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文学哲学読書会コミュの『シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想』

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コミュ内全体

従来の研究では、20代の熱心な政治活動や組合活動に取り組んでいたヴェイユと、晩年の宗教的傾向の強いヴェイユとはまるで別人のようにみられていた。ミシェル・ナルシーやミクロス。ヴェート(翻訳者である今村はヴェトーと表記)ら80年代のヴェイユ研究では、ヴェイユが元来もっていた宗教哲学が成熟したものとして、首尾一貫性が唱えられるようになった。ヴェートはヴェイユの伝記的事実と彼女のテクストを切り離して考えるべきという態度をとっているが、彼女が純粋に形而上学的な意味にでテクストを書いていたのは、学生時代とマルセイユ時代の数年間だけであり、純粋に哲学的とは言えないテクストを非常に数多く書いている。彼女が哲学的思考を重ねつつも、一貫して何らかの社会的な活動を続けており、思弁や内省の記録を残すことも、人々に現実を変えるよう訴えかけることも、彼女は同一の動機から行われていたのではないか。したがってヴェイユの活動を細分化することなく、彼女の生涯を貫いている唯一の内的動機は何かを突き止めることが重要である。その際「犠牲」の観念に注目する。この観念こそヴェイユの生涯において一貫して現れ続け、宗教、政治、哲学、諸宗教研究など彼女が書いたほぼ全ての分野に置いてみられるものだが、しかしある時期を境に意味内容が変化する観念だからである。h

コメント(15)

ヴェイユは「犠牲」という言葉を否定的な意味で使っている場面もあるが、肯定的にも使っている。例えば『根をもつこと』では「危機に瀕した集団に対する義務は、全面的な犠牲にまで到ることがある」ここで危機に瀕した集団とはドイツに占領されたフランスを指す。革命にも平和運動にも絶望し、後悔や悲嘆に暮れたままのヴェイユではない。それは失われたフランスのため静かなしかし決然たる決意をもって新たな姿勢で向かおうとしているしか言いようのないヴェイユの姿である。このような変化の背景には何があったのか。
第一の要因としてあげられるのは、工場労働を通じてヴェイユに「奴隷」と「不幸」という新たな観念が生まれ、その過程で社会的公正に対する怒りや憤りが彼女の内部で悲嘆へと変化したことである。第二の要因としては、1930年代の終わりにヴェイユが、全体主義に対して自ら信奉していた絶対平和主義が全く無力であったことを思い知らされ絶望したことがあげられる。第三の要因としては、1930年代半ばに労働体験やスペイン市民戦争などによってヴェイユが肉体的・精神的疲労を負い、その中でカトリックとの神秘的接触をしたと言うことがあげられる。
キリスト教に対するヴェイユの態度は、キリストの受難のみに注視し、復活については無関心だった。すなわち彼女はイエス・キリストの「犠牲」にしか注目せず、イエスが死後復活して栄光の座についたとする「栄光のイエス・キリスト」に対して批判的だった。さらにキリストの「犠牲」は地域・時代を問わず遍在する数多くの「犠牲」にひとつにすぎないと断定する。ヴェイユにとってキリストの受難は時代・地域を問わず繰り返される現象であり、エジプト神のオシリスや古代ギリシアのプロメテウス、アンティゴネー、旧約聖書のノア、ヨブ、インドのクリシュナとラーマなどは、キリストと同等の価値を持った救済主的存在、キリストがさまざまな姿形をもってさまざまな地方や時代に現れたそのあらわれなのである。
ヴェイユは1938年の神秘体験後、さまざまな民間伝承・神話の研究に熱心に取り組んだ。すなわち彼女は、キリストとの出会いの後、キリスト教神学的知識を吸収することでその出会いを正統的キリスト教教義の枠組みでとらえ、より深めようとするのではなく、あえてキリスト教文化圏から離れてその外側から自らの神秘体験を客観化し、自らの宗教体験が何らかの普遍的な意味を持ちうるのか探る試みをしたのである。
社会における犠牲
ヴェイユは犠牲について語るときに、まず偽りの犠牲として集団(全体主義的国歌、宗教団体、政党など)に殉ずる自己犠牲を批判していた。ヴェイユはキリスト教体験や神父らとの交わりを経ても、カトリック教会に属することで生じる党派精神に対する嫌悪から、洗礼を受けないという意志を持ち続けていた。ヴェイユは宗教、政治を問わず、党派精神による偶像崇拝によって生じさせられるのが偽の犠牲であるという。
しかし他方で、自分の属する集団が他の集団との間の緊張関係に陥った際に、自分の集団を守るために個人が自己犠牲を払うことは義務であるという主張もしている。
ヴェイユは人間が「自然圏」と呼ばれる複数の多様な共同体もしくは集団に属すること、そして祖国はそのひとつにすぎないと言っている。一つの圏が成立していく過程には必然的に周辺の政治的・経済的な弱小地域への征服が行われ、それらの地域文化が消滅していくことは避けられず、そうした制服行為は時代を問わず悪であるとヴェイユはいう。そしてヴェイユはいう。われわれは今ある一つの「自然圏」としての祖国のあり方を保存していくしかない。この圏は現に存在している。そして、それは確かに善を含んでいるのであり、それゆえに、その善を尊びつつ、できる限りあるがままの形で、宝として保存されねばならない。祖国が過去に起こした悪は、部分的にしか償えないが、国内的にわれわれができることは、現在の枠組みの中で多様な自然圏としての地域文化を中央からの援助によってかなう中限保存することである。
ヴェイユにとってドイツ占領下に入った1940年以降のフランスのために、住民が「祖国救済の義務」をすなわち犠牲を負わなければならないことは自明のことだったのである。
さてヴェイユにとって愛国心とはどのようなものであったのだろうか。「これまでの愛国心とは異なる愛国心が必要である」とヴェイユは述べている。ヴェイユによれば愛国心は2種類あり、一つは国家の偉大さを賞賛するものであり、これは偶像崇拝ともいうべきものである。もう一つはむしろ敗北を喫した祖国の弱さに目をとめ、これを愛するべきだという。前者の愛国心が、盲目的な国家的強震を生む興奮剤であるとするならば、後者の愛国心は、正義や隣人への義務といった絶対的な観念に従属する善に基づいた精神のあり方であるという。

さらに彼女は「愛国心」と呼ばれるものを通じて、より大きく高次のものへの愛に人は目覚めることができると考えた。「愛国心を通じて祖国よりも高次の善に対する愛をめばえさせ、それを育て上げるような行動に進むとき、その魂は殉教者たりうる資格を獲得し、祖国はその利益を受けることになる」
ヴェイユは弱い祖国への愛国心のような比較的低次元の愛から「善への愛」のような高次の愛へと至る可能性は必ずあると考えており、その実現は社会において目指されるような目標ではあるのだが、それはまさにこの世の必然を超えねばならない事柄の一つであり、その意味で実は超自然的な出来事に属しているとみなしている。
法は公平性を守るために設けられたものであり、狭義の正義の精神である。一方愛は特定の具体的な対象としてのある他者を厚遇する態度であり、公平とはいえず、法の範疇には入らない。法がよって立つ正義の精神と、愛の精神とは一般的には一致しない。しかしヴェイユはいう「人々の間に愛の狂気がある限りにおいて、正義の意味上の変化がある」「正義の精神は愛の狂気の最高完全な精髄そのものである。愛の狂気は、共苦をして、偉大さ、栄光、名誉以上の強い動機、戦闘を含む全ての行為の強い動機とする」

ヴェイユのいう正義とは、力の関係を超えて他者と共に苦しむことに同意すること、他者のため自分の不利益にもなり得る行為をすることに自発的に同意することである。この同意は、「愛の狂気」によってはじめて可能となり、そして他者への義務はこの「愛の狂気」によってなされた同意によって初めて可能となる。「愛の狂気」を経て、愛徳と正義は完全に一致するものとなるのである。P202-203

では「愛の狂気」とは具体的に何であろうか。ヴェイユは全ての行動における唯一絶対の基準とは「この世のものではない他の世界にある前」であるという。義務とはその絶対前に直接依拠するものであるから、したがって場所・時を問わず正当性を有するのであり、「義務は無条件」なのである。この宇宙に人間が唯ひとりしかいないとしても義務はあるとヴェイユはいう。
「最前線看護婦部隊編成計画」これはヴェイユが善への愛に目覚めた人間による真の犠牲の行為として考えたものである。これは「戦場のまっただ中で応急処置ができるようなもっとも危険の多い場所に10人ほどの看護婦の一団を派遣する」ものである。前線には一般の軍医や衛生兵がいるから不必要と考えられ、ド・ゴールからは狂気の沙汰といわれたものである。ヴェイユは、ナチス快進撃の背後にヒトラーの悪魔的発明ともいえるSSのような特別な部隊の働きを見、彼らが広告塔となってナチスの宣伝をしたり、人々の想像力をかき立てて敵国に対する闘争心を煽ったりしてそれが大きな成果を上げていることに危機感を抱いていた。そしてヴェイユはこのSSに負けないような何らかの精神性をもつ組織をフランスも創設すべきであると考えた。SSの精神を「宗教信仰の代理物である偶像崇拝の精神」であるのに比較すると、最前線看護婦部隊は同じように宗教的ではあるものの「どこまでも真正で、純粋な」精神に基づくものであるとヴェイユはいう。
ヴェイユ自身はこの計画が傷病兵の命を救うという実効的な効果を果たすことに対してはさほど期待してなかった。「こういう婦人部隊の存在は、戦いに参加している国々、戦いを目撃している国々において、広く一般に少なからざる深い感動をもたらすことであろう。その象徴としての重要性が、どこにおいても痛感されることだろう」と述べている。ヴェイユが彼女たちに期待しているのは、専門的医療行為よりも、彼女らの機動性、また何よりも常に最前線にいて担架兵が到着するまで傷ついた兵士のそばで精神的な支えとなることである。彼女たちの勇気、覚悟を目の当たりにした兵士たちに与える精神的な効果の方こそが、医療行為よりも重要であるとヴェイユは考えていたのである。
ヴェイユは自己の労働を通して「社会的人格を失うこと」を経験した。同じように社会的人格を失ったものとして、彼女は「キリスト、奴隷、窃盗をした浮浪者、村の白痴、労働者、群衆」をあげている。「極度の不幸とは、肉体の苦痛と、魂の苦悩と、社会的人格を失うことが同時に生じていること」と述べている。社会的人格を失った人々がはたして「人格」などと言うことができようか。
ヴェイユは人格に代わってわれわれが尊重すべき対象として「人間の中の非人格的なもの」を提示した。具体的には「悪による打撃が心のうち奥に引き起こす驚きと苦しみの叫び」であり「人からよくされたい。苦しめられたくない」という願いである。これらの叫び、願いは全ての人たちに共通で同一な普遍的要素であり、われわれが近代以降、人間の中の弱く惨めな部分として理想的な自画像から切り捨ててきた部分でもあるから、反「近代的自我・人格」とも言える。
ヴェイユはひとりの人間の中にある「非人格的」な部分を「聖なるもの」と言い、それに対して尊敬の念を抱くよう訴えた。
「ありとあらゆる人間は、中心に善への希求をもちその周囲に精神的な素材と肉体的な素材が配置されているものと考えられる限り、絶対的に同一である」
すなわちヴェイユは、人間における普遍的な部分を「善への希求」およびそれを取り巻く「精神的・肉体的な素材」として提示し、この部分こそが人間の非人格的部分、聖なる部分であり、またわれわれが尊敬を払うべき部分だと考えようとしたのである。ヴェイユが人間における「非人格なもの」として示したのは、全ての人に普遍的に存在する善への希求と生命維持の欲求であった。
続いてヴェイユは権利の概念に対して批判をする。フランス人権宣言は『人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また存在する』と宣言したが、ヴェイユは「空中に宙づりになっていて大地にしっかり根付いていない概念」と批判する。ヴェイユはなぜ権利概念を批判するのか。それは第一に権利が人格と深く結びついた概念だからである。ロックに代表される近代的権利概念は、人格を持つ人間を前提とし、それが平等な所有権を有すると定めることによって、人格を持つ人間の『平等』を自明のこと、すなわち自然状態として提示した。だがヴェイユにとっての問題は、社会的人格を喪失している人がこの世には存在すると言うことであり、彼女の出発点は『不平等』を社会の自然状態と考えることである。そのようにして初めて、われわれはどのようにしたら人格を喪失した不幸な人にも公平な敬意を払いうるか、そのためには社会の方向性をどのように定めるべきかという問題意識が共有される。

そのようにして「義務の観念は権利の観念に優先する。後者は前者に従属し、依存する」という『根をもつこと』の緒言につながっていくのである。っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっg
>>[11]

今日の日本においては義務の観念を権利よりも優先することに不安を感じます。プラトンの中には正義の観念はあっても権利の観念が無いようです。ヴェイユにおいて正義と義務の関係はどうなっているのでしょう。
>>[12]
>>{6}「これまでの愛国心とは異なる愛国心が必要である」とヴェイユは述べている。

いわゆる国家主義的な者に対しては偶像崇拝とヴェイユは批判しています。
>>[13]

ヴェイユはプラトンを非常に高く評価しています。そのプラトンの書いた「クリトン」では不正な裁判に対してクリトンが友情から脱獄を勧めますが、国家と法に従って、ソクラテスは逃げません。当時のアテネと法を理想国家や理想的な法のように語ります。ヴェイユがこの対話篇をどう読んだか知りたいと思いました。ちなみに、ポッパーはプラトンが哲人王などのモデルが全体主義へつながる思想家として否定しているようです。
タイトルに著者名を入れるのを忘れてました。鈴木順子:シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想 です。

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