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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 21番 賀茂御祖神社

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下鴨神社の事です。
京都府、楽土の道
(101)山城國一宮
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)
住 所 〠 606―0807 京都市左京区下鴨泉川町59
電話番号 電話 075―781―0010
御 祭 神 東西2殿
開 祀 紀元前、皇紀始まる頃と推定される
アクセス 京阪電車出町柳駅下車 徒歩10分
     JR京都駅 市バス下鴨神社前 徒歩すぐ
<神歴・縁起> H/P  http://www.shimogamo-jinja.or.jp/
式内社 山城國愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗
旧官幣大社 山城國一宮
御祭神
東御本殿 玉依媛命
西御本殿 賀茂建角身命

 正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。東西の2殿の本殿はともに国宝です。 
{御祭神}西御本殿、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)東御本殿、
玉依媛命(たまよりひめのみこと)西本殿、賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。
山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。


{御神徳}賀茂建角身命は、農耕をひろめ民生の安定につとめられたことによって世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除。また、『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として表わされた御功績が伝えられているとおり、導びきの神として方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行、操業の安全等多方面に御神徳を顕わしておられる。
 御子神、玉依媛命は、『風土記』に御神威が伝えられている。婦道の守護神として縁結び、安産、育児等。また、水を司られる神として著しい御神徳を発揚せられている。
{賀茂建角身命・八咫烏伝承}『古事記』是(ここ)に亦、高木大神の命以ちて覚(さと)し白(まを)しけらく、「天つ神の御子を此れより奥つ方に莫(な)入り幸(い)でまさしめそ。荒ぶる神甚多(いとさは)なり。今、天(あま)より八咫烏(やたからす)を遺(つか)はさむ。故、其の八咫烏引道(みちひ)きてむ。其の立たむ後(あと)より幸行(い)でますべし。」とまをしたまひき。 『日本書紀』既(すで)にして皇師(みいくさ)、中州(うちつくに)に趣かむとす。而るを山の中嶮絶(さが)しくして、復行(またい)くべき路無し。乃ち棲遑(しじま)ひて其の跋(ふ)み渉(ゆ)かむ所を知らず。時に夢みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、天皇に訓(をし)へまつりて日(のたま)はく、「あれ今頭八咫烏を遺す。以て郷導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔(と)び降(くだ)る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さかり)なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。 伴信友『瀬見小河』一之巻高木大神と申は、高御産巣日神の又の御名なり、八咫烏すなはち建角身命なり、(略)、書紀に天照大神、古事記に高木神(高御産日神の又の御名)とあるは、
互に一方を語り伝へたるものにして、まことは天照大御神、高御産巣日神の御慮もて、神産巣日神の孫(みひこ)の建角身命を、豫て天降し置て、(高御産巣日神と神産巣日神とは、相偶(あひたぐひ)ませるがごとく、いとも奇(くす)しき御間(みなか)に坐ますにおもひ合せ奉るべし、かくて此二神の、建角身命の御祖に系りて、きこえ給へる氏々あり、因に下に拳ぐるをみて、それをもおもひ合せ奉るべし)供奉(つかへまつて)せ給へる由を、天皇の御夢に告覚(つけさと)し給へりしなり。 『尋常小学読本』巻五(二年生用)日本ノ一バンハジメノ天皇ヲ神武天皇ト申シ上ゲマス。コノ天皇ガワルモノドモヲ御セイバツニナツタ時、オトホリスヂノミチガケハシクテ、オコマリノコトガゴザイマシタ。ソノ時ヤタガラストイフ烏ガ出テ来テ、オサキニ立ツテ、ヨイミチノ方ヘ御アンナイ申シ上ゲマシタ。又アル時ドコカラトモナク一羽ノ金色ノトビガトンデ来テ、オ弓ノサキニトマリマシタ。ソノ光ガキラキラトシテ、ワルモノドモハ目ヲアケテイルコトガデキマセン。ソノ光ニオソレテ、皆ニゲテ行キマシタ。天皇ハ國ノ中ノワルドモヲノコラズオタヒラゲニナツテ、天皇ノオクライニオツキニナリマシタ。ソノ日ハ二月十一日ニアタリマスカラ、コノ日ヲキゲンセツト申シテ、毎年オイハヒヲイタスノデゴザイマス。【玉依媛命・丹塗の矢伝承】『続日本紀』風土記逸文 山城國 賀茂社山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)の御前に立ちまして、山代河の随(まにま)に下りまして、葛野河と賀茂河との合ふ所に至りまし、賀茂川を見迎(みはる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾(そ)の時より、名づけて賀茂と曰ふ。賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊したまひて、然して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、やがて酒杯(さかずき)を挙(ささ)げて、天(さき)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、
蓼倉の里の三井の社に坐す。 伴信友『瀬見小河』二之巻 丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり、(但し玉依日賣に婚給へる事を語はで、ただ鳴鏑神者也とあるは、うちつけなるここちす、もしくは阿禮か遺れて誦み脱せる事のありしにてやあらむ、)

 当神社がまつられたのは、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。『続日本紀』の文武天皇2年(698)には、
葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。 平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことが知られています。そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。 平安時代末期になりますと全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社をささえました。
鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きますが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわってご神徳を説いていくのもこのころです。
当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 
江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。
{創祀}創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇2年(BC658)2月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。
また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より
11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。崇神天皇7年(BC90)には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)され、
垂仁天皇27年(BC2)8月には、御神宝が奉まつられている。(『同書』)また、緩靖天皇(BC580)の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。
 入口近く、西側に第一摂社・河合神社が鎮座している。一応、境内社なのだが、そこらの神社に負けない規模の神社だ。
河合神社の祭神は神武天皇の母・玉依姫命。鴨長明がこの社の禰宜に任命されることになっていたらしい。
河合神社は、式内社・鴨川合坐小社宅神社に比定されている神社。
創祀年代は不詳。「社宅」とは本宮・賀茂御祖神社と同じ祭神ということらしく、
「鴨川合坐小社宅神社」とは、鴨川の合流する地に鎮座する
小さな賀茂御祖神社ということだろうか。
あるいは、本宮・賀茂御祖神社の社家、つまり祭祀する宅神ということか。
また、一説には河合神社を式内社・須波神社とする説もあるらしい。
神門をくぐると、6社を並べて祀られている末社がある。
もとは瑞垣内に別個に祀られていたが、江戸時代に一棟にまとめられた。
左から、由木社(少彦名命)、印社(霊璽)、竈社(奥津日子神 奥津比賣神)、
稲荷社(宇迦之御魂神)、衢社(八衢毘古神 八衢比賣神)、諏訪社(建御名方神)の6社。
この一番右手祀られている諏訪社が、通称・下ノ諏訪といい、式内社・須波神社の論社。神門の奥に河合神社の社殿があるが、
瑞垣の中、本殿の左手には任部社、古名・専女社(八咫烏命)と
賀茂御祖神社摂社・貴布禰神社(高龗神)が祀られている。
この任部社を本来の河井神社、つまり式内社・鴨川合坐小社宅神社とする説もある。もとは専女(稲女)の社として食物の神を祀っていたが、安元元年、(1175)小烏社と合祀された。
神門の向いに、朱の垣に囲まれて三井社、別名・三塚社がある。
祭神は、玉依媛賣(東社)、賀茂建角身命(中社)、伊賀古夜日賣命(西社)。
この三井社は、式内社・三井神社の論社。
鴨社蓼倉郷の総祖社として祀られていた社だという。
毎年5月に行われる当社の賀茂祭は、葵祭として有名だ。
境内・境外摂末社の中で以下のものが式内社(論社)となっている。
山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗
境内摂社出雲井於神社 建速須佐乃男命
境内摂社井上社(御手洗社) 瀬織津姫命
山城國愛宕郡 出雲高野神社
境外摂社御蔭神社 賀茂建角身命 玉依日売命
山城國愛宕郡 賀茂波爾神社
境外摂社賀茂波爾神社 波爾安日子神 波爾安日女神
山城國愛宕郡 末刀神社
境内末社愛宕社 火産霊神 奈良殿神 酒殿神
山城國愛宕郡 須波神社
境内摂社河合神社 玉依姫命
境内摂社河合神社諏訪社(下ノ諏訪) 建御名方神
境内摂社三井神社諏訪社(上ノ諏訪) 建御名方神
山城國愛宕郡 鴨川合坐小社宅神社 名神大 月次相嘗新嘗
境内摂社河合神社 玉依姫命
境内摂社河合神社任部社 八咫烏命
山城國愛宕郡 三井神社 名神大 月次新嘗
境内摂社三井社
賀茂建角身命(中殿) 玉依日売命(西殿) 伊賀古夜日売命(東殿)
境内摂社河合神社門前三塚社
賀茂建角身命(中社) 伊賀古夜日賣命(西社) 玉依媛賣(東社)
 神社辞典には
旧官幣大社。祭神は東本殿に玉依姫命、西本殿に賀茂建角身命の二座。社伝によれば神武天皇の代に、本社の重儀たる御蔭祭の奉仕される摂社御蔭神社の地(御蔭山)に降臨さられたとする。その後、天武天皇の6年(677)2月に下鴨の現地に社殿が造営されたとするが、本社は天平頃に賀茂神社(上賀茂)から分立したとする説がある。
社名が示す通り上賀茂に鎮座の別雷神の母神、外祖父神を祀り、子孫の賀茂一族が社家として他社を混じえず明治の新制度まで累代奉仕した。(中略)摂末社は河合・出雲井於・三井・賀茂波爾(以上式内社)・御蔭など29社をかぞえる。と記載されています。

南口 鳥居

楼門
 楼門(重要文化財) 楼門廻廊(重要文化財)
寛永5年造替、3間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺
重要文化財楼門廻廊
寛永5年造替、桁行16間、梁間6間、東西2棟、端切妻造、桧皮葺
重要文化財
高さ20m。東西の廻廊とも、古代様式を伝えている。21年ごとの式年遷宮ごとに造替されてきたが寛永度以降は解体修理をして保存されている。西廻廊の床張の一間は賀茂祭(葵祭)のとき勅使がここで剱を解かれる間(剣の間)である。楼門、東西廻廊とも、式年遷宮寛永5年度(1628)造替になった。

中門
 中門 寛永5年造替、四脚門、切妻造、桧皮葺
重要文化財
賀茂祭、遷宮、行幸等々のとき祀官の座となる。

舞殿
 寛永5年造替、桁行四間、梁間三間、入母屋造、妻入、桧皮葺
重要文化財
賀茂祭(葵祭)のとき勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所と定められている。式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、21年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。殿上は、宣命座の設置など柱間ごとに、細かく規定されている。

一言社 午      巳と未      丑と亥      子

一言社   辰と申      寅と戌      卯と酉
生まれた干支に因んだ一言社があります。


本殿
 文久3年造替、三間社流造、桧皮葺、東西二棟 国宝
神社建築の代表的な社殿形式である流造の祖型を今に伝える。亀腹の上に井桁を組む高床式で橋がかりを付す古代様式の遺風がみられる。本殿二棟はいずれも国宝で、東殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の両御祭神がそれぞれまつられている。

幣殿
寛永5年造替、桁行五間、梁間二間、入母屋造、中央軒唐破風、桧皮葺
重要文化財
『鴨社古図』によれば「幣帛殿」と「幣殿」は別棟となっている。また、『延喜式』斎王社参の条には、斎王の拝礼は幣殿向拝より先に西殿、次に東殿より行われている。幣殿向拝を「片半屋」と称し、西片半屋を「親王座」と称する拝所とされている。

神仏霊場 ご朱印

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