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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】 ssage body 「老いの風景」 一人ひとり、物語がある

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【色平哲郎氏のご紹介】
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「老いの風景」 一人ひとり、物語がある

  山あいに笛と太鼓の音色が響いた。

  四月三日は春のお祭り。長野県小海町親沢地区の諏訪神社で行われた三番叟(さんばそう)だ。春の訪れを祝い、秋の豊作を祈るために人形芝居を神殿に奉納する神事である。狭い境内は二百人以上の村人でにぎわう。隣の川平地区の若衆による厄払いの鹿舞(ししまい)と一対の神事で、山村に春の訪れを告げる風物詩となっている。

  お囃子の笛を吹くのは八十四歳を頭にいずれも八十代の老人たち。「昔はワシらより二十年若い衆がやった」という。祭りにも高齢化と後継者不足の波が押し寄せているのだろう。それでも、弟子を七年、親方を七年、おじっつぁ(おじいさん)を七年、計二十一年間、役を回るという習わしは続く。

  戦前は親方に絶対服従、おじっつぁの言うことは神の言葉といわれた。祭り期間中、練習場は女人禁制。封建的な祭りだが、このような祭りを通して年寄りから若衆へと村の営みが継がれてきたのだろう。

  舞台で若衆が舞うさまを最前列でじっと見つめる九十二歳の女性が「汗びっしょズラねえ」とつぶやいた。隣村へ嫁いで七十年。昔を懐かしんで毎年訪れるのだという。

 その祭りを見てから、私たちは山と川を越え、隣の南相木村を訪れた。人口約千三百人。六十五歳以上の村人が全体の三三・八%を占める同村は、長らく無医村だった。

  色平(いろひら)哲郎医師(40)が、南牧村の野辺山へき地診療所から家族五人で赴任したのは二年前。南佐久郡と呼ばれるこの山村一帯では佐久総合病院を基幹病院として、診療所が最先端で村人の保健医療を支える。山あいの集落に住む高齢者には交通手段がないので、診療所の往診車が山道を往来する光景は日常的だ。

  色平医師が倉根七郎さん(78)宅の庭先に診療所専用車のバンを止めた。
  「今日は朝から急患が多くてねえ。遅くなっちゃった。痛いところあったら教えてね」
  村をまわり、長老たちの知恵に学ぶ日々だ、と色平医師は言う。

  倉根さんは前々村長を務めた。今は八十歳の妻と二人暮らし。「結婚して五十三年、大変苦労させてもらいやした」と妻は笑う。九十四歳の母が脳梗塞になり一年間介護したこと、子や孫の成長を張り合いに生き抜いてきたことを、妻は淡々と語る。倉根さんはシベリア抑留のことが今も鮮明に残り、「千五百人中、五百十三人も死んじゃったな」と言う。昭和二十二年に復員したときは「畳と布団が懐かしかった」。多くの出征兵士、満州開拓団を見送った村はずれの二本松に「不戦の碑」を建てたのは、倉根さんが村長の時だった。

  養蚕、炭焼き、水田が村の主産業だった。村は貧しかった。「果たせない夢を子どもたちに託した」と倉根さんは言う。娘さん三人は村外に嫁いだが、最近大学の福祉学科に入学したばかりのお孫さんが、いずれ倉根家の跡を取るという。毎日つけている日記に太マジックで、お孫さんの住所と電話番号が刻まれていた。お孫さんが大学卒業まで四年。倉根さん夫妻は指折り数えて孫の帰りを待つ。

  私たちが宿泊した坂上館は、隣の北相木村だった。女将さんの井出まき子さん(74)は「まき姉」と呼ばれ、村人から慕われている、村の「生き字引」だ。

 「嫁をもらうなら、足がきれいで手の汚いもんをもらえ、と村の衆は昔から言っていたな。いよいよ姑になると最近は手がきれいになった。でも、手がきれいになると家族もアテにしなくなる。汚いと家族もアテにして頑張りがきく。『おばあちゃん、これやっといて』と言われると、うれしいもんだよ。そこにいいところがあるんだよ」

  長野県は長寿県として知られ、老人の医療費は全国でも最低ランク。ピン・ピン・コロリの頭文字を取って「PPKの県」とも言われる。南相木村のお年寄りたちはその典型だ。「老い方の作法」を心得た高齢者ばかりである。

  中島至静さん(82)は元気老人の代表格。「まいんち手悪さだよ」と言ってワラで編まれた丈の短い足半(あしなか)という草履を作る仕事に精を出す。
  「苦労はしたな」
  戦前は大人一人働いて五十銭。米一升二十五銭、酒一升八十銭の時代だ。家族は少なくて五人、多くて十人。中島さんは八人きょうだいの長男だった。
  中島さん宅の近くに立派な馬頭観音がある。二百年ほど前、文化年間の建立だという。林業の担い手は馬だった。戦時中は軍馬を育てることが主産業だった。馬が好きな中島さんは馬の種付け業をしていたことがある。蹄鉄造りの名人だった。馬に限らず家畜が病気になると、中島さんのところに連れていった。おできなどはさっと切開して膿を出してくれた。

  技を持つ者が、その技を村人のために活かす時代だった。戦争も終わり、林業もさびれ、馬からガーデントラクターや軽トラに代わっていった。

  中島さんは道路、護岸、橋梁の工事で汗を流した。七十歳で仕事を退き、畑仕事と「手悪さ」を楽しむ。

  心臓、喘息、血圧の持病があるが、無医村だった頃に比べると、「天国のようだ」と中島さんは思う。二週間に一回、散歩がてら自転車で、診療所まで通って体調を診てもらう。風邪で寝込んだときは、色平医師が駆けつけてくれる。

 「働いていることが一番の健康の秘訣だよ。『年寄り殺すにゃワケねえぞ、うまいもの食わせて仕事とれ』と若いもんに言うだ。この仕事場は、ワシの妙薬だわね」

  七畳半ほどの仕事場には、差し金やペンチ、刷毛が壁に掛かり、所狭しと中島さんの手悪さの所産が転がっている。足半のほかブリキのちりとり、神棚へ供える鍬や鋤、鎌などの木工品。ケズリバナというのは、堆肥の象徴のような供え物で、作物の肥料として大切だったため馬小屋に飾られたという。

  若い者寄居(よりい)という風習もあった。十五歳になると各家の長男は寄居に入り、道普請や祭りの旗立てなど長老から教わりながら引き継いだ。寄居に入ることが一人前の証であり、若者はみんな憧れた。村を守り、子孫を育む人間の知恵だった。

  「この村の衆はね、えらい苦しまんで死ぬ」と中島さんは言う。
  自然随順の生き方が今もかろうじて残る山村には、「老い方の作法」「死に方の作法」があるようだ、と色平医師も感じている。老人一人が一冊の本に匹敵する巨大な図書館だ。一人ひとりの物語を聞くのも往診医の重要な仕事である。

  色平医師はかつて訪れたバングラデシュの仏教徒村での風景を思い出す。臨終間近な老婆の枕べに、黄衣の僧が寄り添い、枕経をあげていた。『大般涅槃経』の一節だった。「この世に生まれたら死ぬのが定めです」。ブッダの教えの核心をぐさりと切り出す僧と、それを受容する老婆とその家族の姿は、山村の「老いの風景」にも重なるのだった。

  村の最高齢九十九歳になるおばあさんを、色平医師は看取った。入院先の病室では寡黙だったが、退院した家に訪れたとき、おばあさんのベッドには一枚の写真があった。米寿の祝いの時の笑顔が写っていた。孫、曾孫まで一族百人ほど。一族の長としての風格は、病院ではなく、命育んだ家でこそ発揮されるのを感じるのだった。

 「都会ならただの一見(いちげん)さんにすぎません。大病院では生物学的に治療が進み、介護もケアされるべき老人の要介護度や状態に応じて進みます。匿名性の医療、介護ですね。でも村では一人ひとりの歴史が大切になる。背景のない、単なる患者さんではありません。患者さんの家を訪ねると、その人の全人生がにじみ出てきます。地域医療の原点を村の人に教えられます」

  依田儀太郎さん(86)は、村の文化財審議委員長を務め、遺跡調査、石仏調査などに励んできた。シベリア抑留で九死に一生を得たが、今ははつらつと田畑の仕事を続ける。

  「デイサービスでゴムまり投げ、手をつないで遊技…都会の体の悪い人のリハビリですよ。ワシらは畑作業がリハビリ。孫と一緒に暮らし、嫁も家を助けてくれる。この村ではみんな昔からそういう生活をしようと生きてきた」

  野菜作りを何十年もやってきたが、年によって作柄がまるで違う。「体が動かなくなるまで、今年こそ良いものをと精を出しやす」と雪解けの畑に向かう。

  菊池信義さん(81)は妻・そめえさん(76)と二人暮らし。標高千二百メートルの村はずれの地区で暮らしていた。七人きょうだいの長男だった。貧しかったので口減らしのため、一時東京で子守奉公をした。

  父が四十四歳で他界。八月(やつき)奉公といって、四月から十二月まで田畑の仕事を手伝い、冬場は山を越えて茅野市の寒天工場で住み込み家計を助けた。二十二歳で徴兵。戦後、隣村から嫁いだそめえさんと所帯を持った。営林署へ勤め山仕事を続けたが、昭和四十年に網膜の病気で失明。その後、山あいでブタやブロイラー、乳牛の仕事をしたが、全部失敗した。かろうじてキク栽培で生き返ったという。目の不自由な信義さんは勘を頼りに芽取りをした。そめえさんは電子の部品工場に勤め、夫を支えた。

  今は細々と年金暮らし。お子さんがいない夫妻には行く末が不安だが、いざというときは保健婦さん、診療所という連携での対応ができている。色平医師も往診の合間に様子をうかがう。信義さんはむかし楽しんだギターをつま弾く。「八十の手習いですよ。音の世界しか楽しみがないですからねえ」

  林業が盛んだったこの地区にはかつて五十軒あったが、今は空き家も目立ち住んでいるのは半数の二十五軒ほど。しかし、「住めば都、ここらか出る気にはなれません」と菊池さん夫妻は、きっぱり言う。

 「かつて村人は、隣人の誕生から死までを、自分たちの手で取り仕切ってきた。産婆さんが家に駆けつけ、赤ん坊を取り上げる。その家でまた老人が死に、遺体を清め、墓穴を掘る。その一連の流れが、人を看取るということだった」という色平医師の言葉を裏付ける家を訪れた。

  猿谷真弘さんは校長を務め終えてから三年になる。猿谷家は代々神官を務め、校長も四代続いたという教育一家である。「ぼそぼそ三百年になりますかねえ」と猿谷さんは新宅隣の古い民家を案内してくれた。馬屋、鶏小屋、蚕室を広い土間が仕切り、反対側に表座敷や奥座敷、台所、茶の間がある。百貫取り(約三百七十五キロ)の養蚕家でもあった。寄せ棟造りの巨大な旧家だ。板戸には宇治川の戦陣が描かれている。奥まったところに三畳ほどの小さな畳部屋があった。

  「産屋(うぶや)といってわが家の子供はみんなそこで生まれました」
 この家を守っていた猿谷さんの叔母が四年前の春、九十三歳で息を引き取った場所が産屋だった。晩年は佐久市で暮らしていた叔母は、彼岸に長年暮らしたこの家で過ごしたいと言い、そのまま伏し、眠るように大往生を遂げたという。

  色平医師は言う。
 「死に方の作法とは、自らの終末と死を共同体の手に委ねることでした。『自分の家で死にたい』と願う村のお年寄りは、人は死ぬものだということを知っている。死を受け入れることのできる確固とした心の基盤を持っている」

  日本が日本であった時代の立ち居振る舞いの名残が、過疎といわれる山村に根づいていた。往診医療を続けながら、老人たちの生きざまから「老病死の哲学」を学ぶ色平医師の旅は続く。

【筆者・須田治 2000年5月】

コメント(2)

45年前、自宅の畳の上で、94歳で大往生した、私の祖母の死に際を思い出した。
信心深い人だった。
ほんとうに、枯れ木が自然に倒れるような、静かな、寝入るような最後だった。
>>[1]

子どもが肉親などの死に直面する、大切なことですよね。

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