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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの20150629_【宗教的教義としての<憲法9条>と、社会科学としての<憲法9条>】

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宗教的教義としての<憲法9条>と、社会科学としての<憲法9条>について

考えてみたい。

下記は、

「私の憲法9条観、自衛隊観
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943602402&owner_id=38378433
の続きの日記
(続)私の憲法9条観、自衛隊観≪【憲法9条の理念を、情緒的価値判断の世界に訴える道について≫
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1943623136&owner_id=38378433)」

*−−−−−−引用開始−−−−−−−−−*

(続)私の憲法9条観、自衛隊観≪【憲法9条の理念を、情緒的価値判断の世界に訴える道について≫


●【憲法9条の理念を、情緒的価値判断の世界に訴える道が存在している。この道を考察してみよう。】


長年、憲法9条護憲運動を支えてきた道かもしれない。おじいちゃんおばあちゃんから子供まで、

わかりいい理屈だ。

<【武力を持つことは憲法違反です】。【武力を持つことは悪です】。【戦争は悪です】

言い続けることで、情緒的価値判断の世界に、訴えていく。>


【戦争は絶対にやめましょう(戦争放棄)】

【すべての軍事力を捨てましょう【戦力の不保持)】

【戦争する権利は捨てましょう(交戦権の否認)】

なぜなら、

【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。

「あっ、そこの自衛隊、自衛と称して戦争を放棄してませんね。戦争は悪です。憲法の条文にも違反です。解体しなさい。」

あっ、そこの自衛隊、自衛の武器がありますね、武力は悪です。憲法の条文にも違反してます。捨てなさい。」。

あっ、そこの自衛他、自衛に自衛のための交戦権を認めてますね。交戦権は悪です。憲法の条文にも違反してます。解体しなさい。」

これが後者を支持する多くの人々の、繰り返される護憲運動の実態だと思う。



【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。こういう素朴な感情論の主張だが、繰り返される護憲運動の実態だと思う。




この情緒的価値判断の世界に、訴えていく単純反復洗脳が、一定の効果を持つことは確かだと思う。

殊に戦後の「もう戦争はこりごりだ」という戦争体験者が多くいた時代には共感を浴びただろう。

いま、戦争体験者が少なくなり、希薄になると、こうした情緒的価値判断に訴える効果は、共感度が極端に落ちてくる。

自分にリアルな戦争体験がないのだから、単なる【善悪の理屈】【価値観の洗脳】こういう問題としてのみ、働いている。

その結果、どんどん護憲派の幹が細っている。共感度は、薄くなっている。以前のような実体験に裏付けられた圧倒的な共感から、違ったものになってきている。【善悪の理屈】としての

「【戦争は絶対にやめましょう(戦争放棄)】

【すべての軍事力を捨てましょう【戦力の不保持)】

【戦争する権利は捨てましょう(交戦権の否認)】

なぜなら、

【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。」

この主張では、日本人民を根底から変えることはできない。

情緒的価値判断の面だけでの憲法9条へのアプローチは、どこかずれていると思いませんか。

情緒的価値判断に訴える道は、なにかある種の壁に突き当たっていると思いませんか。



●【情緒的価値判断に訴える道は、ある種の壁に突き当たっている。具体的問題から見ていきたい。自衛隊員の基本的人権をどう見ているか。】

この壁は、護憲運動が情緒的価値判断に訴える道であるとき、原罪的に抱えている問題だ。


「【戦争は絶対にやめましょう(戦争放棄)】

【すべての軍事力を捨てましょう【戦力の不保持)】

【戦争する権利は捨てましょう(交戦権の否認)】

なぜなら、

【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。」

この主張に洗脳れた人々が自衛隊員をどう見るのか。


多くの人は自衛隊に嫌悪感を懐くと思う。

その結果、自衛隊員に基本的人権があるという視点が無くなってはいないか?

あるいは、希薄になってはいないか?

もし、自衛隊員にも基本的人権があるという視点をしっかりと持っているなら、

自衛隊員も同じ人間であり、国家権力にさいなまれた主権者人民が、公務員の服を着て国家権力に隷属させられ、基本的人権を制限されてしまっていることへ怒りや救済の方法も考えるはずだ。

自衛隊員の基本的人権を自衛隊員のまま保障するという方法にも、思いをはせるはずだ。


しかし、善悪の問題で終わっていると、「自衛隊、そんなところに入隊しているやつが悪いのだ。知ったこっちゃない!」こういう発想になっていはしないか。

戦死しても「自業自得だ」という見方になりはしないか。

彼らだって親も子も奥さんもいるのだ。同じ人間なのだ。公務員の服の下には生身の基本的人権を持つ人間がいて家族がいるのだ。

そんな簡単にこの人間の基本的人権を一刀両断で斬ってはいけない。

彼らが救済される道はまた日本人民が救済される道なのだから。

同じなのだ。人間として。

世の中をスパイラルさせながら前進させていく必要がある。一刀両断にはいかない。



●≪ 情緒的価値判断に訴える道は、【悪い】ものは【悪い】のですとなる善悪の問題で終わる主張というのは、

その主張はいわば、自分の求めるものが【神であるべき人間像】になってはいないか。

【天国であるべき社会像】になっていないか。

その理想像はいつも【完璧なまでに正しい理想像】なのではないか。≫



だから、【現実の政治で、すこしでも前進させる方向】を支持する人々には批判的だ。


【完璧な理想形の社会、公約】を主張し、

【現実において少しでも前進させる方向】、その方向がとん挫すると、

「ほらね、私たちの言う主張が正しいでしょう、あなたの支持はまちがっていたではありませんか」

となる。

しかし、そうじゃないのだ。あなた方の主張は永遠に間違わない。ただそれだけだ。

神と人間を比較したら、いつだって神は完璧であり、いつだって人間はまちがっているのだ。

天国の現実の社会を比較したら、いつだって天国は完璧であり、いつだって人間社会はまちがっているのだ。

永遠に100%の公約と100%の理想像を追求し、スローガン化し、

それから少しでも外れたら、「ほらね」という指摘は、「その方向は間違いだ」という議論は、

いわば人間が神であることを求めて主張するものであり、

この世が天国であることを求めてそれが正しいと主張するのであるから、

彼らは永遠に正しく、永遠に間違わず、しかして、永遠に現実を少しでも前進させていく、スパイラルさせて前進させていく、そんな運動に、本質的には合流しえないではないか。

確かに現実の人間社会では、理想への肉薄の意欲を失っている敗北主義の政治勢力もあれば、

邪悪な現世御利益に浸っている悪魔集団もある。

だが、敗北主義や、邪悪な現世御利益主義が間違いなら、

絶対的天国主義や神様人間志向主義も、そのスローガンの反復というのは、信者獲得の作業から一歩も出ないだろう。

現実を少しでも変えていくという力が希薄だ。


端的に言えば、いわば【対立物の相互転換】の目がないと思う。いわば【弁証法】の目だ。



「<【弁証法】の目とは>

現状はまずい、こんな問題がある。

では、どうすればこの問題を克服していけるのか?

たとえば対立するように見える問題に対し、

ここを叩けばあそこが飛び出るという、事実の関係を発見し、

その発見した事実の関係を、現実の歴史の動きのなかで確認していく。

確認されるまでは、実証されるまでは、発見した事実の関係は社会科学の【理論】に過ぎないけれど、

【理論】が歴史的に実証されたら、何時でもこの先使える社会科学の【論理】に昇格する。

【理論】は、歴史的に実証されずに、間違いであることも無論あるだろう。

だが、こうしたことで社会科学の【論理】を一つでも多く発見したら、

人類の宝とし、社会の論理として、人類を前進させていくことができる。

そうした試行、思考、志向が、社会科学的な前進の方向なのだと思う。



「【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。」

この説教には、そうした、いわば【弁証法】の目がない。言い放しだ。洗脳。

イスラム教のようにキリスト教のように創価学会のように一種の価値の洗脳だ。

布教活動としての側面のみがクローズアップされてくるように思う。

政治には敷衍、啓蒙という、一種の布教活動的な側面があるのは事実だが、しかし、政治は、

主権者人民の生命と財産を守るものであり、それは、本質的に宗教とは異なる。

宗教は己の教義に反することはしない。

教条的な教えが絶対の踏み絵だ。



●【政治は、情緒的価値判断の問題ではない。道徳の問題でもない。

政治は、主権者人民の生命と財産を守る目的の為ものであり、

善悪とか、各自がどんな宗教に属しているとか、そんなことを超越して、政治の問題としてとらえねばならない。

政治は、情緒的価値判断や、道徳や、教教義をこえて、【政治】の問題として解決していく必要がある。】



政教分離の原則だ。

政治は政治、宗教は宗教。

だが、政治が、宗教に飲み込まれたら、

「この教団に属しているからこの教団の推薦する政党に一票捧げます。政治の追究は放棄します。」となる。

憲法9条が教義化すれば、

「【戦争は悪です】

【軍事力は悪です】

【交戦権は悪です】

【憲法違反です】

【悪い】ものは【悪い】のです。」
となり、


「【戦争は絶対にやめましょう(戦争放棄)】

【すべての軍事力を捨てましょう【戦力の不保持)】

【戦争する権利は捨てましょう(交戦権の否認)】」

は絶対に正しい教義です、となる。


「あっ、そこの自衛隊、自衛と称して戦争を放棄してませんね。戦争は悪です。憲法の条文にも違反です。解体しなさい。」

あっ、そこの自衛隊、自衛の武器がありますね、武力は悪です。憲法の条文にも違反してます。捨てなさい。」。

あっ、そこの自衛他、自衛に自衛のための交戦権を認めてますね。交戦権は悪です。憲法の条文にも違反してます。解体しなさい。」

そうなる。

教義に違反したかしてないか、これが判断基準となる。それが宗教の目だ。



たとえば政治の問題として自衛隊を捉えるなら、

憲法9条の問題は、基本的人権を守るという問題であり、

そこには主権者人民の基本的人権を守るということもあれば、

自衛隊員の基本的人権を守るという問題追究もでてくる。


自衛隊員も同じ人間であり、国家権力にさいなまれた主権者人民が、公務員の服を着て国家権力に隷属させられ、基本的人権を制限されてしまっていることへ怒りや救済の方法も考えるはずだ。

自衛隊員の基本的人権を自衛隊員のまま保障するという方法にも、思いをはせるはずだ。

しかし、善悪の問題で終わっていると、「自衛隊、そんなところに入隊してるやつらが悪いのだ。知ったこっちゃない!」こういう発想になっていはしないか。戦死しても「自業自得だ」という見方になりはしないか。

彼らだって親も子も奥さんもいるのだ。同じ人間なのだ。公務員の服の下には生身の基本的人権を持つ人間がいて家族がいるのだ。
そんな簡単にこの人間の基本的人権を一刀両断で斬ってはいけない。

彼らが救済される道はまた日本人民が救済される道なのだから。同じなのだ。人間として。



憲法9条の理念を、【社会科学の論理】として訴え続けるのか、
それとも、ただ善悪の目で道徳として教条的にスローガンをくりかえすだけの訴えであるのかは、
似ていて非なるところがある。


憲法9条の理念を、【社会科学の論理】としてとらえるなら、「暴力はすべて悪です」から、

どういう暴力が悪なのか、どういう暴力が正しい暴力なのか、必要な暴力なのか?

どうすれば暴力装置というものは、主権者人民の暴力装置たりうるのか?

そういう展開になる。

社会科学的仕組みの問題になる。

そういう思考に発展しなければならない。



どうすれば暴力装置というものは、主権者人民の暴力装置になるか。

原理的には、社会統制の双指向性が必須になる。

それはすべてのdemocracyの問題を考えるときの大原則だ。

基本的人権を守るという、国家を作ったときの国家の目的は、大原則だ。

基本的人権を守るために、権力から自衛隊員への社会統制に対して、自衛隊員から権力への逆社会統制は社会科学として必須だ。

具体的に言えば、抗命権の保障だ。さらに、労働組合の保障だ。

これは、自衛隊が解体されて別の暴力装置ができても同じだ。


単に「暴力装置はいけません、悪です」という主張は、政治的主張なの、宗教的主張なのかよく吟味する必要がある。

政治的主張なら、そこに、社会統制の双指向性の仕組みが実現できない限界を指摘しなければなるまい。

権力が暴力的権力であるときは、すべてが暴力的になる。

だが、そのことをもって暴力装置を否定するなら、

権力が市民的平和権力になったときでさえ、暴力装置を否定するのその拒否の根拠をどのように理由づけるのか。

「また暴力的権力になったらこまるから」、では、理由にならにない。

暴力的権力になったらすべてが暴力的なのだ。

警察も暴力団と癒着し、裁判所も暴力的権力と癒着しすべてが。



●【憲法9条を世界に訴えていくのが、憲法9条の使命だと思う。世界に対して、宗教教義として訴えるのか、社会科学の目で訴えるのかは、大きく違ってくる】


宗教教義の目で訴えるなら、情緒的価値判断のスローガンの反復でいい。

社会科学の目で訴えるなら、

外交カードとして、いかに、憲法9条の理念を訴えることを利用するか、

それは、憲法9条の理念を世界に訴え続けることで、同時に日本の安全保障を実現する道でもあるという認識がなければならない。

事実、憲法9条こそは、どんなに日本が軍事力を強固にする道よりも現実に、日本の主権者人民の基本的人権を守る力を有している。

世界を、憲法9条の理念で引っ張るリードオフマンになったとき、憲法9条のパイオニアになったとき、世界の尊敬とあこがれを一身に浴びる日本になったとき、これほど強力な安全保障政策はない。

安倍晋三の道は全く真逆である。日本国憲法9条を蹂躙して、地獄の黙示録に日本国人民の首に縄をつけてひきずり回している。

日本国憲法と主権者日本国人民にとって、国賊である!


(了)
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