ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良3番  興福寺

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
奈良公園内と云っても過言ではない位置にある古い寺で平城遷都時代に建立された寺院である。
奈良県、鎮護の道
(16)南都七大寺
興福寺(こうふくじ)
住 所 〠 630―8213 奈良市登大路町48番地
電話番号 電話 0742―22―7755
本  尊 釈迦如来
開 山 藤原不比等
創  建 天智天皇8年(669)
アクセス 近鉄奈良駅下車 徒歩10分 奈良公園内
<寺歴・縁起> H/P  http://www.kohfukuji.com/
法相宗大本山 西国33所9番(南圓堂)西国薬師49霊場4番(東金堂)
南都七大寺2番 神仏霊場巡拝の道16番

 藤原氏の祖である藤原鎌足(614〜669)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659〜720)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。
この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
 興福寺は奈良時代には4大寺、平安時代には7大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には100ケ院以上を数えたが、
中でも天禄元年(970)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087)隆禅の創立した大乗院は皇族や摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉、室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土、桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
 興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。
この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。
明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。
子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。
一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた。行き過ぎた廃仏政策が反省されだした明治14年(1881)、ようやく興福寺の再興が許可された。明治30年(1897)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。
 興福寺には明治維新まで子院として興福寺両門跡寺院と呼ばれた門跡寺院があった。一乗院と大乗院の両門跡寺院である
一乗院は天禄元年(970)定昭の創立、大乗院と共に摂関家の子弟が入室した。
大乗院は寛治元年(1087)隆禅の創立、一乗院と共に摂関家の子弟が入室した。
日記『大乗院寺社雑事記』が現存する。


南圓堂
 南円堂(重文)は弘仁4年(813)、藤原北家の藤原冬嗣が父、内麻呂追善のため創建した。現在の建物は寛政元年(1789)の再建である。
創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国33所の9番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである。

東光堂
 東金堂(国宝)は神亀3年(726)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。治承4年(1180)の兵火による焼失後、文治3年(1187)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。西国薬師4番札所。

東金堂内陣

神仏霊場 ご朱印  西国33所 御詠歌ご朱印

阿修羅像
 この優しい面持ちの阿修羅像は、本来の阿修羅王は、この像から想像するような優美な神ではありませんでした。
 古代インド神話の阿修羅王は、帝釈天を向こうに廻して、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされています。
興福寺の阿修羅像は、この神が釈迦の教化によって仏法の守護神となった姿で、天界を暴れ廻る鬼神のイメージはありません。
しかしこの像をよく見ると、例えば、やや眉根を寄せた悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいものが秘められているように思えます。
この神秘な表情は、荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。
まさにその通りで、恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。
一般に仏像は、男でも女でも無いそうです。
特にこの阿修羅像は、少年か少女のような清純な優しい顔になっています。
また、子供から大人になっていく途中ともいわれています。
しかし、清純はともかく、やさしいと言うのは正確ではないようです。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング