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文学哲学読書会コミュの「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ

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コミュ内全体

岩波文庫で新訳が出たそうです。それはおいといて。

この本はいろいろな読み方ができると思いますが、私は政治の本質について述べた本として読めました。
「政治」とは何か?それは人が人を動かすことです。(想像上の)原始共産制から近代の共和制、ファシズムに至るまでその本質は変わりません。
なぜ労働者の味方であるはずの政党が、資本家の代弁者である保守政党に勝てないのか?なぜ官僚主義が生まれるのか?なぜ目的を同じくしているはずの仲間が憎み合うことになるのか?なぜ左は毛沢東から右はヒトラーまで個人崇拝(偶像崇拝)が生まれるのか?

ヴェイユは、労働運動への参加やスペイン戦争の体験から、独自の政治哲学を生み出したのではないかと思うのです。

コメント(14)

「重力―一般的に言って、私たちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが〈偶然に〉一致することがあるが、多くの場合一致しない。」田辺訳 ちくま学芸文庫 p9

わたしたちが選挙に行って、誰に投票しようかと考えるときはもちろん、例えば町内会で誰にこの係を頼もうか、あるいは引き受けるかを考えるときでもこの現象は起きていると考えられる。非民主的な統治機構の元で嫌々ながらに従わなければならないときにも、この現象は起きていると考えられる。
「同じ苦痛を堪え忍ぶのにも、低い動機からそうするよりも、高い動機からそうする方がはるかにむずかしいということが真実ならば(一個の卵を手に入れるためとあれば、午前一時から八時までじっと動かずに立ったままでいられた人たちよりも、ひとりの人命を救うためとなれば、なかなかそんなことはできなかったであろう)、さまざまな点からみて、おそらく低い徳の方が高い徳の方よりも、数々の困苦、誘惑、不幸の試練によく堪えることだろう。ナポレオンの兵士たちのこと。だから、兵士たちの士気を保ち、また昂揚するためには、残酷な行いもやってみなければならなかった。気力の衰えたときに、このことを忘れないこと。
これは、一般に低いものの方に力がかかるという法則の、ひとつの特殊例である。重力はいわばその象徴だ。」

例えば、大きな善のために小さな悪は必要であるという、オウム真理教が示した行動原理はこのヴェイユの示したように解釈できるのではないか。悪をなすために何度となく繰り返されたことである。
「自分が苦しんでいるのと同じ苦しみを、他人が全くそのままに味わっているのをみたいという欲望。だからこそ、社会的不安定の時期は別として、悲惨な境遇の人々は、その恨みを自分と同じ境遇の人々の方に向けるのだ。
このことが、社会的安定のひとつの要因となっている。」 p16

ここに重力の働きが現れている。そしてなぜ社会が重力に引きずられているのかが明らかにされている。
「創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動からできあがっている」
「恩寵とは、下降運動の法則である。」

恩寵を受け入れるためには真空に堪えなければならないとヴェイユは言う。しかしながらヴェイユはこうも言っている。「恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、想像力はたえず働きかけている。」

恩寵ははたして無条件によいものなのだろうか?を受け入れられるためにはそれなりの覚悟と「命がけの飛躍」が必要なのではないのだろうか。
善とは何か?重力の法則に絡め取られた人間に善の可能性はあるのだろうか?

「まことの善は、ただ外部からくるので、わたしたちの努力によってもたらされるものでは決してない。わたしたちはどんな場合にも、自分より以上によいものをつくり出すことはできない。だから、実際に善に向かって努力をつくしてみても、それが実を結ぶはずがない。長いむなしい緊張の果てに、ついに絶望におちいり、もはや何ひとつ期待しなくなったときに、外部からふしぎとも驚きとも言うべきことに、賜物がやってくる。」 p81

徹底した他力本願の上に恩寵は下りてくるのだというのだろうか。
「偶像がないときにはまず、毎日、あるいはほとんど毎日、真空状態のままで苦しみぬかなければならない。超自然的な糧もなしに、そんなことができるはずがない。
だから、偶像礼拝は、洞窟内では、生きていく上にぜひ必要なものである。偶像礼拝におちいると、最良の人たちの場合でも、知的理解力や善意がせまく限られてくるが、それはやむをえない。」 p104

偶像礼拝の原理。

「偶像礼拝が生じるのは、絶対的な善を渇望しながらも、超自然的な注意力をもたず、それが育ってくるのをじっと忍耐づよく待てないというところからである。」

注意力はヴェイユを理解するための重要なキーワードである。
>>[1]

ここで重力と呼ばれているのは、決して私たちお互いが自ら意識しているようなものではなく、身心の深いところで、本当はその人が何に重きを置いているかということだろうと感じました。
>>[2]

>例えば、大きな善のために小さな悪は必要であるという、オウム真理教が示した行動原理はこのヴェイユの示したように解釈できるのではないか。悪をなすために何度となく繰り返されたことである。


僕はむしろ高邁な理想の駆動力よりも、恐怖の支配や教団内での出世欲のほうが本当の重力として働いていたのではないか、と感じました。
>>[3]

>悲惨な境遇の人々は、その恨みを自分と同じ境遇の人々の方に向ける


あまりに境遇が違いすぎる人たちには向かわない恨みが、似たような境遇の相手にほど向けられる。
嫉妬は少しでもその境遇から脱しつつある人にほど、激しく燃え上がる。
「悪が清められなければならない―そうでないと、生きていくことは不可能だ。ただ神のみに、このことができる。これが、『ギーター』の思想である。またモーセやマホメットやヒトラー主義……の思想である。
だがエホバやアラーやヒトラーは地上の神々である。かれらが行う清めは、想像上のものである。」 p130

『自由と社会的抑圧』でヴェイユは労働運動に関わりながら初期からマルクス主義に批判的であることがわかります。アナーキズムに対しても希望は持てません。

「相反するものの一致のよくない場合。マルクス主義のおかげで伸びてきた労働者の帝国主義。解放されたばかりの奴隷の横柄さについてはラテン語のことわざがある。横柄さと奴隷根性とは、仲良くそろってひどくなって行く。まじめなアナーキストたちは、相反するものの一致の原則をおぼろげに望みみて、非抑圧者に権力を与えれば,悪を破壊しうると信じた。不可能な夢。」
>>[10]
お返事が遅くなりましたが、吉本隆明が地下鉄サリン事件後も麻原彰晃を修行者として評価していたことが気になっているのです。吉本が高く評価した麻原の「生死を超える」を読んでみたいところですが、家族の手前アマゾンに発注できないでいるのです。

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