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くるみわりコミュの案山子とココアとドミノ倒し

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雨×ぴんくのウサギだよ

交換小説です。


ルール
◎1つの小説を、2人で交互に書く
◎コメント欄に一件ずつ書く
◎各コメントは200文字以内
◎〆切は特になし

タイトル
「案山子とココアとドミノ倒し」

コメント(64)

1階に着いた森宮は、誰もいないロビーで煙草に火を点けた。
「『きっといつか、僕と貴方は再会しますから』か……」
藤崎に会いに行くつもりだったが、少し怖気づいた。
1人で彼の部屋に向かう勇気が出ずに、ただ煙草を銜えていると、エレベーターが動き出した。誰かが下りてくる。
森宮は慌ててエレベーターから離れ、カウンターの裏に身を隠した。

エレベーターから降りてきたのは、高校生ぐらいの女の子だった。しかし彼女が高校生である筈がない事に森宮は気づいた。何故なら、2年前に会った時に彼女は既に高校三年生だったのだから。
彼女の名前は湯浅佑奈。伊部や渡辺の同級生だ。
森宮は、咄嗟に隠れてしまった事を後悔した。急にカウンターの陰から人が現れたら驚くだろうし、怪しむだろう。どうすべきか悩んでいると、またエレベーターが動き出した。
湯浅佑奈はエレベーターに駆け寄った。森宮がとったのとは正反対の行動だった。

エレベーターの扉が開く。
「うそ……なんでアンタが此処に居るの?」
降りてきたのは伊部陸光だった。
「湯浅?お前こそ、何で此処に?」
「もしかして……私を殺す為?だから伊部が此処にいるの?」
「は?あ、そうだお前、ルームキー貰ったよな?何号室だった?」
「やっぱり!私を殺すつもりでしょ。」
森宮からしても、二人の会話は今一つ噛み合っていないように思えた。
ただその理由は2人のミッションに関係していた事が、この後の二人の会話から分かった。湯浅のミッションはこのホテルの宿泊者名簿を作る事。ただし、誰かに本名と部屋番号を知られたらゲームオーバー。つまり本名を知られている伊部は、彼女にとっては脅威なのだ。そしてそれは森宮にも言える事だった。一方の伊部は、部屋番号で人を殺せる機械を持っており、それで殺人犯を殺す事がミッションだった。だとすれば伊部は少しでも多くの人の部屋番号を把握しておきたいだろう。直ぐに湯浅に部屋番号を訊いた事も頷ける。
そして森宮は、決して気が付きたくなかった事実にも気付いてしまう。伊部が森宮の部屋番号を訊き出したのは、彼を頼っていたからではない。彼を殺す為なのではないだろうか。勿論まだそう決まったわけではない。ただ湯浅と触れ合う伊部を見ていると、さっき5階で会った時の伊部は、演じられた別の人格だったように思えてしまう。

一方の湯浅は、違った着眼点から伊部に問い掛ける。
「待って!それが伊部のミッションって事は、このホテルの中には殺人犯が居るって事?」
「まあ、そういう事になるな。」
「ねえ、伊部はこのホテルで私以外に誰かと会った?」
「ああ、会ったよ。」
伊部はそれ以上詳しくは言わなかった。
「お前は?」
「私も、ホテルに入った時に一人だけ会った。とても殺人犯には見えない人だったけど。」
「まあ、殺人犯って見た目で判るものじゃあないだろ。まあ安心しろ。殺人犯探しは俺のミッションだ。俺がちゃんと解決してやるよ。」
伊部はそう言って、満足気に電卓のような機械を撫でた。
その時、またエレベーターが動き出す。

湯浅は、そんな伊部に冷たい口調で答える。
「アンタさあ、あの時もそんな事を言っていたわよね。」
「あの時?」
「そう。渡辺恵理香が死んだあの時よ。あの時も『恵理香の残したダイイングメッセージを見たのは俺だ。だから俺がその謎を解き明かして、恵理香を殺した犯人を暴いてやる』そう言いふらしていたわよね。」
エレベーターの扉が開く。中から降りてきたのは三崎だった。
「そうだ。あのダイイングメッセージも今回のミッションも、俺に与えられた使命なんだよ。」
「でも結局、アンタはダイイングメッセージの意味も分からずじまいだった。」
「でも今回は―」
「無理だよ、アンタには。アンタは、あの時から全く変わらないわね。」
湯浅はそう言うと、気配に気付き三崎の方を向いた。
「あ、三崎さん!」
「何?知り合い?」
「あ、初めまして。406号室の三崎です。」
これで伊部は、森宮と三崎の少なくとも2人の部屋番号を知ってしまった事になる。

そこから今度は、三崎を交えて3人でミッションについて話し始めた。三崎のミッションは『案山子とココアとドミノ倒しのルームキーを集める』事らしいが、それ以上に気になったのが、何故か三崎が湯浅の事を「千秋」と呼ぶ事だ。ゲームオーバーを恐れた湯浅が、偽名を名乗ったのであろうか。

そして三崎と湯浅は、藤崎の部屋に向かうらしく2号館の方へと消えた。しかし伊部だけはロビーに残ってしまった。彼が此処から動かないと、森宮はカウンターから出るタイミングがないというのに。

しかし伊部は、一人になるといきなり部屋全体に問い掛けるように大きな声で言った。
「なぁ、森宮刑事。どっかで隠れて聞いてるんだろ?出て来いよ。もう一度、話をしようぜ。」
伊部は2-7号室の扉を叩く。
「おい、湯浅、三崎、この部屋に居るんだろ!」
扉を開けて出てきたのは三崎だった。
「伊部君?どうしたんですか、そんな大声出して。」
三崎はそう言うと、追いついて来た森宮の方にも目線を向けた。
伊部は軽く睨むような視線で三崎に問い掛ける。
「この部屋に居るのは、藤崎って奴と、お前と湯浅の3人だよな?」
「湯浅?」
やはり三崎は、湯浅の本名を知らなかったらしい。しかし三崎は部屋の中を一瞥して、状況を飲み込んだ。
「あぁ千秋の事か。そうだこの部屋に居るのはその3人だ。」
「じゃあ3分以内に3人ともロビーに来い。逆らったら殺す。」
伊部はそう言うと、わざと三崎に見えるように機械を反対の手に持ち換えた。そして直ぐに三崎に背を向けてロビーに戻っていった。
途中伊部は、森宮の横を通り過ぎたが、まるで森宮の存在など気付いていないかのように、何の反応も示さなかった。

森宮も慌ててロビーに戻る。
伊部は、さっきまで森宮が隠れていたカウンターに腰かけていた。
「おい!」
森宮の呼び掛けにも、伊部は無表情のまま答える。
「お前はそっちのソファーに座れ。じゃなければ殺す。」
先程までの伊部とは雰囲気が違う。冷静な口調が、より狂気を醸し出す。森宮は様子を見る為に素直にソファーに腰を下ろした。
すると2号館の方から車椅子の電子音が聞こえてきた。三崎、湯浅、藤崎の順にロビーに入る。
「全員揃ったか。お前ら全員ソファーの方に座れ。」
伊部は全員が座ったのを確認すると、ある物に気付いた。
「それは?」
そう言って伊部が指差した先には、コーヒーメーカーがあった。
「此処に来た時からずっとあったよ。中身は、多分ココアだと思う。」
そう答えたのは湯浅だった。伊部はカウンターの上から、見下ろすように言う。
「へぇ〜。なぁ三崎、お前、そのココア飲んでみろよ。」
湯浅は呆れたように言い返す。
「止めた方がいいわよ。こんな所にある物を飲むのは。本当にココアかも分からないし、毒が入ってる可能性だって大いにあるわよ。」
「これは間違いなくココアだよ。それに毒は入ってない。此処に来た時に既に一杯飲んだから大丈夫だよ。」
三崎はそう言うと、紙コップにココアを注いだ。
「でも……」
「それにもし毒が入っていても結局同じ事さ。だって、飲まなければ殺されるんだろ?」
三崎はそう言って、伊部の方を見た。
「お、よく分かってんじゃん。」
伊部は又、大袈裟に機械を掲げる。
三崎は勢いよくココアを飲み干した。

「大丈夫?」
暫く間を空けてから、湯浅が尋ねた。
「今のところは。」
三崎の答えを聞いてから、湯浅は伊部を睨むように見つめて問い詰める。
「アンタ、一体何がしたいのよ?」
伊部は不気味に微笑みながら答える。
「俺は、皆でこのホテルから脱出しようと思っているんだよ。皆で話し合えば、脱出の為のヒントも、各々のミッションのクリア方法も、黒幕の正体だって暴く鍵が掴めるかもしれないだろ。……でもさ、こんな疑心暗鬼の渦巻く中で、みんな仲良く協力なんて普通出来ないだろ?上手く統制を取るには支配者ってものが必要なんだよ。この状況で誰が支配者になるか、分かるよね?」
伊部はそう言うと、カウンターから降りて、ソファーから少し距離を取った場所を歩きながら続けた。
「森宮、三崎、藤崎。お前ら3人は、俺に部屋番号を知られている。俺が殺そうと思えばいつでも殺せるんだ。俺に逆らうなんて馬鹿な真似しないだろ。湯浅、まさかと思うけど、部屋番号を知られていない自分は従う必要ないなんて思ってないよな?さっきのココアを飲む三崎の姿を見ただろ。三崎も森宮も藤崎も最早俺の言いなりだ。こっちは男3人従えてんだ。お前を押さえつけてルームキーを奪う事ぐらい簡単だって事、忘れるなよ。それから!」
伊部は、強くカウンターを叩き、順に顔を睨むように威嚇した。
「この中に黒幕がいる可能性は大いにある。なぁ、湯浅?」
「は?」
伊部の問いに、湯浅は相変わらずの冷たい口調でそれだけ答えた。伊部は更に続ける。
「ただ黒幕だろうと状況は変わらない。もし湯浅、お前が黒幕だとしよう。その場合、力尽くで部屋番号を知っても、それをこの機械に打ち込んでも、おそらくお前は死なないだろう。ただ、俺がもしこの機械に部屋番号を打ち込んでも死ななければ、それは自分が黒幕だって自白したのと同じだ。黒幕の正体が分かれば他の奴等はそいつを許さない。どうなるか分かるよな?つまり、黒幕であろうが関係はない。今この場所を支配しているのは俺だ。俺に逆らう奴は死ぬ。」
おそらく伊部は、さっき森宮から聞いた機械のトリックを半信半疑なのであろう。それを逆手に取って行動に出た。

「さぁ、先ず何から話し合おうかな。」
伊部はそう言って不気味な笑みを浮かべた。
「お前が殺ったのか?」
森宮はそう尋ねた。
状況から考えて、藤崎がココアに毒を仕込んで伊部に飲ませた。そうとしか思えなかった。
しかし、森宮の問いに藤崎が答える事は無く、黙ったまま暫く伊部を見つめると、今度は視線を湯浅の方へ移した。
「は…ぁ、なるほどな……」
伊部が苦しそうに口を開いた。
「お前ら2人……さいしょ……から、グルだったんだろ…」
藤崎と湯浅がグルだと言いたいらしい。確かに森宮からすれば、自分が担当した二つの事件の関係者がたまたま居合わせたとは思えない。ただだからといって、藤崎と湯浅に接点があるようにも思えなかった。
「あの時…恵理香を殺したように…俺も……殺す……」
今にも消えそう声で伊部が語る。ただそもそも、恵理香を殺したのが湯浅だというのは、伊部を説得する為についた森宮の嘘の筈だ。

そんな中、湯浅がゆっくりと伊部に近付く。
そして、倒れこむ伊部の前に立ち、見下ろすような格好で呟く。
「恵理香を殺した犯人は私じゃない。伊部陸光、アンタだよ。」
「…出鱈目、言うなよ……恵理香を殺したのは……505…この数字が表す奴なんだよ!」
伊部はそう言うと、自分のルームキーを湯浅に向かって投げつけた。
「……言えよ。…お前と、その数字の繋がり……教えろよ。」
伊部はそう言って湯浅を睨んだが、湯浅は受け取ったルームキーの数字を見つめたまま、冷めた口調で答えた。
「505の意味、アンタ未だ分かってないんだ。『恵理香を殺した犯人は俺が絶対に突きとめてやる』って豪語していたくせにね。本当、アンタはあの頃と全く変わらない。あの時のままの、ただの大嘘吐きだよ!」
そう叫んだ瞬間、湯浅の表情が一変した。狂った伊部にも動じない先程までの冷めた瞳など微塵も感じさせない、感情を露わに泣き叫ぶ少女のような表情だった。
倒れ込んだままの伊部の近くに、湯浅の涙が一粒こぼれた。
湯浅はその潤んだ瞳でさらに訴えかける。

「私は……私は、恵理香の事が大好きだった。私は、無理して入学したお金持ち高校の中で、クラスメートについていけずに完全に孤立していた。そんな中でも、何故か恵理香だけは毎日私に話し掛けてくれた。それだけで私は学校に行くのが楽しみになった。結局他に友達なんて殆ど出来なかったけど、それでも恵理香と喋るのが楽しいから毎日学校に行けた。恵理香の話す言葉、声、表情、恵理香の全てが大好きだった。ただ、一つだけ、恵理香の嫌いな所があった。それは、伊部、アンタの事を恵理香が好きな所よ。恵理香は彼氏であるアンタの事を、心の底から愛していた。本気で信頼していた。私にはそれが理解出来なかった。あんなに可愛くて、真面目で、いつも自分より他人を思いやる優しい恵理香が、なんでアンタとなんか付き合っているのか。私はアンタが大嫌いだった。アンタなんて、いつも口ばっかりで、調子よくて、『恵理香は俺が守る』なんて言うくせに肝心な時に何も出来ない大嘘吐きのくせに。アンタなんて……恵理香が一番悩んでいる時に何もしてあげられなかったくせに。
恵理香が死んだ後に知ったんだ。恵理香のお父さん、会社潰しちゃって、家も借金まみれになって、明日生活するのもやっとみたいな状態になったらしくて。当然、恵理香の学費だって払えないし、自分が生きている所為で生活が苦しくなるって勘違いしたみたいで、恵理香はずっと悩んでいた。伊部と別れたのもその為だった。でもアンタは何も手を差し伸べてあげられなかった。私は気付いてた。恵理香が悩んでいる事に。でも、その理由を私に打ち明けてくれる事はなかった。何もしてあげる事が出来なくて、だから本当は悔しかったけど『だったら伊部に相談してみれば』って言った。恵理香は、私の事よりアンタの事を信じてた。だから、私には相談してくれない事でも、アンタになら打ち明けると思った。だから、恵理香の為に、悔しいけど大嫌いなアンタを頼った。なのに……アンタは恵理香を見捨てた。」
「……俺は―」
何かを言おうとした伊部を、湯浅は更に遮る。
「恵理香は、心配掛けないように、ずっと隠していた。家族の事も、悩んでいる事も、自殺しようとしている事も!誰にも打ち明けずに、ずっと隠して笑っていた。でも最後に、アンタに助けを求めた。自殺する為に入った美術室の中で、アンタが部活でその時間まで残っている事も知っていて。最後の望みをアンタに託したんだよ!私には打ち明けてくれなかった悩みを、信じていたアンタに縋りつきたかったんだよ!」
湯浅はそう叫ぶと、505のルームキーを伊部に投げ返した。
「そんなに知りたいんなら教えてやるよ。それは自分を殺した犯人を示すダイイングメッセージの『505』なんかじゃない。誰にも打ち明けられない悩みを抱えた恵理香から、アンタへの『SOS』だよ!」
「小倉やよい?なんで藤崎さんがやよいちゃんを?」
「さぁ。ただこのミッションを知られてしまった以上、もうコソコソ守る小細工する必要はない。これで堂々と彼女を守れます。」
藤崎はそう言うと、ゆっくりとエレベーターの方に向かった。
「彼女は今何階に?」
藤崎の問いに、三崎が答える。
「やよいちゃんなら多分、今は自分の部屋401号室に直美と2人でいると思います。」
「2人っきりですか?それは危険だな。彼女が死んだら、私も死んでしまうというのに。」
藤崎の発言を聞き、三崎は眉をひそめる。
「え……直美がやよいちゃんを殺すと思っているのですか?」
「今川直美さんは確か、障害者支援施設の職員さんでしたよね?そういう場所で働く人間が、介護のストレスから精神障害者に暴行するなんて事例、いくらでもありますからね。早く守りに行ってあげないと。」
藤崎はそう言うと、車椅子のままエレベーターに乗り込んだ。
何か言いたげにじっと見つめる三崎に代わり、森宮は冷静な疑問を投げかけた。
「でもお前の持っている鍵では、4階には行けないだろ?」
「森宮刑事、私は小倉やよい本人から401号室の鍵を預かっています、彼女を守る為にね。」
森宮はその回答に僅かな違和感を覚えた。こんな状況で、一つしかない自分の部屋の鍵を、他人に預けるだろうか?
しかしエレベーターの扉は閉まり、そのまま4階で止まった。嘘ではなかったようだ。

「なんで……?」
三崎が俯いたまま呟く。
「さぁな。まぁさっきの話だと、その小倉やよいって奴、精神障害者なんだろ?きっとこの状況で鍵を渡してしまう事の重大さを分かってないんだろ。」
「そんな筈ありません!だって僕が最後にあの2人に会ったのは4階の廊下でした。そのまま2人は、直美の持っていた鍵で401号室に入って行きました。だからその時点で鍵は直美が持っていたんです。それから藤崎さんが、直美ややよいと接触できる機会なんてありません!」
三崎は、森宮に訴え掛けるようにそう言った。
確かに森宮にしてみても、三崎の言っている事の方が信憑性があった。
「だったら藤崎は、他の4階の宿泊客の鍵を持っていたんじゃないか?」
森宮がそう言うと、三崎は自身の406号室の鍵を握って言う。
「どうやって?渡しませんよ、普通。……殺して鍵を奪っているんじゃないですか?こうやって。」
三崎は、伊部の亡骸に視線を落とした。
湯浅に投げつけられ、伊部が左手に持ったままだった筈の505のルームキーが見当たらない。どさくさに紛れて、藤崎が持ち去ったのか?

その時、突然館内放送が流れた。
「このホテルの全宿泊客様9名にお知らせします。といっても生存者は既に6名となりましたが。まだ何方もミッションをクリアされていないようですので、皆様にミッションクリアの為のヒントをさしあげます。それぞれのヒントは今から丁度5分後に、御自分の部屋に1人で滞在していた方にのみ、電話でお教えいたします。」
女性の声でそれだけ伝えると、放送は切れた。
「ヒント?5分って早く戻らなきゃ。」
三崎はそう言うとエレベーターを呼んだ。
森宮は、ヒントよりも人数の事が気になっていた。
全宿泊客が9人で生存者が6人という事は、死んだのは3人という事。エレベーターで死んでいた男と湯浅と伊部だ。
三崎は、藤崎が誰かを殺して鍵を奪ったと言ったが、その誰かは存在しなかった。
「戻らないんですか?自分の部屋に。」
エレベーターに乗り込んだ三崎は、森宮にそう尋ねた。
「先に行ってくれ。」
エレベーターの扉が閉まる。

1人になった森宮は、湯浅の衣服をあさった。もし藤崎が他に4階の鍵を持っている可能性があるとすれば、湯浅の部屋が実は4階だった可能性だ。
しかし予想に反して、湯浅のポケットからは彼女の物と思われるルームキーが見つかった。925号室だった。
森宮は、自分の部屋番号の意味を考えている際、数字をアルファベットに置き換える事を思い付いた。結局自分の部屋番号では意味を成さなかったが、この番号なら意味を成す。ABC順で、9番目の文字はI、2番目はB、5番目はE。続けて読むと『イベ』となる。
もしかしたら湯浅は、最初から伊部を殺す為にこのホテルに集められたのかもしれない。そもそも恨みを持つ人間同士が同じ空間に集められるなんて怪しすぎる。だとすると、森宮を恨んでいる藤崎は、俺を殺す為か。そしてもし今川直美が介護のストレスから小倉やよいを恨んでいたら。そしてそれを守るミッションの藤崎と同じ部屋にいたら。
さらに三崎も自分の部屋に向かったという事は、彼も今4階に居る。不味い。また人が死ぬかもしれない。
森宮は慌ててエレベーターに乗り込んだ。
しかし、森宮に4階に行く術はなかった。
「くそぉ……」
森宮は、静かにエレベーターの壁を叩いた。
「ねぇ、やよい。洋子ちゃんはね――」
直美が何かを言い掛けたが、やよいは電話に集中していた。
「藤崎さん?だぁれ、それ。」
「やよい……誰と電話してるの?」
直美の問い掛けに気付いたやよいは、電話に向かって尋ねる。
「もしも〜し。貴方は誰ですか?」
やよいは少し間を空けてから、直美に向かって答える。
「三崎だって。」
「三崎君?ねぇやよい、電話代われる?」
やよいは、笑顔のまま黙って直美に受話器を渡す。

「もしもし、三崎君?」
「あぁ、直美か。」
「なんだ。てっきりヒントの電話かと思った。館内放送、聞いたよね?」
「あぁ。ついさっき掛かってきたよ、ヒントの電話。本当にヒントだけ伝えて直ぐに切れたけど。ただふと、この電話が使えないかと思って試していたんだ。やっぱり外部には繋がらない。でも、こうやって他の部屋に電話を掛ける事は出来るみたいだ。」

「やよ、トイレ行って来る。」
やよいはそう言うと、トイレに入った。
直美は受話器を持ったままベッドに腰掛け、話を続けた。
「でもなんで、この部屋にはヒントの電話が掛かって来なかったんだろう。」
「ヒントの電話が掛かってくる条件は『自分の部屋に1人で滞在している』こと。直美がその部屋に居たから、掛かって来なかったんだろう。それより、藤崎さんその部屋に来なかった?」
「藤崎さん?いや、来てないけど。」
「あれ、あの人、何処に消えちゃったんだろう。兎に角、藤崎さんには気を付けた方が良い。」
「気をつ――」
突然に直美の声が消え、大きな物音だけが聞こえた。
「もしもし!直美!」
三崎は何度も呼びかけたが、応答がない。
「三崎さん、そういう大事な忠告は、もっと早くしなきゃいけませんよ。」
受話器の向こうから、藤崎の声が聞こえた。
「なんでお前がそこに……」
「言ったでしょ。私は401号室の鍵を持っているって。」
藤崎は冷たい声でそう答えた。
「直美に何をした?」
「ご心配なく。殺してはいませんよ。ちょっと気絶してもらっただけです。これでね。」
受話器を通して三崎の耳に、バチバチという激しい音が届く。
「スタンガン?」
「御名答です。館内放送を聞いて最初は悩みました。私のミッションは、ヒントが欲しい様なミッションではありませんから。ただ念の為、401号室に行くのは後回しにして、自分の部屋に戻る事にしました。館内放送の後直ぐに貴方が4階に来てしまったので、一旦柱の陰に隠れて、貴方が自分の部屋に入った後でエレベーターを使って自分の部屋に戻りました。するとヒントの電話が掛かってきて、私の部屋の金庫の番号を教えてもらいました。中にはこのスタンガンが入っていました。『ヒントの代わりに、貴方のミッションに必ず役立つアイテムです』というメモと一緒にね。」
藤崎がそう言い終わる前に、三崎は電話を切って走りだした。

奴は今401号室に居る。三崎は自分の部屋を出て5つ隣の部屋、401号室のインターフォンを押した。
「開けろ、藤崎!やよいちゃん、居るんならこの扉を開けてくれ。」
暫くすると、鍵の開く音が聞こえ、中から黒いマントと仮面をつけた人物が飛び出してきた。
その人物は、そのまま走ってエレベーターに乗り込んだ。
しかし三崎は追い掛けなかった。それよりも、部屋の中で倒れている直美が気になったからだ。
「直美!」
三崎は部屋の中に入ると、倒れている直美を抱きかかえた。
「スタンガンって、こんなに凄い威力なんですね。」
三崎の頭上から声が聞こえた。
それは、部屋の奥で悠然とスタンガンを見つめる藤崎の声だった。
彼が此処に居るという事は、さっきの仮面の人物は、やはりやよいちゃんだったようだ。以前、4階の廊下で会った時と同じ格好だ。
「やっぱり、やよいちゃんにあの仮面を渡したのは貴方だったんですね。」
三崎は平静を装ってそう尋ねた。
「はい。そして彼女には505号室の鍵を渡して、伊部陸光の部屋に行ってもらいました。」
「505?何の為に。」
「彼女を守る為ですよ。さっきの放送で言っていたでしょ。最初の宿泊客は全部で9人。という事は、鍵の数も当然9つ。私の2-7、貴方の406、小倉やよいの401、今川直美の311、坂井洋子の703、森宮の317、伊部の505。残り2つは分かりませんが、うち1つは湯浅佑奈のもの。彼女の話から伊部と同じ階とは思えない。つまり残る1本を除けば5階の鍵は505の1つだけ。彼女が5階にその鍵を持って行けば、誰も5階には行けなくなる。」
残る1本は、エレベーターの死体が持っていた1111。つまり彼の言う通り、5階の鍵は1つしか存在しない。藤崎は続ける。
「そしてその間に。私が彼女のミッションをクリアすれば、私も彼女を守り抜いた事になりミッションクリアです。」
「なんだよ、やよいちゃんのミッションって?」
「三崎……くん」
直美がか細い声でそう呟いた。
「直美!」

「意外と早い御目覚めですね。」
藤崎の言葉に、少しずつ我に返った直美が叫ぶ。
「藤崎さん?なに!何が起こってるの?」
「大丈夫。僕がついてるから。」
三崎はそう言って、直美を落ち着かせる。

「三崎さん。邪魔するんなら、貴方も殺しますよ。私の最強の武器で。」
「最強の武器?」
直美の問いに、藤崎は不敵に笑みを浮かべて答える。
「そうでした、今川直美さんは知らないのですよね。伊部君の事。そして、この武器の事。ただ大丈夫、ルールはとっても簡単です。この機械に部屋番号を入力するとその部屋の宿泊客は死ぬ。ただそれだけです。」
藤崎は、伊部から奪った殺人の機械を取り出す。
「本当なの?」
直美は三崎に尋ねた。
三崎は、ベッドの縁に直美を凭れさせると、立ち上がりゆっくりと口を開いた。
「藤崎さん、答えてあげて下さいよ。直美が訊いていますよ。『本当なの?』って。」
「は?」
「まさか藤崎さん、本当だと思っています?貴方程の人がそんな事を信じていたなんて。普通に考えて有り得ないでしょ。その機械に406と打ち込んだら私が死ぬ。どういう原理で?私達は、爆弾の仕掛けられたジャケットを着ているわけでもなければ、電流が流れる指輪をつけられているわけでもない。理屈的に考えてそんな事は起こりません。」
勿論、三崎だってこの機械には恐れていた。ただこの機械の威力を認めてしまえば、それを持っている藤崎に勝つ術はないに等しい。それを認める事の方が怖かった。

「私が思う可能性は大きく4つです。1つ目は、その機械は嘘で、部屋番号を押しても何も起きない可能性。私は今のところこの可能性が一番高いと思っています。2つ目は、押された部屋番号のルームキーを持っている人間が死ぬ可能性です。例えば各々のルームキーに、受信機と電流が流れる仕組みでもあれば不可能ではないかもしれない。ただこの小さなキーにそんなシステムがあるようには見えない。可能性としては極めて低いでしょう。3つ目は、押された番号の部屋にその時いる人間が死ぬ可能性です。このホテルには変な仕掛けが沢山あります。その機械と連動して、該当の部屋に電子ロックが掛かり毒ガスでも注入されれば、その部屋に居る人間を殺す事は可能でしょう。そして4つ目は、その機械を使った人間が死ぬ可能性です。『death』のボタンを押した瞬間、その機械が爆発したりする可能性だってゼロではない。」
三崎はそれだけ言い終わると、自分のルームキーを後ろに投げ、さらに続けた。
「どうぞ。406を押してみて下さい。今私はルームキーを持っていないし、406号室にもいない。どの可能性でも私は死なない。死ぬ可能性があるのは、藤崎さん、貴方だけです。」
その言葉を聞き、藤崎は不気味に笑い声を上げる。
「とても良い実験ですね。私もこの武器を使う上で、この機械の仕組みは知っておきたい。貴方はとても良い実験台だ。」
藤崎はそう言うと、「4」「0」と続けて数字を押した。

「止めて!」
直美は立ち上がると、そう言って三崎に抱きついた。
「お願い……止めて。」
「藤崎さん、もしこの実験に私が勝ったら、貴方のルームキー貰って良いですか?」
「ルームキー?」
「言っていませんでしたが、私のミッションは『案山子とココアとドミノ倒しのルームキーを集める』ことです。ココアは私、案山子は貴方のルームキーです。私は自分のミッションの為に貴方のルームキーが必要なんです。未だ、ドミノ倒しが誰のルームキーかは分かりませんが。」
「……分からないんだ。」
三崎の胸元から、そう聞こえた。三崎に抱きついて胸元に顔を埋める直美が発した言葉だった。
言葉の意味は分からないが、先程自分を心配して抱きついてきてくれた時の直美とは、まるで別人のような声だった。三崎はそれが気になったが、藤崎はまるで気にせず言葉を返す。
「でも残念ながら、死ぬのは私ではなく貴方です。」
藤崎は、続けて「6」と「death」のボタンを押した。

静寂の時が訪れる。
辺りを窺う三崎の様子を見て、藤崎は呟く。
「実験失敗……みたいですね。」
三崎は安堵の表情を浮かべて答える。
「やっぱり。見たところあのルームキーに反応があったわけでもないし、おそらくその機械は偽物。部屋番号を押さ――」
三崎の言葉が突然途切れる。三崎は口と目をゆっくり閉じると、膝から崩れ落ちた。
「キャー!!」
抱きついていた直美が思わず離れる。
倒れたまま動かない三崎に、藤崎はゆっくりと近付く。
そして呼吸を確認してから、手首を握った。
「死にましたね。証明完了です。ルームキーも持たず、その部屋にいない状態でも、この機械に入力された部屋の宿泊客は、死ぬ。」

「いやー!!」
直美の叫び声が部屋中に響き渡る。
「白々しい事言いやがって。」
三崎はゆっくり立ち上がろうとしたが、思っていた以上に平衡感覚が失われており、直ぐにまた倒れ込んだ。仰向けになると、天井がぐるぐる回って見えた。車酔いの感覚に近いが、吐き気も心拍数もそんな比ではない。
しかしこのまま死んでは、悲劇の連鎖が続く。
誰かに伝えなくてはいけない。自分は、藤崎の機械で殺されたのではないと。

あの時、抱きついたままの直美は「……分からないんだ。」と呟くと、三崎の手首を強く握った。三崎もその不可解な行動は気になっていた。そして藤崎が機械のボタンを押すと同時に三崎の腕に何かを突き刺した。三崎はその瞬間、目の前が真っ白になって崩れ落ちた。

俺は機械によって殺されたんじゃない。今川直美に毒殺されたんだ。

体の自由こそないものの、まだ意識はある。今のうちに真実を伝えなくては。三崎は電話の受話器を取った。
森宮の部屋は317号室だった。彼が部屋に居る事を願う。



森宮は、三崎と別れた後、エレベーターでそのまま自分の部屋に向かった。
森宮はエレベーターの電光表示を見る。この電光表示の方式で「317」と書き、それを上下逆さから見ると「LIE」になる。森宮はその事に気が付いていた。
「ライ……嘘か。一体俺がどんな嘘をついたっていうんだよ。」

森宮が自分の部屋に入ると、直ぐに電話が鳴った。
「お一人で自室に入室されたという事で、ただ今よりミッションのヒントを差し上げます。貴方のミッションは『過去に刑事として暴く事の出来なかった事件の真相を、このホテルで解き明かす』事です。しかし貴方は、どの事件の事かすら未だ分かっていませんよね?そんな貴方に大ヒントです。貴方が解き明かさなくてはいけないのは、藤崎誠の痴漢容疑の事実関係でも、渡辺恵理香の自殺事件の真相でもありません。貴方が解き明かさなくてはいけないのは、緑のリボンのハンカチ紛失事件です。」
森宮が何と電話に呼び掛けても、電話の相手は淡々とヒントを読み上げるのみだった。
そしてそれだけ話し終えると、一方的に電話は切れた。

「緑のリボンのハンカチ紛失事件?」
全く身に覚えのない言葉、というわけでもない気がした。
森宮は一生懸命記憶を巡らせた。


あれは2年前の夏。
事件の調査の為にある高校を訪れた時だ。
捜査の為に全校舎立ち入り禁止にしろと言っているのに、部活だの補習だの、ちらほら見かける高校生どもが邪魔で仕方なかった。
そんな中、一人の学生が森宮に話し掛けてきた。
「あの……刑事さんですよね。」
「そうだよ。」
森宮は目も合わさずに答えた。
「だったら、お願い!私の緑のリボンのハンカチ探してくれない?とっても大切なハンカチなんだけど、なくしちゃって。お仕事終わってからでいいから、刑事さんなら、きっと見つけられるよね?」
「オッケー。」
森宮はそう答えつつ、心の中で『馬鹿かコイツは!』と思った。
しかしその子は30分後、また森宮のもとに現れると、寂しそうに言った。
「なんだ……まだお仕事中か。」
森宮は、30分毎に来られても面倒だと思い、口から出任せを返した。
「いや、丁度休憩だったからね、この30分間、学校中を探しまわったんだよ。全部の教室と、校庭も体育館も探したんだ。でもね、見つからなかったんだ。」
そう言うと、その子の表情がパーっと明るくなった。
「刑事さん、私の為にそんなに探してくれたの?嬉しい!見つからなかったのは仕方ないね。でもありがとう!」
その子はそう言うと、鞄から携帯電話を取り出しながら続けた。
「ねぇ、刑事さん、一緒に写真撮っていい?私ね、親切にしてくれた人を忘れないように写真を撮る事にしてるの。」
とっとと帰って欲しい気持ちしかなかった森宮は、渋々その子と写真を撮った。
「刑事さん、名前は?」
「森宮。」
「下は?」
「悟士。」
「じゃあ、さーくんだね!ありがと、さーくん。」
馬鹿みたいな名前で呼ばれた仕返しに、森宮はその子を馬鹿にし返した。
「さーくんはねぇ、刑事でもあり予言者でもあるんだよ。だから見えるよ、緑のリボンのハンカチは、お家の洗濯機の中だ!」
「本当に?さーくん、ありがとう!」
その子はそう言うと、嬉しそうに帰っていった。

ライ……確かに嘘といえば嘘だ。
ただ、2年も前に、名前も知らない少女に吐いた、こんな適当な嘘、もうとっくに時効成立してるだろ。

森宮が、推理をやり直そうとした時、再び電話のベルが鳴った。

「もしもし」
「よかった……森宮さん、部屋に居て。」
「その声……三崎か?」
「……はい。」
三崎は今にも死にそうな声をしていた。しかし奇しくも、今にも死にそうという表現は的を得ていた。
「お前、大丈夫か?」
「森宮さん……思い出さないと……思い出さないと、殺さる――」
三崎の声が消える。
703号室。
「それぞれのヒントは今から丁度5分後に、御自分の部屋に1人で滞在していた方にのみ、電話でお教えいたします。」
この館内放送で、枝本ゆかりは目を覚ました。
「最悪だ。」
夢ではなかった。
次に目を覚ました時、今までの出来事は全て夢になっていますように。そう願いを掛けたのに。目を覚ました今、状況は変わらない。
つまり私は、本当に人を殺してしまったのだ。


あの日私は、友達の家で夜遅くまで一緒にお酒を飲んでいて、帰宅する為に友達と別れ一人でタクシーに乗った。
しかし運転手の様子がおかしい事に気がついた私は、直ぐに警察に連絡しようとした。
「いいんですか?警察を呼んでも。」
私の動きに気がついた運転手は、慌てる事も無くそう呟いた。
そうだ。今警察が来てこの男を捕まえれば、同時に私も未成年での飲酒がバレて捕まる。そんな事になればアイドル生命も完全に断たれる。私は完全に弱みに付け込まれた。
「それよりも、その電話でマネージャーの三崎友則さんを呼び出して下さいよ。」
私は運転手の言う通りに、適当な理由を付けて三崎さんを自宅に呼びタクシーに乗るように誘導した。
そうこうしている間に、タクシーは山の中のホテルの前で止まった。
タクシーの扉が開く。逃げるなら今しかない。
私は走り出した。しかし直ぐに追いつかれ腕を掴まれた。
「困りますよ。貴方も宿泊客の1人なのですから。」
そう聞こえたかと思うと、私の意識は途切れた。

次に私の目を覚ましたのは、聞き慣れない電話の音だった。
私はホテルのベッドの上で眠っていた。手には1111号室の鍵が握らされており、部屋はアンティーク調の豪華な部屋だった。
私は電話に出た。
「お一人で自室にいらっしゃるという事でゲームスタートです。貴方にはこ――」
私は電話を途中で切った。そして自分の鞄と鍵だけ持って部屋を出ると、エレベーターに乗り1階のボタンを押した。
早く帰ろう。

途中エレベーターは7階で止まった。
扉が開くと、見知らぬ男が立っていた。
男は私を見ると不敵に微笑み、徐にエレベーターの鍵穴に刺さった私のルームキーを抜きとった。
「1111号室か……俺は703号室の相沢だ。お前のミッションは何だ?」
男はそう言いながら、7階の廊下へ歩みを進めた。
「ちょっと、鍵返して下さいよ!」
相沢と名乗った男は703号室に入っていった。私は男の後を追う。
「俺のミッションは『黒ひげ危機一発』だ。黒ひげの入った樽に穴が空いていて、その穴の数より1本だけ少ないナイフがある。全てのナイフを穴に差せばクリアだが、穴の中に1つだ黒ひげが飛び出す外れの穴があり、その穴にナイフを差した人は負け。その黒ひげゲームを俺は1人でやらされてるんだ。」
相沢はそう言うと、机の上に何本もの果物ナイフを並べた。
「用意されたナイフは7本。このホテルの宿泊者は俺を除いて8人。1人だけいる外れの人間を避け、残る7人の心臓にこのナイフを突き刺せばミッションクリア。」
相沢はそう言うと、一本のナイフを手に取った。
「先ずは1本目だ。」

私は慌てて逃げ出した。
急いでエレベーターのボタンを押す。早く来い。
しかしエレベーターに乗り込んだ私は絶望した。鍵を盗られた私にエレベーターの動かす事は出来なかったのだ。
相沢はゆっくりとエレベーターに乗り込むと、自分のキーをエレベーターに差し、ナイフを私に向けた。
私は静かに戦う覚悟を決めた。

私は幼い頃から合気道を習っていた。冷静に戦えば力の強い相手にだって絶対に勝てる。先ずはそう信じる事が大切だ。
私は相沢の右腕を掴み捻りあげた。そしてそれを振り解こうとする力を利用して、相沢を突き飛ばした。相沢はかなりの衝撃でエレベーターの奥に叩きつけられた。
逃げようとそのままエレベーターから離れた私だが、此方に逃げ道はない事に気付く。
鍵を奪い返さなくては。そう思い振り返った私は、目を疑った。
相沢の持っていたナイフは、相沢本人の心臓に深く突き刺さり、血を流して動かなくなっている。
私はその場に腰を抜かした。
エレベーターの扉はゆっくり閉まると、1階へと下りて行った。
ヤバい。誰かが1階で呼んだのだ。
怖くなった私は、703号室に掛け込んだ。ホテルなのにオートロックでない為、鍵がなくても入る事が出来た。

暫くベッドの中で震えていたが、誰かが7階に来た気配もない。私は恐る恐る再びエレベーターを呼んだ。
しかし刺さっていた筈の703号室の鍵も、相沢に奪われた1111号室の鍵も、相沢の死体も綺麗になくなっていた。
「嘘……」
それと同時に、鍵を持たない私は完全に7階に閉じ込められてしまったのだ。
疲れきった私は、703号室に戻るとベッドに倒れ込んだ。
「全て夢でありますように。」
私はそう呟いて眠りに堕ちた。
「そうだ!」
確かに鍵がないとエレベーターは動かせない。しかしエレベーターに乗る事なら出来る。
エレベーターの中に居れば、誰かが呼んでくれればその階に移動する事が出来る。どうせこの部屋で助けを待つぐらいなら、エレベーターの中で待っていた方がずっと早く見つけてもらえる。
その事に気付いた私は、早速703号室を出てエレベーターを呼んだ。

エレベーターの中には誰も乗っていなかった。
私はエレベーターに乗ると全てのボタンを押してみたが、やはり何の反応も示さなかった。
次第にエレベーターの明かりは消えた。
真っ暗のエレベーターの中に佇む。壁に凭れようとしたが、奥の壁に凭れて死んだ相沢の様子がフラッシュバックした。
「無理だよ。やっぱり部屋に居よう。」
そう決めた時、エレベーターに明かりが灯って動き出した。
エレベーターは私を乗せたまま、4階へと移動した。
扉が開けば、そこには必ず誰かがいる。ただ、もしそこに居るのが相沢のような頭のおかしい人間だったら……。
心の中で期待と恐怖が鬩ぎ合う。

ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、優しそうな20代ぐらいの女性だった。
「貴方……え、枝本ゆかりさん?」
女性は私の顔を見ると、そう問いかけてきた。
「はい!」
「ですよね!アイドルの枝本ゆかりさんですよね?」
「そうなんです!御存知なんですか?」
自分を知っている人に出会えた事で、私は安堵感に包まれた。
「勿論知ってますよ。それに知り合いが貴方の大ファンなので。……でも何故こんな所に?」
「実は変なタクシーに誘拐されてこのホテルに連れて来られたんですが、7階に居た怪しい男にルームキーを奪われちゃって。ほら、このエレベーターってルームキーがないと動かないじゃないですか?」
「そうか。ルームキーを奪われたら、その階から動けなくなっちゃうんだ!」
女性はそう言うと、慌てて自分のルームキーをエレベーターに差し、1階のボタンを押した。
「でも私も自分の部屋311号室の鍵しか持っていないので、取り敢えず一緒にロビーに下りましょうか。」
「有難うございます。」
「あ、申し遅れました。311号室の今川直美と申します。私も変なタクシーに乗せられて此処に来ました。」
「そうなんですか!初めまして。枝本ゆかりです。部屋は確か……1111号室だったかしら。」
そう言うと、今川直美はクスッと笑って答えた。
「実は私達『初めまして』じゃないんですよ。」
「え?」
「さっき知り合いが貴方の大ファンだと言ったでしょ。その知り合いと一緒に、貴方のライブや握手会に行った事もあるし。それに……実は、私の高校の頃の同級生が貴方のマネージャーをやっていて。だから、一緒に写真を撮らせてもらった事もあるのよ。」
「マネージャーって事は、三崎さん?」
「そうよ。」
「思い出した!今川直美さん。そうだ、4人で一緒に写真撮りましたね!私と今川さんと三崎さんと……あと、えっと待って下さいね。確か……洋子ちゃんだ!」
「そう。洋子ちゃん、貴方の大ファンだったわ。だから私が三崎君に頼んで一緒に写真撮らせてもらったの。」
こんな場所で再会するなんて夢にも思わなかった。ただ思いがけない思い出話が出来て、私はなんだか楽しくなった。
「三崎さんとは仲が良いのですか?」
「いいえ。高校の頃も別に仲が良かったわけではないし。それに彼は私に会いたくないみたいだし。私に会うと、嫌な事を思い出しちゃうみたい。三崎君と私には嫌な共通点があるの。」
「共通点?」
「どっちも東日本大震災で家族を失っているの。だから、会うとどうしてもその事を思い出しちゃうみたいで。」
エレベーターが1階に着いた。私は空気を変えようと、明るい声で話題を逸らした。
「そうなんですね……あ、そうだ!あれ覚えています?一緒に写真を撮った時に、洋子ちゃん凄く喜んでくれて。テンションが上がって駐輪場の自転車にぶつかって、自転車50台ぐらい全部ドミノ倒ししちゃって!」
「あったわね!」
「で、私が三崎さんを呼び出して。4人で地道に起こしていきましたよね。そうだ。だからついでに三崎さんも一緒に写真を撮ったんだっけ。なんか洋子ちゃんが『親切にしてくれた人を忘れないように写真を撮る事にしてるの』って言って。可愛かったなぁ、洋子ちゃん。」
私は状況も忘れてロビーのソファーに座って、そう語った。

「あ、そうだ。私ちょっと3階に用事があるんだ。」
今川さんはそう言うと、ポケットから自分のルームキーと1枚のハンカチを取り出した。
「用事?なんですかそのハンカチ?」
私の問いに、今川さんは笑顔で答える。
「これは……緑のリボンのハンカチ。此処で待ってて、直ぐに戻ってくるから。」
今川さんは、そう言い残してエレベーターで3階に向かった。
確か藤崎や三崎は、坂井洋子の部屋は703号室だと言っていた。
森宮はポケットから703号室の鍵を取り出すと、エレベーターで7階に向かった。
藤崎や三崎の話を信じるなら、今川直美は小倉やよいと坂井洋子と3人でこのホテルに連れて来られた。この3人は一体どういう関係性なのであろうか。
更に藤崎は、今川直美は障害者施設の職員で、小倉やよいはその施設の入居者のように言っていた。だとすると、坂井洋子もその施設の関係者と考えるのだ道理だろうか。
そんな事を考えているうちに、森宮は703号室の前にやってきた。

森宮は、恐る恐る703号室の扉を開ける。
中に誰かがいる気配はない。
ゆっくりと中に入ると、テーブルの上に並べられた果物ナイフに目がついた。
「このナイフ……」
そのナイフは、エレベーターで殺されていた男の胸に刺さっていた物と全く同じだった。
「やっぱり、あの男を殺したのは坂井洋子だったのか。」
さらに恐ろしい事に、そのナイフは後6本あった。館内放送で言っていた生存者の人数と同じだ。
森宮はバスタオルでそのナイフを全て包んで自分の鞄に入れた。
このままだと、坂井洋子に全員殺される。
そう思った森宮は、部屋を出るとロビーに向かった。

1階に着きエレベータの扉が開く。すると目の前に見知らぬ女性が立っていた。
「もしかして……お前」
女は何も言わずに、ただ立ち尽くしている。
森宮は予期せぬ出会いに、恐る恐る尋ねた。
「坂井洋子か?」
森宮の質問に、女はハッとしたように答える。
「坂井洋子?え、坂井洋子ちゃんのお知合いの方ですか?」
この女は坂井洋子ではないのか?
ただ坂井洋子を知っている様子だ。そして今川直美でもない。という事は、この女が坂井洋子と一緒にホテルに来たという小倉やよいなのであろうか?
「一度偶々会って会話をした事があるだけだ。知り合いという程ではない。お前は、坂井洋子とどういう関係だ?」
森宮は質問に簡潔に答えてから、尋ね返した。
「あ、私、枝本ゆかりといって、実はアイドルをやっているんですよ。」
アイドル?そういったモノには疎い森宮でも、枝本ゆかりという名前ぐらいは聞いた事がある。それに顔も言われてみればテレビで見た事がある気がする。
「で、その坂井洋子ちゃんって方も私のファンで、一度お会いした事があって。貴方は?」
枝本の問いに、森宮も答える。
「317号室の森宮だ。」
「森宮さん。あ、私は確か1111号室だったかな?」
「1111?」
1111号室といえば、エレベーターで死んでいた男が持っていたルームキー。あのスーツケースのあった豪華な部屋だ!
「どうかしました?」
枝本の問い掛けに、森宮は問い掛けで返した。
「お前、その部屋のルームキーを今も持っているか?」
枝本は、少し考え込んでから答えた。
「実は、此処に連れて来られて直ぐに、怪しい男に鍵を奪われてしまって。だから私はルームキーを1本も持っていなくて――」

「そうか。だったらもう一つ質問しても良いか?お前のミッションは何だ?」
謎を解く為には、それぞれに与えられたミッションがヒントになる筈だ。伊部や湯浅のように、ゲームのようなミッションの者もいるが、自分や藤崎のように明らかに他意のあるミッションが与えられている者もいる。
「俺のミッションは『緑のリボンのハンカチ紛失事件の真相を解き明かす』ことだ。そこから坂井洋子という1人の人物に結びついた。それぞれのミッションにはきっと、謎を解くカギが隠されているはずなんだ。」
説明の途中で、枝本が割って入った。
「ちょっと待って下さい!そもそもミッションって何ですか?」
そうか。鍵がない枝本は、未だミッションを与えられていないのだ。
「実は自分の部屋に最初に1人で入室した時に、電話でミッションが与えられるんだ。よし、今から一緒に11階に行って1人で部屋に入ってくれ。そうすればきっと。」
「待って下さい!そもそも行きたくても行けないですよ。ルームキーがないんだから。」
「これを使え。」
そう言って森宮は、1111号室の鍵を差し出した。
もはや誰が嘘を吐いていて、誰が本当の事を言っているのか分からない。ただ取り敢えず今は、目の前にいる人間の言葉を信じるしかなかった。
「何で貴方がこれを?」
森宮は悩んだ。エレベーターの死体の事を話すべきかどうか。
「偶々見つけたんだ。」
そう濁した森宮に対する、枝本の表情が一変した。
「偶々?貴方、やっぱり相沢さんとグルだったんでしょ?」
「相沢!相沢って、相沢誠一か?」
「知りませんよ。ただその鍵は相沢さんに奪われた――」
「って事は、相沢もこのホテルにいるのか?」
森宮の中で何かが繋がりそうになった。

しかし枝本はどこか冷めた口調で答えた。
「いないんじゃないですか……今はもう。」
一瞬にしてゆかりの表情が凍りつく。そして森宮の手を強く振り払った。
「いい加減にして下さい!人が死ぬとか、軽々しく口にしないで下さい!三崎さんは死んでなんかいません。絶対に。」
ゆかりはそう言うと、森宮の手から1111号室の鍵を奪った。
「すまん。」

お互いにどう声を掛けて良いか分からずいると、エレベーターが動き出し、女性が降りてきた。
「あ、今川さん。」
降りてきた今川直美を見て、ゆかりが声を掛けた。
直美は、森宮の存在に気付く。
「えっと確か……317号室の森宮さんですよね?」
直美の問いに森宮が訊き返す。
「そうだ。今川直美だな?」
「えぇ。」
2人の会話に、ゆかりが割って入る。
「今川さん。その人の言う事は信用しない方が良いですよ。出鱈目ばっかです。自分が刑事だとか、三崎さんが死んだとか。」
それを聞いた直美は、森宮に問い掛ける。
「やっぱり貴方、刑事なんですね。あの時の刑事さんですよね?憶えています、私の事?」
森宮はじっと直美の顔を見つめる。
「直接お会いしたのは一度だけなので覚えていないかもしれませんが、私は森宮刑事に以前お世話になりました。私がまだ大学生だった頃、藤崎という教授に呼び出され酷い目にあわされました。その事件の調査をしてくれた、森宮刑事ですよね?」
それを聞いた森宮は、不敵に笑みを浮かべゆっくりと口を開いた。
「なるほど。あの時の被害者がお前、今川直美か。これで全てが繋がったよ。」
「うそ……あの人、本当に刑事さんなんですか?」
ゆかりは不安気に直美に尋ねた。
「ええ。間違いないわ。」

「そういう事だ。俺は正真正銘刑事だ。分かったら、早くその鍵で1111号室に向かえ。」
ゆかりは、どうして良いのか分からないように、鍵を持った自分の手を見つめたまま動こうとしなかった。
「どうして森宮刑事は、ゆかりちゃんを1111号室に行かせたいのですか?」
見兼ねたように、直美が口を挟んだ。
「其処が彼女の部屋だからだ。お前も知っているだろ、このホテルで初めて自分の部屋に入室すると、ミッションの電話が掛かってくる。彼女は未だその内容を聞いていない。」
森宮はそう言って、直美の方を見た。
直美は素早く視線を逸らすと、呟くように言い返した。
「別に、ミッションなんて知らなくても良いんじゃないですか?ゆかりちゃん本人は自分の部屋に行きたくないみたいだし。」
それを聞いた森宮は、また不敵に微笑む。、
「それは随分とおかしな意見だな、今川直美。もしお前が枝本ゆかりの身を案じているのなら、彼女が脱出する為に彼女のミッションを遂行しようとする筈。もし自分が助かる事だけ考えているのなら、彼女のミッションを聞きちょっとでも情報を集めようとする筈。どちらにせよ『ミッションなんて知らなくて良い』なんて意見、出てくる筈がないんだが?」
森宮はそう言うと、直美を鋭い目つきで見た。
直美はゆっくりと顔を上げると、森宮を見つめて答えた。
「そんなにあまいものではないですよ。」
「ねぇ、今川さんのミッションは何?」
ゆかりの問いに、直美が答える。
「私のミッションは……『ミッションの妨害』。」
「ミッションの妨害?」
「そう。私に与えられたミッションは、他の宿泊客がミッションをクリアする事を阻止する事。誰か1人でもミッションをクリアしてこのホテルから脱出したら、私は死ぬ。誰かがミッションをクリアする前に、6人以上の人間が死ぬかミッションを失敗すれば私のミッションはクリアとなる。勿論私もこんなミッションやるつもりはなかった。だって『6人の人間が死ぬかミッションを失敗』と言っているけど、ミッションを失敗した人間は死ぬ。実際には『6人の人間が死なないと』私はこのホテルから出られない。そんなの待っていられないし、誰も死んでほしくない。でも……さっきの館内放送によると既に3人の人間が死んだ。その後もう1人の人間が私の目の前で死んだ。もしこのままもう2人誰か死ねば……そう思ってしまったの!だからお願い、ゆかりちゃん。もし貴方がミッションを知ってしまったら、私達は敵同士になってしまうの。」
ゆかりは1111号室の鍵を強く握りしめた。

「館内放送の後に死んだもう1人の人間は三崎という男か?」
森宮の問いに、直美は黙って頷く。
「お前が殺したのか?」
森宮の問いに、直美は今度は必死に反論する。
「違う!三崎君を殺したのは私じゃない!2人は知らないかもしれないけど、このホテルには藤崎教授の息子の藤崎葉月という男もいるの。しかもその男は、部屋番号を入力するだけでその部屋の宿泊客を殺す事が出来る、強力な武器を持ってる!三崎くんは、その武器によって藤崎葉月に殺された。」
強く握りしめていた筈の1111号室の鍵が、ゆかりの手から零れ落ちた。
「うそ……うそでしょ?」
「もしかして……」
ゆかりは何かを言い掛けて止めた。
「何か思い出したのか?」
森宮の問いに、ゆかりはゆっくりと口を開いた。
「もしかして、さっき言っていた小倉やよいさんって、洋子ちゃんの事じゃないのですか?」
直美は俯いたまま何も答えない。

「どういう事だ?」
「洋子ちゃん、稀に自分の事を『やよ』って呼ぶんです。私が『何で坂井洋子ちゃんなのにやよなの?』って訊いたら、『やよの名前はやよいだよ』って。かと思えば、自分の事を『洋子』って呼ぶ事もあって。でも二重人格とかいう感じではなくて……」
言葉を詰まらせるゆかりに、直美が答える。
「彼女は二重人格なんかではない。精神遅滞患者、所謂知的障害者よ。といっても彼女に知的障害が起きたのは僅か2年前の話。彼女の通っていた高校の同級生の渡辺恵理香という子が、校内で自殺したの。洋子ちゃんは、校内で捜査をしていた馬鹿な刑事にからかわれて、慌てて家に帰る途中で交通事故に遭った。」
「それは違う!」
声を上げた森宮を気にも留めず、直美は続けた。
「身体の怪我は直ぐに治ったけど、脳の損傷は治らなかった。」
そう呟いた直美に、ゆかりは返す言葉が見つからなかった。

「まぁそれ以前も洋子ちゃんは、冗談で自分の事を『やよ』って呼んでいたの。だからきっと脳の混乱でどっちが本当の名前か分からなくなっちゃったんじゃないかな?」
今度は穏やかな口調でそう言った直美に、ゆかりが尋ねる。
「でもどうして洋子ちゃんは自分の事を『やよ』って呼んでいたの?」
「洋子ちゃんの兄は、8月生まれで名前が葉月っていうの。だから『洋子は3月生まれだから、やよいだね』ってよく言っていたわ。」
「ちょっと待て!葉月って……」
「そう。藤崎葉月よ。藤崎葉月は、洋子ちゃんの実の兄。」
状況の整理が出来ない森宮を置いて、直美はさらに続ける。
「そういえば三崎君が藤崎に尋ねていたわ。『どうして、やよいちゃんは藤崎さんの言う事を素直に聞くんだ?』って。答えは簡単。血の繋がった兄弟なんだもん。」

考え込んでいた森宮が口を開く。
「なぁ、もしその話が本当なら、藤崎誠は坂井洋子の父親という事になるよな?」
「えぇ。藤崎誠は洋子ちゃんの父親だったわ。」
「だった?」
「捨てられたのよ。2年前の事故で、知的障害には回復の目途がない事を知って。あの男は研究室に私を呼び出してこんな事を言ったわ。『君みたいな優秀な娘が欲しかったよ。あんな研究はおろか、日常生活すら儘ならない娘、いたところで仕方がない』ってね。」
直美はゆっくりと森宮に近付いた。
「森宮刑事には本当に感謝しているわ。そんな事件の真相なんて全く解き明かそうとせず、私の言葉だけを信じて藤崎誠に痴漢容疑をかけてくれて。お陰で藤崎誠を殺す事が出来た。」
森宮は自分の心を落ち着けてから尋ねた。
「なるほど。藤崎誠に復讐した次は、俺や藤崎葉月を殺す為に此処に集めたのか?」
「貴方、未だこの事件の犯人が私だと思っているの?貴方や藤崎葉月を殺す事が目的なら、こんな面倒な事はしない。それに私には、三崎君やゆかりちゃんに復讐する理由なんてないわ。2人だけじゃない。さっきも言ったけど、森宮刑事にも復讐する理由なんてない、寧ろ感謝しているぐらいよ。」
それを聞いた森宮は、直美から視線を逸らして返した。
「でも、2年前の事故の原因は……」
「あぁ。緑のリボンのハンカチの嘘ね。確かに洗濯機の中には無かったけど、家に有ったのは本当だったわよ。あのハンカチは、洋子ちゃんがお守りとしてずっと大切にしていた物だけど、あの日は持って行くのを忘れたみたい。ただいつも持っているから、なくしたと勘違いしてしまっただけみたい。」
直美はポケットから小箱を取り出した。
「この小箱、洋子ちゃんがこのホテルに来てから、藤崎葉月に貰ったって言っていたの。中にはあのハンカチが入っていたわ。お守りのハンカチを忘れた日に事故に遭った洋子の為に、2年前に家でそのハンカチを見つけた藤崎葉月はずっとそれを持っていたみたい。そして彼女の命を守るミッションを与えられた藤崎は、そのお守りを彼女に渡す為にわざわざ呼び出した。つまり、そのハンカチはそもそもなくしてなんかいなかったのよ。」
直美がそう語り終えると、突然館内放送が流れた。

「森宮悟士様、ミッションクリアおめでとうございます。脱出に必要な地下1階の鍵の在処をお教えしますので、もう一度お1人で御自身の部屋に入室下さい。」

直美が慌てて尋ねる。
「ミッションクリアって何?貴方のミッションって?」
「俺のミッションは『緑のリボンのハンカチ紛失事件の真相を解き明かす』事だ。もしこのまま俺が自分の部屋に行ってこのホテルから脱出すれば、今川直美、お前のミッションは失敗した事になって死ぬんだよな?」
「あの、洋子ちゃんは今どこに居るんですか?」
ゆかりの問いに、直美が答える。
「さぁ……藤崎の話だと505号室に居るらしいけど。」
「505?何で伊部の部屋に?」
「だったらそこに行って、洋子ちゃんにも話を聞いてみましょう。」
ゆかりの提案を、森宮が遮る。
「残念だがそれは無理だ。このホテルで5階の鍵は505の1つだけ。おそらく藤崎はそれを分かって、小倉やよいを守る為に彼女を完全に隔離したんだ。」
森宮は少し黙ってから、何かを思いついたように口開いた。
「いや、505号室に行く事は出来ないが、連絡を取る事は出来るかもしれない。三崎はあの時、何処からか俺の部屋に電話をかけてきた。もしかしたら内線は使えるのかもしれない。」
「だったら、皆で私の部屋から電話しませんか?バラバラになるのは危険だし、ついでに私のミッションの電話ももう一度受けられるかもしれない。」
事件の解決に消極的だったゆかりが、自らそう提案した。
森宮と直美はそれに従い、3人で11階に向かった。

「じゃあ先にミッションの電話を聞いてくるわ。」
ゆかりはそう言うと、1人で1111号室に入室した。

1111号室の前で、黙ったままの直美に、森宮が尋ねる。
「今川直美、この事件を仕組んだのはお前だよな?」
直美は表情を変えずにゆっくり答える。
「ここで私が『はい、そうです』と言ったら、事件解決になるのかしら?違うわよね。だって貴方は未だ一番大切な真実に気付いていない。」
「一番大切な真実?」
「確かに貴方の言う通り、此処に集められた人は全員坂井洋子と関わりがある。でも考えてみて、彼女と関わりのある人間なんてこの世界に五万といる。そんな中から貴方達が選ばれた理由。」
「俺の予想が正しければ、俺たちは皆、何かしらの理由で坂井洋子に恨まれている。」
「残念だけど不正解。彼女に恨まれている可能性があるとすれば、嘘を吐いた貴方ぐらいじゃない?貴方達の共通点は、洋子ちゃんに恨まれている事じゃない。私に恨まれている事よ。その理由が分からない限り、事件解決とは言えないわ。」
「どちらにせよ、お前が犯人だと認めるんだな?」
「えぇ。だって貴方にはもう関係ないから。残念だけど貴方、もうゲームオーバーよ。」
直美はそう言うと、自分の携帯電話を差し出した。
森宮がその画面に視線を落とす。

「藤崎の持っていた機械、あれ何処に居ても部屋番号さえ入力すればその部屋の宿泊客を殺す事が出来るの。凄いでしょ。『どういう仕組みなんだろう?』って思うでしょ。でも仕組みはとっても単純。あの機械に部屋番号を入力されると、この携帯電話にその人物が表示される。そしてそれを私が確認して、私がその人物を殺す。」
直美はそう言い終わるより早く、携帯電話を持つ森宮の腕に注射針を突き刺した。
その瞬間、森宮の体が動かなくなる。
「藤崎葉月が貴方の部屋番号317を入力したわ。おそらくさっきの館内放送を聞いて、脱出される前に殺しておこうと思ったんじゃないかしら?折角ミッションクリアしたのに、残念ね。」
直美はそう言うと、森宮の死体と共にエレベーターに乗った。


1111号室。
ゆかりが入室すると直ぐに電話のベルが鳴った。
「まさか途中で電話を切られるとは思いませんでした。それでは改めまして、ただ今よりゲームスタートです。」
最初の電話と同じ男の声が受話器から聞こえた。
「貴方にはこのホテルであるミッションに挑戦してもらいます。とはいえ貴方のミッションは、レベルで言うと星5つ中2つ。比較的簡単なミッションという事です。それでは、貴方へのミッションを発表します。それは『嘘とアルバムと400人目のルームキーを集める』事です。部屋の奥にある金庫にその3つキーを差せば、このホテルから脱出するのに必要なアイテムが手に入ります。ただし、1つでも違うキーを差してしまうと、貴方は死ぬ。それではヒントを2つ差し上げます。1つ目は、部屋番号です。2つ目は、アルバムとは……どのルームキーかわかりますよね。ニューアルバム発売、シングル連続記録、おめでとうございます。それでは後2つ、嘘と400人目のルームキーを集めて下さい。それではご健闘を祈ります。」
電話が切れた。

ゆかりは自分のルームキーを見つめる。
「1111」は、来月発売予定の枝本ゆかりのセカンドアルバムのタイトルだった。このアルバムに収録されているシングル曲4曲全てがオリコンチャートで1位になった。「シングルが4枚連続1位になった記念に、その曲が収録されるアルバムのタイトルは1を4つ並べて『1111』にしよう。」そう提案したのは三崎だった。

ゆかりは1111号室から出る。
「うそ……」
しかしそこに待っている筈の、直美や森宮の姿はなく、足元に森宮の鞄と不気味な血痕だけが残されていた。
扉を開けた直美が、車椅子の藤崎を見降ろす様に対峙した。

「残るは私達3人ですね。」
藤崎は至って冷静にそう切り出した。
「あら、プレイヤーなら一応もう1人いるわよ。」
直美も平常心を装って言い返す。
「残念ですが、森宮刑事ならもういませんよ。」
「えぇ、知ってるわ。でもプレイヤーはもう1人いる。とっても可愛らしい女性のプレイヤーがもう1人。そしてその女性と貴方は、この後戦う事になる。」
「私が?何故?」
「理由は2つある。1つ目はミッションよ。彼女のミッションは三崎君同様3本の鍵を集める事。1本目の鍵は彼女自身の部屋の鍵。2本目はさっき私が森宮の鞄と共に彼女の元に残してきた317号室の鍵。既に彼女は2本の鍵を手にしている。そして3本目は、小倉やよいの部屋401号室の鍵。しかし貴方のミッションは小倉やよいを守る事。」
「その女性の目的は小倉やよいの鍵でしょ?私が守らなくてはいけないのは小倉やよいの命、別に戦う必要などありません。」
「だからこのゲームは、そんなに甘いものじゃない。」
直美がそう呟いた瞬間、またも館内放送が流れた。
「このホテルの全宿泊客様9名にお知らせします。といっても生存者は既に4名となりましたが。皆様に最後のヒントをさしあげます。これより25階の展望レストランを開放します。ただ今よりロビー同様どの鍵でも25階に行けるようになります。その展望レストランに最後のヒントをご用意しております。」

「彼女と貴方が戦わなくてはいけない2つ目の理由、それは、貴方が彼女の大切な人を殺したから。」
直美はそう言って、藤崎の目をじっと見つめた。
「展望レストランだって!直美ちゃん、やよ、レストラン行きたい!」
やよいがそう言うと、直美はニコッと笑って答えた。
「そうね。じゃあその鍵で行ってらっしゃい。」
「やったぁ〜」
やよいはエレベーターに向かって走りだした。

「直美ちゃんは行かないの?」
やよいが振り向いてそう尋ねた。
引き止めようとした藤崎の車椅子の前に、直美が立ちはだかる。
「ごめん、お兄さんと2人で話をしたいの。終わったら直ぐ私達も行くから、先にレストランに行っておいて。」
直美は、やよいの目を見ずにそう答えた。

2人きりになって先に口を開いたのは藤崎だった。
「此処に私達を連れてきたのは貴方ですよね?」
直美は落ち着いた貞操で答える。
「私の指示ではあるけど、私ではないわ。」
「では誰ですか?」
「言っても分からないわ。」
「誰ですか?」
「……相沢誠一よ。ね、言っても分からないでしょ。洋子が轢き逃げに遭った事件を調査していた刑事よ。」
「刑事が何故こんな事を?」
「刑事じゃなくて元刑事。最初は熱心に事件を調べてくれる頼もしい刑事だと思っていた。でも彼の目的は、洋子を救う事でも、犯人を捕まえる事でもなかった。彼の目的は私だった。本当つまらない男だったわ。」
直美はそう言うと、703号室の鍵を取り出した。森宮の死体から抜き取った、相沢誠一の部屋の鍵だ。
「一緒にホテルに泊まると、私の名前に合わせて必ず703号室を予約する、そんなつまらない男だったわ。」
「ホテル?相沢っていう人と貴方は、恋人同士だったのですか?」
「『同士』って言わないでよ。アイツは好きでも、私はあんな男に一瞬たりとも恋をした覚えはないわ。でも面白いところもあったわ。だって『貴方がゲームに勝ったら付き合ってあげる』って言っただけで、本当にこんな施設まで手配して、他のプレイヤーも集めて、流石元刑事のフットワークだったわ。でも肝心のゲームの方はまさかの1番に脱落。それは面白かったわよ。」
「酷い女性だ。」
藤崎は、それ程興味もなさそうに呟いた。

「……そう?貴方や貴方の父親が、洋子にやった事に比べればずっとマシだと思うけど。」
直美は鋭い眼光で藤崎を見つめながら続けた。
「このホテルで貴方とやよいが最初に会った時言った事、覚えてる?『眼鏡のお兄さんが来て、洋子ちゃんだけ一緒に来てって言って、洋子ちゃん行っちゃったの』。三崎君は『眼鏡のお兄さん』を『眼鏡をかけている見ず知らずの年上の男性』と解釈したみたいだけど、本当は違う。『普段はしていない眼鏡姿の実の兄』、つまり貴方の事よね?」
「違う……それは、それは、父に言われて仕方なく!」
藤崎はそう言うと目を逸らした。しかしジッと藤崎を睨みつける直美の視線に耐えかね、再び口を開いた。
「貴方も知っているでしょ。私達の父親がどういう人間か。洋子は私よりもずっと頭が良くて、父の研究にも凄く興味を示していた。父が求めていたのは息子や娘なんかじゃない。自分の研究を継いでくれる研究員だ。だから、父には必要なかったんだ。学業よりもサッカーに夢中になっていた私も、洋子の頃のような知性を失った知的障害者のやよいも。」
「いいえ。」
エレベータ−に向かって歩き出した直美の後姿に、藤崎が語りかける。
「ここで押して下さい。私を殺したいんですよね?だったら、ここで押して下さい。貴方の目的は一体何ですか?」
直美は何も答えずに、エレベーターまで歩き、上のボタンを押した。

仕方なくゆっくりと後を追う藤崎が追いついたのを見計らって、直美は口を開いた。
「このホテルの宿泊客のミッションは、大きく2種類に分けられるわ。森宮悟士、枝本ゆかり、三崎友則、湯浅佑奈。この4人に与えられたミッションは、言ってしまえば『試験』よ。」
「試験?」
「そう。枝本ゆかりはその試験に合格した。三崎友則はその試験に不合格だった。だから彼は死、彼女は生きている。一方試験の必要はない貴方、伊部陸光、相沢誠一、この3人には別の役割を与えた。三崎君のように試験に不合格した人間を殺す役割は、本当は貴方ではなく相沢だった。彼のミッションは『宿泊客を殺す』事。そしてそんな相沢の対抗勢力が『殺人犯を殺す』ミッションの伊部。そしてその戦いから洋子を守るのが貴方。」
「何の為に?」
「女の子を質問攻めにすると嫌われるわよ。こっちは質問に答えたんだから、次は私の質問に答えてよ。」
直美はそう言うと、藤崎の車椅子に視線を落とした。

「ずっと訊きたかったんだけど、その足、本当に動かないの?」
藤崎はゆっくりとひざ掛けを巻くって見せた。
「これが動くように見えますか?」
「両足がいっぺんになくなる事故って、相当不運な大事故よね?そうでなければ――」
直美と藤崎の目があった瞬間、藤崎は穏やかに直美の言葉を遮った。
「不運な事故なんかじゃありませんよ。この足は……自分でわざとやったんですから。」
「自分で?」
「さっき言ったでしょ。私の父は、学業よりサッカーに夢中になっている私を必要としていなかったと。だから……二度とサッカーが出来ないように……いえ、二度とサッカーをしない言い訳を自分に作る為に。」
藤崎はそう言うと、エレベーターに乗り込んだ。
直美も後から中へ入ると、25階のボタンを押した。
エレベーターがゆっくり動きだす。
それに合わせて、藤崎もゆっくり話しだした。
「私は高校の頃、サッカー部で県大会にいきました。決勝戦のハーフタイム、チームのエースに頼まれて私は彼に予備のスパイクを貸していました。そのスパイクで出場して直ぐ彼は転倒してしまい試合にも負けてしまい、彼はそのあと自殺しました。ただ私自身、彼の怪我が私の所為だなんて全く思っていませんでした。ただそれから3年以上が経った或る日、私は知ってしまったのですよ。彼の怪我は、紛れもなく私の所為だったと。私の予備のスパイクに細工がされていたんですよ。誰がそんな事をしたと思います?私達に勝ちたい敵チームの誰かでもなければ、私を嫌った誰かの嫌がらせでもありません。私のスパイクに細工をした犯人は、私の父です。それは物凄いショックでしたよ。私の所為でエースを自殺に追い込んでしまった事も、あのスパイクを自分で履いていたら私がそうなっていたかもしれないという事も、そして、父が私にサッカーを辞めさせるためならそうなっても良いと思っていた事も。それでも私はサッカーがしたかった。でも私がサッカーを続ければまたあんな悲劇が起こる。だから私はサッカーを辞める決意をしました。サッカーをしない言い訳を自分にする為に、私はわざと事故に遭って両足を失った。これでもう二度と、サッカーをしたいなんて思えないようにね。」
直美は黙って扉に向かって立ったまま、何も答えない。
「だからこの怪我は、不運な事故でもなければ、案山子の呪いでもありません。父が望んだ、私のあるべき姿なんですよ。」


11階エレベーターの前。

手掛かりを失った枝本ゆかりは、残された森宮の鞄に手をかけた。
ゆっくりと鞄を開けると、一番上にバスタオルが入っていた。そのタオルを鞄から取り出したゆかりは、思わず悲鳴を上げた。
バスタオルには、何本ものナイフが包まれていた。しかもそのナイフは、相沢と名乗った男が持っていたナイフと同じものであった。
「やっぱり……森宮さんと相沢さんはグルだったんだ。」
森宮は嘘を吐いている。
「もしかしてこの血……今川さんの?」
床の血痕に焦りを感じたゆかりは、床にメモが落ちている事に気付いた。
メモは二つ折りにされており、広げると『嘘は英語でLIE』というメッセージと共に、317号室の鍵が挟まっていた。
「317……確か森宮さんの部屋。」
逆さまに挟まれていた鍵を見て、『LIE』を逆さから見ると『317』である事に気が付いた。
やっぱり森宮さんは嘘を吐いている。そして自分のミッションにある『嘘のルームキー』とはおそらくこの317号室の鍵だ。
そう気付いた時、ゆかりの耳に館内放送の音が届いた。
調子外れの明るい洋子の声に、ゆかりは一瞬歩みを止めた。
「あ……」
しかしゆかりは、この女の子を「洋子ちゃん」と呼んでしまって良いものかが分からず、言葉に詰まる。
「……あ、ゆかりちゃんだ!ゆかりちゃん!やよ、覚えてるよ!やよねぇ、ゆかりちゃんの事ちゃんと覚えてるよ!」
ゆかりがどう答えて良いのものか困っていると、また館内放送が流れた。

「館内にいる全宿泊者様にお知らせ致します。先程ご案内をした展望レストランに、2名のお客様がいらっしゃいました。最後のヒントは人数分ございます。まだいらしていないお客様も是非お越し下さい。」
「人数分?」
レストランを見渡すと、幾つかのテーブルの上に、白いアタッシュケースが置かれていた。
「これが最後のヒント?」
ゆかりは、その中の一つに手をかけ、ロックを外した。

アタッシュケースの中には、大量の写真が入っていた。
しかも、その写真に写る殆どの人間の顔に、×印が付けられていた。
まるで大量殺人犯が、殺した人間に×印を付けていっているようだった。
「誰がこんなこと……」
あまりの不気味さにゆかりがそう呟くと、洋子もアタッシュケースの中を覗き込む。
「あ、これ、やよがつけたんだよ!」
明るい口調でそう言った洋子と、ゆかりは思わず距離をとった。

目の前に居るこの少女こそが、大量殺人犯で自分達を此処に連れてきた張本人、その可能性だってゼロではない事に気付く。
「何の為に?これ……どういう人に×つけたの?」
恐る恐る尋ねたゆかりに、洋子は少し悩んでから答えた。
「う〜ん……知らない人?」
「知らない人?」

しかしもし本当に殺した人間に×を付けているのだとすると、既に100人近い人間を殺している事になる。更に、明らかに偶々写り込んだだけの関係の無い通行人にまで、御丁寧に×が付けられている。

ゆかりは1枚ずつ写真を手に取って眺めた。すると幾つかの共通点に気が付く。
先ずは、×だけでなく、ごく稀に○が付けられた人間もいるという事。そして、全ての写真に洋子が写っているという事。ただし洋子の顔には○も×も付いておらず、それ以外の人には必ず○か×かが付いているという事。

更に奥からは、切り取られた卒業アルバムの1ページが出てきた。それにも洋子は写っていた。藤崎洋子の名前と共に。しかしその個人写真ページで○が付いていたのは男女1人ずつのみで、30人以上の人間に×が付けられていた。
3人を除きひとクラスの卒業生がまるまる殺されたなんてニュース見た覚えはない。やはり殺した人間に×を付けているわけではなさそうだ。○が付けられていた生徒は、伊部陸光と湯浅佑奈という2人の生徒だった。

「あ……」
1枚の写真に気付き、ゆかりの手が止まる。それは、ゆかりと三崎と直美と洋子で撮った写真だった。ゆかりの顔にも、三崎の顔にも、○が付けられていた。
ゆかりがその写真を見ている事に気付いた洋子は、声を掛けてきた。
「ね、やよ、ちゃんとゆかりちゃんの事、覚えてたんだよ。偉い?」
「え、じゃあこれ、本当に知っている人には○、知らない人には×を付けてるの?」
洋子は黙って頷く。
「嘘、そんなのおかしいよ。だって卒業アルバムで、自分のクラスメートを2人しか知らないって事になるよ?」
洋子は俯いたまま何も答えない。
「だってそれにほら、この写真。洋子ちゃん以外全員×だよ。知らない人だけで写真撮ったなんておかしいじゃん?」
わざと明るく言ったが、やはり洋子は何も答えなかった。
ゆかりは、もう一度自分の写った写真を手に取って、更に問い掛ける。
「それに1番おかしいのがコレ。だってほら、私と三崎さんは○だけど、直美ちゃんには×が付いてる。これじゃあ、直美ちゃんが知らない人ってことになっちゃうよ。おかしいじゃん。」

その時、強くガラスを殴るような音が響いた。
音のする方に目をやると、直美が俯いたまま佇んでいた。
「本当……おかしいよ……」
直美はゆっくりと口を開くと、表情を見せないまま、少しずつゆかりに近付いて来た。

「おかしいよ……だって、その写真……洋子が撮った写真に、1番沢山写ってるの、私なんだよ。……誰よりも……洋子の傍に居たのは私なんだよ。……なのに、私の顔には全部×が付いてる。……おかしいよ。……クラスでたいして仲良くもなかった伊部や湯浅……1回しか会った事のない枝本に三崎に森宮……洋子にあんな酷い事した藤崎ですら○が付いてるのに……誰よりも……誰よりも洋子を愛していた私には×しか付いてない……本当、おかしいよ。」
直美は、ゆかりの前で歩みを止めた。
「すっかり少なくなっちゃった洋子の記憶の中に残っているのが……なんでアンタ達なのよ!!」
真っ赤に充血した直美の眼光が、ゆかりを睨みつける。
「最終ミッションか……」
藤崎の呟きに、ゆかりは何かを思い出したかのように叫ぶ。
「ミッション!そうよ、ミッションよ!ミッションさえクリアすれば、私は此処から出られるのよ。」
ゆかりはそう言うと、2本の鍵をテーブルに並べた。

そしてゆかりは、洋子の肩を掴んで問い掛ける。
「ねぇ、洋子ちゃん。貴方の部屋って401号室じゃない?私のミッションは『嘘とアルバムと400人目のルームキーを集める』ことなの。私の推理が正しければ、『嘘』はLIEの反対である317号室の森宮さんの部屋の鍵。『アルバム』は私が出すニューアルバムのタイトルと同じ1111号室の自分の部屋の鍵。そして『400人目』は、洋子ちゃん、貴方の部屋の鍵なの!」
何も答えない洋子に代わって、直美が無表情のまま訊き返す。
「その根拠は?」

ゆかりは、何かを思い出しながら、ゆっくりと語り始めた。
「……洋子ちゃん、初めて会った時、私のファンクラブの会員証を見せてくれたよね?その時に見せてもらった会員ナンバーが401だった。『もうちょっと早く登録すれば丁度400だったのになぁ。」って言った洋子ちゃんに、その場に居た三崎さんが言ってた。『でもそれ確か、1つ欠番があるんですよね。だから会員ナンバーが400の人は399人目の会員なんだ。だから、実際には洋子ちゃんが丁度400人目の会員なんだよ』って。だから、洋子ちゃんは、私の丁度『400人目』のファン。だから……あとは洋子ちゃんの部屋の鍵があれば私のミッションはクリアできる。このホテルから脱出できるの!だから、お願い。」
しかしやっぱり洋子は何も答えない。

「無駄ですよ。」
そう発したのは藤崎だった。
「無駄?」
「確かに貴方の推理は当たっていると思います。彼女の部屋番号は401です。しかしそれをいくら彼女に言っても無駄です。彼女は……自分のルームキーを持っていません。」
そう語る藤崎に、ゆかりが尋ねる。
「じゃあ401号室の鍵は今どこに?」
藤崎は少し間をおいてから答えた。
「私が捨てました。」

「捨てた?」
「はい。4階のダストシュートから捨てたので、拾うのは不可能だと思います。」
「何の為に?」
「彼女を試す為ですよ。」
藤崎はそう言うと、直美の方に視線を向けて、続けた。
「エレベーターで死体が見つかった後、私は自分の部屋から洋子の部屋に電話を掛けて、洋子を呼び出しました。その時に401号室の鍵を預かった。」
「あぁ。貴方が緑のリボンのハンカチを小箱に入れて洋子に渡した時ね。今更あんなもん、どういうつもりかと思ったわ。」
そう吐き捨てた直美には気も留めず、藤崎は続ける。
「つまり、洋子はその時点ではどの部屋の鍵も持たない、エレベーターの中で自然に動くのを待つしか出来ない状態の筈だった。しかし次に洋子に会いに行った時、貴方と洋子は401号室の中に居た。入れる筈の無い401号室の中に。だから確信しました。貴方がこの事件の黒幕で、全ての部屋に入れるマスターキーを持っているって。」
「そうか……あの時点でバレてたんだ。確かに不思議だったわ。三崎君と電話していただけなのに、背後から容赦なくスタンガン当ててきたし。」
少しずつ冷静さを取り戻してきた直美は、殺人者の目付きになる。
「だったらあんな演技する必要なかったな。貴方のお父さんを自殺に追い込んだ事を後悔してるなんて嘘っぱち、言う必要なかったな。」
「ただあの時点では、貴方と三崎さんはグルだと思っていました。だからあの殺人機械に彼の部屋番号を入力しても、まさか貴方が彼を殺すとは思いませんでした。」

藤崎はさらに続ける。
「確かあの時三崎さんは言っていましたよね?自分のミッションは『案山子とココアとドミノ倒しのルームキーを集める』ことで、あと『ドミノ倒し』が誰の鍵か分からないって。」
「だったら多分、『ドミノ倒し』も洋子ちゃんの鍵だと思います。私と三崎さんが、過去に洋子ちゃんと直接会ったのは一度だけなんです。その時、洋子ちゃんが駐輪場の自転車をドミノ倒ししちゃって――」
ゆかりがそう言った時、藤崎が割って入った。
「おかしいと思いませんか?『嘘』も『アルバム』も『案山子』も『ココア』も、あくまで1人の人間を特定出来るキーワード。それなの『400人目』や『ドミノ倒し』は、ミッションを出された人間と洋子との繋がりを示すキーワードなんです。まるで、その事を覚えているかを確かめるかのような。」
その言葉を聞き、直美は満足げに答える。
「その通り。貴方には言ったわよね。森宮、枝本、三崎、湯浅、この4人に与えられたのはミッションではなく『試験』。洋子の事を覚えていなければ絶対にクリアできない。そして試験の結果……三崎は洋子の事を覚えていなった。だから、私が殺した。」
「藤崎さん―」
ゆかりがゆっくり声を出す。

「どうかしました?何か見つけましたか?」
藤崎の問いに、ゆかりは重い口調で答える。
「藤崎さんは……足、その、車椅子、てっきり生まれつきなのかと思っていましが、そうじゃないのですね。」
「えぇ。私が初めて車椅子に座ったのは大学生の頃でした。不慮の事故で両足を失ってしまい。」
「不慮の事故?」
両足を失う不慮の事故とは一体どんなものであろうか。その事も相まって、写真の裏のメモの意味が、ゆかりの中で引っ掛かる。
「嘘吐き。」
そう声に出したのは、直美だった。
藤崎は何も答えない。

ゆかりは覚悟を決めて藤崎に尋ねる。
「選択を間違えたから?」
「選択?」
「藤崎さんは、選択を間違えたからそうなってしまったんですか?」
藤崎からの返事はない。

意を決してゆかりが振り返る。藤崎の表情はいつもと変わらない。
その時、不意に洋子が口を開いた。
「例えば…二人の男が居たと仮定する。」
全員の視線が洋子に集まる。
洋子は一点を見つめたまま、詩を暗唱するかのように続ける。
「同じ会社で同期の二人。年齢も同い年で、仲が良かった。営業成績も周りからの人望もそれほど大差ない二人…所謂似た者同士。名前はそうだな。太郎と次郎で良いや。二人は車通勤をしていた。しかしある日、駐車場工事の為に暫くの間は車通勤が禁止になった。ここで似た者同士の二人は『たまたま』異なる選択をするんだ。太郎は「運動不足気味だし歩くか」と徒歩を選択。次郎は「暫く面倒だな」とバス通勤を選択。」
その言葉に藤崎も合わせる。
「徒歩通勤の太郎は、会社に行く途中で鞄を見つける。中には数十億ものの札束の山。驚いた太郎は急いで交番へ駆け込んだ。バス通勤の次郎は、会社に行く途中で事故に遭ってしまう。居眠り運転していたトラックと乗っていたバスが激突。平凡だった二人の男は、たまたま違う選択をした為に全く異なる人生になった。片方は莫大な富を得て、片方は命を失った。」
洋子と藤崎は同時にそう言い終わる。

「私が何が言いたいか分かりますか?」
藤崎は誰にとなく、そう尋ねた。
「私が言いたいのは、何気なく選択した事が、もしかしたらとんでもない事態を招くかもしれないという事。ただ……太郎や次郎は、選択する前に考えたからと言って、そんな事態を予測できたでしょうか?これ以上、ヒントを探すのは無意味です。」
藤崎はそう言うと、洋子の前に立った。
「今川直美は、【坂井洋子】だと宣言したにもかかわらず、脱出できていない。私が【小倉やよい】だと宣言すれば、全てが分かる。そう思いませんか?」
それは、ゆかりに投げ掛けられた言葉だった。
「でも……私は未だ、選ぶ事なんて出来ない。もう少しヒントを探してみます。」
ゆかりは悩んだ挙句そう答えた。
「わかりました。未だ答えは出さない。それが貴方の選択ですね?」
藤崎はそう言って、ゆかりを見つめた。
ゆかりは戸惑いの色を隠せなかった。最終ミッションには、時間制限はあるのか?間違えた場合のリスクはあるのか?そんなゆかりを不安にさせる不明瞭な点が多かった。

藤崎は、ゆかりに向かって再び声を掛ける。
「最後に貴方に言っておきます。貴方が仮に『三郎』だったとします。太郎と次郎の結果を見てから選択したとして、太郎と同じように徒歩通勤をしたとして、同じように鞄を拾うと思いますか?」
選択を躊躇ったゆかりを糾弾するようなその言葉に、ゆかりは震える声で反論する。
「でも……もし、私がその結果を見ていれば、バスに乗るは怖くなって徒歩で通うと思います。そうすれば、少なくとも、事故に遭う危険は回避できると思う。」
「なるほど。つまり、貴方は、歩いていた太郎が居眠り運転していたトラックと衝突していた可能性はない。そう言いたいのですね。」
藤崎はそう言うと、抱きしめられたままの洋子の手を取った。

「お前は小倉やよいだ。頭脳明晰で父親から将来に期待されていた洋子はもうこの世にはいない。お前は藤崎誠の娘でもなければ、私の妹でもない。知的障害者の支援施設に通う、小倉やよいだ。」

藤崎葉月の答えは【小倉やよい】だ。


再びヒントを探していたゆかりの手が止まる。
ゆかりは堪えられず、その場に蹲って涙を流す。

暫くの静寂が流れた後、ゆかりはゆっくり立ち上がると、洋子の元へやってきた。
「三郎も選びますか?この先の自分の運命を。」
藤崎の問いには答えずに、ゆかりはぽつりと呟いた。
「後、選んでないのは私と貴方だけです。私は未だ選択できずに悩んでいます。貴方はどちらを選ぶか決まってますか?洋子ちゃん。」
洋子の口がゆっくりと動き始める。
「私は……坂井――」

「もし貴方の憶測が正しかったなら――」
洋子の声を掻き消したのは、直美の甲高い声だった。
「小倉やよいなんて、初めから存在しなかったって事よね?洋子は……洋子はずっと洋子のままで、記憶だってなくなってなくて、此処に居るのも当然洋子なわけで、だったら!」
直美は語気を荒げてそう言うと、洋子から少し離れて、藤崎の車椅子を両手で掴んだ。
「だったら、最終ミッションの正解者は私。藤崎葉月、貴方はミッションに失敗した……ざまぁみろ!!」
直美はそう叫ぶと、藤崎の車椅子を力いっぱい投げ飛ばした。

床に投げ出された藤崎のもとに、直美はゆっくりと近付く。
「このホテルのルール。ミッションに失敗した者は……死ぬ。」
直美はそう言うと、テーブルから取った果物ナイフを、倒れた藤崎の胸に突き刺した。

徐々に赤く染まる藤崎のシャツに、エレベーターで死んだ相沢の姿が重なり、落ち着いていたゆかりが再び悲鳴を上げる。
「いやー!!」
頭を抱えて倒れ込むゆかり。
一人取り残され佇む洋子に、直美がゆっくりと近付く。
「さぁ、洋子。一緒に、このホテルから脱出しよう。」
直美はそう言うと、ナイフを捨てて、311号室のルームキーを取り出した。
「そう、このルームキーはこのホテルのマスターキー。この鍵があれば、どの部屋にだって、どの階にだって行ける。地下の駐車場にだって。ミッション成功者に渡されるのは地下に行くための鍵。そこから脱出できる。さぁ、洋子もミッションに答えて一緒に脱出しましょう。『私は坂井洋子だ』って言って。」
そう言って、直美は洋子の腕を優しく掴んだ。

「違う!……私は……私は、洋子じゃないよ。だって……だって――」
洋子の声に、直美は宥めるように優しく答える。
「大丈夫。貴方は洋子よ。誰が何と言おうと洋子。記憶なんてあってもなくても関係ない。貴方は、坂井洋子よ。」
「でも……」
洋子は不安そうに、ゆかりの方に視線を向けた。
ゆかりはハッとその視線に気付き、涙を拭った。
直美は慌てて続ける。
「記憶なんてどっちでもいい。大体あんな、洋子の事なんて覚えていないような奴らの事、覚えている必要もないわよ!」
「私はちゃんと覚えていた!坂井洋子ちゃんの事!」
ゆかりは、そう叫んで立ち上がった。
「あんたが洋子の何を知っているっていうのよ?」
そう怒鳴る直美に、ゆかりも声を荒げて言い返す。
「洋子ちゃんの事を知らないのは貴方の方でしょ?」
「私は、誰よりも洋子の事を考えてる!誰よりも洋子の事を知ってる!そう、この世界の誰よりも!」
「でも洋子ちゃんは私の事を覚えていた!」
「洋子は――」
「私は――!!」
その時、間に挟まれたまま黙って聞いていた洋子が声を上げた。
「私は、洋子じゃないよ。だって……やよいは、その為のやよいだもん。やよいは、洋子をやめる為のやよい。私は……洋子じゃないよ。」
洋子はそう言うと、直美の手を振り払った。
直美も洋子も、そのままその場に呆然と立ち尽くす。

暫くして、ゆかりがゆっくりと洋子に近付いた。
「ねぇ……洋子ちゃん、本当はどう思っているの?」
洋子は何も答えない。
「だったら、貴方の答えは【小倉やよい】でいいの?最終ミッションは、貴方が誰かを問うミッションよ。そして【小倉やよい】と答えた貴方の兄は……」
ゆかりは、血だまりに倒れる藤崎に目をやる。
「それでも貴方は【小倉やよい】を選ぶの?」
そう訴えかけるゆかりに、洋子は純粋な瞳で答える。
「う〜ん……やよ、わかんないや。ミッションの意味もよくわからないし。ねぇ、やよもどっちか選ばなきゃいけないのかな?でも一人は怖いから、やよ、ゆかりちゃんと同じ方を選ぶ。どうせ考えたって分からないし。ねぇねぇ、ゆかりちゃんはどっち選ぶ?あとゆかりちゃんと、やよだけだよ。早く決めないと怒られちゃうかもよ。」
「え?」
突然別人のように喋りだした洋子に、ゆかりは戸惑った。
「どうしたの、ゆかりちゃん?」
そう尋ねた洋子の肩を抱き、ゆかりは必死に訴える。
「ねぇ、しっかりして!貴方は坂井洋子よ。そう……坂井洋子。彼女は、坂井洋子よ。」
ついにゆかりが決断をした。
ゆかりの答えは【坂井洋子】だ。
「あ、ゆかりちゃん、もう決めちゃったの?ミッションクリア?じゃあ、やよも!私は【坂井洋子】だよ。」
ゆかりに続き、洋子も【坂井洋子】を選んだ。

ゆかりは、立ち竦む直美に問い掛ける。
「さぁ、最終ミッションは終わったわ。早く……早く私たちを此処から出して!」
「……本当は覚えてたよ。」
洋子がゆっくりと呟いた。
「やよ、本当は覚えてたよ。直美ちゃんの事。」
直美は真っ青になった顔を洋子の方に向け、荒い呼吸で尋ねる。
「え?……どういう……だったら、なんで――」

「やよね、あの事故でほとんどの記憶を失った。父親にも見放されて友達も離れて行って。だから洋子としての記憶もないし、洋子を記憶している人も周りから消えていった。でも、直美ちゃんだけはずっと私を覚えていてくれて、私の記憶を戻そうともいっぱいしてくれた。」
そう語る洋子の頬に触れようと、直美が震える手をゆっくり伸ばす。
「凄く邪魔だった。」
洋子の言葉に、伸ばしかけた直美の手が止まる。
「え?」

「もうちょっとで、私はやよいになれた。直美ちゃんさえいなければ、私は洋子を止めることが出来た。直美ちゃんのことが嫌いなわけではない。直美ちゃんの事を忘れたかったわけではない。ただ私は、洋子を否定する為に、洋子の記憶を抹消する為に、ずっと直美ちゃんの記憶を否定してきた。でも……直美ちゃんと一緒にいると、少しずつだけど色んな事を思い出してきた。大好きだった兄の事、同級生や学校で起きた事件の事、三崎さんやゆかりちゃんと一緒に撮った写真の事。それが嫌だった!洋子の記憶が蘇るのが、自分がやよいから洋子に戻らなくてはいけないのが怖かった!」
洋子がそう言い終えた時、直美が静かに崩れ落ちた。
背中を真っ赤に染め、安らかに眠る直美に、洋子を更に続けて語る。
「でも、私の記憶が戻るのを嫌ったのは、私も直美ちゃんも一緒だよね。直美ちゃんは、自分より先に他の人間の事を思い出すのが嫌で、自分より先に私が思い出した人間を殺そうとした。このホテルに閉じ込めてミッションを与えて、三崎さんのように私の事を覚えていない人間を殺していった。でも、私の目的とは微妙に違った。私は寧ろ、私の事を覚えている、坂井洋子の存在を知っている人間を殺してほしかった。だから直美ちゃんにもミッションを与えた。」



「ねぇ、直美ちゃん。そのゲームって皆でやるんだよね?」
「そうだよ。やよいちゃんが思い出した人をみんな集めて、ミッションっていうゲームをするの。」
「楽しそ〜。ねぇねぇ、やよのミッションは何?」
「……やよいちゃんは、ミッションなんてしなくていい。やよいちゃんは私の事を思い出してくれればそれでいい。」
「わかった!じゃあぁ、やよのミッションは『必ず思い出す事』だね!直美ちゃんのミッションは?」
「私?私はゲームの主催者だからミッションなんて要らないよ。」
「だぁめ!直美ちゃんも一緒に遊ぶの!主催者ってことは、司会者さんみたいなことだよね?じゃあ直美ちゃんはお邪魔虫の係ね。」
「お邪魔虫?」
「そう。他の人がミッションをするのをお邪魔してゲームを盛り上げるの。」
「そっか。それならいいよ。じゃあ私のミッションは『ミッションの妨害』かな。」


そう話した直美は、今はもう動くことなく横たわっている。
そんな直美の髪をかき上げながら、洋子は続ける。
「ミッションの妨害、上出来だったわ。まさかあの刑事がミッションをクリアするなんて思いもしなかった。しかもミッションをクリアしたってことは、坂井洋子の事を覚えていたということ。坂井洋子の存在を知る警察関係者なんて、絶対に逃がすわけにはいかない。あの刑事を殺してくれたのも、きっと直美ちゃんなんだよね。」
洋子は、直美の顔を見つめたまま、今度はゆかりに問い掛ける。
「ねぇ、ゆかりちゃん。確か貴方が最後のミッションで選んだのは、【坂井洋子】だったわよね?良かった。これで最後までミッションの成功者は現れなかった。残念だけど不正解よ。私は坂井洋子じゃない。坂井洋子なんて……この世に存在しない。いや、最後に、貴方が死ねば存在しなくなる。坂井洋子を知る最後の存在である貴方が死ねば、私は、小倉やよいになれる。私は……もう、坂井洋子は止めたのよ。」
洋子はゆっくりと立ち上がり、ゆかりの方を見た。

「『坂井洋子は…独りになった。』それが私があの事故の時に望んだこと。坂井洋子を肯定する人間なんて要らない。私は……小倉やよいだから。」

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