは、日米交渉において全責任を担ってきた吉田は、なぜ全権になることを固辞し、ここまで強く講和会議に「出たくない」と”駄々をこねた”のであろうか。彼は講和条約そのものについては、「寛大にして好意ある」ものと評価しており、だからこそ「一日も早く結実することを熱望する」という立場を明らかにしていた。とすれば問題は、講和条約と同時に調印することが予定されれいた安保条約にあった、と考えるしかないであろう。
 彼はダレスとの交渉にあたり、「アムール・プロプル――自尊心――をきずつけられずして承諾できる」ような条約を締結することを求めていたが、講和条約がそれを満たすものであったとしても、先に見たように安保条約が文字通りの「不平等条約」としての内実を顕にするなかで、自らが責任もって調印することに躊躇したのではなかろうか。このように考えることなしには、吉田の執拗きわまりない固辞の背景を理解することは出来ないのではなかろうか。
 それでは、「ワンマン」とも称され頑固一徹で知られた吉田が、最終的にその固辞を撤回し、全権を担うことに踏み切った契機とは何であったのであろうか。その契機は、ダレスの書簡を受け取ってから三日後に行われた吉田の昭和天皇への「拝謁」であった。井口貞夫外務次官がシーボルトに「極秘」に伝えたところによれば、七月一九日の朝に天皇に「拝謁した後に」、(※引用者リーフ注:原文はこの「拝謁した後に」の文字には強調の“`”が振られている)吉田は日本の全権団を率いることに「同意」した、ということであった。とすれば、この「拝謁」において、固辞を続ける吉田に対して天皇から「御詰問」や「御叱り」があったのかもしれない。
 いずれにせよ、五二年四月二八日、講和条約と安保条約の発効を祝う式典を終えるやダレスは直ちに、カーンやパケナムが設けた「然るべきチャネル」を通して昭和天皇に「個人メッセージ」を送り、「双方に関係する諸問題について、互いに議論し合う機会を数回も与えられたことへの感謝」の意を表明すると共に、「両国間の永続的平和という大義への陛下の献身」の重要性を強調したのであった。
 この「陛下の献身」のなかに、吉田の固辞の撤回が含まれていたかどうかは定かではない。しかし重要な事は、吉田の全権就任問題が決着するとダレスの側が、昭和天皇の権威を全権団と講和会議に反映させる方策を要求したことであった。五一年八月一〇日、。ダレスの指令をうけたシーボルトは井口次官に対し、「日本の全権委任状に天皇の認証のあることを明示されたい」「全権は陛下におかせられて謁見式を行われるような方式で公表されたがよろしかろう」という二点を要請し、「これは、今度の平和条約が天皇陛下によっても嘉納(※引用者リーフ注:進言などを高位の者が喜んで聞き入れること。)されておることを世界に明らかにするためである」と、その要請の根拠を説明したのである。


 「陛下の献身」の背景
 
 それではここで、ダレスによってその「献身」ぶりが称賛されるほどに、なぜ昭和天皇は日米交渉の過程にこれほど深くかかわることになったのであろうか、その背景を改めて検討しておこう。
すでに見たように、天皇は新憲法が施行され「象徴天皇」になって以降も、事実上の「二重外交」に踏み込み、吉田に強い圧力を加えてまでも、「自発的なオファ」による米軍への無条件な基地提供という方向に突き進んだのである。そこには、昭和天皇のきびしい情勢認識があったと言える。五十年夏の「文書メッセージ」の作業においてパケナムが強烈な印象を受けたように、昭和天皇の側近達は、朝鮮戦争の帰趨と天皇の将来を直結させて、深刻きわまりない危機感を抱いていたのである。
 つまり、彼にとって「朝鮮有事」とは「日本有事」であり、そして「天皇制の有事」であった。この点で、「大陸の政治動乱がわが島国を直接に脅かさなかったことは歴史の事実」とのクールな判断を背景に、「朝鮮有事」と「日本有事」を峻別した吉田とは情勢認識を大いに異にしていたのである。要するに昭和天皇の側にあっては、朝鮮戦争で米軍が苦境にたつならば、それはソ連による直接侵略か国内共産主義者による間接侵略かはともかく、「革命」と「戦争裁判」と天皇制の打倒につながるものと看做されていたのである。
 とすれば、戦争放棄の新憲法のもとにあって、この未曾有の危機を救えるのは米軍以外にないという結論に至るのは、きわめて自然の成り行きであろう。従って、吉田が基地提供という「根本方針」でいささかなりとも”動揺”を示すことは許しがたいことであり、ましてや、基地提供を交渉カードに使うといった発想それ自体が認められないことなのである。つまり、日本の基地提供と米軍駐留は、天皇制の死守をはかる昭和天皇にとって絶対条件となったのである。
 こういう昭和天皇の立場に立てば、日本はあくまで無条件に米軍駐留を「希望」「要請」し、基地の「自発的なオファ」に徹しなければならないのである。それこそが、安保条約の「根本主旨」なのである。さらに「内乱条項」は、きわめて重要な位置を占めていたであろう。こうして、皮肉な表現を使うならば、「国体護持」を保証する安保体制こそが、「独立」を果たした日本の新たな「国体」となったのである。

*−−−引用終了−−−*

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