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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】「コミュ力重視」の若者はこうして「野党ぎらい」になっていく

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コミュ内全体

【色平哲郎氏のご紹介】
「コミュ力重視」の若者はこうして「野党ぎらい」になっていく

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509

「批判」や「対立」への強い不快感  野口雅弘 成蹊大学教授

野党への支持率が絶望的に低い。特に若者世代ではその傾向が顕著だ。そうした「野党ぎらい」の背景には、若者世代が「コミュ力」を重視している事実があるのではないか。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判や対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象となる。摩擦のない優しい関係が社会に広がるなか、野党の置かれた立場は難しいものになっている。政党不信が深刻である。とりわけ「野党」への不信の広がりとその深さは、前代未聞のレベルに達している。総選挙で躍進した立憲民主党への支持も5%程度で伸び悩み、希望の党が解散してできた国民民主党にいたっては、支持率は1%にも達していない(参考)。こうした傾向は少々のことでは変わりそうにない。


「野党がだらしないからだ」。こう言う人がたくさんいる。たしかにそうかもしれない。しかし、「だらしなさ」加減があまりにひどいので、「野党ぎらい」が高まっている、という説明だけでは、この不信の底の深さは理解できないように思える。

このエッセーでは、既存の「野党」だけに一方的に責任を負わせるのではない仕方で、「野党がきらい」という雰囲気について考えてみたい。


麻生財務相の「新聞読まない人」発言から考える

麻生太郎財務相は先日、6月24日の講演で、「はっきりしていることは10代、20代、30代前半、一番新聞を読まない世代だ」と指摘したうえで、「新聞読まない人たちは全部、自民党(支持)だ」と述べ、物議を醸した。

たくさんの調査が示しているように、年代別の自民党支持率では、「若者」の支持率の方が断然高い。近年、「政治に関心があります」と言って、講義の後に私に話しかけてきてくれる学生はだいたい「保守」だと名乗る。

ジェンダー、歴史認識、憲法改正など、いずれの論点でも変わらない。かつてのように「問題意識がある学生は左」ではまったくない。政権与党が18歳選挙権にかなり前向きだったのも、この傾向をよく把握してのことだろう。

たしかに新聞を読む/読まないが政党の支持に与える影響はあるかもしれない。しかしここでは別の視点で考えたい。自民党を支持する10?30代世代の「コミュニケーションのあり方」という視点である。

いまの「若者」は、物心がついたときから「コミュ力」(コミュニケーション能力)が強調されてきた世代でもある。

学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の「空気」をうまく読み、それを継続する「コミュ力」がその分だけ評価されるのも当然ではある。

実際、大学のAO入試や、企業・公務員の就職試験で、集団討論(グループ・ディスカッション)を取り入れているところも多い。大学の教員のなかにはゼミの運営に苦労している人も少なくないので、「この学生がいれば、ゼミの討論がうまくいくだろうな」という印象は重要な判定基準になる。

ただ、こうした社会の「要請」は、それにうまく応えられない人に強い負荷を強いることになる。コミュニケーションがいまいちうまくいかないということ自体の問題ではない。むしろ「うまくいっていない自分を他者はどう思っているのかという再帰的な視点」(貴戸理恵『「コミュ障」の社会学』青土社、2018年、12頁)が、「コミュ障」(害)と呼ばれ、あるいは自分をそう感じる人の思考と振舞いを縛ることの方が重要である。

コミュニケーションは相互的なものであるので、「コミュ障」を特定の個人の「自己責任」にすることは、そもそもおかしい。

しかしここで注目したいのは、こうした「コミュ力」が求められる世界の政治的な帰結である。

「コミュ力」と称されるものの測定基準は、コミュニケーションの軋轢、行き違い、齟齬とそれが生み出す気まずい雰囲気を巧妙に避け、会話を円滑に回すことである。逆に、「コミュ障」と呼ばれる人がそう呼ばれるのは、会話がすれ違ったり、お互いの言い分が感情的に対立したりして、それを調整するのに骨が折れるような「面倒臭い」事態を招くからである。

もしコミュニケーションの理想がこうしたものになりつつあるとすれば、ここに「野党」的なものの存在の余地はほとんどまったくない。

野党がその性質上行わざるをえない、いま流れているスムーズな「空気」を相対化したり、それに疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまいかねない。

「コミュ障」と呼ばれないためには、極力「野党」的な振舞いをしないように気をつけなければならないということになる。


「抵抗」の思想家を毛嫌いする

「コミュ力」信仰が「野党ぎらい」を助長する――これまで述べてきた仮説を肌身で感じることがある。

私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。

講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収)を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、共鳴する学生はほとんどいなかった。

最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。

「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。


「こだわり」や「情念」は忌避される

こうした状況を考える際に、ヒントとなる用語がある。「キャッチ・オール・パーティ」である。

かつて政治学者のオットー・キルヒハイマー(Otto Kirchheimer, 1905-1965)は、脱イデオロギー化して、特定の階級や支持層ではなく、幅広い国民的な得票を目指す政党をcatch-all party(日本語の政治学の文献では「包括政党」と訳されている)と呼んだ。

イデオロギー的にさして違いがない政党が競争することになるので、政治リーダーの「好感度」が重視されるようになる。ここでは「こだわり」を持って抵抗したり、金切り声をあげて反対したりすることは忌避される。「キャッチ・オール」するためには、誰からも嫌われないように振舞わなければならない。

「キャッチ・オール・パーティ」の世界は、「コミュ力」の世界と同じではないが、重なるところがある。

このタイプの政党のプレイヤーは、ある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。これをスマートにやることで、彼らは感じのよい振舞いをディスプレイする。

この「感じのよさ」の基準からすれば、法案に反対してプラカードを掲げる野党議員や、暑い夏の日に、タオルを巻いて座り込みを続ける人たちの評価はどうしてもよいものにはならない。

「こだわり」を持つことも、「情念」を出すことも禁じられれば、対抗する側(「野党」は英語ではoppositionである)はその分ますます無力になる。おかしいと思う問題に「こだわり」続ければ、「まだやっているのか」と言われ、不正義に憤って大きな声を出せば、「冷静な議論ができない」と言われ、党内で論争しただけで「内ゲバ」と言われる。

そして恐ろしいことに、そうしたレッテル貼りには、抗いがたいほどの共感が広がっていく。

しきりに「コミュ力」が強調される時代に、与党と野党の競争は、人びとが思っているほどフェアではない。感じのよさ(「好感度」)をめぐる競争にあって、政権与党であるプレミアムはあまりに大きく、野党であることのハンディキャップはあまりに重い。


野党がなくなったらどうなるのか

そもそも、政党の役割とはなんだろうか。

実は、古代からの党派・政党へのコメントを集めてみれば、そのほとんどが否定的なものである。一部の人が徒党を組んで「全体」の利益を損ない、足の引っ張り合いをし、憎悪の感情をぶつけあう。いい感情を抱くことの方が難しいかもしれない。

こうした通説に対して、例外的に政党を評価したのが、「保守主義の祖」として名前が出ることが多いエドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729-1797)だった。

民衆の感覚から遊離して「宮廷の私的恩寵にもとづいて君臨する」権力に対しては、「公共的人間が広範な民衆の熱烈な支持を背景としてこの集団に対抗して固く団結する以外には断じてこれを封じる手段が存在しない」と、彼は主張する(「現代の不満の原因を論ず」『バーク政治経済論集』法政大学出版局、2000年、85頁)。

権力者とその取り巻きが私利私欲に走らないようにするには、民衆の不満を吸い上げ、民衆に支持される、対抗する党派が必要である。彼はこうして政党政治を擁護する。

ある個人に権力が集中し、それが「お友達」のために使われる。こうした「一強」と我田引水が過ぎれば、対抗勢力は人びとからの支持をより多く受けることになる。そうなれば権力者はそれまでの「おごり」を反省せざるをえなくなるし、場合によっては民意を味方につけた対抗勢力によって打倒されるということにもなる。

しかし、今日の日本では、政権党/野党というコードに基づいた緊張関係のロジックはまったく働いていない。

森友・加計学園問題で政権への不満や批判はそれなりに高いレベルに達している。しかしそれにもかかわらず、「野党」への支持は広がっていかない。それどころか逆に、そうした問題を指摘し、追及すればするほど、「野党」叩きの方が高まっていく状況にある。


「アクティブ・ラーニング」と野党ぎらい

野党があまりに「だらしない」から、野党の支持が低迷しているという説明が見落としていることがある。野党という存在やそれがそうせざるをえない振舞い方が嫌われているので、野党が何を言っても、何をしても嘲笑されるという連関である。

そしてこの「野党ぎらい」はコミュニケーションを過剰に重視する風潮と無関係ではない。「コミュ力」が高いとされるのは「野党」にならないように振舞うことができる人のことであり、会話の中で地雷を踏むことにビクビクしている人は「野党」の役回りに追い込まれることを全力で避けようとする。

近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。基本的には肯定的に捉えてよいだろう。しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。

政党政治のロジックは、皆で仲良く建設的に「会話」することと同じではない。現在の「政治教育」では、「野党」の意義はむしろますます見えにくくなる。

政治家の感覚が庶民感覚からズレていることを問題にすることも、ときには大切である。しかし政治を身近なことに引きつけて「わかりやすく」論じようとするがあまり、自分たちのコミュニケーション・スタイルの基準でしか政治を論じられなくなっているとすれば、それも政党政治を閉塞させる。

「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。

違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。

いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。

(「現代ビジネス」 2018・7・13)

コメント(1)

コミュ力、とは?若者のこんな力は、昔の、日本民族特有の、不和雷同、強いものにまかれろ、村八分の
民族性の発露にすぎない。
日本人は、本当のデイベートができない。
したがって、まともな民主主義なんて育たないだけだ。

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