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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】日本は「オリンピック神話依存症」 招致に明け暮れ52年8カ月

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毎日新聞  2021/5/26 12:05
https://bit.ly/3fR6KNQ
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ミャンマーで増え続ける避難民 国内外に推計7万人超
2021年5月24日 05時01分
ミャンマーのチン州で18日、国軍の制圧で家を追われ、山中に避難する住民たち
=HklMindat提供

【バンコク=岩崎健太朗】国軍統治への市民の抵抗が続くミャンマーで、衝突激化により、各地で避難民が増え続けている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、住居を追われた国内避難民が六万人以上と推定。隣接するインドなど国外にも一万人以上が逃れているとみられる。

https://www.chunichi.co.jp/article/259336


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 医師の色平哲郎氏は4月30日の日経メディカルオンラインで、なぜ国民皆保険の国でコロナ患者が自宅待機を強いられ容体を悪化させて亡くなっていくのかについて、九州大学の内田博文名誉教授の「日本では患者の権利が法的に担保されていない」という講義に目からうろこが落ちたと次のように述べている。
 患者の権利は世界医師会で1981年に採択されたリスボン宣言に示されている。すべての人は平等に良質の医療を受ける権利があるとされ、日本の医師がハッとするのは次の一節だという。
 法律や権力が患者の権利を否定する場合は、医師はこの権利を保障し、回復すべきである。この考えは日本の医事法制には見当たらないし、各医療団体の憲章や基準も心構えの域を出ない。日本医師会でも患者の権利を尊重するよう努めるとしているが、否定された場合に保障、回復させよとはいってない。
 逆に患者の責務という項目で患者も相応の責任を果たさなければならないと言い切っている。日本医師会の「職業倫理指針」には権力に対する健全な批判精神は皆無であると氏はいう。 医師会の「医師の自律性、プロフェッショナル・オートノミー」の脆弱さは次のような日本のコロナ医療の現状にも示されている。
https://bit.ly/3fi5EeO
Vol.099 日本医療の悲劇−難民となったコロナ患者
医療ガバナンス学会 (2021年5月26日 06:00)


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【朝日新聞社説】夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める  2021年5月26日

 新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、東京都などに出されている緊急事態宣言の再延長は避けられない情勢だ。

 この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。

 冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める。

生命・健康が最優先

 驚くべき発言があった。

 国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ副会長が先週、宣言下でも五輪は開けるとの認識を記者会見で述べた。

 だが、ただ競技が無事成立すればよいという話ではない。国民の感覚とのずれは明らかで、明確な根拠を示さないまま「イエス」と言い切るその様子は、IOCの独善的な体質を改めて印象づける形となった。

 選手をはじめ、五輪を目標に努力し、様々な準備をしてきた多くの人を考えれば、中止はむろん避けたい。だが何より大切なのは、市民の生命であり、日々のくらしを支え、成り立たせる基盤を維持することだ。五輪によってそれが脅かされるような事態を招いてはならない。

 まず恐れるのは、言うまでもない、健康への脅威だ。

 この先、感染の拡大が落ち着く保証はなく、むしろ変異株の出現で警戒の度は強まっている。一般へのワクチン接種が始まったものの対象は高齢者に限られ、集団免疫の状態をつくり出せるとしてもかなり先だ。

 そこに選手と関係者で9万を超す人が入国する。無観客にしたとしても、ボランティアを含めると十数万規模の人間が集まり、活動し、終わればそれぞれの国や地元に戻る。世界からウイルスが入りこみ、また各地に散っていく可能性は拭えない。

 IOCや組織委員会は「検査と隔離」で対応するといい、この方式で多くの国際大会が開かれてきた実績を強調する。しかし五輪は規模がまるで違う。

「賭け」は許されない

 選手や競技役員らの行動は、おおむねコントロールできるかもしれない。だが、それ以外の人たちについては自制に頼らざるを得ない部分が多い。

 順守すべき行動ルールも詳細まで決まっておらず、このままではぶっつけ本番で大会を迎えることになる。当初から不安視されてきた酷暑対策との両立も容易な話ではない。

 組織委は医療従事者を確保するめどがつきつつあると言う。では、いざという場合の病床はどうか。医療の逼迫(ひっぱく)に悩む東京近隣の各知事は、五輪関係者だからといって優遇することはできないと表明している。県民を守る首長として当然の判断だ。

 誰もが安全・安心を確信できる状況にはほど遠い。残念ながらそれが現実ではないか。

 もちろんうまくいく可能性がないわけではない。しかしリスクへの備えを幾重にも張り巡らせ、それが機能して初めて成り立つのが五輪だ。十全ではないとわかっているのに踏み切って問題が起きたら、誰が責任をとるのか、とれるのか。「賭け」は許されないと知るべきだ。

 こうした認識は多くの市民が共有するところだ。今月の小紙の世論調査で、この夏の開催を支持する答えは14%にとどまった。背景には、五輪を開催する意義そのものへの疑念が深まっていることもうかがえる。

 五輪は単に世界一を決める場ではない。肥大化やゆきすぎた商業主義など数々の問題を指摘されながらも支持をつなぎとめてきたのは、掲げる理想への共感があったからだ。五輪憲章は機会の平等と友情、連帯、フェアプレー、相互理解を求め、人間の尊厳を保つことに重きを置く社会の確立をうたう。

憲章の理念はどこへ

 ところが現状はどうか。

 コロナ禍で、競技によっては予選に出られなかった選手がいる。ワクチン普及が進む国とそうでない国とで厳然たる格差が生じ、それは練習やプレーにも当然影響する。選手村での行動は管理され、事前合宿地などに手を挙げた自治体が期待した、各国選手と住民との交流も難しい。憲章が空文化しているのは明らかではないか。

 人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも五輪を開く意義はどこにあるのか。社説は、政府、都、組織委に説明するよう重ねて訴えたが、腑(ふ)に落ちる答えはなかった。

 それどころか誘致時に唱えた復興五輪・コンパクト五輪のめっきがはがれ、「コロナに打ち勝った証し」も消えた今、五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある。国民の声がどうあろうが、首相は開催する意向だと伝えられる。

 そもそも五輪とは何か。社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典を強行したとき、何を得て、何を失うのか。首相はよくよく考えねばならない。小池百合子都知事や橋本聖子会長ら組織委の幹部も同様である。


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<書評>
シルヴィア・フェデリーチ(小田原琳・後藤あゆみ訳)
『キャリバンと魔女-資本主義に抗する女性の身体』
以文社、2017 年
堀 芳枝(獨協大学外国語学部)

フェデリーチは 1942 年イタリアに生まれ、1968 年にアメリカに渡り、ニューヨークを拠点として 研究・教育のかたわら、社会運動にもかかわっている。1970 年代には国際的ネットワーク「家事労 働に賃金を」運動を、マリアローザ・ダッラ=コスタや、セルマ・ジェイムズとともに創設。フェミ ニストとしての活動をベースに様々な活動に参加、近年ではオキュパイ・ウォール・ストリート運動 を理論面でサポートしている。

フェデリーチが本書を書くきっかけとなったのは、1980 年代前半にナイジェリアで IMF 構造調整 プログラムの受け入れが引き起こした社会的混乱であった。彼女はこれを新たな本源的蓄積と、共有 財産および共同的な関係の最後の痕跡を破壊することをもくろむ社会的再生産の合理化をふくみ、そ れによって労働搾取が強化されると捉えた。そして、それは資本主義に普遍的な構造であると看破し た。本書はそうした問題意識にもとづいて、ヨーロッパ中世にさかのぼり、本源的蓄積のための資本 主義の移行期における資本と国家の剥奪と暴力、そして資本主義に適応するための労働者の身体の規 律化を取り上げた。さらに、その過程において女性は労
働者として男性よりも劣るものと位置づけらリプロダクティブ・ライツ れ、周辺化されただけでなく、女性がもっていた生殖の自己決定権をも、国家によって「魔女狩り」と称して正当化され剥奪された。すなわち、魔女狩りとは女性の身体に対する、国家がしかけた「戦争」であった。そして、国家や男性による生殖の管理、女性が担う労働であるということだけで無償化され、自然化され、本源的蓄積にいっそう貢献することになったと指摘している。

第 1 章「世界中で待ち望まれた衝撃-中世ヨーロッパ社会運動と政治危機」は、魔女狩りの前段階 コモンズとして、中世における農地と共有地の使用権をめぐる領主と農奴の闘争の話から始まっている。当時、農奴は土地の使用権を拡大する戦いを通して、共同体の結束力と共同性を高めていた。この共同体に サブシステンスおける労働は自給自足のためのものであったので、性別分業はさほど顕著ではなく、資本主義的農場に比べれば女性に対する差別も緩やかであった。

ところが、地代や賦役労働の金納化、封建関係がより契約的な原理に置き換えられるにつれ、共同 体における女性の財産と権利は制限されていった。14 世紀前半にはペストの流行によって人口が減 少し、労働危機が起こり、農奴制が崩壊した。農民たちは領主から自由になり、女性もふくめてプロ レタリアート は黄金時代を迎えた。しかし 、女性が男性へ性愛の魅力を通して行使しうる力を恐れ た教会は、神聖を性の忌避と結びつけて、性 の規範を再編成し、女性の力を削ごうとしつづけてきた。 また、プロレタリアートの台頭を恐れた国家は女性を強姦することや売春を合法化して女性を貶め、 ミソジニーを煽り、プロレタリアートを分断し、封じ込めた。

第 2 章「労働の蓄積と女性の価値の切り下げ-「資本主義のへの移行」における「差異」の構築」は、 ヨーロッパの資本蓄積が、プロレタリアート階級の自由と自立の源泉となった土地を私有化し、コモ ンズを崩壊させることから 始まったことが指摘されている。これによって男と女性、生産と再生 産の分断-貨幣と交換の対象になる生産に価値があり、女性が中心的に役割を担う労働力の再生産は無価値とされること-が起きた。

さらに、17 世紀に人口危機と経済危機が深刻化すると、ヨーロッパの国家は人口管理に介入し、避妊や堕胎、嬰児殺しを処罰するようになった。それは女性たちが持っていた再生産についての伝統的な知恵や技術の剥奪につながった。これが魔女狩りに繋がることになる。そして、非労働とみなさ れた女性の労働は、あらゆる賃金労働(売春も含む)から排除され、結果として、女性は結婚して良 き主婦になり、労働力を再生産することが仕事であり、人生であると教えこまれていったのだ(女性 の調教、規律化)。

第 3 章「偉大なるキャリバン-反抗する身体との闘い」では、ミシェル・フーコーが資本主義の発 展の前提条件としてあげた「身体の規律化」を引用しながら、当時の代表的な哲学者-デカルトとホッ ブズ-の論争の中に、身体を労働機械へと進化させる最初の概念化があり、労働過程の規則化や合理 化・効率化が社会に受容されていったことが示されている。その一方で、それ以前の身体観―身体は 宇宙や自然と「共振」する超自然的な力を宿した身体で、星の動きや占いにもとづいて社会的ふるま いが決定される-は否定された。そのプロセスで、本源的蓄積の妨げとなる、規律化されない、自己 責任を負わない人間を許すような予言や占いなどの魔術
をもった女性が、魔女として攻撃の対象と なった。そして重要なのは、避妊や中絶の方法や知識も魔術として断罪されたことである。資本主義 への移行期に魔女狩りが行われる思想的前提がここにつくられたのである。

第 4 章の「ヨーロッパの魔女狩り」は、土地の私有化、税の負担増大、社会生活のあらゆる場面で 拡大する国家支配といった様々な変化とともに、農村共同体が崩壊しつつあったときに表れた。魔女 とされた者たちの多くは、貧しい農民女性や高齢の女性であった。長年にわたって教会が繰り広げた ミソジニーや、富裕層が抱く貧しい人々に対する恐怖が魔女狩りを可能にさせた。先にも述べた通り、 中絶や避妊は悪魔的行為とされた。したがって、フェデリーチは、魔女狩りは女性の身体、労働、性 的能力を国家の管理下におき、それらを経済資源に変容するための新たな家父長主義体制を創出する 手段であったと考えた。魔女狩りは、本源的蓄積と
資本主義への移行にとって 必要不可欠な事件で あったのだ。

第 5 章は「植民地化とキリスト教化-新世界のキャリバンと魔女」と題し、ヨーロッパ人がアメリ カ大陸を植民する際にも、人食い、悪魔への子どもの供犠、様々な薬をつくりだす、男色を容認する インディアンたちの慣習を魔術とし、魔女狩りやインディアンを規律化させるための手段としてキリ スト教化が正当化された。ここでも魔女狩りは共同体の紐帯を分断し、本源的蓄積に貢献するために 戦略として実施された。しかもフェデリーチは、この新世界での魔女狩りが、16 世紀後半にヨーロッ パに逆輸入された結果、ヨーロッパの魔女狩りが大規模化し、より残酷化したと分析している。さら に、この魔女狩りは今日においても、資本主義がまだ
浸透していない地域や領域に進出する際に、形 を変えながら繰り返しおこなわれていると述べている。

本書の最大の貢献は、マルクスも見落とした本源的蓄積の過程における社会的再生産 の問題を指 摘したこと、フーコーの身体論をジェンダーの視点から読み解き、再構築した点にある。すなわち、 性の身体が再生産と労働の蓄積の手段として機能するよう強いられることで、資本主義はより合理的 に、より蓄積を実現することが可能となったのだ。だからこそ今日においてもなお、女性の価値は下 げられ、貶められ、周辺化され続けるのだ。そして、本書で筆者の「プロレタリアート」の用語の使 用については、曖昧さが見受けられ、大きな議論の余地はあるものの、本源的蓄積と女性や植民地、 マイノリティへの暴力の関係性を明らかにし、それに対
する抵抗が今日もなお世界の各地で繰り広げ られていることを示してくれる。フェミニストにとって必読の書である。

http://jaffe.fem.jp/j/wp-content/uploads/2017/09/8-hori.pdf

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コメント(1)

朝日新聞、よくぞ言ってくれましたね。
私は、クーベルタンの近代五輪の精神から、完全に離れ、今の五輪は、ローマ時代、皇帝や貴族が、コロシアムの大きな競技場で、奴隷などく屈強の男たちを、争わせて、あるいは牛、ライオンなどと
闘わせて楽しむ、貴族の遊びを思い出しました。

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