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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良12番 薬師寺

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薬師寺は納経で有名になった故高田好胤館長が長くその職を務められたことでも有名な寺院であります。
奈良県、鎮護の道
(25)南都七大寺 瑠璃宮
薬師寺(やくしじ)
住 所 〠 630―8563 奈良市西の京町457
電話番号 電話 0742―33―6001
本  尊 薬師三尊(国宝)
開 山 天武天皇(勅願)
創  建 天武天皇9年(680)
アクセス 近鉄大和西大寺駅乗り換え橿原線西の京駅下車 徒歩2分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.nara-yakushiji.com/
法相宗大本山 西国薬師49霊場1番 南都七大寺6番
神仏霊場 巡拝の道 第25番

 薬師寺は7世紀末、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
 『日本書紀』天武天皇9年(680)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位8年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位8年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。
すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位8年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。
持統天皇2年(688)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という
行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京8条3坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
 その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の6条大路に面した右京6条2坊(現在地)に移転した。
移転の時期は長和4年(1015)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平2年(730)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂、東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く。そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置は平城薬師寺においても踏襲されている。 
本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973)の火災と享禄元年(1528)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。
天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。
 平城京の薬師寺にある東塔及び本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。
11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の流記資財帳に
「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一氏らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。 
ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。
発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。
金堂本尊薬師三尊像については、記述の「持統天皇2年(688)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある一方、主に様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。
 20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建(従来は1600年再建説や1676年再建説などもあった)の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。昭和35年(1960)代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、昭和51年(1976)に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。なお、入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、寄棟造に改造され前部の庇が取り払われるなど、外観を大きく変えて現存している。

薬師寺 東塔        西塔
 東塔
国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1m(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。
屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1、3、5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。
仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。こうした特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という評語が使われる。
相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(さつめい、「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、平城京で新たに建てられたとする説とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730)に平城京にて新築されたとする説が有力である。当初、東塔、西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。
東塔の仏像達

釈迦苦行像
東塔初重内にはお釈迦さまの生涯を八つの場面で表した釈迦八相[しゃかはっそう]のうち、前半の四相(因相)にあたる塑像群像を安置されていましたが、破損した為に室町時代に取り払われその後木造の仏壇を構えられました。
 現在は、仏壇四方に江戸時代の四仏をお祀りし、四隅には平安時代の四天王像が安置されています。また、平成4年(1992)に大川逞一仏師による「釈迦苦行像」が奉安されました。

左より持国天、増長天、広目天、多聞天
西塔
東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は享禄元年(1528)に戦災で焼失し、現在ある塔は昭和56年(1981)に伝統様式、技法で再建されたものである。デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが修復で白壁にされた。一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそのような年月の経過を経験していないため、若干高く見えるとのことである。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一によれば、500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことである
塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に
あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われます。「青丹良し」とは奈良の枕ことばを意味するのです。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違いが多く見られまが、(例えば、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられています。)まさにその違いこそが1300年という歴史の流れを表しているのです。
西塔の仏像達
釈迦成道像、初転法輪像、釈迦涅槃像、弥勒如来像
 昭和56年(1981)に再建された西塔には、東塔と同じく釈迦八相のうち後半の四相(果相)にあたる諸像が安置されています。もともとは、塑像の形でお祀りされていましたが、享禄の兵火で西塔と供に焼失してしまいました。
 四体は沢田政廣仏師の手によって作成された釈迦成道像、
[しゃかじょうどうぞう]、初転法輪像[しょてんぽうりんぞう]、釈迦涅槃像[しゃかねはんぞう]、弥勒如来像で、毎年3月の上旬から中旬まで内陣が公開され、特別法要が営まれます。

左上:釈迦成道像、右上:初転法輪像
左下:弥勒如来像、右下:釈迦涅槃

金堂
 金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。
 金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、
そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。
金堂の仏像達
薬師三尊像 【国宝】 白鳳時代
 薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏様です。人間にとって死という一番恐ろしいものを招くのが病気です。体が動かなくなるのも病気なら、身の不幸、心の病も病気です。欲が深くて、不正直で、疑い深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばかり、これ皆病気です。応病与薬[おうびょうよやく]の法薬で、苦を抜き楽を与えて下さる抜苦与楽[ばっくよらく]の仏様。だから人々に仰がれ、親しまれ、頼られていらっしゃるのです。
 極楽は西にもあれば東にも
    来た[きた](北)道さがせ
      皆身[みなみ](南)にぞある
 西に阿弥陀様の極楽世界、東にお薬師様の浄瑠璃世界[じょうるりせかい]があります。けれども薬師如来は東方浄瑠璃世界だけが願うべき世界ではなく、西方極楽世界[さいほうごくらくせかい]へ往生したいと願う人には、薬師の名号を聞くことによって極楽世界へ導いてあげますよとおっしゃっています。その人その人にふさわしい浄土を願わし引導して下さいます。
 金堂内の白大理石須弥檀[しゅみだん]上に、中央に薬師瑠璃光如来、向かって右に日光菩薩[にっこうぼさつ]、向かって左に月光菩薩[がっこうぼさつ]がお祀りされています。薬師三尊のおわします内陣は長和4年(1015)に撰述された薬師寺縁起で「瑪瑙[めのう]を以て鬘石となし、瑠璃[るり]を以て地となし之を敷く、黄金を以て縄となし、道を堺し蘇芳[すおう]を以て高欄[こうらん]をつくり紫檀[したん]を以て内陣天井障子となす」とあり、まばゆいばかりの様相でした。まさに浄瑠璃浄土の世界です。

薬師三尊         台座
 薬師如来が座っておられる台座には、奈良時代における世界の文様が集約されています。一番上の框[かまち]にはギリシャの葡萄唐草文様[ぶどうからくさもんよう]、その下にはペルシャの蓮華文様[れんげもんよう]が見られます。各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人[ばんじん])の裸像が浮彫りされています。さらに、下框には、中国の四方四神(東に青龍[せいりゅう]、南に朱雀[しゅじゃく]、西に白虎[びゃっこ]、北に玄武[げんぶ])の彫刻がなされています。正にシルクロードが奈良まで続いていたのです。

大講堂
 昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門、回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式です。大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物です。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。特に薬師寺では平安時代に入ると南京三会[なんきょうさんえ]の一つ最勝会[さいしょうえ]の道場となって、勅使[ちょくし]を迎えた法会が毎年盛大に営まれました。最勝会では持統天皇が持統6年(692)に天武天皇の菩提を弔うために奉安した高さ3丈(8,9m)、広さ2丈1尺8寸(6,5m)の阿弥陀浄土を写した大繍仏像が正面に祀られました。金堂の本尊薬師如来像が持統天皇の病気平癒の願いを込め天武天皇が発願されたのはよく知られるところで、いわば薬師寺白鳳伽藍は、天武・持統二代の天皇の夫婦愛が、それぞれ金堂と大講堂にこめられているのです。大講堂は現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取り入れながら伝統工法による復元建築で、最大級の建物です。薬師寺白鳳伽藍の雄大さを象徴しています。
 大講堂の仏像達
弥勒三尊像 【重要文化財】 白鳳〜天平時代
 薬師寺は法相宗の大本山です。その法相宗の唯識教義[ゆいしききょうぎ]を説かれた弥勒仏[みろくぶつ]をお祀りするのが本来の在り方です。
天平時代には西院正堂[さいいんしょうどう]のご本尊は弥勒浄土[みろくじょうど]相の障子絵でした。またその北側には玉華寺[ぎょっかじ]の玄奘三蔵の御影像も安置されていました。玉華寺とは玉華宮殿を玄奘三蔵の経典翻訳所として改めたもので、地上の兜率天宮[とそつてんぐう]とも呼ばれました。大講堂に安置されている弥勒三尊は、近世の早い頃から西院弥勒堂の仏様でした。向かって右は法苑林菩薩[ほうおんりんぼさつ](左脇侍)で、左は大妙相菩薩[だいみょうそうぼさつ](右脇侍)です。ところが江戸時代になって講堂を再建するために、もとの講堂本尊の阿弥陀繍帳にちなんで阿弥陀三尊と名称を変えてお迎えし、さらに明治以降は、本薬師寺旧仏とのからみから薬師三尊と名称を変えてお祀りしてきました。しかし、平成15年(2003)に大講堂が復興されるに当たって、法相宗の薬師寺にふさわしく、もとの西院弥勒堂のご本尊の由緒を継いで頂くとともに、本来の正しい尊名にお戻り頂くことになりました。
 今後は、大講堂ご本尊を「弥勒三尊」として親しんでお参り頂き、また大講堂を唯識教学の真の研鑚道場[けんさんどうじょう]として活用していきたいと願っております。

弥勒三尊
仏足石、仏足跡歌碑 【国宝】 天平時代
お釈迦さまがお亡くなりになって、約3〜400年間はインドには仏像がありませんでした。これは仏さまを形に現わすのは勿体ないことであるとの考えからで、 そのかわりに、仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹[ぼだいじゅ]や法輪に祈りを捧げてきました。この仏足石は側面に記される銘文により、
インドの鹿野苑[ろくやおん](お釈迦さまが初めて法を説かれた所)の仏足石をもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石です。
 仏足跡歌碑は、仏足に対する礼讃[らいさん]と生と死の歌が刻まれています。歌の調べは「五七五七七七」で、一首が三十八文字の仏足跡歌体です。一字一音の万葉仮名を使って21首の歌が刻まれ、仏足石に対する天平人の感動が素朴に詠まれています。

仏足石
釈迦十大弟子
 2500年程前インドでお釈迦さまやその多くのお弟子さまが、日々厳しい修行をされていました。中でも優れた十人が釈迦十大弟子です。苦行の末に羅漢となられたその心や人格、精神性等を具象の像とし、お姿は原初形態で制作し奉納されました。平成の世に十大弟子の存在や魂が甦ったのです。仏足石を中心にお釈迦さまと語らうが如くに安置されたこの像を拝む時、十人の様々な生き方が時空をこえて良き先達[せんだつ]として私たちに示そうとされる、そんな慈悲心が伝わるように思われます。平成14年(2002)に彫刻家中村晋也師よりご奉納頂きました。

釈迦十大弟子

東院堂
 東院堂は、養老年間(717〜724)に吉備内親王[きびないしんのう]が元明天皇[げんめいてんのう]の冥福を祈り、建立されました。奈良時代は現在地の東側に建てられていましたが、天禄4年(973)の火災で焼失しました。
現在の建物は正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、弘安8年(1285)に南向きで再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに変えられました。高い基檀の上に建つのは、水害・湿気を避けるためであり、鎌倉時代後期の和様仏堂の好例です。堂内には、白鳳仏を代表する国宝 聖観世音菩薩が安置され、その四方は鎌倉時代の四天王像が守護しています。
 東院堂の仏像達
聖観世音菩薩像 【国宝】 白鳳時代
 心の目で見ることを「観[かん]」といいます。色なき色を見、音なき音を聴く、これが「観」です。この観の働きをもって私たちの悩みや苦しみや悶えをお救い下さるのが観音菩薩です。聖観世音菩薩は日本屈指のお美しいお姿の観音さまといわれ、薄い衣を召し、その衣の美しい襞の流れの下からおみ足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものです。

聖観世音菩薩像
 四天王像 鎌倉時代
四天王は、古代インドの神を仏教に取り入れたもので、護法神として須弥山[しゅみせん]の四方に配されたことから、須弥檀の四方に安置されています。この神が中国に入って、古代中国の四方四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の信仰と融合して、顔の色に青、赤、白、黒の色彩をほどこすようになりました。
聖観世音菩薩の四方には、持国天[じこくてん](東)、増長天[ぞうちょうてん](南)、広目天[こうもくてん](西)、多聞天[たもんてん](北)の四天王像が安置されています。多聞天台座銘より、正応2年(1289)に像造、ついで永仁4年(1296)に彩色が完成したことがわかります。檜の寄木造りで玉眼が嵌[は]め込まれ、大形で誇張的な衣の翻りや邪気の形態の表現、盛り上げ手法をまじえる彩色など、鎌倉時代の特色を示しています。

四天王像の内 広目天

玄奘三蔵院伽藍
 玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602〜664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えでした。
その教えの流れを継承している宗派が法相宗です。
現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たります。昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。
 玄奘三蔵院の仏像達

玄奘三蔵像
 玄奘三蔵院の玄奘塔に祀られている玄奘三蔵像は、大川逞一仏師の手によって作成されたものです。右手には筆を、左手には貝葉(インドのお経)を手にしており、天竺からの帰国後、経典の翻訳作業中の玄奘三蔵の姿をモデルにしたものとしています。

中門
 中門は昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興されました。その年、10月8日の落慶法要の時にはお扉だけを開きました。そして、その後昭和天皇さまが奈良で開催された「わかくさ国体」の開会式(10月10日)にお出ましになられ、その翌日に初通りを願える事が出来ました。また、平成3年(1991)には二天王像も復元されました。回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされていますが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが特徴です。現在すでに第三期までが復興工事を完了しています。

吉祥天女画像 【国宝】 奈良時代
 吉祥天女[きちじょうてんにょ]は福徳豊穣の守護神として崇敬され、この吉祥天女の前で年中の罪業[ざいごう]を懺悔[さんげ]し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過[きちじょうけか]の本尊として祀られています。
 薬師寺では正月に行う法要 修正会[しゅしょうえ]が吉祥悔過法要にあたり、宝亀2年(771)以降行なわれています。毎年1月1日〜15日まで、その期間中の薬師寺ご本尊として金堂薬師三尊像の御宝前にお祀りされます。
 この吉祥天像のお姿は光明皇后[こうみょうこうごう]を写したと伝えられ、麻布に描かれた独立画像としては、日本最古の彩色画です。
薬師寺=吉祥天女画像?何か学生時代に習ったような、切手の図案にもなったような気がしてます。少し小太りと云うかふくよかな体つきと云うか、今でも似た感じの女性も居られるのではと思いますが?


二天王像
 平成3年(1991)に復元復興された二天王像は、享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失しました。その後約400年復興をみることがありませんでしたが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像ということが判明しました。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考に致しました。

神仏霊場 ご朱印

                       境内奥にある不動堂

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