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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都宇治 45番 平等院

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10円硬貨でお馴染みの鳳凰堂ですが寺の廻りには宇治茶などの販売店が多く寄り集まっているのも宇治だからでしょうね
京都府、楽土の道
(125)朝日山 
平等院(びょうどういん)
住 所 〠 611―0021 京都府宇治市宇治蓮華116
電話番号 電話 0774―21―2861
本  尊 阿弥陀如来
開 山 藤原頼通、明尊(開山)
創  建 永承7年(1052)
アクセス 京阪電車 宇治線で「京阪宇治駅」下車、徒歩10分。
     JR奈良線で「宇治駅」下車、東へ徒歩10分。
<寺歴・縁起> H/P http://www.byodoin.or.jp/index.html
単立 神仏霊場125番

 ときの権力者、関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業をその子頼通が、永承7年(1052)にこれを仏寺に改め、平等院としました。永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。
 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

浄土式庭園と鳳凰堂
平安時代後期、日本では「末法思想」が広く信じられていた。釈尊の入滅(一般で言う「死去」)から2,000年目以降は、仏法がすたれ、天災人災が続き、世の中は乱れるとする思想である。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営した。
平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長は寛仁4年(1020)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、歴史書に名をとどめるこれらの大伽藍も今は跡形もなく、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院はかけがえのない存在となっている。
 現在の平等院は、天台宗系の最勝院(ともに鳳凰堂の西側にある)浄土宗の浄土院という2つの寺院が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492〜1501)、最勝院は承応3年(1654)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681)、寺社奉行の裁定によるものである。
平成2年(1990)代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータ・グラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築2001年9月)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。
平成8年〜平成9年(1996〜 1997)にかけて、平等院の裏手に15階建てのマンション2棟が建ち、鳳凰堂の背景になってしまっている。
創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されてる。

鳳凰堂 本尊 阿弥陀如来坐像
国宝 平安時代(天喜元年)木造 像高278.8Cm
 「定家朝臣記」によって天喜元年(1053)2月19日に定朝作の阿弥陀如来坐像が京都から運ばれてきたことは明らかで、定朝制作が資料的に判明する唯一像である。いわゆる弥陀の定印を結び、蓮華坐上に結跏趺坐する阿弥陀如来像で、顔のつくりは限りなく円満そのものである。漆箔、寄木造りで我が国平安時代の仏像の最高峰を示している。正面の像は結構円満と云われる満月慶の顔をしているが、横顔を見ると頬に穏やかな張りがあり、慈悲深く優しいまなざしの中にも仏の威厳をたたえている。

ライトアップされた鳳凰堂
阿字池(手前の池)に中堂の格子窓から阿弥陀様が姿をあらわしている、その姿を見ると極楽浄土、寂光世界を本当に見ているような気がする。

観音堂     観音堂本尊 十一面観音立像
 観音堂 重文 鎌倉時代票堂院北門から入って左手なるのが重文の十一面観音立像を安置していた観音堂である。宇治川に臨む釣殿につながる本堂の跡地に、鎌倉時代になって建立されたもので、別名釣殿とも称される。二軒の地垂木が楕円形になり、内部は四週1間を外陣とし、中央に入り組み天井を持つ内陣とする。須弥壇を3間に分かち、中央に厨子入りの本尊十一面観音菩薩立像、向かって右に不動明王立像に童子像、左に地蔵菩薩立像を安置していた。
桁行7間、梁間4間一重寄棟造り、本瓦葺で、典型的な中世密教仏堂の特色をよく示している。
 十一面観世音菩薩立像 重文 平安時代 木造 像高166.0Cm 観音堂の本尊で、頭上面の10面と本面を合わせて11面とする。右手を垂下して、左手に2茎の蓮華が入った水瓶を握る。頭から体までの幹部を一木から彫り出し、背面に内刳りを施す。張り出した肩や輿の絞り、厚手の衣文の表現、あるいは少年の様な面立ちの表情などに古様さがうかがえ、制作は平等院の開創よりややさかのぼり、11世紀前半と考えられる。現在の截金や彩色は鎌倉時代のものである。

    (左)地蔵菩薩(右)不動明王
 地蔵菩薩立像 平安時代 木造 像高156.3Cm 観音堂の須弥壇に向かって左脇段上に安置されていた地蔵菩薩立像で、右手に垂下して錫杖を握り、左手に宝珠を持つ。欅の一木造りで背中と腰に背刳りがあり、現在は素地を呈しているが元は彩色像であったと考えられる。全体に細身で体がやや右に寄るかのような姿に現されている。これは何らかの霊木を用いた為に、材の持つ性質に左右された結果とされる。制作時期は浅い衣文の彫りやひらいたな雰囲気から10世紀後半にさかのぼるが、平等院本来というより他所からの移転仏と考えられる。
 不動明王立像 平安時代 木造 像高87.9Cm 観音堂の須弥壇に向かって右脇段に安置される不動明王立像で、巻髪として頭頂に莎髻(しゃけい)があり、左目を眇め、口お固く結んで左上牙、右下牙とし、右手を屈臂して剣を握り左手に羂索を下げる姿にあらわされる。檜材の一木造りで内刳りを施さず、両腕は別材を矧ぐ。典型的な天台宗系の不動明王であるが、伝来を明らかにしない。
ただ平安時代以来平等院の執印には園城寺や延暦寺系の貴顕の僧侶が任じられている事を考えれば、平等院伝来の仏像と考えてもよい。

塔頭 浄土院       阿弥陀如来坐像
 塔頭浄土院は、鳳凰堂の西に位置する。明王年間(1492〜1501)に浄土宗の
栄久上人が平等院修復の為開創したと伝えられる。
阿弥陀如来坐像 制作年代不詳 木造 像高89.0Cm 円満で穏やかな表情をたたえ、膝を平らに組み、均衡を保つ。鳳凰堂の阿弥陀如来坐像と同じ上品、上生印を結び、面相、体軀など関係が指摘される。

塔頭最勝院は、鳳凰堂の西北、背後に建つ。聖護院末である。
承応3年(1654)京都東洞院六角の勝仙院の僧が平等院に移住し最勝院と号したのが始まりとされる。
不動明王立像 鎌倉時代 木造 像高144.5Cm 最勝院不動堂本尊
立像としてはがっしりと骨太な像造で、宝剣を持った右手の肘の張り具合が強く、その迫力には圧倒される。身にまとった条帛や裙に見られる彫りの強さが、全体を一層頑強な不動明王像にしている。

神仏霊場 ご朱印

梵鐘

雲中供養菩薩

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